第三十六話 松永霜台
松永弾正忠久秀。
この人物とはすでに何度か顔を合わせ、言葉も交わしているが、一対一で向かい合うのは初めてだ。
ましてやこんな夜遅くに訪ねてきたことなど一度もない。
「どうやってここへ? 上杉軍の警備をそう簡単に抜けられたとは思えないのですが」
「普通に訊ねて来ただけよ。洛中のことで早急に話があるっていったらあっさり通してくれたわ。そうそう、案内に立ってくれた人、寝不足だったみたいで途中の廊下で寝ちゃったわよ。それで起こすのも悪いから一人で来たの」
「……本当に寝てるだけですよね?」
疑わしげに問うと、そう言っているじゃない、とあでやかに笑って返された。
そうして久秀は胸元から緋色の扇子を取り出して、ついとおとがいに当てる。
……というか、なんでそこから取り出す? どこに入れてた? 反射的に目をやった瞬間、白い谷間が盛り上がっているのが見えて、思わず唾を飲んでしまったぞ。
「……それで、何用でしょうか。洛中のことで話があるとのことでしたが、こんな時間に松永殿がお一人でお越しになるほどの大事はなかなか思いつかないのですが」
俺が訊ねると、久秀はくるりと俺に背を向ける。腰まで伸びた黒髪が誘うようにちらちらと揺れ、藍色の着物に包まれた臀部が視界の中で存在感を主張する。
決して大きいわけではないのだが、なんというか着物を内側から押し上げる質感がほんとエロい。腰のくびれにいたっては芸術的といってもよいラインを描いている。
再度、唾を飲む羽目になった。
……言い訳しておくと、別にまじまじと観察していたわけではない。ないのだが、一瞬――いや一瞬よりもうちょっと長い時間、見とれてしまったことは否定しない。
そんな視線には慣れっこなのか、向こうを向いた久秀がくすりと笑ったのが聞こえてきた。
そのまま縁側に出た久秀はそこで腰を下ろすと、自分の隣の位置を二回、とんとんと扇子で叩いてみせた。
早くこっちに来なさいと促すように。
相手の意図は読めなかったが、今後のことを考えたら無視するのもよろしくない。
俺はとりあえず言われたとおりにすることにした。
松永久秀といえば、俺の中で謀殺の代名詞になっているが、景虎様ならば知らず、俺のような小物を討つために自ら足を運んだりはしないだろう。
内心でそんなことを考えている俺の耳に、久秀の柔らかい声音が滑り込んできた。
「あんまり良い月だったから興が乗ったの。霜台の策を見抜いた男がどんな奴なのか確かめてみたいって」
策というのは過日の鉄砲隊のことだろう。
ちなみに霜台というのは久秀の官位である弾正忠の唐名だ。久秀的には「わたし」という意味なのだと思う。
「鉄砲の威力は存分に発揮されたでしょう。細川軍三百が、あんなに短時間で皆殺しにされたのですから。皆、驚いていましたよ」
「でも、あなたがいなければもっと上洛軍は混乱してたでしょ。越後みたいな田舎の侍が、どうして鉄砲のことを知っていたのか気になるの。ようやく堺に少量入るようになったばかりの新技術。まかりまちがっても越後になんて流れていくはずがないわ。これから技術が普及していけばともかく、今の時点では、ね」
久秀は頭上の月を見上げながら、問うでもなく話しかけてくる。
俺は用意していた言い訳を口にした。
「堺の商人の中には越後までやってくる者もいます。そのときに噂を聞いたのですよ。近ごろ畿内では鉄砲とやらいう新兵器が出回りつつある。それは雷のごとき音を発する、まこと驚くべき鉄の棒である、と」
「ふーん、そっか。その商人の名前は?」
「ここだけの話ということで聞いた話題なので、名前についてはご勘弁を」
「知ってる? 鉄砲は堺の重要な機密で、霜台たちにさえ簡単には売らないくらいなの。当然、越後に売るなんて話は堺を支配する会合衆が承知しない。利に敏い堺商人が売り物にならない鉄砲の話題を自分から持ち出すなんで、なかなか信じられることではないわね。商人にとって情報は武器よ。自分から手の内を明かすような人間は堺ではやっていけないわ」
「……む」
正直、ここまで突っ込まれるとは思ってなかった俺は、一瞬言葉に詰まってしまう。
それを見た久秀は手をひらひらと振ってみせた。もう答えるには及ばない、と言うように。
「まあ、それはいいわ。あなたが鉄砲を知っていたという事実に違いはないわけだし、それだけで油断ならない人間だということはわかるもの」
「は、はあ、そうですか」
何と答えるべきかわからず、俺はあいまいにうなずく。
俺が鉄砲の存在を知った情報元を追及してくるかと思ったが、ずいぶんあっさり話題を終わらせたな。
今の一連の会話は何だったんだ、と内心で首をかしげる。
――と、次の瞬間、俺はいきなり久秀に胸倉をつかまれていた。
何事、と目を点にする俺に対し、久秀はずずいとねめ上げるように顔を寄せ――ものすごい良い匂いがした――口を開いた。
「そんなことよりッ!」
「ほぁ!?」
思わず奇声をあげる俺。
だが、久秀はこちらの動揺など知ったことかと言わんばかりにますます顔を寄せてきた。
久秀の秀麗な顔が目の前に迫り、唇と唇が触れ合わんばかりに近づく。香のかおりと女性特有の甘い匂いが混ざり合って鼻腔をくすぐる。
三度、唾を飲む羽目になった。
「あなた、あの朝倉の頑固者が持っている九十九髪茄子を見たってほんと!?」
「……が、頑固者? あ、ああ、宗滴殿のことですか。ええ、見ましたけど、それがなにくぉわッ!?」
襟首を掴む久秀の両手の力が一瞬で倍くらいになった。絞まってる、絞まってる。
「教えなさい! どんな形してた!? 色は!? 艶は!? 茶は何だったの味はどうだったのそもそも九十九髪茄子がどうしてあんな奴の手にあるのッ!!」
「ぐおおお、が、い、いや、そんな仔細に観察したわけではな……ぐ、ないので。き、綺麗な、茶器だな、とは、思いましたが……ッ」
「なんですってェ!?」
切れ切れの俺の答えを聞いて、怒髪天を衝く久秀。
どうでもいいが――いや、現在進行形で首を絞められている以上、どうでもよくはないんだが、とにかく人格変わりすぎてやしませんか、松永霜台殿?
あと、そろそろ手の力を緩めてくれると嬉しいデス。
「く、こんな物の価値もわからない奴が九十九髪茄子を目にするなんて――というか、師の遺品だからといって霜台が譲れといっても譲らず、貸すことはおろか見せることさえ拒んだくせに、なんでこんな奴らに――屈辱だわッ」
「なにかえらく失礼なことを、ぐ、言われてる気がするのですが……ッ」
久秀は呟いているだけのつもりなのだろうが、こうもすぐそばに顔があると、当然そんな呟きも全部耳に入ってしまうわけで。
おまけに、今の俺はほとんど久秀にのしかかられている状態なので、匂いやら感触やらがすごいことになっている。身体の一部が硬くなっていくのが分かった。
とりあえず襟から手を放してほしいのだが、いま下手に口を動かすとやぶへびだと勘が告げているので、ここは我慢する。
……決して、今の状態をもうすこし楽しみたいと思ったわけではない。思ったわけではない。
額に汗をにじませた俺が息苦しさに耐えていると、ようやく気持ちが落ち着いたのか、久秀が襟元を掴んでいた手を放してくれた。
ついでに今の状態にも気付いたようで、身体もささっとどかしてくれた。
そして、まるで何事もなかったかのような澄まし声でこんなことを仰った。
「霜台と取引しましょう、加倉相馬」
「は、はあ、取引とは?」
「あの頑固者が初対面の人間に九十九髪茄子を見せるということは、よほどあなたたちは気に入られた様子。その縁で九十九髪茄子を霜台に譲らせるの。もちろん代価はいくらでも払うわ」
「い、いや、しかしそれは……」
俺は宗滴の顔を思い浮かべる。
今きけば、あの茶器は宗滴の師の遺品なのだという。あの義理堅い宗滴が他者に譲ることを肯うとはとうてい思えなかった。
そんな俺の躊躇を見抜いたのか、久秀はさらに言葉を続ける。
「言うまでもなく、あなたにも相応の便宜をはかりましょう。上洛中の上杉、武田両軍への完璧な援助を約束するわ。幕府からは莫大な恩賞と栄誉が与えられるでしょうし、朝廷からも高位の官職を授かれるように取り計らうわ。もちろん、あなた個人に対してもかなうかぎりのものを授けましょう。何なら――」
そう言った瞬間、久秀の手がさっと俺の股間をかすめたのは……まあ、そういう意味なのだろう。
目を潤ませ、頬に朱をたたえた麗顔がすっと近づいてくる。
「どう? 悪い話ではないと思うけど」
「確かに、その見返りは魅力的ですね」
「なら――」
「しかし、お断りいたします」
きっぱりと言い切る俺に久秀は一瞬押し黙り、その目に胡乱な輝きを宿した。
じっとこちらを見て――いや、睨んでくる。
「何故、と訊いてもいい?」
「宗滴殿が師の遺品を、金品や地位を理由に譲るとは思えません。譲るように説得するのもしたくありません」
「……なるほど。少しは話が通じるかと思ったけど、主君が主君なら、配下も配下ということ?」
「あ、それは嬉しい評価ですね」
「褒めてないわよ。よくわかんないやつね、あなた」
ふん、と言いたげに顔をそむけた久秀は、すっくと立ち上がると挨拶もなしに背を向けた。
先刻は己の身体を見せ付けるような仕草を見せたが、今回は正真正銘お腹立ちのようで、そういった素振りは一切ない。
そのまま立ち去るかと思われた久秀だったが、不意に立ち止まると、顔だけをめぐらせて俺を見た。
「暇つぶしにはなったから、一つだけ土産を置いていくわ。洛中の大通りのすぐ東に鶴屋という遊女屋がある。霜台からの紹介といえば悪いようにはしないでしょう」
「……かたじけない」
「それと、そこにいる忍に、もう少し殺気をおさえるように言っておくことね。京の闇は越後よりもずっと深いわよ」
それだけ言うと、久秀は今度こそ俺の前から姿を消した。
俺は思わずはああ、と大きなため息を吐くと、無人の室内に声をかけた。
「だ、そうだ」
「――まだまだ修行不足のようです。申し訳ありません」
「段蔵が修行不足なら、俺はどう形容されるべきなんだろうな。それはともかく、どこまで本気だったと思う?」
俺の問いに答えが返るまで、わずかな間があった。
「……おそらく、ほとんど加倉様の人となりを知るための演技だったと思います。ただ、九十九髪茄子への執着は偽りには聞こえませんでした」
「ああ、段蔵もそう思ったか。えらい迫力だったからなあ。よっぽど茶器に目がないんだろう」
「そのようです。松永弾正といえど人の子ですか。ところで――」
「ん、どうした?」
やや段蔵の声の調子が変わったので、俺は注意深く聞き取るために耳をすませた。
だが。
「その茶器の話の後、いやに長い間くっついていましたね、久秀殿と」
「……キノセイダロウ」
「次の質問に他意はないので、正直にお答えください」
「……ナンデショウ?」
「もしかして、主様はあのような女性がお好みなのですか?」
「直截だな、おい」
「重要なことですので確認が必要です。主の好みを把握するのも臣下の勤めなれば」
「いや、臣下に女性の世話をしてもらうつもりはないんだが……あと、松永殿に反応してしまうのは男のサガみたいなものだ。やむをえない不可抗力で、あれに反応しないのは宇佐美殿くらいなんだ。わかったか?」
「主様が言わんとすることは理解しました」
……微妙に引っかかる物言いだが、まあ分かってくれたならいいや。
そんな風に段蔵と話し合っているうちにも京都の夜は更けていく。
さすがにそろそろ寝なければと思った俺は、ここでもう一人のことを思い出した。
「そういえば、弥太郎はどうしたんだ?」
「……あ」
おそらくは久秀に香薬でもかがされたのだろう。
すぴー、と健康そうな寝息をたてながら廊下で寝ている弥太郎が発見されたのは、それから間もなくのことであった。