第三十三話 越前の影
しんと静まり返った室内に茶を立てる音が心地よく響く。
景虎様はじめ景綱や虎綱、それに富樫豊弘らは落ち着いた面持ちで部屋の主の作法に見入っていた。
誰の顔にも感嘆の色がうかがえる。皆それぞれに教養を修めた者たちだが、そんな彼らの目から見ても部屋の主――朝倉宗滴の茶の手並みは見事の一語に尽きるのだろう。
もっとも。
皆が皆、宗滴の手並みに見惚れていたわけではない。
茶の湯の作法なんて欠片も知らない俺は内心で慌てまくっていた。
あれか、飲む前に茶碗を三回、まわすんだっけ? 右にか、左にか、そもそも三回で合っていたっけ??
越後にいた時にも茶を飲むことはしばしばあったが、こういった格式ばった茶道を体験したことはなかった。
当然、そのための作法を学んだこともない。元の世界で茶道をやっていたという事実もない。
年わかい豊弘さえ当然のように作法をわきまえているというのに、俺ひとりがド素人。
かくて俺は、下座に座りながら、だらだらと汗を流す羽目になっていた。
そして、そんな不審な客の様子に主である宗滴が気付かないはずもなく――
「――加倉殿」
「は、はいッ!?」
かくなるうえは景虎様たちの様子を仔細に観察し、それを真似るしかあるまいと覚悟を決めたところに名指しで呼ばれ、俺は不自然に声を高めてしまった。
一瞬で周囲から視線が集中し、俺はますます汗だくになってしまう。
「冬の近づく今、茶室は冷える。そのために暖をとっておいたのだが、いささか過ぎたようです。申し訳ない」
「い、いえ、結構なお手前――ではない、暖かさはちょうどよろしいかと存じます、はい」
「そうですか? しかし、さきほどから幾度も汗を拭われているようにお見受けするが……」
「や、それは、ですね――」
なんと誤魔化そうかと思案したが、宗滴の深みのある眼差しにじっと見つめられると、そういった誤魔化しがとても失礼なことのように思えてしまい、俺は言葉に詰まった。
そもそも、なんで義景が当主のこの時代に宗滴がこんな若いのか。若く見える、というわけではなく本当に若いらしい。
景虎様と同年だとか。つまりは俺とほぼ同年齢。
聞けば朝倉家の先代は宗滴を次期当主とする心積もりであったらしい。だが、先代が亡くなったとき、宗滴はわずか四歳。これでは当主の重任に耐えうるはずがないとて、今代の義景が後を継いだという。
その後、寺にあずけられたのは、後々、後継者争いの火種になることを恐れられたからであろう。
俺が知る歴史と、この世界の歴史に様々な差異があることは承知している。景虎様たちの性別はもちろん、年齢だってそうだ。
その意味では宗滴の生まれ年がずれているのも不思議ではないのだが、まるまる一世代分となるとずいぶん大きな変化である。
宗滴がこの若さで朝倉家にいるということは、今後の朝倉家及び近畿の展開がかなり違ってくるのではあるまいか。
実際の歴史では、宗滴は亡くなる間際に「もう三年生きて織田上総介(信長)の行く末を見届けたい」と言ったそうだが、この分ならばっちり見届けられそうである。それどころか合戦で真っ向からぶつかるかもしれない。
そういえば、今さらだが信長って今ごろ何してるんだろうか。ここまで人物や展開が違ってくると、桶狭間が起きない歴史なんていうのも起こり得るのかもしれない。
京にいる間に尾張方面の情報も仕入れておくか。
それはさておき、例によって例のごとく宗滴は女性だった。
これはもういまさらなんで気にならん。それもどんなものかと思うのだが、慣れだな、きっと。
実のところ、上洛軍の前にはじめて姿を見せた宗滴は凛々しい甲冑姿であり、髪も短く刈り上げていたので、随分綺麗な男だなとしか思っていなかった。
しかし、名前を聞いて驚き、さらに甲冑を脱いだ姿を見てさらに驚いた。若草色の清楚な衣服から、女性らしい身体の丸みがはっきり確認できたからである。
言葉を飾らずに言うと、宗滴はとてもスタイルの良い人だった――自分で言っててなんだが、ものすごい違和感を覚える言葉である。それでも事実なんだから仕方ない。
宗滴というと、俺の中では上野の長野業正と並ぶ戦国老将の双璧なのだが、その宗滴が切れ長の眼差しが印象的な美人さんだとか、一体どうなっているのやら。
……まさかとは思うが、長野業正も若い美人だったりするのだろうか。あなおそろしや。
「――おい、相馬、何をぼうっとしているッ」
景綱の低く抑えた声にはっと我に返る俺。見れば宗滴はいまだにじっと俺の様子をうかがっている。
いかんいかん、現実逃避の思考にふけっている場合ではなかった。
俺は慌てて宗滴に頭を下げる。
「実のところ」
「うむ?」
「……作法がわからないので、焦っていただけです」
誤魔化したところで、どうせすぐにぼろが出るだけだから、と正直に話す。
最初からそうしておけば良かったと思わないでもない。
唐突な俺の告白を聞き、景綱が思わず、といった感じで声を高めた。
「な、なに、そうなのか!?」
「はあ、そうなのです、直江殿」
「ば、ばか者、それならそうと何故言わん!? 茶と歌は武人の嗜みだぞ。景虎様に仕える身が知らんではすまされん。知らないのならば、先に教えておいたものをッ」
「い、いや、越後でそういった機会がなかったもので。こういう場があるとは……」
「そういえば、相馬はそういった席には無縁だったな。てっきり晴景様から教えをうけているものとばかり思っていたが……」
呟くように言う景綱。きけば晴景様はその道にかなり秀でていたらしい。
それも知らなかったなあ。
むろん俺はそういった教えを受けたことは一度もないし、茶の席に呼ばれたこともない。そもそも晴景様がそういう席を設けていた記憶もない。
たぶん、あの頃の晴景様は茶の湯どころではなかったのだろう。
ともあれ、俺は宗滴に作法もわきまえず茶席に顔を出した無礼を詫びた。
すると、宗滴は小さくかぶりを振ってみせる。
「茶の湯などと言っても、私のそれは道を云々するものではない。くつろいで喫していただければ、喜びこれにすぐるはなし。かしこまる必要はござらぬ、加倉殿」
「恐縮です」
そう言ってあからさまにほっとする俺を見て、宗滴は口の端に笑みを浮かべた。
景綱はどこか呆れたように、虎綱や豊弘は口元を手で押さえて笑いを堪えている。
そして、景虎様は――
「相馬は幸せ者だぞ。はじめての茶で九十九髪茄子が用いられるのだから」
「九十九髪茄子?」
「天下に名高い茶器のことだ。正直なところ、さきほどから眼が離せぬ」
そう言って景虎様が見つめる先には、茶を入れるための容器らしきものが置かれていた。
漆塗りの胴体部が室内の微細な灯火を映しだし、陰影に富んだ色彩を見せている。
綺麗だな、と思ったがそれだけだ。
俺にこの手の物の善し悪しなぞわかるはずもない。景虎様の言葉がなければ、何の変哲もない小型の壷にしか見えなかっただろう。そういえば、松永久秀が抱えて爆死したというのはこれだったかな……あ、いや、あれは平蜘蛛だった。
そんなことを考えながら、俺は宗滴が点ててくれた茶を助言どおり肩肘はらずに飲んだ。
いちおう景虎様たちの真似をして、右手で茶碗を抱え、左手に乗せ、軽くおしいただいた後、ふところまわし(時計まわり)に二度まわし――などという作法を不器用になぞりはしたが、はたからみるとずいぶん滑稽な動きだったに違いない。
景綱が厳しい顔をしていたので、あとでこってり叩き込まれることになるかもしんない。
俺たちは上洛を急ぐ身であり、朝倉家は上洛に参加しないことを明言している。
それゆえ、本来なら越前でのんびりとしているのは双方にとって好ましくないのだが、宗滴の人柄が俺たちをこの地に惹き付けた。
決して多弁な人ではないし、表情が豊かというわけでもないのだが、何故かこの人の傍らにいると落ち着くのである。
武将としての宗滴は厳しい軍紀で将兵をまとめあげ、自ら陣頭に立って敵軍を蹴散らす勇猛果敢な将であるとのことだが、平常の宗滴からそういった戦働きを連想することは、なかなかに困難なことであった。
誰かに似ている――などと考える必要もない。
宗滴は景虎様ととても良く似ていた。容姿ではなく在り方そのものが。
俺たちが居心地の良さを感じるのも当然といえば当然のことであった。
ただ、似た人柄であっても反発し合う人たちはいる。同族嫌悪などという言葉もあること、己に似ているからこそ気に食わないという相手は存在するものだ。
実際、俺が加賀で殺した小僧に抱いた感情もこれに似ていた。
そんなわけで景虎様と宗滴の二人が意気投合するとは限らなかったのだが、幸いにもこの二人に関して同族嫌悪は当てはまらなかった。
あまり口数の多い二人ではないから、延々と語り合ったりするわけではないが、交わす言葉ははっきりと親しげである。
互いに通じるものがあるのだろう。今は武将らしく戦談義に花を咲かせており、その様子は昨日今日はじめて会ったとは思えないほどに楽しげであった。
流れで俺も宗滴と幾つか言葉を交わしたのだが、その中で宗滴が興味を示したのが越後内乱において俺がとった戦い方である。
VS景虎様のあれだ。
「楚漢戦争か……加倉殿は大陸の史書兵書を嗜まれるのか?」
「読んだ物もある、という程度です。それにしたところで六韜三略、四書五経を読破したわけではないので、誇れるようなものではありませんが」
「運用の妙は一心に存すという。兵書をどれだけ読もうとも、掴めぬ者は何も掴めぬ。しかし、そなたは感得するものがあったのだろう」
宗滴は覗き込むように俺をじっと見つめる。
眼をそらすこともならず、しばし見詰め合う俺と宗滴。やがて、宗滴はゆっくりと視線をはずし、景虎様に向き直ってどこかしみじみとした調子で口を開いた。
「景虎様は良い臣を持たれた。羨ましく存ずる」
「宗滴殿ほどの方に、我が臣をそこまで高く評価していただけるとは光栄です」
景虎様は俺の方を向き、茶目っ気まじりに片目をつぶってみせる。
「相馬、大変な栄誉だぞ。これで無様な指揮をしようものなら、宗滴殿の言を否定することに繋がってしまうからな。さあ、大変だ」
「……景虎様、なんか面白がってませんか?」
「さて、何のことやら」
明らかに楽しそうな表情を浮かべている景虎様。たぶん俺がほめられたのを喜んでくれているのだろう。
見れば、宗滴も穏やかな視線を俺に注いでいる。
上杉謙信と朝倉宗滴にそろって褒められるとか、なんですか、このこっぱずかしいシチュエーション。
俺は妙な気恥ずかしさをおぼえ、視線をあさっての方向にそらすことしかできなかった。
その後、上洛軍は宗滴に案内されて越前の国を通過した。
道中の宗滴は諸事に疎漏を見せず、周辺領主とも密に連絡をとって上洛軍を先導。
越前は山がちな地形が多く、野武士山賊のたぐいが物資を襲ってくる恐れもあったのだが、宗滴が睨みを利かせてくれたおかげで山賊のさの字も見かけなかった。
あの段蔵が暇を持て余していたという一事で宗滴の完璧なエスコートっぷりが分かるだろう。
上洛軍が越前と北近江の国境に到着したとき、そこには宗滴から連絡を受けた浅井の青年当主長政の姿があった。
浅井家は朝倉家と同様、上洛軍には参加しないと決していたが、それは義景のように戦に飽いたという理由ではなく、南近江を領有する六角家との対立が激化していることが原因であるらしい。
とはいえ、上洛軍の邪魔をする意思はなく、当主みずから足を運んだということだった。
これにより上洛軍は越中、加賀、越前に続き、北近江をも無傷で通過。
一路、山城(京)へと向かったのである。
◆◆◆
「くそ! まったく隙がねえッ」
越前と北近江の国境、その山すそから去り行く上洛軍を見やって歯噛みしているのは富田長繁である。
義景の命令によって上洛軍参加の希望を絶たれた長繁は諦めていなかった。
たしかに朝倉の軍籍で参加することは不可能となったが、朝倉家を辞して長繁個人として上洛軍に加わることは可能なのである。
朝倉家での栄達を望んでいた長繁であるが、戦を遠ざけるようになった家では武勲のたてようがなく、出世もおぼつかない。
それならば将軍義輝の下で自分の武勇をふるうのも悪くない。長繁の才を認めるならば武田、上杉といった辺境の大名に仕えるのもやぶさかではなかった。
とはいえ、仮にも朝倉家で足軽大将にまで出世したのだ。また一介の足軽に戻るつもりはなかった。
それでは手柄をあげたとてたかが知れている。
そのため、長繁は野武士や山賊、はては一向宗まで扇動して上洛軍を襲わせようと考えた。
上洛軍は将軍家や公家朝廷に献上するための贈り物を持参するのが常である。
これだけの規模の上洛軍を組織できる大名だ。贈り物も相当な額にのぼるだろう――そうささやけば欲深い者たちは簡単にその気になる。
一向宗に対しては、ここで上洛軍を襲撃することで朝倉家を苦境に追いやることができる、と訴えた。領内を通過中の上洛軍が野盗や一揆勢に攻撃されれば、越前を治めている朝倉家の評判は地におちる。守護としての役割を果たせていないことになるからだ。
あるいは、朝倉軍の軍装を用いて襲撃の罪そのものをなすりつけてもよい。
朝倉家は加賀の地をめぐって一向宗と対立を続けている。
長繁は朝倉の失墜を望む一向宗の心理を巧妙に突いて、彼らを使嗾することに成功する。
そうして彼らが上洛軍に襲いかかったとき、長繁は颯爽と駆けつけて上洛軍の危機を救うのである。
上洛軍は長繁の武勇を認め、重用するに違いなかった。
野盗や一向宗が長繁の関与を訴えても問題ない。そんなものは引かれ者の小唄だと笑い飛ばすだけだ。証拠となる物を残さなければいくらでも言いぬけることはできるはずであった。
……だが、この長繁の策謀は未発に終わる。
上洛軍を先導する朝倉宗滴が完璧な警戒態勢をしき、野盗や一揆に近づく隙を与えなかったからである。
長繁としては腹立たしいことこの上なかったが、無理に決行しても返り討ちにあうだけだ。それでは長繁の武勇が目立たない。
長繁は上洛軍が越前を出るまで待つことにした。
上洛軍が北近江に入れば宗滴は加賀国境に戻るだろう。襲撃の機会は増えるに違いない。
問題は、北近江に入ってしまうと、長繁が上洛軍の危機に駆けつける行為が不自然になってしまうことだが、将軍のためにひそかに上洛軍を護衛したとでも言えば理屈はつけられる。
そう考えていた長繁が見たのは、国境で待機する浅井の軍勢であった。
すべてが宗滴の指図だと察した長繁は、たまらず罵声を発した。
「宗滴め、余計なことばかりしやがって!」
憤然と地面を蹴りつける長繁だったが、これはもう仕方ないと諦めるしかなかった。
今しばらく朝倉家に留まり、次の機会をうかがうしかあるまいと判断する。
おさまりがつかなかったのは、長繁に扇動された野武士や一揆勢だ。
無駄足を踏まされた彼らは長繁に詰め寄るが、これに対して長繁は刃で応じた。
「がはッ!?」
「きさ、ぐぉあ!?」
「ひ、やめ……ああああああッ!!」
あわせれば三十人を超えていた野武士たちを、長繁は瞬く間に屍に変えていく。
彼らを生かしておけば陰謀が露見する。もとより長繁はこの者たちを生かして帰すつもりはなかった。
長繁の武勇は樊噲にたとえられるほどのものだ。そこらの野盗や一向宗が手向かいできるものではない。
草を刈り倒すがごとく死者を量産していく長繁を見て、生き残った者たちは悲鳴をあげて逃げ散ろうとするが、それを見逃す長繁ではない。
わずか四半刻(三十分)。
それが事を終わらせるのに長繁が要した時間であった。思ったより時間がかかったのは、山中に逃がれた者たちを討ち取るのに手間取ったためである。
最後に殺した者の服で刀についた血をぬぐった長繁は、口惜しげに地面を蹴りながら口を開いた。
「今回は仕方ない。だが、いずれ必ず富田長繁の名を天下に知らしめてやる。一城の主に――いや、越前一国の主に成り上がってやる。必ず、必ずだ!」
吼える長繁の言葉を聞くのは山の木々と物言わぬ死者のみ。
後に越前全土を血まみれの地獄に引きずり込む男は、煮えたぎる野心を抱えながら帰路を急ぐのだった。