第四十二話 一乗院覚慶
腫れ物に触るような扱いを受ける、とは今の俺のような状態を指して言うのだろう。
あの日、上杉陣屋に戻った俺は、あらゆる意味で二度と着られない服を脱がされ(すぐに焼却処分された)そのまま湯殿に直行するよう命じられた。
ちなみにこの時代、風呂とは蒸し風呂を指し、俺の知っている水を張った風呂を湯殿という。
湯殿を使うのは水と薪を大量に消費する贅沢な行為とされており、滅多に使用されることはない。
上杉陣屋に湯殿が設けられているのは景虎様用である。
その湯殿を使えるとあらば、これはある意味で幸運――とか一瞬でも思ってしまった自分の浅はかさに天が罰を下したのであろうか。
湯殿で俺を待っていたのは越後上杉軍の精鋭たち――誤解のないようにいっておくと筋骨たくましい男兵士――であった。
そこからはもう「お湯を浴びせられる」→「全力で身体を拭かれる」→「お湯を浴びせられる」→「全力で身体を拭かれる」の繰り返し。
久々の水風呂を堪能するどころの話ではなかった。気分は食器洗い器に放り込まれた食器である。
で、その洗浄が終わった後は渋い壮年の医者に治療してもらった。
無駄口は一切叩かず、必要なことだけを聞き取り、てきぱきと診察し、身体のあちこちに膏薬らしいものを塗りこんであっさりと治療は終了。
水際立った手際で、治療中は一瞬も手の動きが止まらなかった。さぞ名のある医者なのだろうとひそかに感心していた俺は、医師の名前を聞いてひっくりかえった。
曲直瀬道三だった。
天皇陛下を治療したこともある『医聖』を連れてくるとか、景綱殿がんばりすぎだろう。頭を下げるだけでは足りそうにない。
その後、俺は景虎様たちのところに戻ったのだが、そこで見知らぬ女の子たちを見つけて目を瞬かせることになる。
えらく綺麗な子たちだなと思って名前を聞いたら脛をけとばされた。
何するんだと戸惑っていたら、その子は一言ぽつりと――
「……岩鶴だよ」
「……誰だって?」
「おれは岩鶴だっていったんだ、馬鹿!」
はっきりいって、景虎様の怒声を間近で聞いたときと同じくらいびっくりしました、はい。
その後、景虎様に心底不思議そうに「気付いていなかったのか?」と聞かれ、地味に落ち込んだ。景虎様は一目見て気付いたらしい。
弥太郎と段蔵も知っていた。それと、この頃になって室町御所から帰ってきた豊弘も知っていた。
知らぬは俺ばかりであったらしい。
しかし、あの口調と小汚い身なりから女の子であると見抜けというのは無理があるだろう。上杉陣屋に来たあとも、髪型、服装、ともに男の子そのものだったし。
「今の京で親なし子が、私は女の子です、なんて格好してたらどんな目に遭うか馬鹿でもわかるだろ」
返す言葉もなかった。上杉陣屋に来た後もそう主張して、女物の衣装を着せようとする弥太郎や段蔵の勧めを断っていたらしい。
ではどうして今になって急に女物の服を着て、綺麗な髪飾りまで付けたのかと訊ねたら「景虎様に勧められたから」という答えが返ってきた。
岩鶴、清介、喜四郎ともに景虎様を見る目にお星様が輝いている。どうやら一目見て景虎様に心服したらしい。うん、その気持ちはとてもよくわかる。
この後も色々あったのだが、ともあれ、俺は通常の軍務に戻ることになった。
なったのだが、冒頭で述べたように完璧に腫れ物扱いされた。
俺のそばには必ず弥太郎か、段蔵か、豊弘か、もしくは岩鶴、清介、喜四郎の三人組が張り付いている。用を足すときや風呂に入るときは岩鶴の小さな弟たちが動員された。そこまでするか。
いや、原因は俺の行動にあるのだから文句を言う資格はないのだけれど。
確かに、傍から見れば俺の行動はおかしくなったと思われても仕方ない。
だが、あれは俺なりに熟慮した上での行動だったのだ。そこは理解してほしかった。
細川晴元を排除した後、京の情勢は平穏そのもので、住民との間にも目立った揉め事は起きていない。将兵から深刻な陳情もあがってこず、三好や松永も拍子抜けするほど大人しい。
結果、やるべき事は何かと考えると、手をつけられなかった範囲の葬送を済ませること、という結論に達した次第である。
可能ならば、再度上洛軍を動かしてあの屍の山を消滅させたであろう。
だが、先の一件でわかったように葬送は金食い虫だ。そう何度も資金を枯渇させるわけにはいかない。
それに前回は、死毒を原因とした疫病の発生を未然に防ぎ、町中の死臭を取り除いて京の住民の支持を得るというメリットがあったが、市街地の葬送をほぼ完了させた今、郊外の葬送は緊急性も必要性も薄い作業となっている。
これに大金を費やし、大軍を動かすメリットが提示できない。
強行すれば将兵からも不満の声があがるだろう。俺たちは葬儀屋ではない、と。
その点、俺一人で動くなら金もかからず、兵士からも不満は出ない。一人でできる作業量などたかが知れているが、千里の道も一歩からである。将軍杉にも苗木のときはあったのだ――そんな父の口癖を思い出しながら決めたことだったのだが、残念ながら理解してくれる人はいなかった。
正直なところ、弥太郎に怒られたり、段蔵に諌められる覚悟はしていたのだが、まさか弥太郎に泣かれ、段蔵に悲しまれるとは思わなかった。景虎様も明らかに怒っていたし。そもそも景虎様があんなところに来ることが予想外すぎる。
岩鶴には蹴飛ばされ、室町御所から戻ってきた豊弘には大泣きされ、景綱までが苦言を呈してくる。しまいには話を聞いた宇佐美定満までやってきて、扇子でぺちりと肩を叩かれた。針のむしろとはこのことだ。
そんな状況なので俺は大人しく仕事に励むしかなかったが、こんな状況ではできる仕事も限られる。
さて、どうしたものかと内心で腕を組んだ。
繰り返すが、自分の行動がはたから見ておかしなものだったことは自覚がある。心配をかけて申し訳ないとも思っている。
だが、決して間違った行動だったとは思わない。
俺がしたことは、ここまで神経質に見張られるような悪事だったのだろうか。
いや、もちろん周囲が俺を心配してくれてのことだから、ありがたいことではあるのだが……
こうして悩んでいる今も、隣にいる弥太郎は不安そうな目で俺を見つめている。
知らず、口からため息が漏れた。
そんな時だった。
上杉陣屋に一人の尼僧が姿を現したのは。
◆◆◆
覚慶。
尼僧はそう名乗った。
切れ長の双眸は夜闇の色。伸びた鼻筋、整った眉、頬は白磁のごとく、唇は花のごとく、黒を基調とした僧服の印象も手伝って、覚慶の立ち姿は黒百合を連想させる。
ただ、これも僧服の印象のせいかもしれないが、覚慶にはどこかほの暗い陰が付きまとっているように思われた。
覚慶の名を最初に聞いたとき、俺はどこかで聞いた名だなと思ったのだが、それも道理。一乗院覚慶は将軍義輝の妹であり、後の将軍足利義昭なのだから。
――いやまあ、この世界で覚慶が将軍になるのかは分からないけれども。
ともかく、思わぬ貴人の来訪に泡を食いながら、俺は覚慶を陣屋に案内した。
こういうときに限って景虎様も景綱も定満もいない。
なので俺が相手をせざるを得なかった。どうしてこんな貴人が供の一人も連れずに上杉陣屋を訪れたのか。
陣屋の一室に腰を下ろした覚慶がちらとまわりを見る。
室内には俺しかいなかったが、襖の外には弥太郎が控えているし、たぶん段蔵もどこかで聞き耳をたてているだろう。
人払いを所望されていると察した俺は、けふんけふんと咳払いした。
しばし後、周囲から人の気配がなくなったのを確認してから、覚慶はようやく口を開く。
冬の井戸水を思わせる冷たい声音だった。
「今日、ここを訪れたのは他でもない。姉君に是非にと頼まれてな」
「姉君――公方様ですか。いったい何を頼まれたのでしょうか?」
「姉君ご執心の越後の仁が何やら鬱しておってな。姉君が問いただしたところ、配下の者の行状が芳しからぬという。姉君は刀剣の術には長けておるが、心の機微を探る術にはうとい。それに将軍たる身が軽々に御所を出ることもできぬ。ゆえに愚僧を遣わした次第じゃ」
えーと、つまり景虎様が俺の件で塞ぎこんでいて、それに気づいた義輝が事情を問いただし、僧である覚慶をセラピストとして派遣した、ということか?
……いやいやいや、おかしいだろう。なんで上杉軍の一武将のために将軍の妹御が派遣されるんだ。僧を遣わすにしても他に人がいるでしょうよ!?
ていうか、景虎様もわざわざ正直に俺のことを話さんでもいいじゃないか。今日はちょっと気分が悪いと言えばそれで済むでしょうに。
そんなことを考えていると、覚慶が淡々と事情を説明してくれた。
「姉君は越後の仁がお気に入りじゃ。かなうならば客将として京に残したいと考えておられる。幾度か直接褒賞を渡そうともしたが、いずれも断られたそうでの。古の九郎判官の例にならうことを恐れたのであろう」
鎌倉幕府を築いた源頼朝が弟義経(九郎判官)と争ったのは有名な話。その原因の一つは義経が頼朝を介さずに後白河法皇から官位を授かったからであるという。
守護である上杉定実を介さずに将軍から褒美を受け取れば、過去の悪しき例と同じことが起きるかもしれない。景虎様はそれを未然に防いだわけだ。
というか義輝様も余計なことしないでくださいよ。景虎様を手元に置いておきたいという気持ちは理解できるけれども。たぶん春日虎綱にも同じことをしているんだろうなあ。
しかし、そういったことを覚慶が知っているのは意外だった。
義輝が腹蔵なく話したのか、それとも覚慶と相談した上で事に及んだのかは知らないが、この姉妹、かなり親密であるらしい。もしかしたら覚慶の方から姉にそうするよう勧めたのかもしれないな。
そんなことを考えているうちにも覚慶の話は続いていた。
「その越後の仁が昨日、取り乱した様子で御所を出て行った。それも姉君の許しを得ることなく、の。くわえて今日の様子。これは何かあるとみてとった姉君が強引に問いただしたのよ」
なるほど、それで景虎様はとぼけることができなかったのだろう、たぶん。将軍の善意を謝絶し続けるのも無礼にあたるだろうし。
義輝が覚慶を派遣したのは、可能なかぎり景虎様に恩を売るためか。こういう形の褒美ならば定実様も文句は言えないだろう。
いやはや、上杉軍だけでなく将軍家まで巻き込んでしまうとは、俺もずいぶん出世したものだ。
ついつい皮肉っぽく考えてしまう。
ありがたいといえばありがたいが、俺の下で弥太郎たちが心配し、俺の上で景虎様たちが気遣ってくれている感覚だ。俺自身は虚しい。
まあいいや。話の流れからして、覚慶サマのありがたい説教なり念仏なりを聞けば用件は終わるだろう。
そんなことを考えながら冷めた目で覚慶を見やる。
と、こちらをじっと見据えていた覚慶と正面から目が合った。
――尼僧の目は放置された古井戸のようだった。底が見えず、引きずり込まれてしまいそうな黒々とした孔が二つ空いている。その孔の奥から、こちらを覗き込んでいる何かがいる……
得体の知れない寒気を感じた俺は、とっさに立ち上がろうとした。
ここにいるのはまずい。何故だかそんな気がしたのだ。
だが、俺が動く寸前、機先を制するように覚慶が口を開いた。
「世に同じ顔の者がないように、人の心もまたそれぞれに異なるもの。万人に通じる解は存在せず、だからこそ、我ら僧は悩みを抱える者と向き合う」
「……立派なことだと思います」
「顔を見ず、言葉も交わさずでは分かるものも分からぬ。したが、越後の仁の話を聞いて分かるところもあった。愚僧は姉君に言ったよ。その者について、姉君や越後の仁がどれだけ頭を悩ませても無駄なこと。たとえ百年かけようと、姉君たちにその者の心は理解できますまい、とな」
あっさりと、そしてきっぱりと覚慶は断言した。
唐突な物言いに俺は眉根を寄せる。
「……またえらくきっぱりと言い切りましたね。顔を見ねば分かるものも分からぬと仰ったばかりではありませんか」
「ふふ、人の心は会わねばわからぬ。されど、その者の手足が何本か、目や口の数が幾つであるか。それは姿を見ずともわかるであろう。今、愚僧が申したのはその程度のことに過ぎぬ」
「……それくらい分かりやすかった、ということですかね」
「しかり」
うなずいた覚慶がじっと俺を見据える。
心の奥まで見抜かれてしまいそうな怜悧な視線だった。
「人間というものは総じて己を最も大切に扱うもの。いかなる夢も、いかなる情も、己なくしては成り立たぬゆえな。一方で、世には一杯の粥を子に与え、自らは飢えて倒れる親がおる。主を逃がすため、我が身を盾として討たれる臣がおる。彼らとて己は大切であったはず。それでも己をなげうって事を成したのは、己よりも大切なものがあったからに他ならぬ」
「なるほど」
「そなたも同じよ。ただし、そなたが他の者と異なるのは、己の価値が他者のそれよりずっと低いことであろう。己の価値が低ければ、命をなげうつ機会が増えるのも道理」
たとえば命を助けられた恩義。
たとえば主君を思う忠義。
たとえば人として見過ごしにできない道義。
他者から見れば命をかけることではないかもしれぬ。
だが、己の価値が低い者から見れば、それらはすべて命をなげうつに値する理由となる。
極端な話、己の命が虫より軽いと思ってる人間は、馬にひかれようとする蟷螂のために身を投げ出すことをためらわない。なぜなら、自分の命より虫の方が価値ある生き物だからだ。
「なるほど、興味深い意見です。まあ、それがしは蟷螂のために身を投げ出すほど酔狂ではありませんが」
「朽ち果てた者どものために死毒と腐肉にまみれた己は酔狂ではない、と?」
「誰かがやらねばならなかったことです。正直に言わせていただければ、人も金もありあまっているどこかの巨大寺院が葬送を請け負って欲しかったですね」
覚慶は俺の嫌味をほの暗い笑みで受け流し、あいもかわらずヒンヤリとした声音で続けた。
「己の価値を低く見積もる者は往々にして罪を抱えておる。己が生きていることを寿げないから軽々に命を投げ出せるのだ。そして、命を投げ出す行為そのものに淫するようになる。まさにそなたのことよ」
「……どういう意味です?」
「罪とは心に刺さった針。痛かろう、耐え難いほどに。その痛みは生半なことでは消せぬ。耐えることもできず、消すこともできず、ゆえにそなたは生に彷徨した。そんなとき、そなたは越後の地で苦痛を遠ざける術を手に入れた」
「……ッ」
知らず、唇を噛む。
それを見て、覚慶はかすかに唇の端を吊り上げた。
「恩義のため、忠義のため、道義のために命を懸けることの何と尊いことか。誰もが認める価値ある行いだ。ゆえに、それに従事している間はそなたの命にも価値が生まれる。罪の痛みに苦しむこともない。さぞ快いことであろう。さぞ心躍ることであろう。快楽さえ感じていたのではないか? ひとたびその快楽に身を浸したならば、それを忘れることなどできはせん」
繰り返すだろう。何度でも。いつまでも。
止めよという者がいてもうなずくはずがない。
どうして止めなければならない?
自分がどんなに苦しんでいるのか知らないくせに。どんなに痛がっているのか知らないくせに。
そんな人間に何を言われようと、うなずく必要はどこにもない。
これが犯罪だというなら止めもしよう。
けれど、間違ったことをしているわけではない。
むしろ正しいことだ。誰もが賞賛することだ。
事実、称えられたではないか。認められたではないか。期待すらされてきたではないか。
だから続けよう。何度でも。いつまでも。
この数ならぬ命が尽きる、その日まで。
「――つまり、そなたは己の抱えた罪から逃げているだけよ。避けられぬ死を前にした者が、恐怖を忘れるために阿片を吸うようにな。それは悪ではない。罪でもない。だが、弱さではあるだろう。だから愚僧は姉君に、そして越後の仁に言ったのさ。強きお二人では、弱きそなたの心を理解することなぞ百年経ってもできはせぬ、と」