第十六話 月の下で
天頂に浮かぶ満月の光が春日山の山野を黄金色に染める時刻。
俺は中庭の縁石に腰を下ろし、ひとり酒盃を傾けていた。
この時代では立派な成人年齢なので誰に咎められることもない。正直、酒はあまり好きではないのだが、このままだと気が昂ぶって寝られそうもなかったのだ。
その原因は言うまでもなく、晴景様亡き後の大騒動であった。
越後守護代 長尾晴景、逝去。
その知らせはただちに越後全土に伝えられた。
越後の覇権を巡って争っていた当事者の一方の死は、味方はもちろん、敵であった者たちにも強い衝撃を与えた。
米山で対峙していた両軍は騒然とした空気に包まれたが、景虎様と俺、双方の指揮官の命令を受けて刀をひくこととなった。
国人衆は兵力のほとんどを所領に帰した後、馬廻りを引き連れて春日山城へと向かった。
越後守護 上杉定実の名によって発された召集令に応じるためである。
そうして布告される定実様の復権と、坂戸城の長尾政景の守護代就任。
生々しい焼け跡が残る春日山城の大広間に集められた国人豪族は、これを聞いて驚きのあまり声も出ず、大広間はしわぶきの音一つない静寂に包まれた。
彼らが驚くのも無理はない。誰もが勝者である景虎様の守護代就任を予想していたであろうから。
あるいは慧眼の持ち主なら、景虎様の性格から推して上杉定実様の復権は予測していたかもしれない。しかし、長尾政景の守護代就任を予測しえた者はほとんどいなかったであろう。
実際、誰よりも早くその旨を告げられた当の政景さえ、しばしの間茫然自失となったほどであったから。
後に政景様みずから笑いながら話してくれた。
万人を驚愕させたであろうこの人事、実のところ、責任のほとんどは俺にある。
というのも、政景を守護代にという案は、もとをたどれば俺が晴景様に勧めたものだったからだ。
景虎様との戦いを有利に運ぶため、俺は晴景様に頼んで誓紙を書いてもらい、それを用いて坂戸城を味方に引っ張り込んだ。
むろん、これは春日山と坂戸との間で結ばれた約定であって、今や事実上の越後国主となった景虎様には関係のない話である。
だが、定実様の御前で行われた会議の席でこのことを聞いた景虎様は、迷う素振りも見せずに守護代職に政景を推した。それがそのまま通った格好であった。
これには俺の方が驚いた。
だが、俺の当惑とは裏腹に景虎様はすいすいと事態を先に進めてしまい、気がついたら政景の守護代就任は決定されていた。
当然のように直江景綱あたりからは露骨に文句を言われたが、最終的にはその景綱も賛同に回った。
なぜといって、景虎様が守護代に就いた場合、坂戸城がそれに従わない可能性が大であるからだ。これ以上、越後国内の混乱を長引かせたくないのは、定実様、景虎様ともに共通の願いであった。
それに、もともと房長、政景父子の力量には定評がある。
二人が定実様の下に参じれば、南越後の豪族らもそれに追随するであろうし、政景には守護代の地位を担うだけの才略もある。
越後の平和という観点からみれば、政景の守護代任命は最善手といってよかった。
しかし、これでは景虎様があまりに報われない。
百歩ゆずって景虎様自身は良いとしても、景虎様に従った家臣、国人、将兵らにとっては我慢ならないことであろう。勝ったはずの自分たちは何一つ得られず、敗れたはずの側に栄誉と地位が与えられるのであるから。
そのあたりをどうするのかと俺が問うと、景綱は剛直な笑みを浮かべて言った。
「見損なってもらっては困るな。景虎様はじめ我ら栃尾勢は金や領土のために戦をしたわけではない。越後の平穏のためであれば手柄などいくらでもくれてやる。むろん将兵には相応の褒賞を与えなければならないが、その程度の財貨は栃尾城の府庫に蓄えてある。そなたが気にする必要は何もないぞ――まあ、誓紙を用いて坂戸勢を引っ張り込んで我らを苦しめた挙句、戦が終わった後で景虎様に尻拭いをさせたそなたに言いたいことはあるがな!」
どうもすみません、と頭を下げるしかなかった。
景虎様を殺しかけた俺に対する景綱の態度は総じて手厳しい。
まあ当然といえば当然であるが。それに手厳しくはあっても理不尽ではないので、俺としても景綱に悪い感情を持っているわけではなかった。
かくて上杉定実様の復権と、長尾政景の守護代就任が越後全土に布告されるにいたる。
むろん、それだけで越後が平和になるわけではない。
戦を始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しい。まして禍根を残さぬようにという条件をつければ、その煩雑さは戦をしている時の比ではない。
その一つ一つを描写すると、やたら分厚い報告書が完成してしまうので割愛する。
ただ、この嵐のような作業のお陰で晴景様の死に打ちのめされる暇がなかった、という事実は挙げておくべきだろう。
悲しみはいまだ胸を去らないが、それでも立ち止まっている暇はない。晴景様に後を託された身として、衆目になさけない姿を晒すわけにはいかなかった。
くわえて、俺の尻拭いをする形になった景虎様たちへの手前もある。俺は寸暇を惜しんで戦後処理にあたり、今日になってようやくそれが一段落したところであった。
◆◆
「さて、これからどうなることか」
なめるように杯に口をつけながらひとりごちる。
今現在、春日山城には守護上杉定実、守護代長尾政景、栃尾城主長尾景虎の三名の有力者たちが集まっている。
これは今回の混乱を最小限に抑えるために必要な措置であったが、この状態が続けば、いずれは問題が出てくるだろう。船頭多くして舟山に登る、というやつである。
それ以外にも城自体に問題が発生していた。一度火事にあった春日山城では、すでに建物の修築がはじまっていたが、火災の規模が大きかっただけになかなか終わらない。目に見えない箇所に亀裂がはしっている可能性もあり、特に本丸は完全に建て直すべきという意見も提出されていた。
場合によっては越後の中枢が、春日山城から他に移される可能性もある。
そういった情報を耳にするつど、俺がこの地に与えてしまった影響の大きさを思って、知らずため息が口をついて出た。
と、その時である。
「加倉殿、か?」
そんな涼やかな声が俺の耳朶を振るわせた。
見れば、俺と同じように酒盃を提げた人物が一人、こちらに向かって歩いてくる。
「これは、景虎様」
慌てて立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
俺は晴景様の遺言によって景虎様の配下に加わった。だが、景虎様は姉の配下であった俺に配慮をしてくれているのか、加倉殿と丁寧に呼びかけてくれる。
待遇も「部下」というよりは「客将」のようで、行動の裁量もかなりの部分が俺の手に委ねられている。はっきりいって破格の扱いであった。
「今宵の月はいつにもまして見事だな。加倉殿もそうは思わないか?」
「は、さよう、ですか?」
月など見てもいなかった俺は、景虎様の言葉につられて夜空を仰ぎ見る。
そして。
「うわぁ………」
思わず、子供のような感嘆の声をもらしていた。
景虎様の言うとおり、夜空に浮かぶ月と、月を囲むように散らばる銀鎖の星々が空一面を満たしていた。
夜空とは本当はこんなにも輝いているものなのか、と思わせる圧巻の光景。
思えば、この世界に来てから星を見ることなど一度としてなかった気がする。空を見ることはあっても、それは何かのついでか、ただ視線を上に向けただけで、星や月を眺めたりはしなかった。
今だとて、景虎様に会わねばため息を吐いて地面を見つめるだけであったろう。
声もなく空に見入る俺の横に景虎様が腰かける。
無礼があってはならないと場所を移ろうとしたが、景虎様は軽く手をあげ、それには及ばないと無言で制した。
戸惑いながらも、再び縁石に腰を下ろす。さすがに主君の真横で平然と酒を口にするほど豪胆ではなく、景虎様も口を開かないので、あたりには静寂が満ちていく。
居心地が悪いわけではなかったが、この雰囲気をどうしたものかと首をひねった時、やや唐突に景虎様が口を開いた。
「加倉殿」
その声に応じて隣を見れば、どこか困ったような顔で俺を見つめる景虎様がいた。
「は、何か?」
「うむ、その、だな……一つ頼みがある」
そう言うと、景虎様はぽつりと呟くように言った。
姉上のことを聞かせてくれまいか、と。
聞けば、景虎様は晴景様の日常の起居のことをほとんど知らないらしい。
幼少の頃、林泉寺に預けられて以来、共に暮らすこともなかったから当然といえば当然の話である。
ほんの一時ではあったが、ようやく触れ合えた姉のことを知りたいと願うのも当然の心情であろう。
ためらいがちであるのは、主君を失ったばかりの俺の心情をかき乱してしまうのではないか、と配慮してくださったからに違いない。
もちろん俺に否やはなかった。
なかったが。
「は、はい、それはかまいません、が……」
俺の口から出た言葉は、困惑と狼狽の混合物であった。
理由は――お願い察してください。いやまあ、率直にいってろくなことが話せないからなんだけど。
晴景様は俺にとっては命の恩人であり、力量を買ってくれた得がたい主君であったが、常の仕事ぶりに関しては暗君という世間の評判を肯定するものばかりだった。
そういった諸々の行状をそのまま景虎様に伝えてもいいものかどうか。
かといって、おためごかしを口にしても景虎様のことだ、即座に見抜いてしまうだろう。
俺の葛藤に気付いたのか、景虎様はしずかに頷いてみせた。
「私に気を遣わずに正直に教えてほしい。加倉殿の目から見た姉上を知っておきたいのだ」
妹として。後を継ぐ者として。
その真摯な眼差しに見つめられては否といえるはずもない。
「――承知いたしました。私が晴景様に拾われてからのことしか話せませんが……」
そう断ってから話をはじめる。
繰り返すが、俺の知る晴景様の日常や仕事ぶりは褒められたものではない。今思えば、それも病と懊悩を抱えてのことだとわかるが、だからといって国民に多大な負担を強いた政事を肯定できるものではないだろう。
俺たち家臣の不甲斐なさも手伝って、春日山の乱れた政治はついに正されることなく終わってしまった。
よって、俺の話は聞いていて楽しいものではなかったはずだが、景虎様はただ無心に聞き入り、一度も言葉を差し挟むことはしなかった。
およそ半刻(一時間)も語り続けたであろうか。
俺が話し終えるのを待っていたかのように、中庭に第三者の声が響きわたった。
「景虎様、ここにいらっしゃったのですか。お部屋におられないので案じておりました」
「景綱か。すまない、心配をかけたようだな」
姿を現したのは直江景綱である。
景綱は俺が景虎様の横に座っているのを見ると、む、という感じで眉をしかめた。なんだか俺に対する景綱の警戒度が上昇の一途をたどっている気がする。
別に意図して景虎様と二人きりになったわけではないのだが――
「加倉殿もいたのか。早く寝ないと明日の仕事に差し支えるぞ。貴殿の分はたっぷりと用意してあるゆえな」
実にさわやかな笑みで退散を促す景綱を見て、俺は苦笑せざるをえなかった。
まあ、向こうの言うとおり夜も大分ふけてきた。今なら部屋に戻っても眠れないということはないだろう。
俺は縁石から腰をあげると、景虎様に頭を下げた。
「では、景虎様。無礼な言い様があったかもしれませんが、私がお話できることはこのくらいです。お役に立てたでしょうか」
「ああ、ありがとう。姉上のこと、多少なりともわかったように思う」
何かをおさえるように胸元に手を置いた景虎様は、そっと目を伏せる。
一瞬、俺の視線が景虎様の豊満な胸に向かってしまったのは不可抗力である。景綱に気付かれなかったのは幸運だった。いや、わりと本気で。
と、そんな俺の内心を知る由もない景虎様が目を開き、感心したように俺を見た。
「加倉殿は話をするのが上手だな。手に取るように情景が伝わってくる。姉上のお伽衆であったのも、その能を愛でられてのことだったのか?」
「さて、どうでしょう? いかに晴景様の勘気に触れずに願意を伝えるか、その研鑽を積んだのは確かですので、その成果かもしれません」
それを聞いた景虎様は笑うべきか否か悩んだようであったが、最終的には冗談と受け取ってくれたようだった。
微笑んで口を開く。
「そうか。もしよければ、いずれまた姉上の話を聞かせてくれ。もちろん、それ以外でもかまわない」
「私の拙い話をご所望であれば、いつなりと馳せ参じましょう――さて、そろそろ直江殿の顔が恐ろしくなってきましたので、私は失礼させていただきます」
「うむ、景綱を怒らせると大変だからな。それが賢明だろう」
「な、何が賢明だというのですか、景虎様! 加倉殿も、私をだしにするのはやめてもらおうッ!」
がー、と気炎を吐く景綱を見て、俺と景虎様はくすりと微笑み合った。
それを見てさらに声を高める景綱。
夜の春日山城に起きた時ならぬ騒ぎを、上空の星月が興味深そうに見守っていた。
◆◆
これより数日後。春日山城に一頭の早馬が駆け込んでくる。
それは武田の侵攻により、信濃の国人衆が壊滅の憂き目にあったとの知らせであった。
さらに早馬は、信濃との国境に少数の護衛に守られた村上義清があらわれ、春日山への道案内を願っていることをあわせて伝えてきた。
――信濃の地を巡り、二つの勢力が激突する刻はすぐそこまで迫っていた。