第二十話 琵琶と鉄扇
耳に馴染みのないその音色は、しかし不思議と琴線に触れるものだった。
俺は考えを止め、ただ聞こえてくる音曲に耳を澄ませる。
時に高く、時に低く、よどみなく流れる音色。
騒がしさは少しもなく、人の心に染み入るように穏やかで優しい曲調が続く。
そよ風に頬をなぜられているような、そんな心地よさを感じると同時に、どうしてか寂しさを――郷愁を誘われる。
いつの間にか俺は聞こえてくる音の連なりに聞きほれていた。
これまで城内で歌舞音曲の類を耳にしたことは幾度もあるが、こんな澄んだ音色は初めてだ。
さぞ名のある奏者なのだろう。俺たちが国境に出ていた間に定実様か政景様が召抱えたのかもしれない。
どんな人物なのか気になった俺は縁側から立ち上がる。
演奏の邪魔をしないよう、こっそりと音が聞こえてくる方向に足を向けた俺は、そこで無心に琵琶を奏でる奏者の姿を見出した。
俺の気配に気づいたのか、音が途絶えて奏者がこちらを見やる。
「どうしたのだ、加倉殿?」
不思議そうに問いかけてくる人物は、誰あろう景虎様その人であった。
景虎様に促されて並んで縁側に座った俺は、景虎様が抱える古びた琵琶に目を向けた。
古びた、というのは俺の主観であり、おそらくは名のある名器なのだろう。
そんな俺の内心を読んだように、景虎様が言葉を発した。
「朝嵐という。これを奏でていると、心気が静まるのでな――む、もしや眠りを妨げてしまったか? だとしたら済まない」
「いえ、考えに詰まっていた時でしたから、良い音色を聞かせていただけて、かえってありがたいくらいです。まさか景虎様が弾かれているとは思いませんでしたが」
俺がそういうと、景虎様はくすりと微笑むと琵琶をかきならしてみせる。
すると、その音に誘われるように暖かな夜風が吹き付けてきた。薫風。春日山の緑の息吹を豊潤に含んだ風が、俺と景虎様の髪をそよがせる。
互いに無言でありながら、決して気詰まりではない。
と、不意に景虎様が口を開いた。
「武田、晴信」
景虎様の口からその名がこぼれでた時、俺は驚きを覚えなかった。なんとなく、景虎様がその名を口にするような気がしていたのかもしれない。
景虎様は言った。朝嵐を奏でると心気が静まる、と。
常に自分を見失わず、何事にも平常心をもって臨まれる景虎様が、心を昂ぶらせる相手は限られている。
「率直に聞きたい。加倉殿は彼の者をどう見た?」
景虎様の問いを受け、俺は考えをまとめながら、ゆっくりと口を開いた。
「一言で言えば、大器、でしょうか」
「……大器、か」
俺の言葉を聞いた景虎様が、その意味を吟味するように口の中で呟く。
「はい。乱世を終わらせる確かな覚悟と、そこにいたる道筋が、おそらく晴信殿には見えているのでしょう。迷いのない口ぶりからそう感じました――残念です」
「む、残念とは?」
訝しげに問う景虎様に、俺は内心の思いを率直に吐露した。
「乱世を終わらせるという覚悟は景虎様も晴信殿も寸毫も変わりありません。しかし、そこにいたるための道が、お二人の間ではあまりに違う。景虎様の天道と晴信殿の覇道は、天下を統べるその時が来るまで交わることはないでしょう。それが残念に思えるのです」
もし越後と甲斐が手を携えることができたならば、おそらく戦国の終結は十年、いや二十年は早まるに違いない。だが、それが現実になる可能性はおそらくないだろう。
戦国の偉人である二人の人物を目の当たりにした今の俺には、そのことがとても残念に思えるのである。
そんな俺の内心を察したのだろうが、景虎様はどこか困ったような顔で俺を見やった。
やがて、ゆっくりとその唇が開かれる。
「確かに、晴信殿の言わんとすることはわからないではない。策謀と欲望が横行するこの乱れた世の中にあって、私の望む道がどれだけ儚いものかもわかっているつもりだ」
しかし、と景虎様は続けた。
「私にはこの道しか選べない。この大義を欠いて拠るべきものを私は持っていないのだ……」
景虎様の述懐はめずらしく語尾に力が入っていなかった。あるいは晴信の論難に、景虎様なりに思うところがあったのかもしれない。
それに対し、俺が言えることなど一つしかない。
「はい、景虎様はそれで良いのだと、私は思います」
景虎様が目をまんまるにする。俺の言葉がよほど意外だったのだろうか。
めずらしく表情をはっきりとあらわした景虎様の顔は、年相応の女性のものであった。その景虎様に向かって、俺はなおも言葉を続ける。
「天道と言い、覇道と呼ぶ。どちらが正しいかなんてわかりませんが、どちらを選ぶかと問われれば、私は景虎様を選びます。その先に戦乱の終結があるのだと信じます。それは多分、私に限った話ではなく、直江殿や宇佐美殿、それに他のたくさんの人たちも同様でしょう」
奇麗事とか、偽善とか、口さがない者たちは言うだろうが、言わせておけばいい。
いみじくも景虎様自身が言われたように、景虎様の考えは万人に支持されるものではない。
それでも――
「千里の道も一歩から。千年生きる将軍杉にも苗木の時はあったのです。大切なのは景虎様が胸を張って歩き続けていくことなのだと思いますよ」
景虎様の覚悟も、積み重ねてきた研鑽も、いずれ必ず報われる時が来る。歴史を知るからこその言葉であったが、たとえその知識がなかったとしても、俺は同じことを言っただろう。
我ながら偉そうなことを、と思わないでもないが、それが偽りのない俺の真情であった。
「――風雪に耐え、越後の、いや、天下の民が仰ぎ見る大樹になるか否か、すべてはこれからということだな」
俺の言葉を聞き、景虎様は呟くように言った。
しばしの間、沈黙があたりを包み込む。
やがて、景虎様が俺に問う眼差しを向けてきた。
「加倉殿はどのような拠りどころをもってこの乱世に立ち向かっているのか、聞かせてもらってよいか?」
「拠りどころ、ですか……うーん」
「む、すまない、いささかぶしつけであったか」
「いえ、別にそんなことはないのですが、ただ、あまり胸を張れる理由ではないんで……」
そう言ってから、俺は景虎様の問いに対する答えを胸の中で整理する。
乱世に立ち向かう理由と景虎様は言ったが、正直、そこまで確たるものは俺にはない。なにしろ望んでこの地に来たわけではないのだから。
しかし、ただ状況に流されてここにいるわけでもない。そのあたりを言葉にするのは気恥ずかしいのだが、今も俺を見つめる景虎様の眼差しに抵抗できず、俺はゆっくりと口を開いた。
「――命の恩には命をもって報い、信頼には誠実をもって応える」
俺の言葉に、景虎様が小さく頷く。
「良い言葉だ……それは、何かの教えなのか?」
「教えと申しますか、幼い頃、口をすっぱくした父に叩き込まれた言葉です。今の私の拠りどころは、この言葉なんです」
視線を夜空に向け、星月の明かりに目を細めながら、俺は言葉を続けた。
「私は望んで越後に来たわけではありません。晴景様に仕えていた理由は、ひとえに命を救っていただいた恩に報いるためでした。乱世を終わらせたいと願っていたわけではないのです」
天道を駆ける景虎様に比すれば、我ながら小さいものだとため息が出そうになる。
だが、景虎様は特に表情をかえることなく、俺の言葉に耳を傾けてくれていた。
以前、晴景様につけられた額の傷にそっと手をあてながら、俺は話を続ける。
「晴景様の信と、弥太郎や多くの兵士たちの奮戦のお陰で、私は春日山の将として名を知られるようになりました。それで天下に目を向けたかと問われれば、やはり否です。ただ、晴景様と春日山の皆が平和に過ごせればいいと、俺が考えていたのはその程度のことなんです」
だが、そうこうするうちに事態は最悪の方向へ――晴景様と景虎様の対決へと移ってしまった。
結果、俺は越後の半分を指揮し、景虎様と矛を交え、そして。
『妾が譲ってやれるのは、妾が持つ中でたった一つ、妹に優るもの。それしかあるまい』
『相馬の力はそなたの望みを果たす支えとなり、相馬の心はそなたの道を照らす灯火となろう。これが、何一つしてやらなんだ姉の、最後の芳心じゃ』
転機というものがあったとすれば、その一つは晴景様の最後の言葉を聞いた時だろう。
晴景様に誘われ、景虎様と手を握り合い、そして俺の主君が長尾景虎となったあの時。
「――私は晴景様が誇る将であり続けなければなりません。そして、景虎様を支えるだけの器を持たなければならない」
晴景様の恩に報いる。景虎様の信義に応える。その決意こそが俺の拠りどころだ。
そしてもう一つ。
長尾景虎――上杉謙信。いかに晴景様の言葉があるとはいえ、歴史に不滅の名を刻むような人物に俺などの力が必要なのだろうか、と思わなかったといえば嘘になる。
だが武田晴信と対峙し、言葉と心を昂ぶらせ、今こうして落ち着くために琵琶を奏でている景虎様を見て気がついた。俺の前にいる景虎様が、俺の知る上杉謙信という英雄ではないことを。いずれはそこに辿りつくにしても、今はまだその途上にいる人なのだということを。
もちろん、今のままでも景虎様は凡人の遠く及ばない場所を駆けているわけだが、それでも努力と研鑽次第で景虎様の力になることは可能だろう。
歴史上の人物だからといって、なんでもかんでもできる超人ではないのだ。
このことも俺の支えになっている。晴景様の言葉ゆえではなく、俺自身の内から芽生えた想いだ。
俺はある程度言葉を選んで景虎様に真情を伝えた。
それを聞いた景虎様は何やらびっくりしたようにこちらを見つめるばかり。
我ながらこっぱずかしいことを言った自覚はあったので、そっぽを向くしかなかった。たぶん今の俺は顔中真っ赤だろう。ああ、恥ずかしい。
だが、それでも言葉を改めようとは思わない自分が、少しだけ嬉しかった。
「……加倉殿」
「は、はい」
「これを」
そう言って、景虎様が懐から取り出したのは扇だった。
突然扇を差し出された俺は、恥ずかしさも忘れて扇と景虎様の顔を交互に見た。
「あの、これは?」
「そなたの芳心への、感謝の気持ち、だな」
この時代、扇は風をあおぐという役割のほかに、儀礼や贈答用の道具としても用いられていた。また、いつも持ち歩く物であることから、それを他者に与えるということはそれだけの信頼を意味すると考えられ、扇の贈答は武士の間では格別な意味を持っていた。
そのことを思い出した俺は、口にしかけた謝絶の言葉を寸前で押しとどめる。
目上の人間からの贈り物をつきかえすなど非礼きわまりない。景綱あたりに知られたら、脳天を叩き割られかねん。もっとも、俺が景虎様から扇をいただいたと知られれば、それはそれでまずいような気もするのだが、それは考えないことにしよう。
「あ、ありがとうございます。謹んで――って、おぅわッ!?」
畏まって扇を受け取ろうとした途端、俺の口から悲鳴じみた声がもれた。
手に感じた重さが予想外だったのである。
思わず床に落としてしまいそうになったが、何とかその寸前に掴み取ることに成功する。
しかし、両手で持ってなおずしりと重い。一体なんだ、この扇。
その俺の疑問に景虎様は慌てたように答えた。
「す、すまぬ。それは鉄扇なのだ。かなりの重さゆえ、扱いには気をつけてくれ」
「あ、なるほど、そうだったんですか」
俺は納得して頷いた。
鉄扇――文字通り鉄でできた扇である。場所をとらず、持ち運びも容易なことから、護身具として用いられることもあるという。
鉄扇ならこの重さも頷ける。持っているだけで手がしびれてしまいそうだった。
扇を開いてみると、その中央に長尾家の九曜巴が刻まれている。
家紋が刻まれた扇がそう何本もあるとは思えない。どうしてまた、急にこのようなものを景虎様は授けてくれたのだろうか。
だが、景虎様はそれ以上説明しようとはせず、再び琵琶をかきならした。
「……今一度、奏でたい気分だな。加倉殿は……」
「そうそう、景虎様、その『加倉殿』というのはそろそろやめにいたしませんか」
「む、何ゆえだ?」
訝しげな景虎様に、俺は頬をかきながら答えた。
「私は景虎様の臣下ですし、景虎様がそうお呼びになると、直江殿などもそう呼ばざるをえないので、いかにもいやそうな顔をされるんですよ。加倉、もしくは相馬と呼び捨てていただいて結構ですので」
「ふむ……姉上の下から来てもらったのだから問題ないとは思うのだが、加倉殿が気になるというのであれば改めよう」
そう言って、景虎様は琵琶を抱えたまま小さく首をかしげ、やがて俺の名を口にした。
「では、相馬、と。今後はそう呼ぶことにしよう。それでよいか?」
「はい、お願いいたします」
俺が頷くと、景虎様も小さく頷きをかえしてきた。
そして、おもむろに琵琶を奏ではじめる。
その音色に耳をくすぐらせながら、俺はゆっくり瞼を閉ざす。
先刻までは色々と張り詰めていた心が、いつのまにか穏やかさと余裕を取り戻しつつある。
今ならば武田に対抗する策を考え付くことも出来そうだ。
とはいえ、折角の景虎様の琵琶を聞き逃す法はない。武田のことを考えるのはこの演奏が終わった後でもかまわないはずだった。