第二十二話 開戦
越後新発田城、城外。
陸奥の蘆名軍侵入の報告を受け、春日山城から急行してきた景虎様率いる上杉軍は、春日山から引き連れてきた軍勢と、周辺の国人衆の軍勢をあわせて三千に達した。
侵入してきた蘆名軍はおおよそ二千との情報がすでに届いている。率いる将は、蘆名盛氏本人ではなく重臣の一人であるらしい。
数の上でも、率いる将の力でも、上杉軍が優位に立ったと見ていいだろう。
季節は秋、黄金色に揺らめく稲穂が越後の大地を鮮やかに彩っている。
蘆名軍の目的は、収穫前に敵領に侵入して田畑の実りを奪う刈り働きというやつだろう。もしくは火を放つ焼き働きか。
これが蘆名単独の企てなのか、あるいは武田の示唆を受けてのものなのかは判明していなかった。
ただ、俺は確信している。
この蘆名軍の侵入は武田晴信の第一撃である、と。
この戦いは定実様が春日山城主になられてから、はじめて越後に踏み込まれての戦いとなる。ここで手間取ってしまうと、上杉家おそるるに足らずと、周辺諸国のみならず越後の国人衆の間でも不穏な空気が生まれるだろう。
速やかに一戦し、速やかに追い返すべし。
春日山城での軍議は衆議一決し、再び景虎様が軍を率いることになった。
……また留守番となった政景様は、半ば本気で守護代になったことを後悔している様子だった。
政景様の嘆きは、武を誇りとする将としてもっともなことであるが、蘆名の侵入に呼応する勢力がいないとは限らず、最悪の場合、武田軍が本格的に出てくるかもしれない。
それに備える意味でも、政景様には春日山城にいてもらわねばならなかったのだ。
「オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ……」
毘沙門天の真言を紡ぐ景虎様の言葉が、出陣を控えた上杉軍の将兵を包み込むように広がっていく。
出陣前、士気を高めるために主将が将兵を鼓舞するのは戦時の習いである。
神仏に祈りを捧げたり、あるいは自軍の正義を謳いあげたりと、その方法は様々であろうが、命をかけて戦にのぞむ将兵から怖気を取り払い、勇気を奮い立たせるのは、将として当然のことであった。
「……天道は我にあり、地の大略も我にあり、人成す和も我にあり……」
そして、景虎様は出陣前に勧請――神仏の来臨を願うこと――を行うことを常としていた。
軍神、毘沙門天の化身と自他ともに任ずる景虎様のそれは、将兵が高らかに鬨の声をあげるような景気の良いものではない。
数千の軍勢が集結しているとは信じがたいほどの静謐な空間。将兵は粛然と佇み、頭を垂れる。
その将兵の真摯な姿勢に応えるように、景虎様の声が一際高くなった。
「毘沙門天よ……我に来たれッ!」
その瞬間。
神仏と縁の薄い俺でさえ、背筋を震わせるほどの『何か』がこの場に満ちた。
神気、霊気、覇気、闘気、なんでもよい。ともかく何かの気が景虎様を中心として、あたり一面を奔流となって駆け巡ったのである。
神降ろし。
真に景虎様の身体に毘沙門天が降りたのだと、この場にいるほとんどの者が信じたであろう。
心身に心地よい緊張が走り、同時に不退転の戦意が身の奥より滾々とわきあがってくる。
「毘沙門天は我と共にあり、我を阻む者なし――我の進むところ、すなわち天道であるッ!」
信越国境に向かう時とあわせて、俺が景虎様の出陣の儀に立ち会ったのはこれが二度目である。
だが、何度目であろうが関係ない。景虎様の下に集った将兵は、二度が二十度であろうとも、この方の下で戦えることを喜び、また誇りとして、全精力をもって戦に臨むであろう。
自らが正義であると、景虎様が駆けるその先にこそ天意はあるのだと、そう信じて。
「――全軍、進撃ッ!」
景虎様が小豆長光を振り下ろすや、上杉軍はそれまでの森厳とした様相を一変させ、天地を震わす喊声をあげて進軍を開始する。彼らは戦意を抑え切れない様子で、各々の得物を高々と掲げ、喊声が尽きることはなかった。
思わず俺はこれからぶつかる蘆名軍が気の毒に思えてしまった。それほどに、上杉軍の勇壮な士気は圧倒的だったのである。
◆◆
この時、越後領に進軍してきた蘆名方の将は金上盛備である。
金上は若いながらに政治、軍事ともにそつのない能力を有し、蘆名盛氏の信頼も厚く、蘆名家有数の武将として他国にも知られた人物であった。
その金上が陸奥の強兵を率いてきたのだから、この軍を破ることは容易ではないと蘆名家では考えていたであろう。
また、それは事実そのとおりだった――相手が景虎様でさえなかったならば。
蘆名家と金上にとっては手痛い教訓となったはずだ。
景虎様率いる上杉軍は新発田城を発するや、一路国境付近で布陣していた蘆名の陣に向かい、これを捕捉するとまっすぐに襲いかかった。
景虎様自らが先陣に立って蘆名の軍に斬り入ると、上杉家の精鋭が喊声をあげてそれに続く。
たちまち蘆名軍に大穴が開いた。
驚き慌てた蘆名軍は懸命に陣の破れを繕おうとしたが、蘆名の陣に食い込んだ景虎様本隊は縦横無尽に暴れまわって敵に反撃を許さない。
怒竜が火を吐きながら暴れまわるにも似た猛攻。
蘆名軍にとってははじめての経験だったに違いない。結局、半刻も経たずに陣容を突き崩された蘆名軍はほうほうの態で陸奥へと退きあげを開始する。
これを追い討てば敵を全滅させることも出来たであろうが、景虎様は蘆名軍を追わず、敵が去るにまかせた。
これにより上杉軍は蘆名軍の侵攻を退け、新発田城一帯の領土を守りぬくことに成功したのである。
景虎様は強い。
それはわかりきっていたことだった。なにしろ、俺はその景虎様と戦った身である。正面きって野戦で戦ったことはないにせよ、その武威は身に染みている。
それゆえ、景虎様の配下となって戦える今の境遇を思うと安堵が胸中に満ちる。
景虎様と戦うなんて一生に一度で十分すぎる。今さらだが、よく生き残れたもんである。
それはそれとして、味方だからこそ気づく景虎様の問題点もあった。
すなわち。
「主将が強い、というのも考えものか」
今回の戦、俺は三百ほどの兵を率いて後詰を務めていた。
全軍の一割を預かっていたわけだが、過日の内乱で一方の総大将を務めていたことが知れ渡っているらしく、この陣立てに異議を唱える者はいなかった。
それはさておき、俺の目から見ると、今日の上杉軍の強さは比類が無いものだったが、問題がないわけではなかった。
その一つは景虎様の強さが突出しているため、上杉軍全体が景虎様に依存してしまう傾向にあること。
景虎様の武勇を間近で見ていれば、血の滾りが抑えきれないことはわかるのだが、皆が皆、景虎様に追随しようとするものだから、軍としての連携を欠いてしまうのである。
今回のような力と力のぶつかり合いの戦であれば、さほど問題にはなるまい。だが、戦の規模が大きくなっていけば、無視できない問題に発展してしまうかもしれない。
たとえば武田が相手であれば、おそらく伏兵や別働隊を用いて景虎様の部隊と後陣を分断しようと計るに違いない。今日のような戦を繰り返せば、敵の思う壺にはまる可能性が高い。
それを防ぐためには、景虎様の突進に呼応して、それぞれの部隊が連動して動き、軍としての虚をつくらないようにする必要がある。
今日の戦でそれが出来ていたのは景綱と定満、それに本庄実乃くらいのものだった。つまりは旧来からの景虎様の家臣だけで、他の部隊は景虎様の突撃の尻馬に乗って暴れただけに過ぎない。
あれでは軍として機能したとは言いがたいだろう。
今日に関しては、一応俺が部隊を動かして後方を支え、敵に分断されるような隙は見せなかった。それに敵は景虎様に追いまくられていたので、反撃するような余力はなかったと思われる。
そういう意味では俺が動く必要はなかったし、新発田らの行動も勢いに乗じた好判断という見方もできよう。
しかし、繰り返すが、いつもいつも今日のようにうまく行くとは思えない。
今のうちから何かしら対策を考えておくべきではないだろうか。
「たしかにお前の言うことは一理あるが……」
本陣で景綱と話をした際、そのことを口にすると、景綱は腕組みしつつ答えてくれた。
「景虎様の神速の用兵に呼応するには一朝一夕では無理だ。むしろ、私は貴殿が追随してこられたことに驚いたものだ。よくいたした――ん、どうした、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして?」
「……い、いえ、まさか直江殿に褒めていただけるとは思っていなかったもので」
そう言ったら、なんかため息を吐かれた。
「たしかに私は貴殿に対して良い感情は持っていないが、功をたてれば褒めもする。あまり見くびってくれるな」
ちょうど良い機会だから言っておこう。
景綱はそう言うと、手近にあった石の上に座り、俺にもならうように促した。
俺がわけもわからず腰を下ろすと、景綱はゆっくりと口を開いた。
「まず、貴殿に詫びなければならない。これまで隔意もて接していたことをな。不快な思いをさせてすまなかった」
「は、はあ……いや、不快などではなかったのでそれは構わないのですが、どうしてまた急に?」
不思議に思って問い返す。
実際、俺は景綱の言葉に不快さを感じたことはなかった。
諸事に手厳しく当たられたことは確かだが、景綱が絶対の忠誠を捧げる景虎様をあわや焼き殺す寸前までいった俺を嫌い、警戒するのは当然である。
あの場合、あっさり俺を配下にした景虎様が稀有なだけなのだ。
不思議がる俺に、景綱はどこか気まずそうな表情で言葉を続けた。
「景虎様の下についてからこれまで、貴殿の行動は景虎様への誠心に満ちていた。今の話でもそれは明らかだからな、それを認めたというのが一つ。それと、もう一つ、先の景虎様と晴景様の戦いについてだが……」
景綱の話が思わぬところを突いてきたので、俺は少し緊張しながら耳を澄ませた。
低く渋い景綱の声が鼓膜を揺らす。
「戦いの契機となった柿崎城のことだ。景家殿が貴殿に討ち取られて後、弟の弥三郎は春日山が派遣した城代を殺害し、晴景様はこれを景虎様の謀略とみなして開戦の理由とした」
「――はい、もちろんおぼえています」
「率直に言えば、私はあれを貴殿の策略だと考えていたのだ。私自身がしてやられたことはともかく、景虎様に汚泥をなすりつけるがごとき真似をした者を認められるわけがない。そのことで貴殿を見る目が曇っていたのは遺憾ながら事実。かりに貴殿がそんな輩であれば、人の深奥を見抜く目を持っておられる景虎様が貴殿を受け容れるはずはないというのにな。そんな簡単なことにさえ、私は今日まで気付けなかった」
情けない話だ、と景綱は自嘲するように口元を歪めた。
ただ、俺からすれば別に情けない話ではない。主君の足りないところを補佐するのが臣下の役割なのだから、景綱が俺を警戒するのは当然のこと。
柿崎城の件にしたところで、たしかに俺が裏で糸を引いていると思われても仕方ない面はあった。俺はあの出来事から主君の痕跡を消すために弥三郎を斬ったのだから。
「――やはり、貴殿を登用した景虎様の目は確かだったのだな」
俺の目に何を見たのか、景綱は改めてそう口にするとにやりと笑った。
他意のない、素直な笑み。
多分それは、俺がはじめてみる景綱の素顔だった。妙に照れくさくなった俺は、どうして急に疑いが解けたのかを訊いてみることにした。
景綱は答えていわく。
「別に特別な何かがあったわけではない。これまでの貴殿の行動を見ていれば、私が疑っていたような策を弄する人間ではないことくらいはわかる。それに――」
景綱はやや呆れたような顔で俺の身体を見た――正確に言えば、顔や衣服の隙間からのぞく血止めの布に視線を向けた。
今日の戦による負傷ではない。理由については不恰好ながら馬を御していることで察していただきたい。
「ふ、随分としごかれたようだな?」
「……………………ええ、まあ」
「……すまん、聞くまでもなかったな」
段蔵の特訓を思い起こし、どんよりとした目で応じた俺を見て、景綱は軽く頭を下げて詫びをいれてくる。
が、その顔は明らかに笑いをこらえていた。口元がひくひくしてるし。こんにゃろう。
ともあれ、景綱と虚心で向き合えるようになれたことは素直に喜ばしいことである。
俺はそう思い、ほっと安堵の息を吐こうとした。
したのだが。
景綱は骨太な笑みを浮かべた後、こう付け足して来た。
「その努力と此度の戦ぶりを見て、いつまでも疑いを抱くような狭量な人間にはなりたくないのでな。ゆえに詫びをいれさせてもらった次第だ、すまなかったな――『相馬』」
お気になさらず、と応えようとした俺は、最後の景綱の言葉にびしりと身体を硬直させた。
見れば、景綱は満面の笑みを浮かべていたが……目だけは笑っていなかった。
「随分と景虎様と親しくなったようだな。いつのまに景虎様に名を呼ばれるようになったのやら。それに、その帯に差している鉄扇、つい先日まで景虎様の懐にあった物と同じに見えるのだが」
ずい、と一歩近づいてくる直江景綱。
ずざ、と一歩あとずさる加倉相馬。
景虎様に全身全霊で仕える景綱のことだ。どうやら疑いを解いてくれたとはいえ、新参の俺が無用に主君に近づくことを快くは思うまい。
くわえて、どうも景綱は景虎様に対して父親のような心持ちでいるらしく、我が娘に近づく有象無象に強い警戒心を抱いているようなのだ。
景綱の目には、俺が世間知らずな娘をたぶらかす不埒者に見えているのかもしんない。
「さ、さて、私はこの辺で失礼しま――」
「なに、そう急く必要もあるまい」
この場から去ろうとしてきびすを返した瞬間、がしり、と右肩に置かれる景綱の手。
つかまれた俺の肩はみしみしと嫌な音できしんでいる。
「い、いたたたッ!? な、直江殿、何やら私と直江殿の間には誤解があると思うのですよ!」
「そうか、ではその誤解を解こうではないか。なに、時間はたっぷりとある。とっくりと語りあうとしようぞ。それに、私のことは景綱でよいぞ。私も貴殿のことを『相馬』と呼ばせてもらうからな。景虎様と同じように『相馬』と。無論かまうまい、『相馬』?」
「は、はい、かまわないんですが、名を呼ぶ時に、なにか異様な迫力を感じるのは私の気のせいなのでしょうか? あと、肩を掴む腕の力が、名前呼ぶ毎に強くなってる気がするいたたたッ!?」
「さて、ではいこうか。なに、景虎様とのやりとりを一言一句、片言隻語ももらさず語ればよいだけだ。そうそう、私でさえ下賜されたことのない扇を譲りうけた一部始終も語ってもらおうか。簡単なことであろう」
私でさえ、という語句に俺はついいらぬことを問うてしまう。
「羨ましいんですか――って、いだだだッ、か、景綱殿、耳はやめッ?!」
無言で肩を掴んでいた手を放した景綱は、無造作に俺の耳を掴むと思いっきり引っ張ってきた。
「口は災いの元というぞ。気をつけろ、相馬」
「骨身に刻んで忘れませんので、手を放してくださいッ」
「髪をつかまれた方が良いならそうするが」
「……ぜひ耳でお願いいたします」
「うむ、では行こうか」
俺の悲鳴も抗議もどこ吹く風。
結局、景綱に引きずられるようにして連行された俺は、出発まで景綱の陣で延々と小言を聞かされることになった……