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聖将記  作者: 玉兎
第五章 深淵
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第三十九話 屍山



 ――それは上洛軍が京に入ってから七日後、まだ香西元成が攻めてくる前の出来事だった。



 その日、京では強い風が吹き荒れていた。

 上洛軍の遊女小屋建設の打ち合わせで鶴屋(久秀から紹介された遊女屋)に出向いた俺は、肌を刺す寒風に耐えながら帰路についた。

 さすがに遊女屋に女性同伴で行くのはあかんだろうということで、弥太郎と段蔵の姿はない。無用心ではあるのだが、なにしろ今の上洛軍は猫の手も借りたい忙しさ。護衛に人を割く余裕はなかったのだ。



 そんなわけでひとり上杉陣屋に向かっていた俺は、途中、顔をしかめて足を止めた。

 異様な臭気を感じたのだ。

 初めて、というわけではなかった。

 京に入った初日にも今と同じ臭いを嗅いだ記憶が残っている。

 そういえば、あの日も強い風が吹いていたな。



「……なんだ、この臭いは」



 顔をしかめながら呟いた俺に、たまたま傍らを通りかかった商人風の男が声をかけてきた。



「おや、京は初めてですかな、旦那」

「はあ、そうですが。どうしておわかりに?」

「なに、京で暮らす者がこの臭いを知らないなんてことはありえませんので」



 なるほど、と頷いた俺は軽い気持ちで訊ねてみた。



「この臭い、いったい何なんですか。何かが腐ったような、妙に気分の悪くなる臭いですが」

「それは仕方ありませんでしょう」



 俺の感想に男は真顔でうなずき、言った。



「人間の屍が腐れ落ちる臭いですからな。腐った臭いがするのも、気分が悪くなるのも、当然のことですよ」

「……なんですって?」

「ですから、屍が腐る臭いなのですよ、これは」



 思わず低声こごえで問い返した俺に男はあっさりと答えた。あっさりと答えられるくらいには、京の町では当然の認識となっているのだと思われた。

 さらに男は話を続ける。



「このあたりは三好様のおかげで大分ましになりましたが、洛外に行けば一昔前の京の姿がそのまま残っておりますよ。死体がそこかしこに打ち捨てられ、弔う者もなく放置された町並みです。今日のように風が強い日はそちらから空気が流れ込んでくるのですよ。京を知らぬ方々が戸惑われるのも当然ですな――おっと、それでは私はこれで。お若い方、もし鎧刀が入用でしたら、表通りにある私の店をご利用くださいまし」



 男はそう言って自分の店の名を告げると、寒そうに肩を縮めて去っていった。

 俺は何も言えずにその後ろ姿を見送る。



 応仁の乱以降、数十年。権力の中心地である京は幾度も、幾十度も戦火にさらされてきた。

 ここ数年にかぎって言っても、京の町は将軍家、三好家、細川家、六角家らによって争奪の対象とされてきた。

 いったいどれだけの人間が戦火の中で倒れたのか、俺には想像もつかない。



 ――死体がそこかしこに打ち捨てられ、弔う者もなく放置された町並み。

 郊外に広がるというその光景を見てみたいと思った。

 将軍家でも、三好家でも、細川家でも、六角家でも、それ以外のどの大名家でも消すことができなかった京の死臭。

 そのすべてをはらい清めることができたならば、それはきっとすばらしいことであるはずだった。




◆◆◆




「できるわけないだろ、そんなこと!? あんた、東から来たとかっていうお侍だよな? 町外れの林とか藪とか見てみろよ。腐りかけから、完全に骨になった奴らまで、いくらでも揃ってるから。あれを全部弔うなんて、仏さまだって無理に決まってる!」



 道案内に雇ったその子供は、不機嫌そのものといった顔で吐き捨てた。

 その剣幕に俺は目を丸くする。

 いや、確かに今はまだ成算のせの字も立ってない状況なので、夢物語を言うな的な反応は予想していたのだが、それを踏まえても、ここまで激しい反応が返ってくるとは思わなかった。



 はて、何が気に障ったのやらと困惑しつつ、俺はここに至るまでの出来事を振り返る。



 件の死臭のことを聞いてから半月あまり。遊女小屋は完成し、香西元成を討ち取り、豊弘の武名も確立した。

 上洛軍の評判も上々、兵士たちからも表立った不満はあがってきていない。ようやく死臭の除去にとりかかれると判断した俺は今日、ひとり郊外に足を向けた。



 その途中、柄の悪い連中に囲まれて困っていたところを助けてくれたのが眼前の少年、岩鶴だった。

 正確にはほかにも二人いるのだが、彼らは俺との会話を岩鶴に一任しているようで、俺とはまったく口をきこうとしない。名前も言わず、一定の距離を保ってついてくるだけだ。警戒されているのだろう。



 刃物をちらつかせる男たちを投石で追っ払ってくれた岩鶴たちだったが、何も正義感や義侠心を発揮したわけではなかった。

 聞けば、彼らはこのあたりの親なし子たちの親分格の一人だそうで、金を持っていそうな人間(俺)を助けて謝礼をせしめようと考えたのだそうな。



「なるほど、そういうことか」



 俺はうなずいて懐から巾着袋を取り出す。

 中に手を入れようとして思い直し、袋ごと岩鶴に放った。

 現在、弥太郎と段蔵は一躍いちやく時の人になってしまった『加州豊弘』に付きっ切りで護衛にあたっているので、ここにはいない。つまり、さっきは割と本気でピンチだった。

 窮地を救ってもらった恩には最大限に報いねばなるまい。



 巾着袋を受け取った岩鶴は、一瞬その重みに驚いたように目を丸くした。

 あわてた様子で中をのぞきこみ、金額を確認して口をパクパクと開閉させる。そんな岩鶴の様子を不審に思った二人も岩鶴の手元をのぞきこみ、同じように口を開閉させていた。

 三人とも見るからに浮浪児というていであるし、相当苦労しているのだろう。



 決して同情したわけではない。単純に恩に報いただけだ。

 しかし、岩鶴はそうは思わなかったらしい。

 はっと我に返った後、睨むように俺を一瞥いちべつして口早に言った。



「おい、あんた。何か用があってこんなところまで来たんだろ?」

「ああ、そうだが」

「じゃあ、おれが案内してやる。あんたみたいな田舎者丸出しの奴がこの辺をうろうろしてたら、あっというまにけつの毛までむしりとられるぞ」

「……念のために言っておくが、追加の謝礼は出せないぞ。それで全部だから」

「わかってらあ! もらった銭の分の働きはしてやるって意味だ。察しろ、ばかッ」



 怒られた。

 とはいえ、相手の誠意は十分に感じ取れたので、俺は岩鶴の言葉に甘えることにした。

 で、このあたりの様子を見て回りたいと頼んだら、訝しげな顔でいったい何のためにそんなことをするのだと訊ねられた。

 そこで目的を答えたところ、冒頭の岩鶴の言葉が返ってきた次第である。



 反発する岩鶴に対し、俺は無理に信じろというつもりはなかった。

 岩鶴にしても、後ろの二人にしても、相当に大人――というか、たぶん武士や兵士に対して反感と敵意を抱いている節がある。

 戦で家を焼かれたか、親を殺されたか、どうあれひどい目に遭ってきたのだろう。

 俺も武士のはしくれなわけで、そんな俺がすべての死者を弔うなどと言ったって信じられるわけもない。

 この子たちには行動と結果で示すしかなかった。




 ともあれ、いくら無理と断言されても今回の計画を諦めるつもりはない。

 俺がそう言うと、岩鶴はいかにも渋々といった様子で案内を了承した。自分で宣言したとおり、もらった金の分の働きはしなければ、と考えたのだろう。実に律儀な子だ。

 こうして岩鶴の案内のもと、京郊外の様子を見て回った俺は、今後の活動にいちおうの目処をつけることができた。




 気がついたとき、日は稜線りょうせんの彼方に沈もうとしていた。

 上空は茜色から墨のような黒色に変じつつある。

 なんだかんだでずいぶん歩いたものだ。岩鶴と他の二人もかなりくたびれた様子である。

 いや、俺は途中で何度か「もう十分だ」と言って帰らせようとしたのだが、岩鶴たちが聞かなかったのだ。頑固な子供たちである。



 これはもう追加報酬を渡さずばなるまい。

 そう考えた俺が上杉陣屋に戻ろうときびすを返したとき――『それ』はきた。

 一陣の風が吹く。

 冬の最中に吹いたものとは思えない奇妙に生ぬるい風。ねっとりと肌にからみつくその風は、およそこれまで嗅いだことのない凄まじい臭いを運んできた。



「ぐッ!?」



 思わずうめき声がもれる。

 京の町で嗅いだあの死臭を何十倍も濃くしたような悪臭。

 粘着質な空気は、そのまま鼻腔や口に張り付いてしまいそうで、俺はとっさに両手で口と鼻をおさえた。

 見れば岩鶴たちもまったく同じ動作をしている。



 しばらく、誰も口を開かなかった。

 とうに風は吹き去っていたが、あの悪臭とねとつく空気がこの場に残っているのではないかと恐れたのだ。

 だが、いつまでも黙っていても仕方ない。俺は覚悟を決めて口を開いた。



「……なんだ、今のは?」

「……なんでもいいだろ。ほら、早く戻ろうぜ。日が暮れちまう」



 岩鶴はそう言って慌しくきびすを返した。他の二人も青い顔でそれに従う。

 俺も彼らにならって歩き始めたが、進む方向は真逆だった。

 何かに導かれるように、先刻の風が吹いてきた方向に向かって歩を進める。

 そんな俺に気づいた岩鶴が慌てたように駆け足で戻ってきた。服のすそを引っ張って俺を止めようとする。



「お、おい、あんた! どこ行くつもりだよッ」

「見たとおりだ。ああ、今日は案内ありがとうな。もし困ったことがあったら上杉陣屋においで。今日の礼に飯くらいはご馳走しよ――」

「そんなのはいいから!」



 俺の言葉を途中でさえぎり、岩鶴は服ではなく俺の腕を掴んで引っ張ってきた。



「そっち行っちゃ駄目! お寺のお坊さんも言ってた。あそこは生きてる人間が近づいちゃいけない場所だって!」

「む……」



 妙に必死な顔の岩鶴に腕を引っ張られて困惑する。

 すでに報酬を渡した後だ。俺がどうなろうと岩鶴に損はない。だから、これは純粋にこの子の善意なのだろう。

 普段ならば聞き入れていた。

 別段、今行かなければならない理由はない。場所もわかっていることだし、明日、明るくなってから出直してもいい。一人で来れば岩鶴にも心配はかけないだろう。



 だが、今の俺は何故だかそうする気になれなかった。

 それどころか岩鶴の善意を邪魔だとさえ感じている。

 俺は内心の苛立ちを押し隠して、岩鶴の手をほどいた。



「少し行ってみるだけだ。お前たちについてこいとは言わないよ」



 そう言って歩き出す俺。

 今度は制止の声はかからなかった。






 町外れを抜けると、いよいよあたりは暗闇に包まれていった。

 すでに人家はなく、聞こえるのは自分の呼吸と足音だけ――と言いたいところだったが、すぐ後ろに自分以外の足音が続いている。それも三つも。

 正確には岩鶴が意地になったように俺の後ろを追い、その岩鶴をほかの二人が泣きそうな顔で追っている、という図式である。



 何のつもりかと疑問に思ったが、足を止めてさっきの押し問答の続きをするのも面倒だ。

 俺は無言で歩き続けた。

 冬枯れの草が風に吹かれてさびしげに揺れている。

 風は先刻とは逆方向に吹いており、寒風が首筋を撫でていく。ふと上を見れば、空が黒雲に覆われつつあった。

 このままだと夜の闇に閉じ込められてしまうかもしれない。

 そう思った瞬間、後ろでぽうっと明かりがともった。



「――もうじきだよ」



 振り返れば、岩鶴が枯れ枝に火をつけて立っている。

 枝の先っぽに火種を巻いて松明たいまつ代わりにしたらしい。

 なお、松明を掲げていない方の手は、薄汚れた手ぬぐいを巻きつけて鼻に押し当てている。後ろの二人も同様だった。



 その理由は、もはや物理的な圧迫感さえ伴ってあたり一面を覆っている悪臭にあった。

 追い風が吹いていても臭いが消えないのだ。

 もはやこのあたりの土や草木には完全に臭いが染み付いてしまっているのだろう。

 いつか、俺たちは足を止めていた。



 訪れるのは耳が痛くなるような静寂。

 だが、その静寂の中から何かが聞こえてくる。

 前方の暗闇から空気を震わせて伝わってくるこれは――無音の悲鳴。



「……怨念だって、坊さんは言ってた。亡者になった人たちが、苦しんでる声だって」



 岩鶴が小さく小さくささやく。

 何を馬鹿な、と笑うことはできなかった。

 黙りこんでしまった俺を見て、岩鶴はすがるように促してきた。



「ほら、満足しただろ? もう帰ろうぜ。さっきも言ったけど、ここは生きてる奴が来ちゃ駄目な場所なんだって! 東国の侍なら、ここに家族が眠ってるってわけでもないんだろ?」

「……そうだな。ここは、やはりそういう場所なのか?」

「そういうって……あ、ああ、そうだよ。家族や仲間が死んだら墓くらいつくるだろ。ここにいるのはそういう相手がいない連中だよ。はやり病で全滅した家族とか、戦で死んだ遠国の兵士とか――て、おい、あんたッ!?」



 岩鶴の声を背中ごしに聞きながら、俺はゆっくりと歩を進めた。

 もはや瘴気しょうきの域に達した腐臭の中を歩き続けること、しばし。

 上空を覆っていた雲が去り、月明かりが夜闇を割いて俺の眼前を照らし出す。



 そこにあるのは命を失った人の果て。

 文字通りの屍山にして、血ではなく腐肉が流れる末世の具現。

 その数をはかるのに百や二百ではとうてい足りぬ。

 千、二千でもまだ届かぬ。

 それは万をも越える死屍の山。



 そう。俺の前にそびえたつのは、土ではなくむくろでつくられた山であった。

 見上げるほどに大きく、しかも、この山は連なっている。

 一つではないのだ。もっといえば両手で数えられる数でもない。



 そのことに気づいたとき、俺は自分でも気づかないうちに笑っていた。

 小さく、けれど確かに、笑っていた……



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