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聖将記  作者: 玉兎
第二章 宿敵
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第十九話 謀主任命


 信越国境における武田軍との対峙が無血で終わって数日。

 国境の危険が完全に去ったことを確認した上で、景虎様率いる上杉軍は春日山城への帰途についた。

 もちろん、この地の領主には厳重な警戒と防備を命じた上でのことである。



 景虎様と武田晴信との舌戦が物別れで終わった以上、いずれ両軍は必ずぶつかる。

 問題はその時期だが、越後は内乱で、甲斐は信濃制圧で、それぞれ大軍を動員したばかりである。

 大規模な動員のためには農繁期を避ける必要があることを考慮すれば、次の戦はおそらく晩秋、収穫が終わった後のことになるだろう。



 春日山城に戻った景虎様は、甲冑を脱ぐ間も惜しんで定実様の下に赴き、国境での報告を行った。

 ――武田との戦、不可避なり。

 その報告を聞いた定実様の顔は強張り、留守居役を押し付けられて不機嫌そうな顔をしていた政景様も表情を改めた。

 政景様が腕を組んで口を開く。



「景虎の話からすると、向こうは予想以上にやる気みたいね。ならばこちらも心置きなく義清殿に合力できるというもの。いや、武田の国力を考えれば、私たちが義清殿に助力するというより、正式に対武田の盟約を結ぶべきかしら」



 上杉家が越後一国を鎮めたばかりであるのに対し、武田家は代々守護職として甲斐を統治し、そして今は信濃のほぼ全土を手中に収めている。単純に国力を比較すれば向こうに軍配があがるだろう。

 その武田家に対抗するためには、味方は一人でも多い方がいい。

 上杉家が村上家に助力してやるという恩着せがましい立場を取るより、対等の関係で盟約を結んだ方がいい。そうすれば村上以外の信濃衆の心象も良くなるだろう、と政景様は言った。



 極端な話、義清が上杉家をたのむに足りずと考え、武田に降って村上家を再興するという選択肢もある。

 むろん、これは義清の人となりから言ってありえないのだが、それでも義清にそういう選択をさせないための配慮をおろそかにしてはならない。それが政景様の考えだった。

 これには景虎様も諸手をあげて賛同したので、定実様から義清に話が回ったのだが――この案に誰よりも強く反対したのは、当の義清であった。



「それがしは武田に敗れ、貴家の情けにすがってこの城で起居する身。合力していただけるだけでもありがたいというのに、このうえ貴家と対等の盟約を結びたいなどとは考えてもおりませぬ。そのような傲慢は神仏も許したまわぬと心得る」



 静かに、しかし確かな意思の強さを感じさせる声で義清は淡々と言った。



「武田の精強は誰よりも知っておりもうす。信濃の所領を回復することがどれだけの難事かも。ゆえに、今は上杉の一武将として働き、その難事に挑むことこそそれがしのただ一つの望みでござる」



 義清の申し出は、とても武田の侵攻に抗った人物とは思えないほど謙譲に満ちていた。

 それだけ村上義清という人物は、淳良なものを内に秘めているのだろう。

 当然のように諸将は義清に好感を持った。

 そして、そんな越後側の好意は義清にも感じ取れたのだろう。春日山城に来て以来、ずっと張り詰めた表情をしていた義清の顔がかすかにほころんだ。



 越後側と義清との距離が少しだけ、だが確実に縮まる。

 時をかければ、この距離をさらに縮めることも可能だろう。その後の軍議が一層活発になったのは言うまでもないことであった。


 


 その後も軍議は続く。

 武田との衝突の時期については、晩秋と全員の予測が一致したが、武田家が裏をかいてくる可能性は低くない。なにせ相手はあの武田晴信なのである。警戒しすぎるということはないだろう。

 その一方で、武田のみを注視しているわけにもいかなかった。

 越後国内も完全に静穏というわけではないのである。



 武田の侵攻が秋以降になるのであれば、それまでに国内体制を磐石なものにしておきたい。

 さもなければ武田家の――いや、晴信の鋭利な策謀の刃が、いつこちらの背に突き立てられるか知れたものではなかった。

 俺の勝手な印象だが、大熊朝秀とか北条高広とか本庄繁長とか、越後は謀反が多かった。ちなみに大熊朝秀とは先の信越国境で顔をあわせていたりする。謀反を起こしそうな人ではなかったが……まあ俺の知る歴史と今の状況では全然違うからな。



 ともあれ、乱れた越後の人心を安定させる必要がある。

 要するに新しい越後の統治体制がゆるぎないものであることを民衆や国人衆に納得させるのだ。定実様、政景様、景虎様の御三方が、心底から力を合わせていることを知れば、国内でそれに刃向かおうとする者はいなくなるだろう。

 それができてはじめて武田軍と戦う土台が完成するのである。



 ここで気になるのは対武田の戦略を誰が練るのか。

 景虎様たちが国内に専念する以上、おそらくは宇佐美定満だろう。

 背が高く、細面で、どこか鶴のように清雅な印象を与える定満は、軍議の席ではよく舟を漕いでいる居眠り老人である。もっとも、その調略の冴えは我が身で確かめているので侮る気は微塵もない。

 あの人の頭の中には、俺では及びもつかないような智謀が詰まっている。

 武田相手の戦略を練ることができるのは定満をおいて他になし。

 俺はそう思っていたのだが――



 話し合いが対武田に及ぶと、越後一の智者はのんびりとした口調でこう言い放ってくれやがりました。



「それでは、武田との戦は加倉殿に任せようかの」



「……はい? あの、宇佐美殿、今なんと?」

「それでは、武田との戦は加倉殿に任せようかの」



 ご丁寧にもう一度同じことを同じ口調で繰り返してくれました。

 どうやら聞き間違いではなかったようだが、俺は首を傾げざるをえない。



「宇佐美殿、あの、冗談、ですよね?」

「さて、冗談とは何のことか。それがしはしごく真面目に申したのだが」

「はあ、そうですか――って、なんで俺!? あ、いや、私がそんな大役を!?」



 思わず声がうわずってしまった。いかになんでも荷が勝ちすぎるだろう。

 慌てふためく俺を見た定満は、ほっほと笑って事もなげに言った。



「何事も経験よ。若い時の苦労は買ってでもせよと言うではないか」

「あ、いや、他のことならともかく、武田相手の戦で俺が戦略を練るのは……」



 越後の国運を賭けた武田との戦いの絵図を描く。その役を任されるということは、将としてこれ以上ない名誉であると言えたが、さすがにはいわかりましたとはいえなかった。

 武田晴信を間近で見た後であれば、なおのことだ。



 しかし、見るかぎり定満は本人が言うとおり真面目そのもの。

 俺はとっさに反対してくれるであろう景綱に視線を向けたが、なんとも微妙な表情の景綱についっと視線をそらされてしまった。その顔は困惑する俺を楽しんでいるようにも見えたし、あるいは不満を無理やり押さえ込んで不機嫌になっているようにも見えた。



 何なんだこの状況、と思いながら俺はなおも抗弁しようとする。

 ここは定満よりも上位者である景虎様に反対してもらう方がいいと考えた俺は、視界に景虎様の表情をとらえ、その涼やかで濁りのない眼差しが自分に向けられていることに気づき、咽喉まで出かかっていた言葉をのみこんでしまった。

 そこにあったのは、あまりにも明瞭な信頼の眼差しであったからだ。



 ――今際の際に、晴景様から託された言葉が甦る。

 そう。俺は越後の聖将の傍らにあらねばならない。それが今は亡き主君との約定である。

 そして、その資格は座して得られるものではない。証明しなければならないのだ、周囲にも、自分にも。俺は春日山にいていいのだと。



 そのことはわかっているつもりだった。

 だが、つもりではいけないのだ。

 そも、武田家と戦うことを拒絶して、どうして景虎様の助けになれようか。

 景虎様は晴信と戦い続けることになる。他の誰が知らずとも、俺だけは知っていたというのに、いざとなるとそんな簡単なことさえ忘れてしまう。

 この地でそれなりの修羅場をくぐってきたつもりだったが、やはり人格というのは一朝一夕に成長するものではないらしい。



 しかし、遅ればせながらではあっても、気づくことができたのは上出来である。

 正直なところ、自信はないし、不安も尽きないが、それでもこの任から逃がれることは今日まで積み上げてきたものを自ら捨て去るに等しい。



 ――信頼には誠実でこたえる、だよな。親父にどやされるところだった。



 内心で亡き父親の言葉を反芻しながら、俺は一同に向けて頭を下げる。

 定満の要請を受け容れることを表明するためであった。



◆◆



 武田家に勝つ。

 言葉にするのは簡単だが、実際にそれをなすのは至難の業である。

 晴信自身の力はもとより、その配下には勇将智将がずらりと並び、一朝一夕には抜くべくもない壮観を呈している。

 山本勘助、山県昌景、武田信繁、内藤昌豊、馬場信春、春日虎綱と並べただけで、もう勘弁してもらいたい気分で一杯である。

 当然、その下にも小山田やら木曽やら聞き覚えのある名前が目白押しで、彼らが誠心誠意、武田という家に忠誠を尽くしているのだから、これを打ち破るのは容易なことではなかった。



 だが、そこを何とかするのが俺に課せられた役割である。

 なので、少し視点を変えてみた。

 武田に勝つことは簡単ではないが、武田に勝ちやすい状況をつくることはできる。

 まずそこから考えるべきだろう。



 そのために、俺は武田に関する情報を義清から教えてもらった。武田の情報を知るに、義清以上の者はいない。

 義清は若すぎる俺に困惑を禁じえないようであったが、すぐに気を取り直したように色々と教えてくれた。

 そうして義清の口から武田家に関する情報や人名を聞いていくうち、俺はいくつかの疑問を覚えた。

 なんか武田の家臣、若すぎないか?

 他にもこの時期に飯富昌景が山県姓を名乗っていることも不思議である。昌景が山県家を継いだのは、信玄の嫡男である武田義信が謀反を起こした後のはず。昌景の兄である飯富虎昌はどこに消えてしまったのだろう。

 義清の口からその疑問の答えを聞いた俺は驚きを隠すことが出来なかった。



「躑躅ヶ崎の乱、か。やっぱり俺の知っている歴史とは違うんだな」



 夜半、春日山城の自室の襖を開け、縁側で月を見上げながら呟く。

 史実では、晴信は北信濃の村上家と激戦を重ね、戸石城攻めでは手痛い敗北を喫している。いわゆる『戸石崩れ』である。

 だが、この地ではその戦いはなかったらしい。義清は善戦敢闘したものの、ついに武田に対して勝利をおさめることは出来なかったと言っていた。

 その代わり、というべきか、武田家は先代信虎と晴信の代替わりに際し、多量の血を流す内乱を経験している。

 甲斐全土を巻き込んだその大乱を、人々は『躑躅ヶ崎の乱』と呼び習わしているそうだ。



 武田の誇る多くの将がこの戦いで散ったらしい。飯富虎昌や板垣信方、真田幸隆らもその中に含まれる。

 もっとも、それだけの内乱を経たにも関わらず、内乱終結後、間をおかずに攻め寄せてきた信濃勢を殲滅し、信濃進出を成し遂げた上、現在の精強な家臣団を形成してのけた晴信こそ恐るべきといえた。

 この世界の晴信は、すでに後年の信玄レベルの心身を備えているのかもしれない。



 そんな晴信と戦い、勝利しなければならないのだから、俺の責任は重大である。

 とりあえず、実際の戦場における陣立て等の戦術面は武田を良く知る義清に委ねた。決して丸投げしたわけではないのであしからず。

 俺が考えるべきは戦場での進退ではなく、戦略的に武田家に対抗する方法である。

 具体的には、対武田の包囲網を築けないか、ということだった。

 


 甲斐、信濃と接する有力大名といえば相模さがみの北条、駿河の今川、上野こうずけの山内上杉、美濃の斉藤道三というところである。

 飛騨や三河は群小の勢力が争っている状況で、他国を攻めるような力はない。

 これらの勢力と結び、武田家を包囲すれば、いかに武田家が強大であっても勝利することはできる。



 だが、それは難しいと言わざるを得なかった。

 まず、躑躅ヶ崎の乱において晴信側に立った駿河の今川は、それ以後武田家と友好関係を保っており、こちらの話に聞く耳を持つまい。

 この時代、まだ後年の三国同盟は結ばれておらず、相模の北条家に関しては越後側に抱き込むことも不可能ではないが、その北条家の目はもっぱら関東に注がれている。その上、今川家と北条家は同盟を結んでおり、上洛を目論む今川家からは両家に対して積極的な働きかけがなされているらしい。



 となれば、遠く越後からの呼びかけに北条氏康が応える可能性は極めて低いだろう。

 上野の山内上杉家に関しては、北条の執拗な攻勢に苦しめられており、他国を攻めるより先に自国を守らなければならない状況である。

 斉藤道三に関しては、特に武田家と険悪な間柄というわけではないし、美濃と信濃は木曽山脈をはさんで地理的に隔絶されていることもあり、こちらが使者を出したところで色よい返事は期待できないだろう。



 つまるところ、武田家包囲網を築くことは至難の業ということである。

 たまたま四方の情勢が、武田家に対して有利に働いている――そう考えるのは無理があった。間違いなく、武田晴信は四囲の情勢を全て考慮した上で越後に刃を向けたのであろう。

 孫子の兵法は外交と情報に重きを置く。三国同盟が成立するのも、そう遠い先の話ではないと思われた。



 敵ながら見事なものと感心せざるをえなかったが、しかし感心してばかりはいられない。武田家包囲網を築くことが無理ならば、次に取り組むべきは、逆に武田側に越後包囲網を布かれないようにすることである。



 越後の周囲には越中、信濃、上野、出羽、陸奥などがあるのだが、武田家と違い、上杉家はそのいずれとも友好関係を築いていない。

 ことに越中と上野との関係は悪かった。

 先々代の為景時代、越中に攻め込んでこれを領土に組み込み、さらに関東管領の血筋に連なる越後守護を放逐している。これで関係がよかろうはずがない。

 上野に関しては前述の理由で越後に手を出す余裕はないだろうが、越中に関しては要警戒だ。



 次に出羽であるが、こちらは飛騨や三河と同じく国内がまとまっていないから大丈夫だろう。

 問題は陸奥の蘆名だ。こちらは英明な当主盛氏を中心として良くまとまり、隙あらば越後を侵そうとしている。陸奥との国境では頻繁に蘆名方の兵士の姿が見かけられるとのことだった。



 注意すべきは、越中と陸奥。武田が誘いの手を向ければ、おそらく両者は兵を動かす。

 そして、実はもう一つ注意すべき勢力がある。それは春日山の北、日本海を越えた先にある孤島、佐渡島を領地とする本間氏の存在であった。



 日本海という天然の防壁を有し、佐渡金山という金鉱脈を抱えた佐渡本間氏の力は、越後の国人衆の中でも際立って高い。

 また、宇佐美定満によって越後を追い出された為景は、佐渡に逃れ、本間氏の協力のもとで勢力を回復させている。そのため、佐渡本間氏は春日山長尾家の配下であるという意識が薄く、対等の同盟者であると考えている節があった。

 その証拠に、俺は今日まで春日山城で本間氏の姿を見たことが一度もない。先の定実様の越後守護就任の儀にも、本間家は代人を遣わしただけで当主はやってこなかった。

 要注意である。




「――しかし、こうやってみると、国内は固まっていないわ、四方は敵だらけだわ、散々だな」



 越後の統一が遅れたというよりは、武田の侵攻が早すぎたせいであろうが、それにしても難儀なことだ。

 政景様の言葉ではないが、武田の襲来が越後の内乱が終わった後で本当に良かった。もし晴景様在世中に武田が越後への侵攻を開始していたら、下手すると前に景虎様、後ろに晴信とかいう洒落にならない状況におちいっていた可能性がある。ああ、考えたくねえ。



 ともあれ、はっきりしたことがある。

 武田家と戦うためには、今の越後は隙だらけということだ。

 晴信はその隙を見逃すような愚将ではなく、必ず外交で越後を包囲してくるだろう。

 それを防ぐためにはどう動くべきか。



 ――俺がそのことを考えようとした時、不意に、聞きなれない音色が耳に飛び込んできた。




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