第十八話 竜虎対峙す
軍議において景虎様の信越国境への出陣が決定され、翌日、俺たちは五千の大軍を率いて春日山城を進発した――という具合にはいかなかった。
この時代、兵士のほとんどは農民であり、彼らを集め、編成し、軍勢に組み込むにはそれなりの時間と手間を要する。
その上、越後はつい先日まで激しい内戦が繰り広げられていた。ようやく内戦が終わり、家に帰ってほっとしている農民たちを休む間もなく戦に駆りだせば、間違いなく越後の新政権の評判は下がってしまう。
御家の危急存亡の時ならば仕方ないが、今のところ戦火は越後に及んでいない。強引な動員は避けるのが賢明というものであった。
そんなわけで、今回景虎様に従った兵の数は少なく、わずか一千。そのほとんどが景虎様直属の栃尾勢、定満直属の琵琶島勢、景綱直属の与板勢、というように各自の手勢であった。
ちなみに、俺にも手勢はいる。十名そこそこの小勢であるが、精強さではそこらの隊に負けないだろう。なにせあの鬼小島がいるのだからな。
俺としては、弥太郎ほどの武勇の持ち主であれば、定実様なり、政景さまなり、あるいは景虎様なりの下で活躍できると思うのだが、弥太郎自身が頑として受け付けなかった。
あくまで俺の配下で、と望む弥太郎。
鬼小島ほどの剛勇の将にそこまで慕われて嬉しくないわけがない。まして、今の弥太郎は可憐な乙女であるから尚更だ。
というわけで弥太郎は引き続き俺の配下にとどまっている。他の十名も同様だ。実に律儀な人たちばかりな越後の国であった。
当然だが、彼らの俸禄は俺が払わなければならない。ひとり分は少なくても、十名以上ともなればそれなりの額になる。
だが、これに関して俺の懐が痛むことはなかった。
今の俺の俸禄は景虎様から出ているのだが、実はこれ、かなりの高額なのだ。まがりなりにも春日山の総指揮をとっていたせいもあるのか、重臣なみの俸禄を頂いている。それゆえ、弥太郎たちの俸禄を払っても十分お釣りが来るのである。
前歴はどうあれ、景虎様の配下としては新参の俺に対して破格ともいえる好待遇であったから、他の家臣たちの嫉視は免れないだろうな、と俺は半ば覚悟していた。
しかし、どうも思った以上に俺の評判は越後国内で広がっているらしい。むしろ、これからよろしくお願いしたいとたずねてくる人たちの数に面食らったほどである。
無論、俺に対して好意的な人ばかりではなかったが、その彼らにしたところで不穏な言動をするでもなく「この若造の評判、まことかどうかしっかと見定めてくれよう」みたいな態度なので、かえって拍子抜けしてしまったほどだ。
景綱に言わせると、景虎様の人徳の賜物であるらしい。他の家ならこうはいかないだろうとのこと。
越後の人々の竹を割ったような気性はとても好感が持てる。彼らを失望させないように努力せねばなるまい。
ともあれ、上杉軍は一千の軍勢を率いて春日山城を発った。
箕冠城の大熊朝秀ら、道中の諸将にはすでに早馬が遣わされているので、武田軍と接触する頃には上杉軍の数は倍近くにまで増えているだろうと思われた。
◆◆
俺がこの地に来て数月。やむにやまれず、軍略だの指揮統率だのといった仕事を任され、そういった経験は嫌と言うほど積むことができた。
なにせあの上杉謙信と戦って生き延びたのだ。経験値が三万くらいはいったと考えてもいいのではなかろうか。我ながらよくわからん表現だが、心情的にはそんな感じである。
だが一方で、個人の身体能力や技能はさしたる成長を見せていない。具体的に言えば、刀を振るったり、槍を振り回したり、馬に乗ったりといった武芸全般に関してである。
貧乏学生だった俺は、健康こそ資本とごく自然に理解していたので、体力にはそれなりに自信があった。自分で自分のことを清貧といってはさすがに笑われてしまうだろうが、少なくとも贅沢におぼれるようなことはなかったから、結構身体も引き締まっていると思う。
だが、それはあくまで現代日本を基準にした上でのこと。
この越後の国にあって、俺がすごして来た環境なぞ贅沢もいいところで、俺の体力だの膂力だのは一般的な兵士レベルで見てもお話にならない。
だからこそ、これまでもいざ実戦という段階では俺はほとんど役に立っていない。柿崎との戦でも、その後の景虎様との戦いでも、実戦においては弥太郎の方がよほど勝敗を左右する働きをしている。
これは将としての威厳云々以前に、男としてかなり情けない。
弥太郎のようにばったっばったと敵をなぎ倒したいとは言わない。が、せめて戦場で己の身を守れるくらいには強くなりたかった。
それに、馬に関しても轡を取っている弥太郎におんぶにだっこの状態だ。具体的に言うと、走る、止まる、その他の指示はすべて馬と併走しながら弥太郎が出しており、俺は完全に鞍上の荷物と化している。
弥太郎がいなければ、馬は俺の言うことなんぞ聞いてくれないだろう。
かように俺は戦場ではお荷物だった。
今までは状況的に仕方なかった部分もあるが、これからもこのままというわけにはいかないだろう。
弥太郎に頼らずともやっていけるようにならなくては――というようなことを当人に言ってみたのだが。
「うー……」
なぜ露骨に残念そうな顔をするのか、鬼小島。
俺が不思議に思って問いかけると、弥太郎は正面を向きながら――つまり俺に顔を向けないまま――ぼそぼそと呟いた。
「も、もちろん加倉様がお強くなって、馬もひとりで乗れるようになるのは良いことだと、思うんですけど……ただ、その、そうなってしまうと、もうこうやってご一緒できなくなってしまうのかな、と……」
ああ、自分の役割が不要になってしまうのが嫌なわけか。
ふむ、笑い飛ばしてもいいのだが、繊細な乙女心を考慮するとそれは悪手。ここは真摯に答えよう。
「弥太郎がいる場所が、俺の前から横にかわるだけだ。一緒に戦うことに違いはないよ」
「そ、そうでしょうか……?」
「ああ。今は俺の未熟のせいで轡を引いてもらっているが、俺が一人前になれば轡を並べてもらう。違いといえばそれだけだ」
「あ……は、はいッ!」
こちらを振り向いて、ぱあっと笑顔になる弥太郎。
よし、繊細な乙女心を傷つけずに済んだようだな。そう思って安堵した俺は、ついつい要らぬ軽口を叩いてしまった。
「そもそも俺が弥太郎を手放すわけないだろうが。ご一緒できなくなる、なんてのは余計な心配だよ」
「………………ッ」
「ん?」
予期していた返答がないので弥太郎を見ると、弥太郎はすでに前を向いていた。
なにやら轡を取る手がぷるぷる震えている気がするが、なんか怒らせてしまっただろうか。
あ、もしかして「余計な」って言葉が余計だったかも。
真剣に心配していた事について「余計なことだ」なんて笑われたら、俺だってむっとする。
よく見れば、首や耳も赤くなっているし。
失敗したなあ、と馬上で天を仰ぐ。
実はこの後、休憩の際にでも弥太郎に槍の手ほどきをしてもらおうかと考えていたのだが、相手がこの様子ではいかにも頼みにくい。
それでも黙っているのはそれはそれで気詰まりなので、おそるおそる黙り込む弥太郎に訊ねてみた。
すると。
「必要ありませんッ」
言下に拒絶された。なにゆえ。
「加倉様がご自分で刀や槍を振るう必要はないです。私がいる限り、加倉様には指一本触れさせませんからッ」
「い、いや、しかし自分の身くらいは守れるようになりたいんだが……」
「私では、お役目を果たせないとお考えなんですか……?」
いや、そこで潤んだ眼差しを向けてくるのは反則だろう、弥太郎。
大きい身体をしゅんと縮こまらせている弥太郎を見て、俺は自分でも大げさだと思うくらい声を高めた。
「そ、そんなことはないッ。うん、弥太郎がいれば安心だ。俺は采配のことだけ考えていればいいわけだな!」
「は、はい、そのとおりです、加倉様ッ」
「うむ、任せたぞ、小島弥太郎!」
「御意ッ!」
たまたま――かどうかわからないが――近くを通りかかった直江景綱が呆れたように声をかけてきた。
「何を真顔で恥ずかしい話をしているのだ、おぬしらは」
「言わないでください……」
遠くに視線を向ける俺。
何がはずかしいのだろう、と首を傾げる弥太郎。
急を要する行軍のはずなのにどこか緊張感に欠けた長尾軍――もとい上杉軍であった。
だが、そんなほんわかした空気も一時のこと。
信濃との国境が近づくにつれ、皆の顔は厳しく引き締まり、無駄口を叩く者はいなくなる。
すでに国境周辺の領主らも合流し、上杉軍の兵力は千をはるかに越え、二千に達している。
そこに急報が届けられた。
伝令は信越国境に多数の騎馬軍団が現れたことを告げた。
数はこちらと同じく二千。掲げる軍旗は『四つ割菱』と『孫子四如』。
甲斐の武田晴信の軍勢に間違いないと思われた。
◆◆
武田軍の姿を遠望した俺は思わず息をのむ。
二千もの人間と軍馬が集まっているとは信じられないほどの静粛さ。その掲げる軍旗のごとく静林を体現している。
にもかかわらず、敵軍は底知れない威圧感を放っていた。
陳腐なたとえだが、嵐の前の静けさ、というやつだ。今は静かに佇んでいる武田軍は、しかし、ひとたび大将の号令が下るや、堰を破った激流さながらの勢いで敵軍を蹴散らし、飲み干し、押し流してしまうのだろう。
相対する敵軍がそう確信してしまうほど、今の武田軍の鋭気は研ぎ澄まされていた。
されど、敵がかの甲斐武田家の軍勢ならば、こちらは越後上杉家の精鋭である。
そして、それを率いる将は長尾景虎。越後方の将も、兵も、武田の最精鋭を前にして怯む様子など微塵も見せぬ。
掲げる『上杉笹』と『毘』の旗は、新生越後国の初陣を祝福するかのように誇らしく風に翻っている。
それを見て、俺はいつのまにか敵軍に呑まれかけていた自分に気づき、両の頬を叩いて気合を入れ直した。
俺はあの上杉謙信と戦ったのである。武田信玄と向き合ったところで、恐れる必要はないではないか。そう自分に言い聞かせながら。
互いの顔を見て取れるほどの距離に近づいた時、武田上杉両軍の指揮官は手を挙げて全軍を停止させた。
そして、互いに陣頭に馬を進める。
武田晴信と思われる人物が俺の視界に映った。
腰まで伸びた黒髪が初夏の光を浴びて鮮やかに照り映える。
女性であることは噂で聞き知っていたが、思った以上に若い。俺の感覚で言えば高校生か、下手をすると中学生に見えてしまう。
だが、この人物の真価を知る上で外見ほど不要な要素はないだろう。
内面の奥深さを物語るように晴信の顔にはいかなる表情も浮かんでいない。だが、それは決して無表情であることを意味しなかった。
俺は初めて知る。
世の中には、ただ眼光だけで他者を圧する者がいるのだと。
表情をつくらぬことで、相手に畏怖の思いを呼び起こす者がいるのだと。
我知らず身体が震えた。
武田晴信――景虎様と同様、歴史に不滅の名を刻み込む虎将の姿がそこにあった。
「――『上杉笹』に『毘』の旗印、貴女が長尾景虎ですか。聞けば越後一国を平らかにしたとか。ひとまず祝辞を述べておきましょう」
晴信の口から明瞭な声が流れ出る。
澄んだ女性の声は、しかし内心の深遠をあらわすように奇妙な奥深さが見え隠れしている。
景虎様が凛とした声で応じた。
「いかにも、私が長尾景虎です。その威風、貴殿こそ甲州武田家の総帥たる武田晴信殿とお見受けいたしますが、相違ありませんか」
「ええ、私が武田晴信です」
そう応えると、晴信は、さて、と口を開く。
一瞬、その目に刃の光が煌いた気がした。
「挨拶は済みました。本題に移りましょう。わざわざ国境に物々しき武者たちを引き連れて現れた理由、聞かせてもらいましょうか」
あでやかに言い放った晴信の言葉に景虎様が柳眉を逆立てる。
「我が国、と仰られたか。武田家は甲斐の守護であって信濃の守護ではない。信濃の国人衆を力で放逐したゆえに信濃は我が領土であると仰るのであれば、理非を弁えぬも甚だしいでしょう。栄誉ある甲斐源氏棟梁の言葉とも思えませぬ」
「春日山長尾家は守護にあらず、守護代に過ぎません。ましてやその守護代ですらない身が、守護の何たるかを私に説くとは笑止ですね。私に物を説くのであれば、せめて同格の身になってからにしてほしいものです」
景虎様の語気を軽く受け流した形の晴信であったが、景虎様はなおも言葉をとめない。
「守護であれ、守護代であれ、あるいは庶民であれ、等しく守らねばならない道理がこの世にはありましょう。甲斐源氏を統べる御身には、天下に平和と安寧をもたらす責務がおありのはず。その御身が力もて奪うことを正当化してしまえば、世は乱れ、人は禽獣とかわりなき存在となりはてる。貴君はかかる末世をお望みであられるのか!」
景虎様の激しい言葉は奔流となって晴信へと向かう。
並の人物であれば、言葉を失って立ち尽くすほどの迫力であったが、さすがに晴信は凡人ではなかった。あっさりとこう言い返したのである。
「これは異なことを聞くものです。力もて奪うことを正当化するなと貴女は言う。ならば試みに問いましょう。貴女はどのようにして越後の兵乱を治めたのですか? 兵を用いず、民を使わず、ただ至誠と真心のみで国人衆を平らげ、姉を説き伏せたとでも?」
「――兵は不詳の器なり、勝ちてこれを美とするは人を殺すを楽しむなり。人を殺すを楽しむものは志を天下に得るべからず。越後の兵乱を鎮めるために兵を用いたことは否定しませぬ。ですが、私は貴君のように我欲に従って事を成したわけではない」
それを聞いた晴信はかすかに顔をしかめた。
「ふん、道家の文言で己が正義を飾り立てるのですか。私が信濃で行ったように兵を殺し、将を討ち、他者の地と位を奪いながら、自ら退いてみせれば全ての罪が浄化されるとでも? 貴女は勝ちにともなう利を捨てたと、みずからの私欲の無さを誇っているようですが、勝者には利だけでなく責務も生じることを知らないのですか。付き従った配下、打ち倒した敵将、そして戦で苦しんだ自国と他国の民――勝者にはそれら全てに報いる責務があります。利と共にその責務すら放り捨て、他者に労を強いているのが今の貴女。自らを無私無欲の者と任ずるのは結構ですが、私はそのように無責任な輩と語るべき言葉を持ちあわせていません。他人に責務を問う前に、己が身を振り返ってみるがよい! 兵も民も、お前の誇りを満たす道具ではない!」
徐々に。
それまで変化を見せなかった晴信の口調が檄しつつあった。
景虎様はめずらしくはじめから感情を昂ぶらせていたのだが、あるいは晴信も同様であったのかもしれない。景虎様との違いは、それを押し隠すか、面に現すかの違いでしかなかったのだろう。
さらにいくつかの言葉の応酬が続くうちに、いつか二人の言葉から地位職責に関わる装飾が剥がれ落ち、ただ武田晴信として、長尾景虎として、互いに向けて言葉を突きつけるようになっていた。
「それだけの見識を持ちながら、何故いたずらに世を乱す真似をする。その野心こそが戦国の世を招いた源なのだと何故わからない!?」
「私は貴女と違い、自らの分を知るだけのことです。この身は高野の聖にあらず、理想と念仏を唱えて国が富むのならばそうしましょう。けれど、この戦国の闇はそんなものでは拓けはしないッ」
晴信の身体が、膨れ上がるように大きくなった。
思わず俺がそう錯覚してしまったほどに、今の晴信からは圧倒的なまでの覇気が感じられた。
「甲斐源氏の棟梁として、私は私のやり方で民を守り、家を守り、天下を守る! 実利なき天道と、自身の正義に酔いしれる愚か者の言葉など聞く耳もたぬ!」
そういうや、晴信は馬首をかえした。
そして、顔だけを景虎様に向けて言い放つ。
「これ以上の問答は無益でしょう。私を承伏させたければ戦で従わせるのですね。軍神と謳われる者が不詳の器とやらをどのように用いるのか、楽しみにしていますよ」
揶揄の言葉を残す晴信に、景虎様は勁烈な眼差しを向けた。
一瞬、両者の視線がぶつかりあい、中空で飛び散る火花が見えたように思えたのは、はたして俺の気のせいであったろうか。
「全軍、退きます」
「全軍、退くぞ」
同時に命令を下し、互いに馬首を返した両雄の声には、底知れない威圧と苛立ちが込められていた……
――これが、後に終生の好敵手として知られることになる長尾景虎と、武田晴信の初めての邂逅となる。
その場に立ち会えた者は、歴史の一舞台を目の当たりにできたという意味で幸運であったろう。少なくとも、後世の歴史家でそれをうらやまぬ者はいまい。
しかしながら、俺はもちろんのこと、弥太郎や兵士たちも自らの幸運に感謝するより先に、両雄の鬼気迫るやり取りにあてられて戦う前から疲労困憊だった。
それでも武田軍相手に隙を見せることなどできるはずがない。
景虎様率いる上杉勢は、疲労を訴える心身を叱咤しながら整然と退却を開始した。
◆◆
「ほう、見事な退き際よな」
山県昌景は、退却していく上杉軍の陣列を遠くに見ながら、感心したように頷いた。
そうしてぽりぽりと頭を掻く。
「昌豊には隙あらば敵の後背を扼すように伝えておいたのだが……これでは難しいか」
「さようですな。こたびの戦はここまででしょう」
昌景の言葉に信春が応じる。
山裾に待機させていた内藤昌豊の騎馬五百は用いられることなく終わりそうであった。
もっとも、武田の将兵にしてみれば、それはありがたいくらいのことだった。
北信濃攻略に動員した兵は一万を越えるが、村上義清らの激しい抵抗もあって、将兵の疲労はかなり激しい。それはこの場にいる二千も同様。
へたに越後側が隙を見せれば甲斐への帰還が遅れるだろう。そうならなかったことに、昌景たちは心ひそかに安堵していた。
ただ、それをはっきりと口に出さなかったのは、陣に戻った晴信が明らかに不機嫌そうだったからである。
今もなお苛立たしげに軍配を握り締めながら唇をかんでいる。
冷静沈着な晴信がここまで感情をあらわにするのは滅多にないことだ。信繁などは心配そうに姉を見やっていたが、姉をなだめる言葉が思いつかず、口をあけては閉じるを繰り返していた。
ただ、若いながらに尋常ならざる自制心を持つ晴信は、いつまでも自分の感情に拘泥することはなかった。
やがて晴信の口から、いつもの恬淡とした声が発される。
「あわよくば越後まで。そう考えていましたが、やはり越後上杉家、一筋縄ではいきませんね。今の段階でまともに矛を交えれば、こちらの苦戦は免れないでしょう」
これに賛同したのは山本勘助である。
黒衣を揺らして賛意を示した。
「然り。ここは欲を出さず、甲斐に戻り兵を休息させるべきかと。兵たちからも、帰国を望む声が出始めておりまする」
「わかりました。越後も内乱を終えたばかり、しばらくは大兵を催す余裕はないでしょう。ここは退きます。昌豊にも退却の使者を出してください。旭山城の守備は、虎綱、あなたに任せます」
「御意にございます」
「葛尾城は昌豊に。あなたたち二人であれば、北信濃を治めることもかなうでしょう。村上らの残党と越後の動向に注意を怠らぬように」
「必ず、ご期待に沿ってみせます」
「期待していますよ。では、他の者は手勢を率いて甲斐に戻る準備を」
晴信の言葉に、武田の諸将は一斉に頭を垂れた。
かくて、武田家と上杉家のはじめての対峙は、一雫の血も流されることなく終わる。
だが、それが今後の平穏を約束するものではないことは、武田、上杉を問わず、全ての者が承知するところであった。
◆◆
主君の命令を受けた山県昌景は麾下の兵に退却を伝えるべく陣幕から出る。
自陣に戻る途中、ふと昌景は空を見上げた。
――御館様に匹敵するほどの覇気、か。まさか先代のほかにそのような者がいようとはな。
遠目に見た長尾景虎の姿を思い起こし、そんな考えが浮かぶ。
もっとも、晴信や景虎のそれと、先代信虎のそれとは意を異にするが。
景虎と晴信は対照的なように見えて、その底に似通ったものを感じさせる。だが、信虎はそんな二人と全くの対極であった。
かつての主君の姿を思い浮かべた昌景は、しかし、すぐに頭を振ってその姿を脳裏から追い払う。
先代のことを考えれば、必然的に躑躅ヶ崎の乱のことが思い出されてしまう。武田家の宿将山県昌景であっても、あの大乱を思い出すのは気が萎えることであった。