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聖将記  作者: 玉兎
第三章 開戦
25/112

第二十五話 景虎対晴信


 武田家が情報収集に力をいれはじめたのは、それほど古い話ではない。

 武田晴信が甲斐守護職に就いてから――すなわち、まだほんの数年しか経っていない。

 にもかかわらず、山本勘助の統括する甲州忍の数は信虎時代の五倍を越え、そう遠くないうちに十倍に達するものと思われた。



 孫子の情報戦略を高い精度で実現するため、自軍の諜報部門を強化する必要を認めた晴信は、惜しげもなく資金と人材をつぎ込んだ。その成果が「三ツ者」と呼ばれる現甲州忍たちである。

 三ツ者とは、相見(諜報)、見方(謀略)、目付(自軍の監視)の三つを主な任務としたゆえの呼び名であり、晴信は彼らを縦横に駆使して情報を集め、幾多の戦を勝利に導いてきた。また、甲斐および信濃の統治を磐石ならしめるためにも、それらの情報は存分に活用されていた。



 彼らの多くは商人や僧侶などに身をやつし、諸国を廻って種々の情報を甲斐の国にもたらしている。越後内乱の詳細を掴んだのも彼らの仕事の一つだった。

 そして今回、武田家が越後上杉家の戦略を読み切ったのは、やはり彼らが掴んできた『極秘情報』のおかげ――というわけではなかった。



 彼らがもたらした情報のおかげだったのは事実である。

 だがそこに、都合よく真実のすべてを記した極秘情報なるものは存在しない。

 武田家は多数の忍を抱え、多くの情報をかき集めていたが、それらは玉石混交、なまじ数が多いゆえにそこから玉を見抜くことは並大抵のことではなかった。

 誤った情報を信じて策を練れば、数多の将兵の命が虚しく失われてしまう。真実を見抜いたとしても、それが偽りでないかと逡巡すれば、好機を逸してしまう。



 諜報とは収拾と分析の果てなき繰り返し。

 今回もまた同じである。越後側の計略全てを記した極秘情報は存在せず、晴信は幾十、幾百もの情報をかき集め、時に矛盾し、時に偽りを孕むそれらを丹念に分析していくことで越後の戦略を読み切った。

 武田家が晴信の代になっていまだ負け戦を知らぬ理由の一つが、この時代にあって信じがたいほどに高度な情報の運用にある。

 そしてそれは、ただ忍を多く抱え、情報をかき集めれば良いという単純なものではなかった。



 彼を知り、己を知らば百戦してあやうからず。



 孫子の兵法にあってあまりに有名なその一節。

 武田晴信こそ、その言葉を体現する日ノ本でも稀有な戦の達人である。





 その晴信に優るとも劣らぬ才を持つ山本勘助が、常に主君に的確な助言を与えているのであるから、他国は戦慄を禁じえないであろう。

 ともあれ、武田家は越後側が秘匿していた出兵計画を完璧ともいえる精度で見抜いてのけた。

 村上義清による飯山城奪還をあえて許したのは、面従腹背の信濃勢を炙り出すためである。

 飯山城に誰が立てこもろうと、それは枝葉に過ぎない。幹たる越後勢を叩き潰せばおのずと枯れる。その後、武田に背いた者たちをじっくり狩り立ててやればよいのだ。



 なんなら義清がこもる飯山城はあえて攻囲を長引かせてもよい。

 越後側が救援に来たくてもこられない堅陣を構築した上で、義清を見捨てる上杉家の無情と不実をなじってやるのだ。

 そうすれば軍神だの聖将だのと呼ばれる長尾景虎を顔色なからしめることもできよう。



 それが武田晴信の考えであった。



◆◆ 



 そして今。

 信濃へと侵攻してきた上杉軍の主力に対し、武田晴信は自身が率いる騎馬軍団の主力を叩きつけた。

 馬場信春を先鋒とする武田軍は旭山城を目指す上杉軍を急襲。緒戦において少なからぬ痛手を与えることに成功する。



 武田軍の本陣にあって、晴信はじっと戦況を見据えていた。

 もたらされる報告は全てが武田軍の優勢を伝えるものであり、本陣に詰めた武将たちは戦線から伝令がやってくる都度、その勝報に歓喜の声をあげ、僚将たちと笑いあった。

 すでに勝ち戦気分の将兵は、この勝利に自身も一花添えたいと、次々に晴信に出撃の許可を請うてきた。



 ――そこで、ようやく彼らは気づく。

 主君の顔に浮かぶ表情が、自分たちのものとは異なっていることに。

 軍配を握る姿は開戦時と同じ。だが、その顔には勝利を確信した余裕など寸毫も見当たらなかった。



「昌景」

「はッ」



 晴信は臣下の首座に座る山県昌景に声をかける。

 昌景の声はしごく落ち着いたもので、勝利に浮かれる周囲の者たちとは一線を画していた。



「どう見ます、敵の動き」

「ふむ、一時はこちらの術中に落ちたと見えたが、思いのほか立ち直りが早いですな。まるで――」

「まるで、ここで武田が現れるのがわかっていたかのよう。そちの言いたいのはそんなところですか」



 主君の問いに、昌景はあっさりと首を縦に振った。



「御意。もっとも、完璧に見抜いていたというわけでもなさそうですな。もしそうならば、緒戦の混乱の説明がつきませぬ。あるいは敵はよほどに訓練された精鋭で、こちらの奇襲の衝撃から、将兵ともに即座に立ち直ったとも考えられますが……」

「敵の将兵、ことごとく昌景のような胆力の持ち主であれば、それもありえるでしょう。だが、それこそありえません。であれば、少なくとも敵の将帥はこちらの奇襲を予期していたと見るべきでしょう」



 晴信はそう言いながらも、すでに緒戦の混乱から立ち直り、貝のように固く防備を固める敵陣を鋭い眼差しで見据えた。

 すでに戦は一方的な展開ではなくなっている。依然、武田の優勢は続いているが、それはいつひっくり返されてもおかしくないほどの僅かな差であった。戦場によっては上杉軍が勢いを盛り返しているところもあるようだ。



 翩翻へんぽんとひるがえる『毘』の一文字。

 遠目にも鮮やかな青衣の武将が疾走するや、武田の堅陣は脆くも崩れ、左右に難敵を避けてしまう。臆病風に吹かれて逃げているわけではない。ただ敵のあたるべからざる勢いに、望まぬ後退を強いられているのである。



「……長尾、景虎」



 晴信の口から忌々しげな声が漏れた。

 その総帥の後ろに続くのは、越後の最精鋭たる景虎直属の騎馬隊である。錬度において、晴信の馬廻り衆にも匹敵する部隊の攻勢を受け、武田軍はなだれをうって後退を始めていた。

 このまま手をこまねいていれば、あの方面の部隊は遠からず潰走させられてしまうであろう。それが全軍に波及する恐れも捨てきれぬ。



「昌景ッ」

「御意。それがしが参りましょう」

「そちが、ではありません。そちも、ですよ」



 晴信の言葉に昌景はめずらしく驚いたように目を見開いた。



「御館様も出られるのか。確かに長尾の兵は手強いが」

「そちであれば景虎と対等に対峙することはできるでしょう。ですが、ここまでの兵力差があって、結局戦は五分でした、などとなれば武田の武威に傷がつきます。今日ばかりは六分、七分の勝ちで満足するわけにはいかないのです」



 晴信が率いる武田軍は八千。

 対する上杉軍は三千。

 これで勝ちきれぬのなら負けに等しい。

 常勝を謳われる武田軍団の武名が廃るというものであった。



 昌景はめずらしく血気に逸る主君を見て、諌めの言葉を発する。



「御館様、あえて申しあげるが、今の御館様は匹夫の勇に駆られておりますぞ。長尾を討つ、それはよい。だが、何も御館様が前面に出る必要はござるまい。こんな時のための臣下でありましょうぞ」



 主君を押しとどめながら、昌景は自らと、そしてこの場に控える他の諸将を指し示す。

 先刻まで優勢を確信して笑いあっていた彼らも、晴信と昌景の会話に耳を傾けているうちに得心するものがあったのだろう。今は表情を引き締め、昌景の言葉に賛同するように晴信に強い視線を向けていた。

 晴信が押し黙ったままでいると、さらに昌景は言葉を紡ぐ。



「多兵の利を駆使して続けざまに押し込めば、なに、軍神といえど人でござる。必ず崩れましょう。ご命令を、御館様」



 跪く昌景に、晴信は小さな小さなため息を吐いた。



「――重臣筆頭にそこまで言われては自重しないわけにはいかないでしょう。まったく、昌景は存外に口が達者ですね」

「おや、御館様にお褒めいただけるとは光栄至極。これからは山県富楼那(ふるな)昌景とでも名乗りましょうか」

「弁舌に優れた釈迦しゃかの弟子ですか。不思議と違和感はありませんね」



 くすり、と。

 一瞬だけ、柔和に微笑んだ晴信は、すぐにその顔に将帥としての威厳を宿らせ、厳然と命じた。



「山県昌景に命じる。手勢を率いて上杉軍を討ちなさい。自らを軍神と称する不遜な輩に武田の恐ろしさを刻み付けるのです」

「お任せあれ、時はかかりませぬ」



 昌景は深々と頭を下げて命令を受領するや、次の瞬間には踵を返して天幕の外へ向かう。

 他の家臣も次々にそれにならい、間もなく武田本陣から発した千を越える騎馬武者が、鬨の声をあげて上杉勢に突っ込んでいった。





◆◆





「景虎様、武田本陣から騎馬隊多数接近中です。数、おおよそ千ッ!」



 混戦の中、直江景綱は先を駆ける景虎の背に声をかける。

 武田軍の待ち伏せを受けてからこちら、戦い通しだったこともあり、そろそろ景虎の軍も限界が近い。

 景虎の武勇に引っ張られる形でなんとか形勢を維持しているが、いつまでも続くものではない。

 いくら軍神と称えられていようと、景虎は一人の人間なのだから。



 景綱の声に景虎はすぐに反応した。無心に戦場を駆けているように見えて、敵と味方とを問わず、あらゆる場所に目が向いている景虎のこと、おそらく敵の本陣から増援が出たことも自分より先に気づいていたのだろうと景綱は思った。

 景虎はついさっきまでの猛勇が嘘であるかのように穏やかな口調で言う。



「軍装から見るに山県の赤備えだな」

「はい。そろそろ潮時かと」

「音に聞こえた赤備えが相手とあらば、もう一当てしてもよいと思うが……」



 やや残念そうな景虎の声に景綱はきっぱりと首を横に振った。



「なりません、景虎様」

「ああ、わかっている。これ以上は兵士たちがもたないだろう。兵をまとめて退くぞ」

「はッ!」



 景虎と景綱は直属の部隊を率いて殿軍を務め、猛追を仕掛けてきた山県勢との間に激戦を繰り広げながら、それでも最終的にはほぼ全軍を退却させることに成功する。

 今回の戦で上杉軍の死傷者は全軍の二割近くに及んだが、彼我の兵力、待ち伏せを受けたという条件を考慮すれば、よくこの程度で済んだと驚くべきであった。

 ようやく敵勢を追い払った上杉軍は山を背に布陣し、負傷者の治療や、重傷者の後送などを行い、同時に後方の箕冠城に戦況を早馬で伝えた。



 そうして戦の後始末をする一方、今後の戦闘に向けての準備も進められた。

 夜半、景虎の天幕で景綱は口を開く。



「武田が出てきた以上、相馬の策は御破算なのですから、ここからは景虎様が公言の責任をとっていただかねばなりませんね」



 今回の戦に先立つ軍議での発言を持ち出され、景虎は小さく笑った。

 笑われるようなことを言ったつもりのない景綱が首をかしげる。



「何かおかしなことを申しましたかな?」

「いや、景綱が相馬のことを『相馬』と呼ぶ日が来るとは思わなかったのでな。少し嬉しくなった」

「そ、そんなことは今はどうでもいいでしょうッ。ともかく、今後のことですッ!」



 むすっとした景綱が口調を荒くすると、景虎は笑いをおさめて頷いた。



「わかっている。もっと兵を連れて行けという相馬に、三千で十分といったのは私だからな。景綱の言うとおり大言の責任はとる」

「大言とは申しておりません! 公言の責任と申したのです。景虎様であれば、この程度の兵力差、はねかえすことができるとわかっておりまする」

「ありがとう、景綱。その信頼には是非とも応えねばならないな。この程度で音を上げては、佐渡にいる政景様や相馬にも申し訳が立たぬ」



 景虎の言葉に、景綱はやや不本意そうな表情で口を開いた。



「景虎様は随分とその、そう――ではない、加倉殿のことを気にかけるのですね?」

「無理に加倉などという必要はなかろう。だが、そうだな、景綱の言うとおり、確かに私は相馬を気にかけているのだろう」



 自身の内面に問いかけるように瞼を閉ざす景虎に対し、景綱はややためらってから口を開いた。



「それは、何故、なのでしょうか?」



 その景綱の問いに、景虎は戦場に似つかわしくない穏やかな表情で笑ってみせた。



「相馬は姉上から譲り受けた臣だ。相馬に無様を晒すことは、姉上に無様を晒すに等しいこと。相馬の前では常に誇れる自分でありたいのだよ。それが一つ。あと一つは、そう、景綱と同じだな。私が天道を歩く助けとなりたい……そう言ってくれた相馬の芳心に報いたい。なればこそ、恥ずべき姿は見せられぬのだ」

「そう、ですか……」



 景虎の答えが、半ば案じ、半ば恐れていた答えではなかったことに景綱はほっと安堵の息をもらす。

 もっとも、すぐに自身のそんな感情を恥じて、慌てて首を左右に振って邪念を払う景綱であった。



「景綱?」



 訝しげに問いかける景虎に、景綱は慌てて首を左右に振った。



「な、なんでもござらぬ。そうですな、私としても佐渡の相馬に役立たずだと思われるのは心外です。ここはなんとしても先達の力を示してみせましょう。少なくとも、国境に奴らを釘付けにする程度の働きはしてみせます」

「ほう、景綱がそこまで断言するとはめずらしい」



 目を丸くする景虎を見て景綱は頬をかく。

 自分らしくない広言だということは、言われずともわかっていた。



「頼りない軍師を助けるのも武将たる者の務め。それ以上の意味はございませんッ」

「ふふ、そういうことにしておこうか」

「しておくとかではなく、事実そのとおりなのですッ」



 めずらしく主君に対し、がーと吼える景綱に、景虎は小さくふき出した。



「相馬が来てから、景綱は随分と感情を面に出すようになったな。それだけ余計な力が抜けているということなのだろう。うむ、良いことだな」

「景虎様、いい加減に相馬の奴を引き合いに出すのはおやめくださいッ!」



 ますます顔をいからせる景綱に暖かい眼差しを注ぎながら、景虎は春日山城における軍議の光景を思い起こす。

 あのとき、戦略案を披露した加倉相馬はこう述べていた。



『――この策の通りに事を進めることが出来れば、武田と五分以上の戦が出来るでしょう。しかし、晴信殿をはじめとする武田の将たちが、素直にそれがしの掌で踊るとも考えにくい』



 加倉はそう言うと、地図上の飯山城を指し示し、自分の策が見抜かれた場合の武田の動きを予測する。



『それがしの策が見抜かれた場合、武田軍がどう出るか。それがしであれば、あえて飯山城は敵の手にゆだね、上杉の軍勢を信濃の内まで誘い込みます。その上でこれを撃滅すれば、飯山城を取り戻すことは難しくありません。信濃勢に対して上杉家恃むに足らずと印象づけることもできましょう』


 

 それゆえ、今回の戦において最も重要なのは飯山城の後詰を務める箕冠の部隊である、と加倉は言う。

 もし上杉の作戦通りに事が進んだ場合、この部隊は旭山城を強襲し、間もなく現れる武田の本隊と対峙しなければならない。

 もし加倉が恐れる事態になった場合も、おそらく自軍を大きく上回る敵の精鋭部隊と長期間にわたって対峙する必要が生じる。この方面の部隊が破られれば飯山城は孤立し、信濃衆の信頼をも失ってしまう。



 衆目の一致するところ、箕冠に駐留する部隊を率いる者は長尾景虎しかいなかった。

 その下に直江景綱が従ったのも当然である。

 だが、自身がそう望んだにもかかわらず、加倉相馬はこの部隊ではなく佐渡の制圧を命じられた。

 上杉全軍を動かす策をたてた以上、もっとも危険な戦場に立つことを当然と考えていた加倉はこの命令に驚くが、実のところ、さして意外な人事というわけでもなかった。



 佐渡制圧も十分に困難が予想される戦であり、政景を補佐する人材が必要となるのは当然のこと。

 そして現状、春日山城でもっとも政景と馬が合っているのは加倉だったりするのである。



『さて、じゃあ思う存分相馬をこきつかってあげましょうか!』

『……お手柔らかにお願いします』



 からからと笑う政景と、その政景の言葉に、深いため息を吐きながら応える相馬の顔を見て、景虎は佐渡制圧の成功にはや確信に近い思いを抱いたものであった。





 今、戦は加倉が恐れていた事態となってしまった。

 景虎は思う。

 おそらく相馬はこれを半ば予期していたのだろう、と。

 だからこそ、あれほどこちらの部隊に身をおきたいと願ったのだ。それは相馬の責任感のなせる業であろうが、しかし、それだけではないことに景虎は感づき始めていた。



 具体的な言葉で表すことは難しいが、あの青年の別の一面――己が生死を埒外に置いているあの危うさが、景虎に危惧を抱かせる。

 武田に策を見破られた場合、あの青年は我が身を犠牲としても勝利を掴もうとするのではないか。そう、かつて春日山城で自身もろとも景虎を焼き殺そうとした時のように。



 加倉を佐渡に置いたのは政景の補佐のため。それは間違いない。しかし、それが理由の全てではないことを景虎は自覚していた。

 もっとも、この時の景虎の考えは危惧以上のものではなかった。言いかえれば、漠然とした不安のようなものに過ぎなかったのだ――景虎が佐渡の戦における詳細を知るまでは。



 景虎の不安がはっきりとした形を得る切っ掛けとなる戦いが、今、佐渡の地で行われようとしていた。



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