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聖将記  作者: 玉兎
第五章 深淵
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第四十一話 深淵




 河内かわち国 飯盛山いいもりやま



「晴元殿が公方様にくだったと? まことか、久秀」

「はい、長慶様。近江の朽木谷にて、先の若狭守護武田信豊と共に朽木家に匿われていたそうです。そこを上杉軍に急襲されたとのこと。晴元殿は反撃しようとなさったそうですが、公方様の命を受けた朽木元綱殿はこれを拒否。ひとり城から落ちのびようとしたところを上杉の兵に捕らえられたよし



 それを聞いた三好長慶は深々と嘆息した。

 阿波の国から発し、畿内一円を斬り従え、ついには主家である細川家をって「日本の副王」と称される大勢力を築き上げた三好家当主は、かつての主君の凋落を哀れまずにはいられなかった。

 仮にも管領として畿内に号令した身が、付き従う者とてなく城を逃げ出した挙句、虜囚に落ちることになろうとは。



 晴元に背いた己がそれを言うのはひどく残忍な物言いであろう、と長慶は思う。晴元本人が聞けば激怒するだろう、とも。

 それでも一時は主君と仰いだ相手だ。長慶は悲しげに目を伏せる。

 だが、そう感じているのはこの場では長慶一人だけのようで――



「ふん、無様な。事やぶれたりと切腹の一つもすれば恥をさらさずに済むものを」

「……義興よしおき。言葉を慎め」

「父上、当家が細川に仕えていたのは昔日のこと。今となっては仇敵、怨敵のたぐいです。顧慮するにおよばずと心得ますが」

「だとしても、旧主の凋落をあざける必要はあるまい。他者へのあざけりは、いずれ己に返ってくるものと知れ」



 父の言葉に義興は表情をあらため、神妙な顔でうなずく。

 長慶はまだ四十前の若さであり、当然のこと、娘である義興はさらに若い。まだ二十歳前である。

 その若さにありながら、すでに義興は摂津せっつ芥川あくたがわ城をあずかる一城の主となっていた。

 文武に秀で、教養に富み、容色に優れている。配下の人望、民衆の人気、公家の信頼、いずれも厚い。



 長慶は嫡子の将来を嘱望しているが、秀でた才はときに傲慢を招きよせる。

 それゆえ義興の言動にその色が見えたときは厳しく訓戒することにしていた。、



「心します、父上」

「それでよい。ところで久秀、公方様は晴元殿をどのように遇するつもりなのだ?」

「香西元成らを用いて京を襲ったのは許しがたきことなれど、共に戦った昔日の功をもって命は助けおくとのこと。三好領内に適当な場所はないか、と訊ねられました」

「三好にあずけてくださるか。騒がしき方なれば、静かな山寺がよいかな」



 さっそく目ぼしい候補地を探し始めた長慶を見て、義興はそっと嘆息する。

 義興は父を心底から尊敬しているが、ただ一つ、諸事に仏心を出すぬるさだけは肌に合わないものを感じていた。

 もっとも、叔父である義賢よしかたに聞いたところ、かつて父長慶も祖父に対して同じことを言っていたらしい。



 に似たもの親子よな。

 そういって笑う義賢の丸々とした顔を思い出しながら、義興は久秀に視線を向けた。



「それにしても相変わらず公方様は食えない方だ。晴元殿は仮にも管領だった御方、斬るわけにはいかぬ。そこで厄介者を我らに押し付けた。晴元殿がおとなしくしていればよし、もし幽閉場所から逃げ出せば三好の不始末を責めることができるからな。晴元殿を捕らえたのは上杉、面倒を見るのは三好、公方様は指一本動かさず、情け深い将軍よという評判だけを手になさった」



 義興は皮肉をこめて言うと、じろっと久秀を睨む。



「寄せては逃げ、逃げては寄せるハエのごとき管領の始末を上洛軍に任せるという久秀の案は確かに図に当たった。だが、三好家は反覆常なき管領の世話役を押し付けられ、いざという時に将軍から責任を問われる立場になった。果たしてこれは成功と言えるのか」

「ふふ、手前味噌となりましょうが、霜台そうだいは成功したと考えます。香西元成率いる丹波衆を退けるために必要だったはずの軍資と兵の命に比べれば、晴元殿の世話をする手間など何ほどのことがございましょう。また、三好軍が晴元殿を捕らえるために近江に侵攻すれば、江南(南近江)の六角家を刺激することになり、新たな戦いを引き寄せることになったやも知れません」



 くわえて、元とはいえ主君であった細川晴元を三好長慶が討ったとなれば、口さがない者たちが騒ぎたてよう。

 長慶が晴元に背いたのはやむをえない理由があってのことだったが、いつの世も中傷者というのは自分たちに都合の良い面しか見ない。

 事実、細川家をおしのけて畿内を制した三好家をそしる声は今なお絶えていないのだ。



 上洛軍を動かすという一事で、そういった諸々を払いのけることができたのである。

 久秀にしてみれば疑いなく成功であり、そのことは長慶も認めるところであった。



「時に動かざることは動くことに優るもの。よくやってくれた、久秀」

「ありがたきお言葉」

「義興も学べよ。いては事を仕損じるのたとえは、戦にもはかりごとにも通じるものだ」

「はい」

「よし。それでは二人はこれより京へ向かってくれ。晴元殿の身柄を公方様より受け取ってくるのだ。場所についてはわしに心当たりがある」



 長慶の命令に再度うなずいた久秀と義興は、共に長慶の前を辞した。

 並んで飯盛山城を歩く二人の姿を見ると、三好家の家臣は敬意をこめて道を譲る。

 だが、一部の家臣は久秀に非好意的な視線を向けていた。



 三好義興が摂津芥川城を与えられているように、松永久秀は大和やまと信貴山しぎさん城を与えられている。

 一城の主という意味では同じ立場にある二人であるが、むろんというべきか、三好家の嫡子である義興と久秀は同格ではない。本来は久秀が一歩も二歩も下がって歩くべきなのだ。

 それをしない久秀に対して非難の目が向けられるのは当然のことであったろう。



 ただ、久秀は官位の面でも義興と同位であり、なおかつ叙任された時期も等しい。幕府から与えられた役職も義興と重なる。

 これらの事実から松永久秀は三好義興と同格、あるいは義興に準じる立場を与えられていると考える者もいた。少なくとも、三好長慶が久秀に対して一臣下の分を越えた厚遇を与えていることは確かである。

 久秀が長慶の落胤なのではないか、という噂もここに端を発していた。



 そんな久秀の存在が三好家の安定を損なうものであるとして、長慶の弟たち――三好義賢、安宅冬康、十河一存らは久秀を危険視しており、義興もまた叔父たちと見方を同じくしている。

 とはいえ、父の命令に背くことはできぬ。

 飯盛山城を歩く二人の姿は隣り合っていたが、その心は万里を隔てたよりもなお遠くに離れていた。




◆◆◆




「そういえば、景綱」

「は、何でしょう、景虎様」



 室町御所の一室で上杉主従が言葉を交わしたのは、年が明けてしばらく経った頃のことだった。

 細川晴元は過日、三好義興、松永久秀によって三好領の普門寺という寺に送られた。

 京を狙った首謀者が捕まったことで京内外における不穏な動きは一掃され、御所は平穏な空気に包まれていた。



「このごろ相馬の姿を見かけないが、何か知っているか?」

「相馬ですか?」



 主君の問いを受け、景綱は同輩の姿を思い浮かべた。言われてみれば、確かにここ最近彼の姿を見ていない。

 ただ、それは不思議なことではなかった。

 景虎と景綱は将軍に近侍しており、上洛してからの日々のほとんどを室町御所の中ですごしている。



 一方の加倉は基本的に洛中の上杉陣屋に滞在している。自然、両者が顔をあわせる機会は限定されてしまうのだ。

 付け加えれば、加倉は礼儀作法にうるさい御所を明らかに敬遠しているため、余計に顔を合わせる機会は少ないのである。



「私が最後に顔を合わせたのは正月の宴になりますから、かれこれ半月近く顔を見ていない計算になりますか。次の葬送を実行するために駆け回っているようでしたから、おそらく今もそちらにかかりきりになっているのではありますまいか」

「そうか。死者を送るのは大切な役目であるが、相馬たちの役割は辛く厳しいものだろう。私も手助けができれば良かったのだが……」



 表情を翳らせる景虎。

 景綱は自身も似たような表情を浮かべながら、口惜しそうに言う。



「仕方ありますまい。宮中に疫病を持ち込まれては困るとの公家の言い分、たしかに一理ありますからな。それに、将軍殿下の御身をお守りするためにも、景虎様は御所にいて頂かねばなりません。相馬たちも理解してくれているでしょう」

「……うむ。将兵にも厚く報いてやらずばなるまい」

「相馬のことです、そちらも心得ているでしょう。なんでも松永殿から助言を得たとか言っていましたからな」



 そういった後、景綱はやや意地悪く笑う。



「まあ、具体的に何の助言を受けたかは言っていませんでしたがね。次に会ったときはそのあたりをたっぷり追及してやります」

「ふふ、相変わらず景綱は相馬に厳しいな。察するに松永殿に遊女の世話でもしてもらったのではないか? 兵にとっては大事なことだし、相馬はそういう点に聡いからな」



 ぶふぉ、と景綱の口から変な声がもれた。



「ちょ、か、景虎様!?」

「な、なんだ、景綱。いきなり大声を出してはびっくりするではないか」

「ゆ、遊女とか、いきなり仰るからですッ! 一体どこでそんなことをお聞きになったんですか! はッ!? まさか相馬の奴ですか!? おのれ加倉相馬、こたびばかりは許さんぞ!!」

「ま、待て、景綱、太刀に手を伸ばすな。相馬ではない。栃尾で軍略を学んでいた時、定満や実乃に言われたのだ。長期の遠征の時に注意すべき事柄の一つとしてな」

「む。そう、でしたか」



 景虎の言葉を聞いた景綱は、掴んでいた柄からしぶしぶ手を放した。

 定満や実乃さねよりの教えは的確なものであり、文句を言うことはできない。できないのだが、景虎にいかがわしいことを教えるとは何事ぞ、と瞬間的に腹が立ってしまうのは避けられなかった。

 景虎にはいつまでも清純なままでいてほしいと願うのは、己の勝手な押し付けだと分かってはいるのだが。



 そんな風に上杉家の主従が語らっていると、部屋の外から従者の声がかかり、目どおりを願っている者がいると報告してきた。

 景綱が名を問うと、従者は落ち着いた声音で応じる。



「加倉相馬様配下の小島弥太郎殿と、加藤段蔵殿です」

「すぐ通せ」

「はい」



 景虎が命じると、景綱が小さく笑った。



「噂をすれば影、ですか」

「うむ。だが、あの二人だけで相馬がいないというのが気になる」

「おおかた、まだ御所嫌いが直っていないだけでは?」



 景綱の言葉は笑い混じりだったが、それを聞いても景虎は表情を緩めなかった。何事か感じ取っている風である。

 こういう時の景虎の神がかった鋭さを知っている景綱は、浮ついていた心を慌てて引き締めた。

 そうして、まもなく現れた二人を見たとき、景綱は景虎の危惧が的中していたことを悟る。






「と、と……突然の、ほ、訪も……んぐ、う、うう……ッ」

「弥太郎、私が申し上げます」



 ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら景虎に挨拶をしようとする弥太郎に、段蔵が短く告げる。

 弥太郎は頷いてわずかに膝を戻したが、その涙が止まる様子はなかった。



 景虎にせよ、景綱にせよ、弥太郎のことは良く知っている。言葉をかわしたこともある。

 少女とは思えぬ膂力と優れた武芸、そして愚直なまでの忠誠心を併せ持った加倉相馬の側近。

 景綱などは、当初は加倉同様に弥太郎にもあまり良い感情を抱いていなかったが、その人となりを知るにつれて好意を厚くしていき、今ではどうしてこの少女が相馬などに仕えているのか、と冗談まじりに惜しむ声を放つほどになっている。



 その少女が、ここまで人目をはばからずに涙を流すなど、どう考えても吉報ではない。

 その隣に座す加藤段蔵は弥太郎と違って冷静に見えるが、それでも景虎の目は段蔵の手のかすかな震えをとらえていた。



「突然の訪問、まことに申し訳ございません。実は景虎様にお願いしたき儀があり、参りました」

「願いとは?」

「京の郊外に死屍が折り重なって山のごとく積まれている場所がございます。ご存知でいらっしゃいますか」

「うむ。弔いきれない死者たちを集めている場所があることは、殿下よりうかがっている」

「その場所の一つにおいで頂きたいのです。このようなことを景虎様に願うは万死に値すると承知しておりますが……なにとぞ、なにとぞお聞き届けくださいますよう、伏してお願い申し上げます」



 そういって深々と頭を下げる段蔵。

 後ろに下がった弥太郎も、泣き顔のままそれに追随した。



 死体が山と積もれた不浄の場所に来てくれ、などという願いを、景虎はともかく景綱がうべなうはずがない。

 だが、この時、景綱は口をはさまなかった。段蔵の、そして弥太郎の必死な表情が、景綱の口に不可視の錠をはめたのである。



「一つ聞く」



 景虎の鋭い声に、段蔵は平伏したまま応える。



「は」

「それは相馬の願いか。それとも、そちら二人の願いか」

「私ども二人の願いにございます。ただ、加倉様に関わることであるのは間違いございません」



 その言葉を聞いて、景虎はすっくと立ち上がった。



「わかった、出よう――景綱」

「御意。すぐに馬をひいてまいります」



 御所を叩き出されてもおかしくない願いを、迷う素振りも見せずに頷いてくれた景虎たちの姿に、弥太郎は何度も頭を下げた。



「あ、ありがとう、ございます。ありがとうございますッ!」

「泣くことはない。弥太郎も、段蔵も、そして相馬も私にとっては大切な臣だ。そなたらの願いをはねつける理由なぞ、日ノ本のどこを探しても見つからぬ」

「……感謝いたします、景虎様。景綱様」



 段蔵の声を聞き、立ち去りかけていた景綱が野太い笑みを浮かべて応じた。



「別に私に感謝する必要はないのだがな。景虎様がいかれるところ、お供するのが私の任だ。そんなことより、二人も急げよ。私と景虎様の先導をするのは大変だぞ」

「御意――弥太郎、戻ります」

「あ、は、はいッ!」




 この日、京の都を歩いていた人々は幸運であったかもしれない。

 大地を蹴りつける馬蹄の音。文字通りの疾風となって駆け抜ける四つの騎影は、越後上杉軍において最精鋭といえる者たちであったから。

 その神技ともいえる馬術の一端なりと目にすることが出来たことは、末代までの語り草となったに違いない。

 ――もっとも。



「……なんじゃ、ありゃあ」



 呆然と騎馬が駆け去った方角を見送る者たちは、自分たちが目にしたのが誰であるかさえ分からなかったのだが。






 そうして、景虎たちがたどり着いたところは、段蔵の話していたとおり、京に幾つもある死屍の野の一つであった。

 場所が場所だけに誰一人いないと思われたのだが、景虎たちの馬蹄の音を聞き、幾人かの子供たちが駆け寄ってくるではないか。



「どうしてこのようなところにわらべがいるのだ?」



 景虎の訝しげな問いに、弥太郎が慌てて答える。



「す、すみません、近づかないように言っているのですが、その……」

「加倉様に恩があるといって、こうしていつも様子を見てくれているのです。ただ――岩鶴、弟妹たちは連れてくるなと言ったでしょう」



 言葉の後半は、駆け寄ってきた子供たちの中で一番年上の少年――岩鶴に向けられていた。



「仕方ねえだろ。皆、あいつのことが心配でしょうがねえんだよ。来るなっていっても勝手にきちまうんだ。だったらおれたちが連れてきた方がまだマシだ」



 岩鶴はそう言うと、景虎と景綱に胡乱うろんげな視線を向ける。



「この人たちがあいつの殿様か?」

「そうです。ですが、紹介している暇はありません。加倉様は?」

「……いつもんとこで、いつもどおりにしてるよ」



 その時、少年の顔に浮かび上がった表情を景虎ははっきりと見た。

 恐怖という名の感情を。

 そして――






「あ、あれ、景虎様? うわ、景綱殿まで!? ど、どうしてこんなところに!?」



 景虎たちの姿を認めた加倉の口からすっとんきょうな声が発される。

 見たかぎり、怪我をした様子もなく、健康を害した風にも見えぬ。

 弥太郎たちの様子から、よほど差し迫った危難に見舞われたものと思い込んでいた景綱は呆れたように口を開きかけた。

 だが、そのとたん、口腔内に入り込んでくる死臭を感じ取り、景綱は慌てて口を閉じる。

 あまりに濃度の濃い死臭は、舌に味を覚えさせるほどであった。



 そんな中、加倉は一人で地を掘り、積み重なった死屍の山から手ごろな躯を抱え、掘った穴に埋めて土をかぶせ、そしてまた土を掘る。

 その作業を繰り返していた。

 完全に白骨化した死体もあれば、腐乱した屍もある。あるいは、ここ最近うち捨てられたのであろう真新しい亡骸も少なくない。



 そういった屍を一つ一つ丁寧に埋葬していく。さすがに一つの死体に一つの墓をつくるだけの余裕はないようで、複数人を同時に埋めることもあったが、それでもできる限り丁寧に扱おうとしていることはうかがえる。

 何をしているのかと景虎が問うと、加倉はきょとんとした顔で、見てのとおりです、と応じた。

 あるていど片付いたら、今度は僧を呼んで念仏を唱えてもらわねばなりませんね。

 加倉はそう言って、景虎たちが見慣れた顔で笑った。






 景虎も、そして景綱も言葉を失っていた。

 弥太郎のすすり泣く声と、幼い子供たちの押し殺した泣き声があたりに響く。

 彼女らに目を向けた加倉は困ったように頬をかこうとして、その手についた蛆虫に気付き、服の裾で拭いとった。



「だから弥太郎、ここには来るなと言ってるだろうが。それに岩鶴も、子供たちを連れてくるな。怖がってるじゃないか」

「だ、だって、こ、こんな相馬様、ほ、放っておけるわけ、ないじゃ、ないですか……ッ」

「む、無理やり連れてきてるわけじゃねえ。こいつらが来るってきかないんだよ。おれたちが心配なら、あんたがさっさとそれをやめればいいじゃねえか!」



 二人の反応に加倉は小さくため息を吐いた。

 おそらく、ずっと同じやりとりを繰り返しているのだろう。



「だから、別に俺は無理はしてないって。ここにいる人たちを全部、俺一人で何とかしようと思ってるわけでもない。放っておけないから、俺が出来る範囲で、出来ることをしてるだけだ。そんな泣くほど心配することじゃない」

「――そう思っているのは主様だけです。屍の山に埋もれ、腐肉の中で動き、死臭を吸って過ごし、それが何でもないことだと、そう言えることが――本当に当たり前だと思っていることが……」



 段蔵の語尾が低くかすれる。

 弥太郎のように涙を流しているわけではなかったが、その言葉に込められた感情は、弥太郎のそれに劣るものではなかっただろう。



 景虎はその一部始終を聞き、全ての事情を察した。

 弥太郎たちがどうして自身をここに連れてきたのかもわかった。

 もはやそうする以外、加倉を引き戻す術がなかったのだ。



「――相馬」

「はい。景虎様にまで迷惑をかけてすみません。ですが、仕事に支障はないようにしてますので。晴元を除いてから、京の内外は平穏無事です」

「そうか。そこまで気を配ってくれているのだな。だが、それならお前を思う者たちの心にも気を配ってやるべきではないか」



 一歩、景虎が歩を進めた。

 それを見て加倉は慌てて両手を振る。何かが――あまり口にしたくない何かが、その手から飛び散った。



「あ、景虎様、近づかない方がいいです。言うまでもないと思いますが、すごい臭いですから」

「で、あろうな。この場にいるだけで、さすがの私も怯んでしまいそうだ。命を懸けて戦場を駆けることに恐れはないが、この場の瘴気は耐え難い。もうここは冥府の底に繋がっているのやもしれぬ」



 さらに一歩、歩を進める。



「そうかもしれませんね。けれど、だからといってこのままにはしておけません」

「その心根、主として誇りに思う。いつからやっている? 幾人弔った?」

「そうですね、義興殿と久秀殿が京を発った日からはじめたから、ええと十日くらいになりますか。数は……三百人くらいでしょうか。骨ばかりの人もいたから、正確にはわかりません」

「……そうか」



 景虎の歩みは止まらない。



「まあ、一万が九千七百になったところで、大した違いはないのかもしれませんけどね」



 寂しげに屍の山を見上げる姿は、景虎の良く知る加倉相馬のものであった。

 春日山城でも、戦場でも、この京の都でも、見慣れた姿。ここにいる加倉は何一つ普段と変わらない。

 山と積まれた死者を前に、心を凍らせて作業をしているわけではない。

 ただ当たり前のように、自分が出来る最善のことをやろうとしているだけだった。



 かつて、晴景に勝利をもたらすため、春日山城ごと自らを焼き尽くそうとしたように。

 かつて、佐渡の地で上杉軍に勝利をもたらすため、甲冑をまとわず敵陣に攻め入ったように。



「って、景虎様、だから近づかない方がいいと申し上げ――」



 加倉が慌てて退こうとしたときには、景虎の手は加倉の身体に届いていた。

 その手に感じるぬめりが何なのかなど、今の景虎にとっては考えるに値しない些事であった。

 両の手を加倉の頬にあて、まじまじと加倉の顔を覗き込む。

 突然の景虎の行動に加倉は目を丸くするばかり。そんな加倉に向かって、景虎は哀しげにささやいた。



「相馬」

「は、はい?」

「犠牲なくして目的は果たせぬ。一将いっしょう功成こうなりて万骨ばんこつる。我が天道も将兵の屍によってつくられる修羅の道だ。だが、だからこそ私は犠牲を一人でも少なくしたいと願ってきた。そのために努力もしてきたつもりだ。そなたはそのことを分かってくれていると思っていたのだが――」



 己を犠牲にすることなど求めていない。

 己を捨てた献身など望んでいない。

 景虎は皆のために戦っているのに、その皆が己を犠牲にして景虎に尽くしては本末転倒ではないか。



 それを聞いた加倉は息を呑んだ。そして、景虎の視線から逃れるように面差しを伏せる。

 それだけで景虎にはわかった。目の前の青年が今いったことを理解していたのだと。その上で行状を改めなかったのだと。




 そのことが――何故だか、むしょうに腹立たしかった。




「景綱ッ!!」



 景虎の口から滅多に聞けない本気の怒号がほとばしる。



「は、ははッ!」

「急ぎ、京で一番の名医を陣屋に招け! 礼金は言い値でよい! ありったけの薬を持参するよう伝えよ!」

「しょ、承知!」



 景虎の鋭気に背中を蹴飛ばされるように、景綱は来た道をものすごい速度で走り去る。

 次いで景虎は段蔵を見た。



「段蔵ッ!!」

「ははッ」



 平静を装ってはいたが、段蔵の内心は驚きに満ちていた。

 景虎がここまで感情をあらわにしているところを、段蔵は見たことも聞いたこともなかったからだ。



「陣に戻って湯を沸かしておけ! 三百人分のけがれを払い落とせるだけの量をだッ!」

「御意!」



 その命令に否やを唱える理由はない。段蔵はすぐさま馬上の人となり、上杉陣屋に馳せ戻る。

 十日間の長きに渡り、胸をしめつけてきた痛みからようやく解放されると安堵しながら。



「弥太郎!」

「は、はひッ!」

「この大馬鹿者を連れ帰る。手を貸せ」

「かか、かしこまりましたァッ!」



 景虎の鋭気を真っ向から受けた弥太郎は、飛ぶような勢いで加倉と景虎の元に駆け寄っていく。

 死臭も、怨念も、もう何も感じられなかった。

 弥太郎は思う。

 そういった不浄のものは、天地を震わせる景虎の一喝で消し飛んだに違いない、と。




 そうして、景虎と弥太郎に引きずられるように戻ってきた加倉を迎えたのは、居残っていた岩鶴たちであった。

 景虎の怒号を聞いた子供たちは、雷神を仰ぎ見るかのような尊敬と、ほんの少しの畏怖をこめて景虎たちを見やっている。

 そんな彼らに、景虎はうってかわって穏やかな声をかけた。



「皆、心配をかけてすまなかったな。この者はもう大丈夫だ。次にここにやってこようとしても、力づくで引き止めるゆえな」



 その言葉を聞き、子供たちの間から小さな歓声があがる。



「岩鶴と申したか?」

「はは、はい、い、岩鶴です! え、えっと、か、景虎様ッ」

「ふふ、そう硬くなるな――といっても無理かな。すまぬ、怖がらせてしまった」

「い、いえ、そんな……」



 恥ずかしそうにうつむく岩鶴をやさしく見やった景虎は、ここで子供たちに思わぬ提案をする。



「今、思い出した。正月に会ったとき、相馬が口にしていた子供たちというのはそなたらのことだな。我が臣を気遣い、見守ってくれた恩人たちに礼をしたい。そなたらが望むなら、我が家で召抱えたいと思うが、どうだ?」

「あ、え、あの、それって……は、はい! あの、お世話になります! 清介、喜四郎、お前たちもいいよな!?」

「駄目なんていうわけないだろうが……ッ」

「お、おお……え、これ夢か? おい、清介、ちょっとほっぺた引っ張ってくれ!」



 突然の申し出に三人が混乱していると、そばで話を聞いていた年少の子供たちが首をかしげて弥太郎に――たぶん景虎はまだ怖かったのだろう――訊ねてきた。



「弥太郎姉ちゃん、えっと、どういうこと?」

「えっと……これからもずっとみんな一緒にいられるってこと、かな」

「わー、おねえちゃんとずっと一緒に遊べるの?」

「相馬のにーちゃんとも?」

「でも段蔵の勉強はやだなー」



 口々に好き勝手なことを言いながら、加倉や景虎、弥太郎に群がる子供たち。

 それに気づいた岩鶴が慌てて声をかけた。



「こ、こらお前たち、お行儀よくしなさい!」

「構わない。子供は元気なのが一番だからな」



 そういって微笑みかける景虎の顔を見て、岩鶴は真っ赤な顔でうつむいた。

 ……だいぶ風向きが変わったと判断したのだろう。

 それまで、景虎の怒号に完全に肝を潰していた加倉がおそるおそる口を開く。



「……あの、ところで、どうして景虎様は怒っていたのですか?」

「それは正確ではないな、相馬」

「は?」

「怒っていた、ではない。怒っているのだ。今もまだ」



 そう言う景虎の横顔は、怒っていると口にしつつもどこか哀しげに見えた。

 それを見た加倉はそれ以上何も言うことができず、口を閉ざすしかなかった。




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