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聖将記  作者: 玉兎
第二章 宿敵
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第十七話 景虎出陣、政景留守番


「語るべきことは多々あれど、まずはお礼を申し上げる! 敗残の身を受け入れてくださった越後の厚情、この義清、終生忘れはいたしませんぞ……!」



 そういって深々と頭を下げた村上義清は、感極まったようにおいおいとむせび泣きをはじめた。

 髪はざんばら、ひげはぼうぼう、身につけた具足は傷がついていない箇所はないほどにぼろぼろになっている。

 信濃葛尾城主にして、北信濃の国人衆を率いて精強な武田軍と戦い続けた勇将も、こうなっては儚いものであった。



 信濃の国人衆は、武田の侵略が始まるまでは互いに争いあっていた間柄。そんな国人衆を束ね、まがりなりにも武田軍とわたりあってきた義清は、先祖伝来の領土を失った嘆きと、武田家への恨みと、敗残の身に手を差し伸べてくれた越後への感謝にしばらく身を震わせていたが、やがて大きくちーんと鼻をかんでから顔をあげた。



「おう、失礼いたした! なにぶん、このところ人の情けに感じやすくなっておりましてな」



 照れ笑いした義清は、気を取り直して北信濃における武田軍との戦いを語っていった。

 ときおり感情が高ぶるあまり唾を飛ばす場面もあり、情報の正確性に若干の不安をおぼえた俺だったが、そのあたりは義清も自覚があったのか、所々で言葉を止め、気持ちを落ち着かせてから再び口を開くということを繰り返している。

 勇将であることは言をまたないが、思慮深さもあわせ持っていることがうかがえる。

 戦場でまみえれば苦戦を余儀なくされるだろう。そんな義清を打ち破った武田軍。その強さが思いやられた。 





「さて……」



 義清から武田侵略のあらましを聞き終えた越後側は、義清とその配下に部屋を与えて休んでもらい、その間に今後の方針をたてることとなった。

 城主の席に座るのはもちろん上杉定実様である。

 傀儡であったとはいえ、長い間守護職を務めてきただけあって、その姿には人の上に立つ者の威厳が感じられた。

 もっとも威厳といっても威張っているわけではない。長年の傀儡生活の心労ゆえか、髪にもひげにも白いものが混ざる定実様は、万事に物腰の柔らかな方であり、侍女や警備の兵士の評判も良かった。



 ただ、定実様がいかに威厳ある守護だったとしても、この場にいる者たちと比べると、いささか物足りなさを覚えてしまう。

 それは定実様の責任ではない。たんに定実様の左右に座す者たちの格が違いすぎるのである。

 一人は言わずとしれた景虎様。

 そして、もう一人は――



「甲斐の武田晴信。信濃からの噂はよく聞いていたけど、こんなに早く来るとはね。まあ越後での争いが終わった後っていうのがせめてもの救いか」



 越後坂戸城主 長尾房長の長女にして、現越後守護代長尾政景。

 その政景様は薄い紅茶色の髪を揺らし、気難しい顔で腕組みをした。

 本人的には深刻さを示したいのかもしれないが、見た目が小娘な政景様がそれをやると、なんだか中高生くらいの子供が無理して大人ぶっているようで、ちょっと微笑ましかったりする。

 聞けば、政景様は景虎様より一年早い生まれだそうだが、お二人の成長具合を見比べると、どうしても首を傾げてしまう。特に胸とか腰のあたりが……



「相馬、何か言ったッ!?」

「は、はい!? 何も言っておりませんが?」

「……じー」

「い、いや、睨まれても困るんですが。本当に何も言ってませんって」

「じゃあ、訂正。何か心の中で思ったでしょ。あんたの視線、おもいっきりあたしと景虎の身体に向いてた気がするんだけど」

「いや、なんというか、世の不条理を嘆くといいますか、神の気紛れにため息を吐くといいますか、そんな感じです」

「どうしてそういう感想があたしたちの身体を見て出てく……」



 政景様の声がぴたりと止まった。

 何か思い当たる節があったようで、その唇がひくひくと震えた。



「今、あんたに対して殺意を覚えたわ」

「いわれなき害意に対して、この加倉相馬、断固として抗議いたしたく」

「守護代権限で却下」

「横暴なッ!」

「うっさいッ! 乙女をはずかしめて、ただで済むと思うなッ!」



 ぎゃあぎゃあとわめき始めたおれたちを見て、定実様がため息を吐き、景虎様はくすりと微笑んだ。

 老将宇佐美定満はこくりこくりと船をこいでいる。

 ひとり、わなわなと拳を震わせていた景綱は、ついに耐えかねたのか、無言で拳を振り上げ――



つうッ!?」

「いいかげんにせんか、ばか者ッ! 政景様は守護代の重職にあられる御身、本来ならば貴様ごときが抗弁することはおろか、口をきくことさえはばからねばならんのだぞ! あまつさえ景虎様の御身体に邪欲に満ちた視線を向けるとは言語道断!」



 戦国武将、直江景綱の手加減なしの拳を受けた俺は、言葉を返すこともできずに痛みにもだえる。

 唐突に口論を中断された政景は、どこかつまらなそうに口を閉ざした。

 まだまだ言い足りない様子の景綱がさらに口を開こうとしたとき、それを制するように景虎様が仲裁の言葉を投げてくれた。



「景綱、そう憤ることもあるまい。加倉殿と政景様のやり取りはいつものことだろう」

「こ、これがいつものことというのが、そもそもおかしいのです! 景虎様も景虎様です。加倉殿の不心得な行いに対し、罰の一つもお与えにならないから、こやつが調子に乗ってしまうのでしょう!」

「む、今日の景綱は血気盛んだな。だが、年頃の男性が女性の身体に興味を持つのは自然なことだと定満も言っていたぞ。まあ、私のような武張った者を見ても、何の興味もわかないとは思うが」



 それを聞いた瞬間、政景様の眉がぴくりと動く。

 新しい守護代様は思わず、という感じで口を開いた。



「いや、それあんたが言うと、あたしの立場が……」

「おや、政景様、何か?」



 心底不思議そうに首を傾げる景虎様。

 政景様はつまらなそうに「なんでもないわよ」と口にした。



「お二人とも、ですから問題はそこではなく、ですね!」



 景綱が再度拳を振り上げ、俺の非を高らかにならそうとする。

 とたん、落ち着いた声音が軍議の間に響き渡った。



「さよう。問題はこれから越後を窺ってくる武田家への対策をどうするか、ですな」



 いつのまにか。

 船をこいでいたはずの宇佐美定満は、おいしそうに茶をすすりながら、あっさりと軍議の方向を修正してしまう。

 俺も景虎様も政景様も、定満の言葉に同時にうなずく。ひとり乗り遅れた景綱は、振り上げた拳を下ろす場所を見つけられずに身体を震わせ――



「って、いたァ!?」



 俺はもうしばらくの間、痛みにもだえる羽目になった。


 


◆◆



 

「さて、相馬の貴い犠牲の下、ようやく軍議を進められることになったわけだが……」

「いや、生きてます、定実様」

「黙ってお聞きしろ、ばか者!」



 再びやりあいかけた俺と景綱を見て、定実様は薄く笑ってこう言った。



「――二人とも、さすがにこれ以上は控えよ」

「は、ははッ!」



 その笑顔に何か底知れないものを感じた俺たちは慌てて頭を下げた。





 長年の傀儡の座からようやく脱した守護上杉定実。

 戦に敗れ、大きな勲功なくその座についた守護代長尾政景。

 そして実質上の勝者であるにもかかわらず、いかなる地位も望まなかった長尾景虎。

 新しい越後の統治体制において重きをなす者たちの間には明らかな隔たりがあり、その内心には猜疑と戸惑いが渦巻いているに違いない――そんな風に考えている者はさぞたくさんいることだろう。

 そして、その者たちがこの軍議の光景を見れば、目と口で三つの0(ゼロ)を形作るに違いない。

 かくいう俺も、なんでこんな風になってしまうのかが今ひとつわからないのだが……まあこれも皆々の人徳の賜物であろうか。



「武田家に対して越後はどのように臨むべきか。駿河するがはどう考えておる?」

「それは義清殿をどのようにお迎えするかによると存ずる。ただ身柄を受け容れるのか、あるいは兵を出して信濃を取り戻すのか。後者であれば武田とは戦うしかございますまい。前者であれば交渉の余地はございましょうが……」



 定実様の問いに定満が淡々と応じる。

 それを聞いた政景様は肩をすくめた。



「義清が所領を奪われて泣き寝入りするような奴だったら、武田の侵攻に刃向かうわけがないわ。信濃を取り戻すために全力を尽くすでしょうし、そのために越後に助力を求めてくるでしょう。その願いをはねつければ、越後は義清を見捨てたことになる。義清たちは失望して越後を去り、武田相手に玉砕するか、やむなく降るか。どちらにせよ、ろくなことにならないわ。窮鳥きゅうちょうふところに入りてこれを殺さぬは人の情、武士の仁。あたしは義清を助けて武田と戦う方を選ぶわよ!」

「……なんか嬉しそうですね、政景様?」

「嬉しいわよ。いい、相馬? 窮地におちいった村上義清を助けるため、新羅三郎義光以来の名家である甲斐武田家と戦う。弱きを助け、強きをくじくことを武士の本懐と言わずして何を本懐というの! それに言っちゃなんだけど、今義清を見捨てたところで、信濃を制した武田はいずれ越後に攻めてくるわよ。義清が越後まで落ち延びてきたことの意味、あんただって分かってるでしょ?」

「それはまあ、はい」



 武田は越後を攻めるための口実として義清の存在を利用するつもりだろう。

 そのために義清を見逃したのだ。

 俺がそう言うと、景虎様がうなずいた。



「そうだな。越後が義清様の求めに応じれば、当然信濃に兵を進めることになる。それをもって越後側の侵略と位置づけ、いつか越後を攻める際の名分にする心積もりだろう」

「仮に越後が義清様の求めに応じなければ、武田の信州経略を邪魔する者はおらず、民心を安定させて武田の支配を根付かせることができますしね。その上で、越後が義清様をかくまっているのは信濃侵略の意思があるからだとか何とか、因縁をつけてくる気でしょう。どちらに転んでも武田家にとって損はないという寸法です」



 今回の武田家を見た時、そこにあるのは圧倒的なまでの自信である。

 おそらく武田晴信の目に越後上杉家はほとんど映っていないのではないか、と俺は思う。

 晴信は彼我の力量、国力、情勢などを踏まえ、その上で義清を越後に追い立てたのだろう――越後がどのように動こうと、武田家はそこから利益を掴み取ることが出来ると確信して。

 傲慢と紙一重の、しかしそれは確かな実力に裏付けられた自信であり自負。

 自家の力、自身の力、家臣の力、それらを完璧に把握した上で、晴信は越後に向けてこう言っているのだ。



 好きなように動け、と。

 どのように動いてもかまわない、その全ては私の掌の上なのだから、と。



「……ふん、大した自信だこと。越後もなめられたものね」



 俺と同じことを考えたのだろう。政景様が小さくはき捨てた。

 だが、すぐに表情を改めて言葉を続ける。



「こうなると和睦や友好の道は探るだけ無駄ね。向こうはすでにやる気だってことだし」



 景虎様は何事か考えながら瞑目していたが、政景様の言葉に首を縦に振って賛同の意を示す。



「政景様の仰るとおりです。信濃での戦いを終えたばかりの武田が越後に兵を入れるとは思えませんが、国境の防備が手薄と見ればどう出るかは不分明です。義清様のお言葉を聞くかぎり、武田晴信の政戦両略、おそるべきものがございますゆえ」



 そして、景虎様は定実様に向かって頭を下げた。



「お願いしたき儀がございます。栃尾の兵をもって国境の守備を固める許可をいただきたく」



 定実様が驚いたように目を瞠った。



「む、景虎みずから行くと申すのか?」

「御意。武田家に対して、越後を侵さば相応の報いがあることを示すべきと存じます。それに、かの孫子の旗印というものを、一度この目で見てみたいと思っておりました」



 景虎様の言葉に、政景様が口をはさむ。



「あ、それならあたしも――」

「駄目です」

「即答ッ!?」



 景虎様に一蹴され、愕然とする政景様。

 どっちが守護代なんだろうか。



「政景様が春日山城を離れてしまえば人心が動揺してしまいましょう。今の越後はまだまだ不安定です。守護、守護代、いずれも安易に動くべきではございますまい」

「む、そう言われると返す言葉もないけど……景虎、まさか自分が好き勝手動けるように、責任の重い役目を私に押し付けたわけじゃないでしょうね?」



 その言葉を受け、つっと景虎様の視線が泳いだように見えたのは……気のせいだろう。うん、たぶん。



「……ご許可いただけましょうか、定実様」

「無視ッ!?」

「よかろう。長尾景虎、ただちに信州との国境を固め、武田の野心を掣肘せいちゅうせよ」

「定実様まで!」

「承知仕りました。定満、景綱、それに加倉殿も同行してもらえるか?」

「かしこまりました」

「承知いたしました」

「お供いたします」

「あんたたちもか!? というか、春日山の政務を私と定実様の二人で何とかしろと?! って、こら待ちなさい、無言で席を立つな、背を向けるな、あの量の仕事を二人でどうしろっていうのよッ!!」



 後ろの方から何やら甲高い叫びが聞こえてくるが、気にしてはいけない。だってほら、景虎様たちも気にしてないし。

 俺が内心で肩をすくめていると、めずらしく景綱の方から話しかけてきた。



「……加倉殿、一つ問いたいのだが」

「なにか?」

「晴景様がご存命であったとき、春日山の軍議はこのような形だったのか?」

「まさか、そのようなことはございません」

「……やはりそうか」



 はぁ、と何やらしみじみとしたため息を吐く景綱。

 一方の俺はというと、色々な意味で口をはさめる立場ではなかったので、頬をかいてごまかすことにした。



◆◆◆




 信濃旭山城。

 今回の遠征で新たに武田の領土となった北信濃各地の戦後処理を終えた武田晴信は、旭山城の一室で書状に目を通していた。

 短くも激しかった城攻めの爪痕が各処に残る旭山城であったが、すでに武田家に刃向かう輩は城内のどこにもいない。

 彼らはいずれも冥府に旅立ったか、あるいは城外に逃れ北へと向かった。もっとも、そのほとんどは、やはり冥府への道を辿ることになるだろうが。



「御館様、先刻より熱心に書状をご覧になられているようですが」



 護衛を買って出ていた弟の信繁が訝しげに問いかけた。

 前述したように、すでに城内に武田家に敵対する勢力は存在しない。

 晴信は北信濃の民心がある程度落ち着くのを待って甲斐へと戻るつもりであり、諸将へも遠征の疲れを癒すように命じている。それゆえ、信繁が晴信の護衛をする必要はないのだが、信繁は落城まもない城では何が起きるかわからない、と主張して晴信の傍から離れようとしなかった。



「越後の内乱の詳細を記したものです。さきほど勘助が持ってきたところをあなたも見ていたでしょう、信繁」



 厳しい声音で弟に答える。

 自分にも他人にも厳しい晴信は一族や家臣相手でも滅多に甘い顔を見せず、それは信繁に対しても変わらない。

 むしろ信繁に対しては特に厳しく接するように努めている節さえあった。

 もっとも、当の本人はそんな姉の態度に忌憚を覚えるでもなく、主君として、姉として慕ってくるのだが。

 このときも信繁は、邪魔するなといわんばかりの姉の言葉に怖じる素振りを見せなかった。


 

「はい。ですが、他国の内乱などに何故御館様がさように熱心になられるのかと、それが気になりまして」

「熱心? あなたの目には、私はそのように映っているのですか?」

「はい。というか、普通に口元が緩んでらっしゃ――げふんげふん! 失礼いたしました、なんでもございません」



 信繁はそういって頭を下げる。姉は姉自身が思っているほど表情を隠すのがうまくない。少なくとも信繁はそう思っているのだが、実際にそれを姉に告げたことはない。さすがに怒らせると思ったからである。

 晴信は他者に己の内に入り込まれることを極端に嫌うのだ。

 慌てて言い直したのが良かったのか、それともはじめから大して気にしていなかったのか、いずれにせよ、この時の晴信は特に気を悪くした様子を見せなかった。



「熱心……そうなのかもしれません。あるいは良き敵手と出会えるかもしれないと思い、心浮き立つ思いがあるのは否定できませんね」

「良き敵手、でございますか。御館様とまともに戦い得る相手が越後にいるならば、それは武田家にとって大いなる凶報です」



 それを聞いた晴信はすっと目を細めた。

 手に持っていた軍配で信繁の肩をとんと叩く。



「知らぬ間に追従を覚えましたか、信繁? 武田に口舌の臣はいりません。ましてや一族に」

「感じたことをそのまま申し上げただけなのですが……」

「だとしても、他者に追従ととられかねない言葉を口にするのはやめなさい。それはあなたの器量を下げ、声望を損ないます。この身に万一のことがあったとき、武田を継ぐのはあなた。そのあなたが追従者に成り下がるなど許しません」



 大げさな。

 信繁はそう思ったが、今の姉に軽口が通用しないことは明らかだった。

 緩んでいた心を引き締め、深々と頭を垂れる。



「ご教戒、胸に刻みます。申し訳ありませんでした」

「わかればよい。私の期待、裏切らないでくださいね、武田信繁」

「ははッ!」






 信繁が退出し、一人になった晴信は手に持っていた書状にもう一度目を向ける。

 越後内戦の詳細が綴られた内容。

 そこには先の報告にはなかった情報が記載されていた。昌景いわく「唐の戦のような」戦いを繰り広げた指揮官の名が。


 

「……長尾晴景が将の一人、加倉相馬。猛将柿崎を火船で葬り、長尾景虎をして春日山城に誘導せしめ、城郭と自身もろとも焼き滅ぼさんとする、ですか」



 一時は滅亡寸前にまで追い込まれていた春日山長尾家を立て直した若き将。

 その出自は農民であるとも、流れの軍配者であるとも言われており、越後国内では随分と評判が高いらしい。その功績を見れば当然とも言えることだが、しかし、その派手な勲功よりも晴信が注目したのは、越後内戦における加倉の戦ぶりであった。

 長尾景虎の鋭鋒を避けながら、大兵力の利を活かして真綿で首をしめるように栃尾勢を追い詰めていく兵の動かし方は、甲信の地ではほとんど見ることのないものだった。



 最終的には配下の無理解と、与えられた権限の限界が枷となって失敗に終わり、春日山城もろとも敵将を討つという博打じみた奇策に走ったようだが、もしはじめから加倉に戦場のみならず戦そのものを構築する権限が与えられていれば、長尾景虎は今頃冥府におちていたかもしれない。



「――面白いですね。昌景の言うとおり唐の戦でも聞くようです」



 与えられた戦場で力を振るえる将は数多い。だが、自らの手で戦場を構築できる将のなんと少ないことか。武田家にあってそれが出来るのは、晴信を除けば山県昌景くらいであろう。

 そんな将が敵にいる。

 しかも、長尾晴景が死んだ後は景虎に仕えているという。

 長尾景虎の武威と、加倉相馬の戦略。その二つがかみ合わさった時のことを考えると、晴信は身体の震えをおさえることが出来なかった。

 恐怖であるはずはない。それはかつてなき敵手があらわれたことへの歓喜に他ならぬ。



「すぐに逢えるでしょう。待っていますよ、我が宿敵となる者たちよ。はや国境を固めねば、我が旗が越後へいたること、気づかぬそなたたちではないでしょう?」



 誰一人いない室内で武田晴信は花咲くような笑みを浮かべる。

 誰しもが見とれるであろう可憐な笑みは、来るべき戦いを待ち望む戦神の微笑でもあった。 




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