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聖将記  作者: 玉兎
第一章 邂逅
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第十四話 姉と妹


「姉上が、お倒れになっただと!?」



 景虎様の狼狽した声が響く。

 俺もまた、声こそあげなかったが衝撃で身体がぐらりと揺れた。

 騒ぎを知って駆けつけてきた直江景綱や本庄実乃も顔を強張らせている。

 そんな俺たちの視線を一身に受けた弥太郎は、畳に頭をこすりつけるようにして、晴景様が倒れるに至った経緯を述べた。



「は、はいッ! 守護代様は、守護様のお邸で過ごしておられたのですが、夜に突然苦しみ出されて……服が真っ赤になるくらい、血を吐かれたんですッ」



 幸い、その場には定実さだざね様の奥方――晴景様と景虎様にとって姉に当たる方がいて、すぐに医者を呼んでくれたので、ほどなく晴景様は意識を取り戻したという。

 だが、意識は戻ったものの、晴景様の喀血かっけつはその後も続き、食事も咽喉を通らず、短い時日で驚くほどやせ衰えてしまったらしい。

 それでも意識はかろうじて保っているのだが、医者によれば、いつ意識を失ってもおかしくない状態だという。

 そして、医者はさらにこう続けたらしい。



 ――次に意識を失えば、再びお目覚めになることはありますまい。



 知らず、床に頭をこすりつけている弥太郎を睨みつけていた。

 それを言ったのが弥太郎ではないと分かっていても、睨まずにはいられなかった。

 弥太郎の口からくぐもった声がもれる。



「……すぐに、加倉様にお知らせしようとしたんですけど、守護代様はそれには及ばないと仰られて……」



 春日山の決着がつくまで知らせることはまかりならん。そう言われたらしい。

 それを聞いた俺はやりきれない思いでかぶりを振った。

 俺が晴景様の病篤やまいあつきを知れば、戦を止めるために動く。晴景様にはそれがわかっていたのだろう。

 だから俺には知らせなかった。命旦夕めいたんせきに迫る状況で、それでもなお景虎様に勝利したかったのだ。

 どうしてそれほどまでに……



 

 うつむいて奥歯を噛む俺の耳に、景虎様の落ち着いた声が響く。

 俺が慌てて顔をあげると、景虎様はひれ伏す弥太郎に優しく声をかけていた。



「小島弥太郎と申したな」

「は、はい、小島弥太郎と申します! か、加倉様の配下で、あの、その、か、景虎様とは知らず、さきほどのご無礼、まことに、まことに申し訳ありませんでしたッ!」



 景虎様から声をかけられ、弥太郎が軽いパニックを起こしている。

 それはまあ、自分が襲いかかった相手が景虎様だと知ればパニックにもなるだろう。死罪どころか、一族郎党皆殺しになったところで不思議はない無礼なのだから。

 俺とて相手が景虎様でなければもっと狼狽していた。弥太郎を助けるために土下座の一つも敢行していたに違いない。

 そんな俺の予測どおり、景虎様はあっさりと弥太郎を許してくれた。



「過ぎたことはよい。あるじを思っての行動であればなおのことだ。それより、そなたが定実様の御使者として参った用件は、姉上の病状を知らせるためだけではないのだろう?」



 景虎様の穏やか声音は、聞く者の心を落ち着かせる効能があるのかもしれない。

 慌てふためいていた弥太郎は、景虎様の言葉にしっかりと頷いてみせた。



「は、はい。守護様から、景虎様を早急に上杉邸にお連れせよ、と命じられております。それと、これは守護代様からの命令ですが、加倉様も急ぎ上杉邸に来るように、とのことです!」



 一瞬、俺と景虎様の視線が絡まりあった。

 それはすぐに離れたが、続く景虎様の言葉は俺の予想どおりのものであった。



「承知した――景綱は供をせよ。実乃は城に残れ、春日山城は任せる」

「はッ」

「御意にござる」



 二人が頷くのを確認してから、景虎様の視線が今度ははっきりと俺の方に向けられた。



「加倉殿も同道してもらうが、異存はないか?」

「無論です」



 俺は短く承諾の返事をする。

 この時、俺の胸中には得体の知れない感情が渦巻いていた。

 それは不安といえば不安であり、恐怖といえば恐怖であり、期待といえば期待であった。

 あるいは、それら全部をひっくるめた予感という言葉が一番ふさわしかったかもしれない。



 何かが終わるという予感。

 何かが始まるという予感。 

 相反する予感に胸を騒がせながら、俺は景虎様の後尾について上杉邸に馬を走らせるのだった。



◆◆



 越後守護 上杉定実の邸は春日山城の北、直江津の外れにある。

 春日山の庭先と言ってもいい場所であり、四方には春日山城の有力な家臣の邸宅が軒を連ねる。

 一見したところ、越後守護たる身を守るためのものに見えるが、見方をかえれば守護を取り囲んで身動きとれないようにしているとも映る。



 主筋にあたる上杉家の邸をこの地に築いた長尾為景、その後を継いだ晴景様の思惑はおそらく後者であったろう。

 定実様が不穏な動きを見せれば、たちまちのうちに包囲の鉄檻が築かれ、逃げ場のない状況に置かれるというわけである。



 もっとも、晴景様の勢威にかげりが生じるにつれ、定実様が置かれる状況も変化していた。

 実力こそなかったが、守護である上杉氏の名は国内で浅からぬ影響力を有している。

 定実様がその気になれば、晴景様の治世を揺り動かすことも可能であったろう。しかし、定実様はそういった行動を起こすことなく、春日山長尾家の下に居続けた。

 それは妻のことをおもんぱかったからであろうし、自分では越後を覆う戦乱の雲を払うことができないとわかっていたからでもあろう。



 俺は知らなかったのだが、定実様と奥方の二人は晴景様と景虎様を和解させるべく色々と手を打っていたらしい。

 残念ながら、晴景様はそれらすべてを退けてしまったそうだが。

 そういう意味で、今日という日に上杉(やしき)で長尾姉妹の対面がかなったことは不思議な符合というべきだろう。



 この話し合い次第では、これ以上の流血なく越後の戦火を鎮めることがかなう。

 だが、上杉邸に集った者たちの顔に喜色はなかった。

 ――晴景様の容態が思った以上に悪化していたからである。



「……医師の話では、もってあと二日。おそらくは今夜が峠であろう、と」

「――ッ」



 奥方の言葉に思わず叫び声をあげそうになる。

 俺はあやういところで喉元まで出かけた叫びを飲み込んだ。

 晴景様が危ないという弥太郎の言葉を疑っていたわけではない。だが、それでもどこかで弥太郎の勘違いであることを願っていたのだ。そのはかない願いは奥方の言葉で打ち消されてしまった。

 奥歯をかみ締める俺の耳に、越後守護たる方の声が聞こえてきた。



「景虎よ」

「はい」

此度こたびの戦のこと、今後の越後のこと、語るべきことは山ほどあれど、何より優先すべきは命尽きんとする晴景の願いをかなえることであろう。そなたは晴景のもとに行くがよい。晴景たっての願いだ。そなたと、そして――」



 定実様の眼差しが、まっすぐに俺に向けられた

 俺ははじめて顔をあわせた越後守護に頭を垂れる。



「加倉、と申すはそちじゃな?」

「はい」

「そなたも景虎と共に行くがよい。景虎とそち、二人に話したいことがあるとのことゆえな」

「俺、いえ、私もですか? しかし……」



 姉妹の今生の別れになるかもしれない場所に、俺のような余所者よそものがいてもいいのだろうか。

 そう考えて躊躇する俺の背を押したのは、当の景虎様であった。



「加倉殿」



 俺の名を呼んで見つめてくる景虎様。

 今回の晴景様の不予ふよは、景虎様にとっても寝耳に水の事態である。その眼差しがかすかに揺れているのは、景虎様の内心の動揺をあらわしてのことだろう。



「……わかりました」



 定実様の奥方が立って、俺と景虎様を先導する。

 その際、一瞬だが景綱の鋭い視線を横顔に感じた。春日山城もろとも景虎様を葬ろうとした俺に対し、景綱が警戒心を抱くのは当然のこと。一時いっときとはいえ俺と景虎様を二人きりになどさせたくないのだろう。その気持ちが理解できるだけに、向こうに対して申し訳ない気持ちが湧いてきたが――晴景様の病室に入るや、景綱のことは頭から掻き消えた。

 それほどに晴景様の病状は俺に衝撃を与えたのである。






 先刻まで西の地平を照らしていた残照は夜闇の色に染め替えられ、邸の上空では星々が光輝を競うように盛んに瞬いている。

 そんな星月のきらめきを受けて照り映える上杉邸の庭園は見事なものだったが、その清明な光景も室内の暗さを払うことはできないようだった。

 病床に伏せる晴景様の顔が燭台の灯りで照らされる。それを見て、俺はとっさに声が出なかった。



「……遅い、ぞ、二人とも。危うく、間に合わなんだかと、思うたわ……」



 そう言って笑う晴景様の顔は、俺がはじめて見るものだった。

 顔の造作が変わったわけではない。たしかに、短時日でかなり痩せてしまったが、それだけならば俺はここまで驚いたりしなかったろう。

 常に晴景様の顔を覆っていた化粧が完全に拭われている。むろん、それは病状の身であれば当然のことなのだが、しかし――



「……どうした、相馬よ……まるで、幽鬼にでもうたような顔をしておるぞ?」

「は、晴景様……」



 病的なまでに白い――もはや土気色と呼べる晴景様の顔を見て、俺はようやく悟った。

 どうして晴景様がいつもあのように厚い化粧をしていたのか、その理由を。



「一体、いつから……?」



 問いかける俺の声は震えていた。

 それに対して晴景様の声は、力こそなかったものの少しも乱れていなかった。



「そなたを拾う一年ほど前からかのう……正直、よう覚えとらんわ……」



 典医にも見せておらなんだゆえな。

 そう言って笑おうとした晴景様は、そこでごほごほと咳き込んだ。

 ただそれだけで、晴景様の口元と、口を押さえた手には紅色の汚れがついてしまっている。



「晴景、無理をしてはいけません」



 黙って座っていた定実様の奥方が、晴景様についた血をそっと拭いとる。

 その動作に戸惑いはない。おそらく、もう何度もこうしているのだろう。晴景様の病状は数日でそこまでたどり着いてしまっている――いや、もしかしたら、もうずっと前から。それこそ俺と春日山で話していた時から、すでにこの状態だったのではないか。

 そんな気がした。



「――姉上」



 景虎様がためらいがちに口を開く。

 晴景様が口にした「一年前から病に冒されていた」という言葉の意味を正確に理解したのだろう。

 ただでさえ国人衆から侮られていた晴景様だ。そこに病弱という評判がつけば、事態がどう転ぶかは明らかすぎるほど明らかである。

 妹の景虎様が、武勇、人望、健康、いずれにも問題がないからなおさらだ。



 そんな景虎様の様子を晴景様はじっと見つめていた。

 お二人の様子を見ていると、この二人が血の繋がった姉妹であることがよくわかる――そんな風に言えれば良かったのだが、しかし。



 ――似ていない、な。



 心中で呟く。

 晴景様が病の身であるということを考慮しても、やはりこのお二人は似ていない。顔の造作もそうだが、それ以上にその身に纏う気格、にじみ出る風格、ただそこにいるだけで人を惹き付ける力において、晴景様は景虎様に遠く及ばない。



 晴景様が劣っているというわけではない。ただ、景虎様があまりに抜きん出てしまっているのだ。

 景虎様と並ぶことが出来る人間など国中を探しても二人といまい。全国津々浦々まで捜し求めて、ようやく数名いるかどうかといったところか。

 それも当然であろう。景虎様はこの後数百年、否、おそらく日本の歴史が絶えるその時まで語り継がれる蓋世がいせいの英雄なのだから。




「……まこと、目障りであったよ、景虎。そなたのことが。そなたの才が」



 晴景様ははっきりと言った。

 景虎様の顔が強張るのがわかる。

 晴景様はそんな妹の様子に気付く風もなく、淡々と続けた。



「私は十も年の違うそなたと常に比べられた。家臣どもは口にせずとも、みな心の中で申しておったよ。私がそなたに優るのは先に生まれたという一事のみ。どうして、そなたが先に生まれなかったのか。そうすれば何も問題などなかったのに、とな。家臣だけではない。父上もまた、そう思っておられた」

「……ち、父上が? しかし、私は……」

「父上に捨てられたと、そう思っておるのか? ちがう、ちがうぞ、景虎。あれはの、可愛い子には旅をさせよ、というやつよ。父上はそなたを憎んで城から出したのではない。そなたの才を知ればこそ、小さな城ではなく大きな世を見せておきたかったのじゃ。本当に捨てるつもりであったのなら、どうして天室てんしつ光育こういくのごとき高僧に預けようか……己では育てられぬと、わかっておったのやも知れぬなあ……」



 そこで晴景様は一度言葉を切り、大きく息を吸ってから再び口を開いた。



「あるいは、己の悪評をそなたにかぶらせぬ配慮であったのやも知れぬ。どうあれ、そなたが愛されていたことには変わらぬよ。じゃが、じゃがなあ、景虎……わかるかえ、そんな父上の姿をすぐ近くで見させられた我が身の情けなさが……!」



 ぎりり、と歯軋りの音がした。

 晴景様はやせ細った拳を握り締めて景虎様を睨みつける。



わらわは父上に褒められたことがついぞない。どれだけつとめようと、どれだけはげもうと、父上は妾を見てさえくれなんだ。父上にとって妾は育てるにも値せぬ凡器、凡物ということよ。そなたにはつけた師を、妾にはつけなかった。これだけで父上の心底がわかる。それでも妾は長尾為景の子じゃ。越後守護代たるにふさわしい者になろうと懸命に努めたよ……そうして、あれは父上がお亡くなりになる二月ほど前のことであったか。虫の知らせでもあったのかの、はじめて父上は妾に己が死んだ後のことをお話になった……」



 晴景様は笑った。

 いや、笑おうとした。

 だが、捻じ曲がった口元に浮かんだのは隠しようもない憤怒であった。



「そこではっきりと言われた……妾には将としての才はなく、守護代としての器もない。ゆえに何もするなと。戦を起こすな。地位を欲するな、名誉を求めるな、金も領土も今あるもので満足し、決して他者から奪おうとしてはならぬ。妾のごとき凡物が器に見合わぬものを欲すれば、必ず天のとがを受ける。何もせぬことが妾を救うであろうと父上はおっしゃった……妾は言ったよ。それでは春日山長尾家の発展が望めぬではありませぬか、とな。そうしたらの、父上は優しい目で……妾には一度も向けたことのない目で、景虎、そなたのことを口にしたのじゃ」

「……父上は、なんとおっしゃったのでしょうか?」

「ふっふふ、昨日のことのようにはっきりと覚えておる。妾は何もせず、今ある長尾をそのまま景虎に渡せ。それが父上の言葉じゃった! それこそが妾の務めだとな! 己が築き、わらわが継いだ長尾家は、景虎の代に大輪の花を咲かせよう。妾は景虎にすべてを譲り、その下で穏やかに過ごせと――妾のような凡物は、妹に庇護されて生きるのが似合いであると、あの男はそう言ったのじゃ!! ふざけるでないわァ!!!」



 それは俺が初めて見る晴景様の咆哮だった。

 憎悪と憤怒を煮溶かしたような叫びは、とても命旦夕めいたんせきに迫った病人が発したものとは思えない。

 病人が興奮するのを案じた奥方様が慌ててなだめようとするが、晴景様はわずらわしげに奥方様の手を振り払うと、這うように景虎様のもとまで進み、上体を起こして正面から景虎様と向かい合った。



「どうじゃ、景虎。これを聞けば、そなたが父上に愛されていたこと、万に一つの間違いもないとわかるであろう?」

「……姉上。父上はきっと、父上なりに姉上のことをおもって……」

「わかっておる。この戦乱の世で妾のごとき者が卓抜と生き抜いていけるはずもなし。見合わぬ地位にもがき苦しみ、家臣と領民に背かれる妾が父上には見えておったのであろう。それよりは一族の庇護下で――当時はまだわらべであったそなたの下で生きるのが幸せだと考えた。人を馬鹿にするにもほどがあるが……それでも父上なりに妾のことを考え、愛してくださった。そう言いたいのであろう?」

「……はい」

「それはそのとおり。だがの、景虎、一つだけ訂正しておこう。これは愛していたとは言わぬ……憐れんでいたというのじゃ」



 ぞっとするほど重く冷たい恨みを含んだ声。

 目に幽鬼のような光を浮かべる晴景様を見て、景虎様は絶句している。

 むろん、俺も何も言えなかった。



「まだ童女の年齢であったそなたに期待し、そなたが一人前になるまで長尾を守るが妾の役目と言い切り、童女の下で生きるが幸せとぬかす。あの時、妾が抱いた気持ちをそなたに味わってもらえぬのが残念でならぬよ、景虎。どうして実の父にあれほどまでに虚仮こけにされねばならぬ!? たとえそなたが戦国の世を終わらせる英雄だったとしても、どうしてそれで妾が軽んじられねばならぬ!? どうして……どうしてそなたは私の妹として生まれてきたのだ!? そなたが長尾の家に生まれなければ、妾がこんな苦しみを味わうことはなかったッ!!」



 やせ細った手で景虎様の襟をひっつかみ、晴景様は吠え立てる。

 長年、鬱積してきた負の想念。晴景様はそれを今際いまわきわに相手の心に塗り込んでしまおうとしているのだろうか。

 俺はとっさに晴景様を止めようと動きかけた。

 景虎様のためというわけではない。生涯の最後を呪いじみた言動で終わらせるような、そんな惨めな生を晴景様に送ってほしくなかったからだ。



 だが、俺が動くより早く晴景様は景虎様から手を離した。

 そして、大きく一つ息を吐く。

 苦しそうな、それでいてほっとしたような不思議な表情だった。

 一ついえることは、今の今まで呪詛と怨念で染まっていた晴景様の顔つきが、俺の知っている晴景様に戻っているということである。



 憑き物が落ちたような変化。

 それは多分、俺の気のせいではなかった。当の景虎様もまた、当初の強張った表情を変え、戸惑ったように姉の顔をうかがっている。

 おずおずと。そう表現できそうな景虎様の姿だった。



 俺たちの戸惑いに気付かないはずがないだろうに、晴景様は何も言わずに億劫そうに床に戻った。

 そして どこかそっけない様子で景虎様に声をかける。



「つまるところ、妾がそなたを疎んじていた理由は嫉妬じゃよ――それが知りたかったのだろう、妹よ」



 びくり、と景虎様の肩が動いた。

 信じられない言葉を聞いたかのように景虎様は両の目をみはる。



「――あ、姉上」



 だが、晴景様はこの呼びかけにこたえず、言葉を続ける。

 それはどこか淡々とした独白であり、先ほどまでのような濃密な感情の発露はなかった。



「念のために言うておくが、妾は父上の死に関わっておらぬぞ。死の知らせを聞いたとき、喜ばなかったといえば嘘になってしまうがの。守護代を継いだ妾は政務にはげみ、国人どもの争いにも積極的に介入した。民のためにできるかぎりのことをしようとも思うておった。だが……ふん、結局は父上の眼力の確かさを証明するだけであったの。妾がどれだけ努力しようと、兵は景虎を望む。民は景虎を称える。いつか気持ちが萎えてしもうた。所詮、天に愛されし者に妾ごときがかなう道理はないのじゃと。だが、それでも守護代の地位は譲れなかった。妾が景虎に優るのは、先に生まれたという事実のみ。守護代の地位を失えば、妾には何も残らぬことになる。妹に何一つかなわぬ愚かな姉。そんなものになるつもりはなかった。それでは何もかも父上が言ったとおりになってしまう……!」



 そう言う晴景様の顔には、みずからを嘲る苦い笑いが浮かんでいた。



「妹を妬む姉など醜いものよ。それがわかるゆえに己が厭わしい。そして、その原因であるそなたが、なおのことわずらわしうてならなくなった。その矢先に、この身が病に侵されていることを知った……」



 その時のことを思い出したのか、晴景様は瞼を伏せた。

 眉間には何かに耐えるように深いしわが寄っている。



「父上のお怒りであろうな。妾は何一つ父上の言葉を守らなかったゆえ、それは仕方ないこと。だが、思ったのじゃよ――このままでは死ねぬと。何でもよい。せめて何か一つ、妹に優るところを示さなければ、妾が生まれた意味さえ妹によって消されてしまうであろう……」




 晴景様の声が陰々と室内にこだまする。

 兄弟姉妹のいない俺には妹を妬む晴景様の気持ちは理解できないだろう。姉を慕う景虎様の思いも、理解できないだろう。

 それでも、このお二人がすれ違いの果てに恨みを残して別離を迎えるなど、決して認めるわけにはいかなかった。

 だが、この場にあって俺は余所者であり部外者である。何万言を費やしても、晴景様の心に巣食った虚ろを満たせるとは思えない。

 力なく面を伏せようとした、その時だった。



「その妄念もうねんはろうてくれたのは、相馬、お主であった」

「……え?」



 思わぬ言葉にきょとんとしてしまう。

 そんな俺の呆けた顔を見て、晴景様はかすかに頬をほころばせた。



「いつぞやも申したが、春日山への帰途でそなたを拾うたは気紛れよ。じゃが――」



 晴景様はそこで言葉を切ると、俺に問いを向けてきた。



「相馬。そなたの加倉かくらという苗字、以前はかぐらであったのではないか?」

「……はえ? い、いや、そういう話は聞いたことがありませんが……?」

「そうか、まあよい。戯れ言として聞くがよい。古来より神がおわします場を神座かむくらと呼ぶ。神降ろしの舞を神楽かぐらと呼ぶはこれゆえよ。そなたの先祖が神職であったのか、あるいは単なる偶然であるかは知らぬが、そなたは名に神を宿しておる。この者であれば毘沙門天の化身にさえ勝てるのではないか。そう考えて、妾はそなたを登用したのじゃ」



 むろん、本気で信じたわけではない。

 おぼれる者がわらを掴んだ。ただそれだけの話だ。

 しかし、結果として晴景が掴んだのはまぎれもなく救いの手であった。



「景虎、そちの配下に、主君の癇癪で額を断ち割られたにもかかわらず、その主君のために死ぬと決まった戦場に赴く愚か者はおるか? いや、おそらくおるであろう。越後の武士は頑固者ばかりゆえな。じゃが、その相手が越後七郡でかなう者なしと言われる柿崎であり、しかもこれを撃破できる者という条件をつければ、どうじゃ?」

「――おります。我が配下の直江景綱、本庄実乃、宇佐美定満。この三人ならば姉上の仰った条件をも越えましょう」



 迷うことなく断言する景虎様。

 それに対し、晴景様もまた満足げに頷いてみせた。



「良き配下を抱えておる。では、毘沙門天の化身と呼ばれるかの長尾景虎を相手とし、越後全土を視野に入れて戦を操ることができる将器を持つ者、という条件であればどうじゃ?」



 晴景様は何だかとても嬉しそうだった。

 それに影響されたのか、こたえる景虎様も少し緊張を解いた顔つきだった。



「宇佐美定満であれば、可能かと」



駿河するがか、なるほど、そうであろう。あの父上も駿河にだけは勝てなんだ。だが、妾の知るそやつはな、戦局が不利になったとみるや、即座に方針を変更し、敵の大将の気性と戦略を見抜いて本城に招き寄せ、城と自らの命を贄として敵将を葬ろうとしたのじゃ。駿河にこれはできまい。なにせ、こんなことができるのはうつけだけじゃ。駿河は優れた策士であるが、ゆえにこそこんな馬鹿な真似はできん。のう、相馬もそう思わんか」

「は、はあ、まあ……そうですね?」



 何と応じたものか、俺はこうじ果ててはきつかない返答をしてしまう。

 普段であれば、そんな俺を見た晴景様は皮肉の一つも言ってくるものだが、今は聞き流してくれたようだ。

 ――あるいは、皮肉を口にする余裕がなくなりつつあったのかもしれない。



「うつけじゃ。うつけじゃが……臣下として越後に、否、日ノ本に出しても恥ずかしくないうつけである――相馬よ」

「は、はい!」

「どうじゃ、そのうつけ、いまだ私に忠誠を誓っておると思うか?」

「誓っておりましょう」

「妾は、そのうつけが忠誠を捧げるに相応しい主君であったと思うか?」

「万人にとってどうかは存じませぬが、命を救われた彼のものにとっては、疑いなくただ一人の主君であったと心得ます」



「景虎」

「はッ」

「そなたの配下に、そのうつけを越える者はおるかの?」

「残念ながら、勇において直江、本庄に優り、智において宇佐美に優る者は、我が配下にはおりません」

「では、妾はそなたの全ての配下に優る者を召し抱えていることになる」

「そうなりましょう」

「妾はその一点で、景虎、そなたを超えたのじゃ」

「……はい」



 


 言い終えるや、晴景様は俺と景虎様を枕元に呼び寄せた。

 ためらいながらも、左右に分かれる形で俺たちは晴景様の傍らに座す。

 晴景様は口を開いたが、その声からは少しずつ生気が喪われつつある。『その時』が近づいていることを悟った俺は、奥歯をきつく噛み締めた。



「相馬」

「はい」

「我が妄念は、はらわれた。そうなってはじめて、妾は一つの心残りがあることに気がついた」



 力のない言葉を受け、俺も自然と声を低めてしまう。

 囁くように問いかけた。



「心残りとは、何でございましょうか?」

「ただ一人の妹に、姉らしいことを何一つしてやらなんだ。そのことよ」



 その言葉に、晴景様を挟んで向かい側にいる景虎様の身体がかすかに揺れた。

 それに気づいたのかどうか、晴景様はさらに言葉を続ける。



「とはいえ、何を残せばいいものか。妹は、景虎は、すべての点で妾に優っておるからな。守護代の地位とて、妾が譲らずとも己の力と徳で手に入れるであろう。であれば、妾が譲ってやれるのは、妾が持つ中でたった一つ、妹に優るもの。それしかあるまい」

「……御意」



 晴景様の言わんとするところに思い至った俺は深々と頭を下げる。



「景虎」

「はい、姉上」

「相馬と戦ったお主のことじゃ。すでに相馬を知ること、妾より優るであろう。妾の下であっても、これだけの功績をたてた男じゃ。そなたの下であれば、どれだけ雄飛することになるか」



 晴景様が景虎様を見る。景虎様もまた晴景様を見ていた。

 おそらく、二人がこんなに近くでお互いの顔を見るのは、物心ついて以来はじめてのことなのではないか。



「相馬の力はそなたの望みを果たす支えとなり、相馬の心はそなたの道を照らす灯火となろう。これが、何一つしてやらなんだ姉の、最後の芳心じゃ」

「……つつしんでたまわります、姉上」



 景虎様の目に小さな雫が生まれる。

 晴景様の枯れ木のような手が俺の手を掴み、もう片方の手が景虎様の手を掴む。

 そして晴景様はそれを自らの胸の上に引き寄せた。

 必然的に触れ合う、俺と景虎様の手。

 その手ははじめ、戸惑ったように動きを止め――しかし、やがてぎこちないながらに、ゆびを絡ませ、互いにしっかりと握り合う。



 その様子をじっと見詰めていた晴景様は、満足したように頷くと、ゆっくりと瞼を閉ざす。

 ――その瞼が開かれることは、二度となかった。 



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