第三話 近づく嵐
越後国 栃尾城。
この城はもともと豪族の一人である本庄氏の居城であった。
だが、現当主実乃は、守護代の妹である長尾景虎の器量を見抜き、またその将来に越後の平和という自身の夢を重ね合わせた末、城主の座を譲り渡す。
先年、長尾家に謀反を起こした黒田秀忠を討った戦においても、本庄勢は景虎軍の主力として功績を挙げていた。
その栃尾城の最上階に位置する軍議の間。
今、そこには城主である景虎をはじめとした四人の人物が座り込み、現在の越後の状況について意見を交換していた。
なお、景虎以外は皆男性である。
上座に座るのはむろん城主である長尾景虎。
青を基調とした衣服は、晴景の華美なそれとは対照的に清潔さと質素さを旨としたもの。むろんというべきか、材料自体は高価なものであったが、景虎自身の清爽な性格とあいまって見る者に澄んだ印象を与える。
その景虎は眼前の越後国内の地図に視線を落としたまま、先刻から身動ぎ一つせず、何事か考えにふけっている様子であった。
その景虎の隣に座し、声を高めているのは与板城主 直江景綱である。
先代為景の時代から長尾家に仕えている譜代の臣であり、実乃同様、景虎の将来を嘱目して臣下となった。
景虎の生母とも面識があり、景虎のことは生まれたときから知っている。
景虎のことをわが子同然に可愛がっており、それゆえ景虎の許可を得ずに勝手に行動した柿崎景家に対して怒りを禁じえずにいた。
その景綱の隣にすわり、落ち着いた面差しで天守の向こうに広がる越後の梅雨空を眺めている老人の名を宇佐美定満という。
本庄実乃と並ぶ景虎の軍学の師であり、琵琶島城を有する宇佐美家の当主であり、さらにはかつて春日山長尾家を滅亡寸前まで追い詰めた武将でもある。
景虎の父 為景は越後守護代として勢威を振るっていたが、主家にあたる上杉氏の当主を二度に渡り弑逆した梟雄としての一面を持つ。
定満はその振る舞いに対して敢然と異を唱え、何年にも渡って為景と抗争を繰り広げた。一時は為景をして佐渡に逃げ出さざるをえない状況にまで追い詰めたこともある。
この勝利によって越後は平穏に戻ると思われたのだが、定満の廉直さは自身が担いだ上杉家の当主にも向けられた。
為景を追い落としたことで増長した当主に対し、再三再四諫言を呈した定満は、次第に上杉氏からも疎まれるようになっていく。その過程には佐渡の為景の策略も含まれていたと思われる。
結局、為景は佐渡から舞い戻り、上杉氏と宇佐美氏との間隙をついて勢力を回復するのだが、その後も定満は為景に屈することなく戦い続けた。
最終的には現越後守護 上杉定実が仲介の労をとったことで、長尾家最大の敵であった宇佐美家は矛を収めることになる。
その報を聞いた為景の顔には、隠しきれない安堵の色がありありと浮かびあがっていたという。
そのこともあって宇佐美定満の名は越後国内では大きな影響力を持っている。
為景との抗争で示した定満の将略は見事なものであり、内政面でも堅実な手腕を有している。居城である琵琶島城をはじめとした領内は治安も良く、領民の信望も厚い。
文にも武にも優れた越後屈指の名将。それが宇佐美定満に対する人々の評価であった。
為景と同年代で争っていたという事実からも明らかなように、この場にいる四人の中で、定満は最も年齢が高い。
だからというわけでもないだろうが、軍議において定満の発言する回数は多くない。若者たちが意見を戦わせる様を穏やかに眺め、軍議が乱れかけたときには静かにそれを指摘して流れを修正する。そういう役割を己に課している風であった。
◆◆
「柿崎め! 景虎様のご心痛も知らずに勝手なことを! これでは我らが春日山に宣戦布告したも同然ではないかッ」
景綱は強い調子で膝を叩き、柿崎の独走に苛立ちを見せる。
先年、景虎は姉である晴景のために黒田秀忠を討ち取った。その戦い自体はほぼ完璧な結果を出すことができたのだが、あまりに圧倒的な戦果は飛躍的に景虎の驍名を高め、晴景の疑心を刺激してしまった。
以来、春日山と栃尾の間には不穏な空気が流れている。
表情にこそ出さないが、景虎がそれを苦にしていることを知っている景綱にとって、今回の柿崎の独走は暴走に類するものと映っていた。
その景綱の見解に首をかしげて見せたのは宇佐美定満である。
定満は景綱よりも柿崎景家との付き合いが長い。為景と敵対していた時代には轡を並べて戦ったこともある。
それゆえ、柿崎に対する考察は景綱のそれより一段深かった。
「……柿崎は見かけほど単純ではない。景虎様が姉君と戦いたくないと思っていることも、気づいているのではないかな?」
「ならば、なおのこと状況をかき回すような真似は控えるべきでしょうにッ」
景綱の反論に定満は己の推測を口にした。
「叱咤、のつもりではないかの」
それを聞いた景綱は怪訝そうに眉を寄せる。
「叱咤とは、柿崎から景虎様への、という意味でしょうか、宇佐美殿?」
「うむ。柿崎は良くも悪くも越後武士。あれの目には、血を分けた姉妹との戦いを望まぬ景虎様が弱腰と映ったのであろうよ」
一言一言を確かめるように定満は言葉をつむいでいく。
「景虎様を否応なしに戦いの場に引きずり出す。今回の挙はそのためのもの。世人は柿崎の起兵を景虎様の決断と思って歓呼し、国人衆も一斉に動き出した。ここで謀反の意思なしと宣言すれば、当面の戦は避けられようが、景虎様にかけられた期待は失望に姿を変えるであろう。くわえて、守護代殿が栃尾をそのままにしておくとも思われぬ」
ここで起たねば栃尾勢は今日まで築き上げたものを残らず失う。最悪、命さえも。
それが嫌なら戦うしかない。
景虎をその状況に追い込むことが柿崎景家の狙いであり、それは今のところ功を奏していた。
定満の言葉を聞いた景綱はちらと景虎を見やって眉根を寄せる。
実のところ、春日山との戦いを望んでいたという意味では、景綱も柿崎と同じ立場に立っている。
越後の行く末を考えるならば晴景では力不足だ。春日山からこれ以上人心が離れる前に景虎を当主とするべきだと考えていた。
これは景綱のみならず、越後に住まう者の多くが考え、期待していたことである。
だが、景綱は主である景虎にその旨を進言することができなかった。景虎は姉に弓引くことを望んでいない。それを承知していたからだ。
それゆえ、今回の第一報を耳にした瞬間、好機と思わなかったといえば嘘になってしまうだろう。
黙り込んだ景綱のかわりに口を開いたのは実乃である。
髭をひねりつつ、困惑したように言った。
「柿崎殿の思惑が定満殿の申される通りだとすると、我らはかの御仁の策にすっぽりはまったとしか言いようがありませんぞ。兵の多くが景虎様の出陣を今や遅しと待ちかまえておる始末。城下の民も同様でござる。実を言えば、それがし、すでに下の者から幾度となく景虎様のご決断を仰ぐようにせっつかれておりまして」
そういって実乃は頭をかく。
景虎が春日山長尾家の主となれば、当然配下の将兵も恩恵に浴することができる。栃尾勢の中に功利の心があることは事実である。
だが、そういった損得勘定を抜きにしても、現在の越後国内の状況は不穏きわまりなく、このままでは隣国の侵入を招くことは火を見るより明らかであった。
そのような事態になる前に景虎は決起すべき。
それが景虎を除いた者たちの総意なのである。この場にいる実乃、景綱、定満もまた、景虎の心情を憂慮しつつも主の決起を望んでいた。
そんな人々の期待を景虎は承知していた。
それでも軽々に決断を下すことはできなかった。
起てば主君に逆らう謀反人。我が姉に背いた人非人。その罪深さは自ら討った黒田にまさる。
だが、起たねば家臣と領民の期待を裏切り、越後の戦乱を放置した愚者に堕する。
この後に起こるであろう戦乱に踏みにじられる人の数を思えば、今の状況を捨て置くことがどれだけの罪になるのか、景虎には痛いほど分かっていた。
景綱らの視線の先にある景虎の顔は落ち着いて見える。
だが、その内心がどれだけ苦悶に満ちているかを察せない者はこの場にいない。
それでも景綱たちは景虎に決断を下してもらわねばならなかった。
助力はできる。助言もできる。だが、決断を下すことができるのは景虎をおいて他にいなかったから。
それが主君にとってどれだけ辛いことであるのかを知りつつも、三人は景虎に決断を促した。
軍議の間を沈黙が支配する。
景虎はしずかに目を閉ざしたまま動かない。
開け放たれた襖から強い風が吹き込んできた。
見れば、栃尾の空を覆う雲の動きが早まっている。間もなく嵐が来るのだろう。
いまだ景虎の目は開かない。それは決断を下しかねていることの証左。
ゆえに、次の瞬間、場の沈黙を破ったのは景虎ではなかった。
息せき切ってあらわれたのは実乃配下の武将のひとり。
彼は景虎らに対して頭を垂れた後、大声で急報を告げた。
「申し上げます! 守護代様の軍勢が春日山城を出陣。柿崎勢との間で戦闘が始まったとのことでございます!」
「なんと!? それはまことか」
応じた実乃の声には小さからざる驚きが込められていた。
春日山勢の総数がわずか五百であることは、すでに軒猿と呼ばれる忍び集団の働きによって掴んでいる。
攻め寄せるのは音に聞こえた柿崎の黒備え三百騎。その背後には千に近い足軽が続いているという。これも軒猿の報告だ。
それを聞いた実乃は晴景が篭城すると考えた。実乃だけではなく、景綱も定満もそのように考えていた。
しかし、晴景はそんな予測を裏切って出陣したという。
報告はなおも続いた。
「春日山勢は関川を越えて柿崎勢を急襲したものの、景家殿はこれを撃退! 敗れた春日山勢は再び関川を渡って陣を構えたとのことですが、景家殿はこれに猛攻をしかけており、春日山勢の敗北は時間の問題と思われます!」
この武将は今回の柿崎の行動を好意的に捉えているようで、報告の内容は柿崎を味方、春日山勢を敵とみなしたものであった。
その報告に、誰よりも早く反応した者がいる。
「――春日山勢が関川を越えて柿崎を急襲した。そう申したか?」
さらさらと流れる清流のように心に染み入る声音は、栃尾城主 長尾景虎のものであった。
武将は一瞬怪訝そうな顔をした後、主君の問いに応じた。
「はッ! 景家殿は騎馬隊のみを率いて春日山に急行していた由。春日山勢は柿崎殿の足を止めるべく攻撃をしかけたものの、景家殿はこれを見事返り討ちになさいましたッ」
景虎の顔に味方(柿崎)の勝利を喜ぶ色がまったくなかったことを不思議に思った武将は、柿崎が敵を返り討ちにしたことを強調して報告を繰り返す。
武将としては景虎が喜んでくれるに違いないと思っての行動であった。
別段、この武将ひとりがずれているわけではない。先刻、定満や実乃が口にしたように、これが今の栃尾の人々の心情だったのである。
むしろ、戦国の常識に照らし合わせれば、今にいたってもなお姉との戦いを望まぬ景虎の方こそが異端であった。
景虎もそのあたりはわきまえている。
落ち着いた面持ちでうなずくと報告の労を謝した。
「そうか、ご苦労だった。さがってよいぞ――景綱、出陣の準備は整っているな?」
「は、はい。完了しております」
「では栃尾全軍に出陣の触れを。我らはこれより春日山へ向けて進軍を開始する」
「ぎょ、御意にございます」
主君の命令に頷きながらも景綱は戸惑いを覚えていた。
今の今まで出陣をためらい続けていた景虎が、どうして突然決断を下すことが出来たのか。
勝者の尻馬に乗るような景虎ではない。あるいは、勝利した柿崎が春日山城の晴景の身に危害を加えることを恐れたのだろうか。
春日山勢が柿崎に勝てるとはまったく考えていない景綱は、柿崎の勝利を既定のこととして景虎の内心を推測した。
ただ、それにしては景虎の言動に悲壮感がないのが不思議だった。
景綱は子供の頃から景虎を見守ってきた。父為景に疎まれ、幼くして城を出された景虎。そんな彼女を憐れみ、父代わりのつもりで影に日向に力を尽くしてきた。
それゆえ景綱は、景虎が落ち着いた表情の奥で何を考えているのか、おおよそ察することができる。
今の景虎からは姉の身を案じる焦燥も、柿崎の暴走に対する憤りも感じられない。それが奇妙であった。
ここで口を開いたのは実乃である。
「景虎様。この出陣、春日山の守護代殿をお助けするため、ということでよろしいのでしょうか?」
実乃の考えは景綱と同じだった。
景虎が柿崎の尻馬に乗るはずがない。
であれば出陣の目的はただ一つ。勝勢に乗った柿崎勢の略奪暴行を食い止めるためだと考えたのである。
柿崎景家は戦に強いが、それ以上に欲望も強い。あれの好きなようにやらせていては春日山城が灰燼に帰しかねない。景虎はそれを憂えたのだと実乃は判断した。
だが、景虎は実乃の言葉に首を横に振ってみせた。
景綱と実乃が景虎の真意を解しかねて顔を見合わせる。
景綱がおそるおそる口を開いた。
「あの、景虎様。では、こたびの出陣の目的は何なのでしょうか?」
問いを受けた景虎はわずかに面差しを傾けると、黙ったままの定満に問うた。
「定満はわかるか?」
「……柿崎の救援でございましょう」
迷う様子もなく答える定満。
そして、景虎は今度は首を縦に振った。
だが、景綱と実乃の戸惑いは消えなかった。
それどころか、なぜ勝利した柿崎を救援する必要があるのかという疑問が付け加えられてしまった。
そんな二人の様子を見て、景虎は静かに口を開く。
「言うに忍びぬが、今の姉上の軍では柿崎相手に野戦で勝利することは難しかろう。だが、篭城したところで、形勢は不利になりこそすれ有利になることはない。であれば、まだ打って出る方が勝算はある」
「それは理解できまする。しかし、出戦した春日山勢は柿崎に返り討ちにあったと報告があったではありませんか。もはや勝敗は決したと思われますが?」
実乃の疑問はもっともであった。
だが、景虎はよどみなく報告の裏にあるものを読み解いていく。
「軒猿が申していただろう。今の春日山の軍は、小者まで駆り集めた烏合の衆だと。実乃、そんな烏合の衆を柿崎相手の戦に出せばどうなると思う?」
「……そうですな。戦う前から四散してしまうのが関の山でございましょう。よほど確固とした勝算を示さぬ限りは」
景虎は小さくうなずいた。
「そうだ。だが今回、春日山の軍勢は四散することなく関川を越え、柿崎を強襲したという。そして、敗れた後も逃げ散ることなく川辺に陣を構えたという。断じて烏合の衆にできる動きではない。今の春日山勢は、明確な作戦にもとづいて行動していると私は見る。関川に布陣したのも考えあってのことであろう」
この景虎の言葉で景綱の目に理解の色が浮かぶ。
自然、言葉が口をついて出た。
「この梅雨時、川の水量は増していますね。騎馬隊にとっては厄介な地形ですが……勝勢に乗った柿崎は強引に押し渡ろうとするでしょう」
「うむ。敵兵、川の半ばを渡れば速やかにこれを討つべし。敵の半渡に乗じるは兵法の基本だ。あるいは、春日山勢の最初の攻撃は、戦場を関川に限定するための陽動であったのかもしれぬ。だとすれば、今の関川は柿崎にとって死地そのものと化していよう。緒戦の勝利に酔い、春日山を侮りきった柿崎はおそらくこれを見抜けまい」
景綱と実乃は真剣な顔で景虎の言葉に聞き入った。
二人は景虎の説明に深く頷いたものの、疑問のすべてを払拭したわけではなかった。
景綱はその点に言及する。
「しかし、景虎様。今の春日山にそれだけの軍略を行使できる者がいるでしょうか? 晴景様は戦に疎い方です。この窮状にあって、兵を従わせることが出来るかさえ疑問です。兵に勝算を示して離心を妨げ、実際にその計画通りに兵を動かす。柿崎の勇猛を考えれば、偽りの敗走がまことの敗走につながることも十分にありえるでしょう。それらを克服した上で柿崎を打ち破るなど、なまなかな将では不可能です。恐れ多いことながら、晴景様にそこまでの力量があるとは思えませんし、今の晴景様の下に名のある軍配者がいるとも聞こえてきません」
この景綱の言葉に実乃も控えめに同意を示す。
これまでの春日山勢の戦働きを思い返してみても、そこまで鮮やかな戦ぶりを示すとは信じがたい。
過大評価ではないのか、というのが正直なところだった。
景虎は怒らない。
景綱たちの見解に少し困ったように頷いた。
「確かに、その可能性も否定できないな。だが、それならそれで、先に実乃が申したように柿崎を止める必要が出てくるだろう。どのみち、春日山には行かねばならないのだ」
その言葉に異論がある者はいなかった。
景虎に向けて頭を垂れた実乃たちは、出陣の支度をするために足早に軍議の間を後にした。
ひとり室内に残った景虎は、窓辺に立って空を見上げた。
視線の先では黒雲が現れては流れていく。一瞬もとどまることのないその様は、まるで越後の地に生きる民人のようだった。
戦乱にあえぎ、田畑を耕すこともかなわず、逃げまどうしかない力なき民。
きっとそれは越後に限った話ではないのだろう。
乱世が続くかぎり、日ノ本の苦しみは終わらない。
なればこそ、この乱世を終わらせる。毘沙門天の旗の下、景虎が目指す場所は今も昔も変わらない。
景虎が目を閉ざすと、風が雨の匂いを運んできた。
おそらく今夜、天は荒れるだろう。
「嵐は時節の変わり目に来るものだが……さて、この嵐はいかなる時を呼ぶのかな」
時代の変化の匂いをかすかに感じ取った景虎は、小さく息を吐いた。