第十二話 決意の火
俺は景虎様を遠目に見たことがある。
それゆえ現れたのが景虎様であることはすぐにわかった。
だが、たとえ今まで一度も景虎様の姿を見たことがなかったとしても、一目でそれとわかったと思う。
その眼差しから溢れる奔流のような戦意。手に握られている刀は、あの名刀小豆長光か。
俺と景虎様の間の距離など、景虎様にしてみればないも同然であろう。向こうがその気になった次の瞬間、俺は切り伏せられているに違いない。
敵意でもなく、殺意でもなく、ただ圧倒的なまでの戦意。
俺が刀を持っていないのは丸腰を誇示して、少しでも時間を稼ぐための姑息な策だったのだが、たとえ刀を持っていたとしても一合と打ち合える気がしない。もっといえば、俺が刀を抜き放つより早く、景虎様の刀が俺を真っ二つにしてしまいそうだ。
そう感じざるを得ないだけの力量差が、俺たちの間には横たわっていた。
後方の二人――おそらくは側近の直江景綱と本庄実乃だろう――とも似たような格の差を感じはするが、目の前の相手は別格だ。そんな人物が越後国内に二人といようはずもない。
俺は自然と声を出していた。
「春日山城主 長尾晴景様が家臣 加倉相馬と申します。栃尾城主 長尾景虎様とお見受けいたしますが、如何?」
こちらの問いに目の前の人物は小さく頷きを返してきた。
「いかにも。私が景虎だ。加倉相馬――なるほど、噂に違わぬ人物のようだな」
そう言うや、景虎様はいきなり刀を鞘に納めた。
景虎様の後方にいた二人が驚きの声をあげる。彼らに負けず劣らず俺も驚いた。
「正直、敵すべくもないとはいえ、俺――いえ、私は貴方様の敵なのですが、刀を納めてもよろしいのですか?」
俺の言葉に景虎様はわずかに怪訝そうな表情を浮かべる。
まったく同じ表情を返す俺を見て、景虎様は頬を緩めた。
「そなたは噂に違わぬ人物だ、と言ったであろう。であれば、ここで刀を突きつける意味はあるまい」
「そもそも噂とは何です? いや、失礼しました。成り上がりとか、腰巾着とか、その手の噂ならばよく耳にするのですが、景虎様のところにまでそんな噂が流れているのですか?」
いささか情けなくなって問いかける。
すると、景虎様は今度ははっきりとした笑貌を見せた。
「はは、その噂は初めて耳にしたな。私が聞いた噂は、そなたが春日山随一の忠臣であるということ。そして、たぐいまれなる軍配者であるということ。この二つだ」
「……いや、それは、なんと申しますか、お耳汚しを……」
思わず頭を抱えそうになる。
よりにもよって景虎様の口から忠臣だの、たぐいまれなるだのと言われると羞恥心が刺激されてならない。どう考えても過大評価だった。
そんな俺を見て、景虎様はくすりと笑う。
天守の間にどこか和やかな空気が流れたように思われた――が、それは幻想だ。
景虎様はどうか知らないが、俺にとっては今がこの戦における最重要の局面。
それを知ってか知らずか――否、おそらくは知りながら、それでも景虎様の口調には焦りの色は滲まない。
山裾から湧き出した清流のように、清らかで床しい言葉が鼓膜を震わせる。
「忠臣にして謀臣たるそなたが一人でここにいる。姉上はすでに春日山にはおられぬのだろう?」
「はい。私から進言し、春日山を離れていただきました」
そうか、と景虎様は呟く。
そして。
「であれば、私の行動は予測されていたということだ。もはやそなたの策からは逃れられぬ」
「……気がついておられたのですか?」
「悟ったのはそなたの名を聞いた時――いや、ここにきてそなたの姿を見た時、だな。いずれにせよ、手遅れになってからだ」
そう口にする景虎様を見て俺は戸惑った。
どうしてこの方は感心したように俺を見ているのだろう。
いや、感心というよりも、この表情は――
「なぜ、嬉しそうな顔をなさるのですか。私は貴方を殺そうとしているのに」
そう。
景虎様は嬉しげに微笑んでいるのだ。俺が罠をしかけたこと、その罠が自分を殺すものであることをわかっているはずなのに。
激昂した景虎様が躍りかかってくることさえ予測の内に含めていた俺にとって、今の景虎様の言動は理解の外にあった。
「確かに今は戦の最中であったな。すまない。だが、そなたを蔑ろにしているわけではないぞ。本当に嬉しかったのだよ。そなたが噂どおりの人物であってくれたことが。そして、姉上の配下にそなたほどの武将がいてくれたことが。敵である私が何を言うかと思うだろうが、これは本心だ」
そう言って微笑む景虎様の顔に、俺は不覚にも見とれてしまった。感動で胸が詰まった。
景虎様が心底から姉を慕っていることが痛いほど伝わってくる。
知らず、深いため息を吐いていた。
今さら。
本当に今さらではあるが。
もし晴景様が景虎様と和解し、姉妹が手を取り合っていれば、越後統一などきっと簡単に成し遂げられただろう。
長尾姉妹の名は、越後どころか北陸、近畿、京をはるかにこえて、遠く九州の地まで鳴り響いたに違いない。
――だが、もう遅い。
すでにお二人の争いは決着をつける段階に至っている。
決着とは、すなわちどちらかの死。
そして、俺が仕えるのは長尾晴景様である。
ゆえに。
「長尾景虎様――お命、頂戴いたします」
俺がその言葉を発するのを待っていたかのように、階下から景虎様麾下の兵士の悲鳴じみた報告が届けられた。
「申し上げます! 火、火です。城内の各所から、火の手があがりましたッ!」
その報告と時を同じくして、もうもうとたちこめる煙が出口を求めて階下から這い登ってくる。
天守の間はたちまち騒然とした気配に包まれた。
◆◆
「おのれ、誰が城に火を放てと命じたか、粗忽者がッ!」
「誰も火を放った者はおりません。城に残っていた者たちもことごとく捕らえております。いぶかしいことですが、自然に火が出たとしか思えませぬ!」
「馬鹿な、そんなことがあるものか!」
「詮索は後にせい! まずは火を消すのだ!」
「で、ですが、火のまわりが早すぎます! それに、火が出たのは一箇所や二箇所ではありませんぞ! さらに階下からも煙があがってきておりますッ」
「いかん、このままでは逃げ道を失うぞ!? 皆、早急に城外へ逃れるのじゃ」
「だ、駄目です、すでに到るところから火と煙がッ!?」
突然の事態に混乱する兵たちを見やりながら、直江景綱がうめくように口を開いた。
「おぬし、春日山城もろとも私たちを葬るつもりかッ」
それを聞いた俺はこくりと頷いた。
「いかにも。城の者たちを外に出した後で、城内にありったけの仕掛けを施しておきました。こればかりはあらかじめ試してみるというわけにはいかなかったので、うまくいって何よりです」
「このままでは、貴様とて逃れられぬのだぞ。自らも焼け死ぬつもりか!?」
「そうならざるをえないでしょう。私の命と、景虎様はじめ越後屈指の勇将である皆様の命とでは引き換えになりませんが、それはご容赦いただきたい」
そういって苦笑する俺を見て、景綱は唖然としたようだった。
わかったのだろう。
春日山城が無人に等しかった理由。
俺が一人で天守に残っていた理由。
そして、そんな俺を前にして景虎様が刀を納めた理由。
その全てが。
言葉を失った景綱にかわり、本庄実乃が進み出た。
「……我らを城に誘い込んで火を放つ。それはわかる。だが、そなたがここに残る必要はなかったのではないか?」
晴景様と共に逃げればよかったではないか。そうして、春日山城もろとも栃尾勢が焼かれるのを外から見ていればよかったではないか。
そう問われた俺は小さく肩をすくめた。
「私なりのけじめ、でしょうか。命の恩には命を懸けて報いる。命を奪う敵には命を懸けて立ち向かう。自分がたてた策の結果を、安全な場所から眺めるようなことはしたくなかった。それに――」
俺は景虎様、景綱、実乃の顔を順に見た。
いずれもこんなところで死んでいい人物ではない。俺が討った柿崎景家と同様に。
「俺がここで奪う可能性はあまりに大きすぎる。遠くでその結果を待つ緊張感に耐え切れるとは思えなかったんです」
その言葉の意味を理解できた者は、たぶんこの場にはいないだろう。
だが、俺が抱える覚悟が本物であることは伝わったのだと思う。
最後に進み出てきたのは景虎様だった。
「姉上への恩義に報いるために、命を賭して戦ってくれたのだな」
景虎様はゆっくりと俺に近づいてくる。
刀は納めているとはいえ、景虎様ほどの力量があれば、抜き打ちの一刀で俺の首など簡単に飛ばせるだろう。
俺は景虎様の間合いの中にいる。
覚悟を決めて景虎様が歩み寄ってくるのを待った。
「では、そなたに言わねばならないことがある」
気がつけば、景虎様は俺の目の前までやってきていた。
青を基調とした衣装と甲冑。幾人もの兵を斬り捨ててきたであろうに一滴の返り血もついていない。
凛とした佇まいと、隙のない動作。
ただ眼前に立っているだけだというのに、思わずひざまずいてしまいそうな気品が感じられる。
格が違う、という言葉はこのような時に使われるべきなのだろう。
そんなことを考えている俺の手を、景虎様は両の手でやさしく包み込んだ。
「ありがとう。妹として、あなたの忠義に心からの感謝を捧げます。あなたのような人が姉上の傍にいてくれて良かった」
――その言葉に、俺は何と返せばよかったのだろう。
つい先ほどまでの栃尾城主としての言葉ではない。長尾晴景の妹として俺に礼を述べる景虎様の言葉に、俺は言葉を失ってしまう。
握られた両の手が熱い。
迫り来る炎と煙さえ今は遠い。
まさしく役者が違う。こんな方に俺が勝てるはずはなかった。
なによりも――
「天が、許すはずないよな。この方がこんなところで倒れることを」
その俺の言葉に応じるように、突如、凄まじい大音響が春日山城の内外に轟き渡った。
巨大な落雷が天と地を一瞬で駆け抜けたのである。
時ならぬ雷鳴は戻り梅雨を告げる兆しであったのか、間もなく春日山に大粒の雨が降り始めた。
風はほとんどなく、滝のような雨がザアザアと音をたてて降り注ぐ。
城からあふれ出ようとしていた炎も煙も、自然の力の前にたちまち勢いを失っていく。
城内ではなお火の手がくすぶっていたが、それもほどなく消し止められるだろう。火消しのための水が不足することは絶対にないのだから。
自らの策が失敗に終わったことを悟った俺は大きく息を吐きだした。
役目を果たせなかったことへのため息か。あるいは景虎様たちの命を奪わずに済んだ安堵の吐息か。どちらであるかは、俺自身にもわからなかった。