第三十二話 加賀を越えて
富樫豊弘は加賀からの援軍として上洛軍に迎えられた。
まあ援軍といっても兵の一名、小姓の一人も従えない参陣であるから象徴以上の意味を持たない。
当然のように発言権はゼロに等しかったが、そもそも豊弘に発言する意思がないのでこちらも問題にはならなかった。
豊弘の境遇については伏せてあるが、さすがに景虎様には真実を報告してある。
全てを聞き終えた景虎様の顔には、あからさまではないにせよ、怒りの色が浮かんでいた。憶測を交えずに事実だけを申し上げたのだが、聡い景虎様は豊弘を取り巻く境遇の惨さに気付いたらしい。
寺育ちという自分と似た境遇も手伝ったのか、なにくれとなく豊弘を気にかけ、豊弘の方も緊張しつつも景虎様に懐いている風である。
そんな二人の姿を見て、直江景綱が複雑そうな表情を浮かべていたのは――景綱は豊弘が女性であることを知らない――たぶん笑い話に類することであろう。
上杉軍で起居するようになった豊弘は弥太郎や段蔵とも仲が良い。おそらく、窮地を救われたからであろう。
ただ、俺に対しては明らかに警戒しているというか、緊張しているというか、とにかく隔意があるのがうかがえる。
いちおう俺も窮地を救った一人なのだが、ううむ、男だからなのかな。
それにしては弥太郎段蔵以外の部下(みんな男)とは笑顔で話してるんだけど。謎だ。
ともあれ、上洛軍における豊弘の立場は安定したといっていい。
問題は寺小僧二人についてである。件の重臣、駒井何とやらが予想外に噛み付いてきたのだ。
死んだ小僧のことを思って、というわけではなく、駒井一族に逆らった者の存在が許せなかったらしい。
それで調べてみれば、一族を成敗したのは上洛軍の俺であり、それも豊弘を迎えに行った矢先の出来事。
これではさすがに何かあると感づかれても仕方ない。もしかしたら、富樫晴貞が上洛軍と示し合わせて重臣たちを粛清しようとしているのではないか――そんな疑心暗鬼にとらわれたのかもしれない。
これに対して俺は相手の頬を札束で殴ることで解決した。
正確にいえば金と銀の延べ棒で。
景虎様に頼んで軍資金の一部を融通してもらい、それを駒井某の屋敷に積み上げたのである。
そのときの景虎様とのやりとりはこんな感じだった。
『それで、どうするつもりなのだ?』
『どうする、とは?』
『駒井とやらの動きはわかった。相馬のことだ、報告して私の指示を仰ぐ――などと悠長な真似はすまい。どう動けばよいか、すでに考えてあるのだろう?』
『えーと……わかりますか?』
『わからいでか』
そう言うと景虎様はくすりと笑う。えもいわれぬ香気が鼻をくすぐった。
『相馬は自分がいつもとかわらないと思っているようだが、言葉の端々に怒りが滲み出ているからな。むろん私とて豊弘殿の苦難を見過ごしにするつもりはない。ただ――』
わずかに言いよどむ様子を見せた景虎様に対し、俺は心得たように頷いた。
『承知しております。上洛に支障をきたすような真似はいたしません。上洛軍の兵力を損じることもないでしょう。ただ、荷駄に山と積まれた金銀の一部を使わせていただきたいのです』
俺の案を聞いた景虎様は迷う様子もなく首を縦に振った。
『わかった。すぐに伝えておこう。必要な分だけ持っていくがいい』
ただし、と景虎様は付け加える。
『景綱と定満にはきちんと話を通しておいてくれ。特に景綱だな。黙って事を進めると、また私が怒られる。景虎様は相馬に甘い、とな』
『か、かしこまりました』
その後、二人の陣を訪れた俺は、二人の許可を得た上で佐渡の黄金、銀塊を用いて駒井を説き伏せたのである。
まあ、肝心の駒井は金銀を見た時点で両目を『¥』マークにしていたので、説き伏せるまでもなかったのだけど。
なお、事は上洛軍全体に関わるので武田軍の承認も必要になる。
俺は武田の陣営に赴き、そこで虎綱と話し合って豊弘様の件の了承を得た。
その際、虎綱は黒の双眸に思慮深い光を称えて俺に言った。
『――豊弘様が上洛軍に加わることに関して異存はありません。それにしても、加賀における一向宗の勢威は聞きしに優りますね。国主たる身がわが子を養いかねるほど困窮しているとは』
『そうですね。晴貞様はこれから大変でしょう。だからこそ、豊弘様を外に出すことにしたのかもしれません』
『現状に満足しておらず、けれど常道では形勢を覆すことは難しい。残された道は乱のみ。けれど、わが子を養えない者がどうして兵を養えましょうか。結果は火を見るより明らかです』
涼しげな顔で厳しい分析を述べる虎綱。
俺は答えあぐねて頬を掻いた。
『さて、それに関してそれがしは何とも……なにぶんすべて推測になってしまいますから』
『ふふ、そうですね。けれど一つ、いえ、二つ、はっきりといえることがあります。今、富樫晴貞様の立場は累卵の危うきにあるということ。そして晴貞様が一向宗の手にかかったとき、豊弘様の身柄を握る勢力は加賀に攻め入る――いえ、一向宗と戦う大義名分を得るということ。将軍家が任じた国主を非道にも討ち果たした一向宗、その無法を正すべく兵を挙げる! そう唱えれば参集する勢力は少なくないでしょう。旗頭が晴貞様の遺児である豊弘様であればなおのこと……』
そう言って虎綱は俺の目をのぞきこんできた。
きらめくような明眸が目の前にある。俺はその眼差しを正面から見返し、小さく肩をすくめた。
『机上の戦略としては面白いかもしれませんが、春日殿も尾山御坊の偉容はごらんになったでしょう。あの城を築いた一向宗相手に戦いを挑むなど亡国の行いというもの。なにより豊弘様は三男ですよ。春日殿の言うような戦略を胸に秘めている者が仮にいたとしたら、その者は晴貞様に対して三男ではなく長男を従軍させるように願ったはず。ですが、それを望んだ者はいない。つまり、豊弘様の身柄を一向宗との戦で利用しようと企む不届き者は、上洛軍の中には一人もいないということです』
それを聞いた虎綱はふっと眼差しを和らげた後、めずらしく悪戯っぽい笑みを浮かべた。
『御館様が恐れるほどの智者がそう言って下さるなら安心できます』
『……誰が、誰を、何ですって?』
『御館様が、加倉様を、恐れている、です』
『ありえん』
つい素で返してしまい、慌てて言いつくろう。
『あ、いや、失礼しました。ですが、それはありえないでしょう。あの晴信様が俺ごときを。景虎様を恐れるというのならわかりますが』
『ん、そうですね。正確に言えば、景虎様の下にいる加倉様を、ということになりましょうか。越後の蛟が雲を得てしまったのかもしれない。そう仰っておられました』
『蛟竜雲雨ですか。晴信様に評価していただけるのは嬉しいですが、それがし、雲は雲でも竜を昇らせる雲ではなく、竜に従う雲の一片に過ぎません。春日様をはじめ、山県様に馬場様、内藤様等、無数の風を引き連れて走る虎が気にかける価値などありますまい』
『雲は竜に従い、風は虎に従う。易経の一説をたやすく諳んじる方が雲の一片に過ぎぬのであれば、ますます越後上杉家は侮れぬと御館様はお考えになるはずです』
少なくとも、私は今、その考えを新たにしました。
そう言って春日虎綱はしずかに微笑んだ。
◆◆◆
越前 一乗谷城。
「では、義景様は上洛には加わらないと仰せでございますか!?」
一乗谷の軍議の間に響き渡った声は富田長繁のものだった。
上杉、武田、さらには加賀の冨樫の軍が加わったと噂される上洛軍。
将軍足利義輝は北陸各地の大名に対し、上洛軍を通過させるよう命じると同時に積極的な参加を促してもいた。
朝倉家に仕える長繁にとっては武名を高める絶好の機会到来である。
ここで活躍すれば一城の主となることも夢ではない――そんな夢想に浸って上洛軍の到来を待ちわびていた長繁にとって、上洛不参加という義景の決断はとうてい納得できるものではなかった。
目をいからせて憤慨する長繁の顔は激情に満ち、今にも謀反を起こさんとしているかのような凶悪な面相があらわれる。到底主君に向ける顔ではなく、態度でもない。
実際、義景のそばに座した重臣の朝倉景鏡などは顔をしかめて長繁を睨んでいたが、当の義景は柳のような態度で長繁の激情を受け流し、どこかのほほんとした調子で応じた。
「うむ、戦は飽いた。北近江の浅井もようよう国内を統一したようじゃし、これで当面の敵は加賀の一向宗のみじゃ。そちらは宗滴に一任しておるゆえ問題あるまい。ようやっと越前の地から戦火が遠ざかったのじゃ。あえて将軍の誘いに乗って、火中の栗を拾うには及ぶまいぞ」
「しかし! 将軍の上意を拒絶なされば、当家の武名は地に落ちてしまいます!」
長繁は何とか主君を翻意させようと言い募るが、義景は顔色一つかえずに首を振るばかり。
さらに言葉を続けようとした長繁に対し、堪忍袋の緒が切れた景鏡が叱声を放った。
「たわけ! 黙って聞いておれば足軽大将ごときがいつまでもぐずぐずと。いったい何様のつもりか、長繁! 貴様ごとき若造が当主に異議を唱えるなぞ百年早いわ!」
景鏡は朝倉家の一門衆筆頭であり、主君義景に次ぐ権力者。
対する長繁は景鏡の言うとおり足軽大将に過ぎない。その武勇は古の樊噲と並び称されるほどで、だからこそ十代半ばの長繁が軍議に参列することが出来ているのだが、どれだけ武勇に秀でていようと、軍議においてはまだまだ若輩者の域を出ていなかった。
「しかし!」
「黙れ! 十四、五の小僧が足軽大将の地位にあるは殿のお引き立てあってのこと。そうでなければ貴様なぞこの場にいることすらできんのだ! 戦場で暴れることしか知らぬ無学者の意見なぞ誰も求めておらん。大人しく末席で控えておれィ!」
「ぐ……!」
景鏡の傍若無人な言い様に長繁は真っ赤になった。その顔は険悪に歪み、手が腰のあたりをさまよう。
もし大小を差していたら間違いなく抜いていたであろう。
それを見て景鏡が再度吐き捨てる。
「ち、狂犬めがッ」
「これ、景鏡、言いすぎじゃぞ」
「は……しかし、義景様」
「よいよい。大人しく学問に打ち込む長繁など長繁ではない。人、おのおの領分あり。長繁の本領は戦場よ。そういじめるでない」
「……御意にございます」
今ひとつ緊張感の欠ける義景の言葉に毒気を抜かれた景鏡が矛を引く。
長繁にしても主君が自分をかばってくれたことは分かるので、怒りの矛先が鈍った。もともと長繁は自分を見出してくれた義景に恩義を感じている。不承不承、末席に引き下がった。
それを見た景鏡は清々したと言わんばかりの顔をすると、あらためて口を開いた。
「さて、殿の方針は非戦と定まった。各自は職分に応じて行動されたい。なお、上洛軍の経路にあたる領主は野武士のたぐいにくれぐれも注意するように。彼奴らが朝倉の名を語って上洛軍の物資を狙うことも考えられるでな」
そう言った景鏡はここで義景を見た。
「さて、あとの雑事は我らの仕事でござる。殿にはゆっくりとお休みくだされい。小少将が待っておりますぞ」
溺愛する側妾の名を出された義景は、だらしなく顔を歪めつつ立ち上がる。
「うむ、では後は景鏡に任せよう。頼んだぞ」
「御意。お任せくださいませ」
そうして義景が立ち去れば、後の軍議を仕切るのは景鏡しかいない。
家臣たちもこの状況に慣れきっており、特に異論を差し挟もうとする者はいなかった。
否、正確に言えば、先刻の富田長繁をはじめとして、義景の決定や景鏡の態度に不満を持っている者はいた。いたのだが、いずれも身分が低い者ばかりで、仮に意見を述べたとしても先刻の長繁のように――あれはあれで少し極端だったが――退けられるだけである。
軍議の席で堂々と発言できるだけの地位を持っている者はことごとく景鏡の与党であった。
――ただ一人を除いて。
「上洛に不参加を告げる使者には――そうさな、宗滴に行ってもらおうか。守護も守護代も不在の上洛軍と聞く。朝倉一族のお主が出向けば、不参加を告げたところで文句は言われまいよ」
景鏡が指名した者は重臣の居並ぶ列の最後列にいた。
朝倉教景。先代朝倉家当主の後継者として育てられるが、先代が死去した時、わずか四歳であったため、当主の地位は義景に渡り、教景は龍興寺という寺に入る。
仏門に入って世俗との関わりを絶ったのは後継者争いを未然に防ぐためであった。この時、法名を授かり、以後「宗滴」を名乗るようになる。
その後、宗滴は龍興寺で学問にうちこみ、静かに暮らしていたのだが、今から三年前に越前で兵乱が起こった。
当時、朝倉家は北近江の同盟国、浅井家の内乱に巻き込まれて多数の兵を失った。
この機を見計らって攻め込んできた加賀の一向宗によって国境が破られたのである。
怒涛のごとく進軍する一向宗は越前の国内深くまで攻め込み、一時は一乗谷城も危機に瀕した。
それを聞いた宗滴は書物を捨てて立ち上がる。
龍興寺から駆けつけた宗滴は毅然とした態度と卓越した統率力をもって朝倉兵を束ね、見事に一揆勢を撃退する。
宗滴によって滅亡の危機を免れた義景は、これ以後宗滴を重用し、軍事となると真っ先に宗滴に諮問するようになっていった。
だが、戦に倦んだ義景が政務から離れ、景鏡に実権が集まるようになると、この一門衆筆頭の男は宗滴の存在をはっきりと敵視しはじめる。
宗滴は武将としての清廉さと女性としての鮮麗さをあわせもち、民や兵の信望が厚い。
景鏡とても決して凡将ではなかったが、宗滴には一歩も二歩も譲る。宗滴自身は己の職責を武将として兵を率いることに限定しており、政務に携わろうとする意思はなかったのだが、景鏡の目には宗滴が要注意人物として映っていた。
そんな景鏡の命令を受けた宗滴は、先刻の長繁とは対照的に不満のふの字も含まない態度で景鏡に応じた。
「承知した」
景鏡は口元に笑みを張り付かせたまま、そんな宗滴に嘲弄まじりに声をかける。
「ふん、ついでに加賀を落としてきてもかまわんのだぞ? 義景様がそなたに加賀攻略を任せてはや一年。いまだ寸土さえ得ていない。わざわざ龍興寺から戻ってきたと知った時はどれだけ成長したのかと期待したものだが、知れたものであったな。なんなら再び寺に戻ってもらってもかまわんが」
景鏡の露骨な挑発を受けた宗滴は、眉一つ動かさずに聞き流した。
だが、宗滴自身はともかく、宗滴に期待と信頼を寄せる者たちは景鏡の暴言に黙っていられなかった。下座を中心にざわりと場の空気が波立つ。
彼らは――いや、景鏡とて本当は知っていた。宗滴は確かに加賀侵攻を命じられはしたが、本来それに不可欠であるはずの兵や物資をろくに与えられていないことを。
宗滴の才能と人望を目障りに思う何者かが、一向宗の手を借りて宗滴の抹殺をはかっている。
そうとしか思えない露骨なやり方は、しかし、一年の長きに渡って続けられている。
その一事だけを見ても、朝倉家の病根の深さは明らかであった。
景鏡が軍議を解散させた後、富田長繁は城の一室で宗滴と向かい合って座っていた。
といっても、別に長繁は宗滴と格別親しいわけではない。自らの才能を誇り、またそれを天下に示すことを望む長繁にとって、現在の宗滴の態度――朝倉家の有力な一族でありながら景鏡の頤使に甘んじて反撃しようともしない――は覇気のない、情けないものとして映っており、尊敬の対象にはなりえないのだ。
だが、朝倉家の重臣の中で唯一まともに長繁の話を聞いてくれるのは宗滴だけなのである。
したがって、今回の上洛における不満を述べ立てる相手も宗滴しかいなかった。
朝倉家の決断が間違っている旨を滔々と述べ立てた長繁は、宗滴に対して是が非でも朝倉軍を上洛に参加させるよう訴えた。
だが、宗滴はうなずかない。
目を血走らせ、強引に膝を突き合わせ、胸倉を掴まんばかりに迫ってくる長繁の要望にがんとして応じようとしなかった。
長繁の不満を聞くだけ聞くだけ聞いた上で、宗滴はしずかに口を開いた。
「長繁。この身は将として、与えられた戦場で全力を尽くすのみだ。義景様の決断がくだった上は、そなたも我意をおさえて朝倉の一将として力を尽くせ」
そう言って立ち上がる。
実を言えば、上洛軍に参加すべきという一点において宗滴は長繁と立場を同じくしている。
だが、そんな内心を宗滴は決して明かさなかった。
己が不用意に動けば朝倉家は割れる。それがわかっている以上、義景の決断に真っ向から反する行動をとることはできない。まして長繁のような騒がしい男に己の内を見せては、どこで何を触れ回られるかわかったものではない。
このとき、宗滴は細心と用心をもって長繁に対していたのである。
一方の長繁は、立ち去る宗滴の後ろ姿を見ながら腹立たしさをおさえきれずにいた。
繰り返すが、長繁は宗滴を尊敬していない。
だが、宗滴の知識、才覚、人望、地位、それらが自分のものであれば、という羨望の思いは抱いていた。
どうしてあれほどの才が自分ではなく、あのような覇気のない女に宿ったのか、との苛立ちも覚えていた。
――いや、自分とておさおさ宗滴に劣らぬ。
長繁はそう思い返したが、しかし、それを発揮する術がない。場所がない。時がない。
上洛軍の一員となって手柄を立てれば、才能を振るえる場所も増えるだろう。そう期待していただけに失望は深く、当主重臣への不満は募る。
いったいいつまでこの家で逼塞していなければならないのか。それを考えると、前途の遼遠さに目が眩む思いがする長繁であった。