第三十五話 久秀の訪問
京の都に足を踏み入れた俺が真っ先に感じたのは静けさであった。
京の人々が固唾を呑んで上洛軍を見守っている、というわけではない。単純に人の数が少ないのである。
上洛してきた地方軍の乱暴狼藉を恐れて、それぞれの家に引っ込んでいるのかと思いきや、そもそも家の数自体が少ない。
花洛――花の京都という言葉から連想される栄華も賑わいもそこには存在しなかった。
仕方ないといえば仕方ないことなのかもしれない。
京は地理の上からも政治の上からも権力と不可分の関係にある。権力をめぐる争いが起こるたびに騒乱の巷になり、焼き払われ、乱の後に再建されてはまた焼き払われ、を繰り返してきた。そんな状況で都市が繁栄できるはずもない。
今の京都の規模は往時――足利幕府の最盛期の十分の一にも達しないと言われているそうだ。
冷静に考えてみれば、三好家の傀儡となっている将軍家の御膝元が殷賑を極めているわけがない。
京都という言葉のイメージに惑わされ、何の疑問もなく富み栄えた都だと思い込んでいた自分に苦笑がわく。
ただ、さすがというか何というか、中心部に近づくに連れて町並みは少しずつ華やかになっていった。物陰や家の窓から上洛軍をのぞいている町人の姿も見て取れる。
三好家の庇護の賜物か、あるいは将軍家の努力の結晶か。
いずれにせよ、上洛軍はこの光景を少しでも広める手助けをしなければならない。間違っても彼らを戦火にさらすような真似をしてはならなかった。
室町御所。
将軍足利義輝が起居する御殿は深い堀に囲まれ、幅広の木橋が内と外とを繋いでいた。
入口は清潔に掃き清められ、御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっている。幕臣や公家の乗り物であろう。
庭には杉や松、あるいは珍しい果物の木々が植えられており、植え込みも含めて丁寧に手入れされている様子がうかがえる。
建物も真新しく清潔で、建材につかわれた檜の香りが漂ってくるような気がした。
将軍の住居としては申し分ないだろう。
だが、だからこそ不自然さがぬぐえない。現在の京の町と明らかに釣り合っていないのである。
城だけが立派で城下町はみすぼらしいというのは、典型的な暗君の所業ではあるまいか。
まあ、仮にも将軍の住居なのだし、公家や諸国の大名、その使者が訪れる場所でもある。真っ先にここに金をかけるのも分からないではない。御所がぼろぼろのままでは諸国の大名にも侮られてしまうだろうしな。
と、そんなことを考えていた時だった。
不意に風向きが変わり、俺は顔をしかめた。
遠く洛外から吹き付けてくる風に、今まで嗅いだことのない異臭を感じたからである。
「……なんだ?」
何かが腐ったような生臭さ。なぜか悪寒が背筋を貫くのを感じた俺は、風が吹いてきた方向を見やるが、そちらには京の町が広がるばかり。おかしな点は何も見当たらない。
ふと気付いてまわりを見れば、俺と同じように異臭に気付いた者たちがそこかしこで顔をしかめている。俺の気のせいというわけではなさそうだ。
その時、俺を呼ぶ弥太郎の声が聞こえたので、俺はそちらに意識を向けた。
しばらくすると風向きが変わり、それに応じて臭いも消える。ほとんどの人はそれで異臭のことを忘れただろう。
だが、何故かこの出来事は俺の脳裏に刻まれ、しばらく離れようとはしなかった。
◆◆
とりあえず、将軍の第一印象は――
「小さい……」
「可愛い……」
「こら、何を言っておるのだ、二人とも! 将軍殿下を前に小さいだの可愛いだのと!」
順番に俺、豊弘、景綱の発言である。
聞こえないように小さく呟いた俺や豊弘と異なり、景綱の声は間違いなく将軍の耳に届いたであろう。
その証拠に、謁見の間に現れた将軍はひくひくと口元を震わせている。
俺と豊弘がじとっとした目で景綱を見ると、景綱は怯んだように視線をそらした。
「わ、私のせい、なのか……?」
同時に頷く俺と豊弘。
向こうではいかにも不機嫌ですと言わんばかりに乱暴に腰を下した将軍が、景虎様にひきつった声で話しかけていた。
「……景虎、そち、愉快な部下を持っておるのう」
「は、その……大変失礼いたしました。なにとぞご寛恕を賜りますよう、伏してお願い申し上げます」
景虎様が困惑もあらわに頭を下げ、顔を蒼白にした景綱がそれにならう。
俺も豊弘も深々と頭を下げた。
それを見た将軍はふんと鼻で荒い息を吐く。
「本来ならば余への侮辱とみなし、天誅を加えてくれるところじゃが――」
ここで将軍は不機嫌に彩られた声音を一変させた。
からっとした笑い声が広間に響く。
「遠く越後よりはるばる参ったそなたらにそのような真似をすれば、将軍たるの器量を疑われよう。此度はさし許す! 感謝せいよ、はっはっは!」
その言葉に俺、豊弘、景綱は同時に安堵の息を吐き出した。たぶん、向こうで景虎様も同じ息を吐いていたことだろう。
次いで将軍は凛とした声で、上洛軍を率いてきた二人の武将の名を呼んだ。
「長尾景虎ッ」
「ははッ!」
「春日虎綱ッ」
「はッ!」
「此度の上洛、まことに大儀! 上杉、武田両家の篤き忠誠、この足利義輝、決して忘れぬ!」
これを受け、最初に口を開いたのは景虎様だった。
「ありがたき幸せ。この景虎、主君定実の名代として殿下の手となり足となり、将軍家に仇なす者どもを平らげる所存にございます!」
次いで虎綱が口を開く。
「ありがたき幸せに存じます。我が主 武田晴信に成り代わり、京にて将軍殿下の御為に懸命に働く所存。なにとぞご信頼あって、諸事、御命じ下さいますよう」
上杉家と武田家の代表者が深々と頭を垂れ、背後に控えていた家臣たちもそれにならう。
足利義輝との初お目見えは、初手でつまづきかけたことを除けば、十分に成功だったといえるだろう。
もちろんこれで終わりではない。予定ではこの後、御所での催しやら宴やらが目白押しになっている。
一連の歓迎行事は一日二日では終わらないだろう。
この行き届いた準備は細川藤孝、松永久秀らの手になるもので、どうやら俺たちを洛外で待たせている間、こちらの準備も並行して進めていたようだ。
困ったのは俺である。
京に来れば御所との折衝や公家との付き合いも必要になる。宴に出ることだって重要な任務であろう。
だが、芸術だの教養だの礼儀作法だのといった方面に関して、俺は無知もいいところだ。
公家たちはそういった作法、典礼に通じており、武家にそれらを指導して金をとったりしていると聞く。そんな彼らの前に無知無教養な俺が出て行けばどうなるかは火を見るより明らかであろう。
越前では宗滴のおかげで俺の無教養が問題にされることはなかったが、京ではそうはいくまい。だれぞに習うにしても、付け焼刃が本職の公家たちに通じるとは思えない。
俺が恥をかくだけならともかく、俺がしくじる度に越後上杉家の格が下がっていくのだ。
せんずるところ、取れる方法は一つしかない。
「三十六計、逃げるが上策なり、というわけだ」
かくて、俺の姿は洛中に滞陣している上杉軍に移っていた。
もちろん、ただ逃げ出したわけではない。景虎様、景綱、定満ら指揮官たちが軒並み御所に入ってしまったため、残った軍勢を率いる者が必要だったのである。
上杉にせよ武田にせよ、軍紀は厳正に保たれており、指揮官が不在だからといって乱暴狼藉にはしるような輩はいない(と思う)が、なにしろここは京の都、甲信越の田舎とは誘惑の数も質も違う。しっかりとその辺を引き締めておく必要があった。
問題は、肝心の俺が誘惑に負けたらどうしようか、という点であったが――
「その時は弥太郎に力ずくで引き戻してもらいますので」
「がんばりますッ」
段蔵と弥太郎の二人がいるので、そちらの心配もなさそうであった。
「とはいえ、あれも禁止、これも禁止では士気にかかわるからな」
夜半。
三好家にあてがわれた邸の一室で、俺は今後の対応を考えていた。
上杉軍は五千、武田軍も含めれば八千の大軍である。その全員に目配りするなど不可能だ。
戦らしい戦こそなかったが、越後や甲斐の地からはるばる京まで命がけの行軍を続けてきた者たちが、ようやくたどり着いた都でくつろぎたい――露骨に言えば、京の綺麗な女性を抱きたいと考えるのは自然な流れだろう。
それを軍紀で無理やり押さえつければ、かならず不満が噴出する。
京にとどまるのが一日二日であればともかく、これからどれだけ滞在するかも判然としていない。おそらくは数ヶ月間の長きに渡るに違いなく、その間ずっと性欲を断ち切って過ごせというのは無理な話に違いなかった。
ゆえに、適度に発散させる必要が出てくる。そして、このあたりの手配はやはり男である俺の仕事であろう。
兵たちの乱暴狼藉が一件でも発生すれば美名はたちまち醜名に変じる。この件は早急に動く必要があった。
それに、と俺は頭上を見上げる。
俺はこうやって屋根の下でゆっくりと休めるが、上洛軍の大半は外で夜営を余儀なくされている。恵まれている者でも、寺の講堂あたりで雑魚寝である。これも早急に対策を考えないと不満の種になるだろう。
他にも、八千人の軍兵が異国の地でひしめきあって暮らす以上、水の確保、食料の調達、糞尿の処理だっておろそかにできない。
やるべきことは山積みだ。
特に注意すべきは、上洛軍、京の民衆、共に不安を抱えているこの時期に謀略を仕掛けられることである。
たとえば民衆のふりをして上洛軍を挑発したり、あるいは上洛軍に成りすまして民衆に乱暴を働いたり。
上洛軍を邪魔に思う者は今の畿内に掃いて捨てるほどいる。そういった者たちの蠢動も未然に防がなければならなかった。
段蔵に頼んで軒猿に動いてもらってはいるが、軒猿はこの上洛行でもっとも働いてもらっている者たちなので、あまり無茶は頼めないしなあ……
「誰か京に詳しい人に協力してもらうのが一番なんだが……」
できれば三好松永の徒から一定の距離を置いていて、なおかつ上杉武田に好意的な人材。
そんな人はいないだろうかと首をひねった俺は、すぐに苦笑した。
「そんな都合の良い人材がほいほい見つかるわけもないか。なんとか自分たちの手でこなさないとな」
俺がついそんなぼやきをもらした、その時だった。
「あら、もう諦めちゃうの? せっかく協力してあげようと思ったのに、ざーんねん」
「なに!?」
襖のすぐ外から聞こえてくる甘い声。とっさに懐から鉄扇を取り出し、勢いよく襖を開け放つ。
今の今までそこに人の気配はなかった。襖に人影は映っていなかった。それは断言できる。
だというのに、今、降り注ぐ月光は俺のすぐ近くの畳に細い人影を映し出している。
俺の視界に立ち、その影を作り出している人物は――
「松永、久秀殿……」
「こんばんは、上杉の軍師さん。今宵は綺麗な月よ。部屋に閉じこもっているのはもったいないわ」
そう言って、三好家の屋台骨を支える稀代の謀将はくすりと微笑んだ。
その瞳の奥に怜悧な意思をのぞかせながら……




