第百十二話 幻
その夜、俺は躑躅ヶ崎館の一室で横になっていた。
やるべきことはやった。伝えるべきことは伝えた。後は事態がどう動くかを待つばかりで、ようするにやることがなかったのである。
向こうが動かざるを得ないように仕向けたとはいえ、確実に動くという保証はない。いつ動くかも向こうの胸先三寸にかかっている。
この状況では軽挙妄動こそ真の敵。動かざること山のごとしを貫く所存である。
とはいえ、不安がないわけではなかった。
他家の領地でこれだけ派手に動き、自信満々で他者を説き伏せた。
もし、これで敵が動かなかったらえらいことだ。
そう考えて、小さく肩をすくめたときだった。
「……ん?」
燭台の灯が揺らめき、奇妙に生暖かい風が頬を撫でた。
寝転がっていた俺は上体を起こす。晩秋が過ぎ、冬を迎えようとしている甲斐の気候は、一日ごとに厳しさを増している。
にもかかわらず、どうして外から流れ込んでくる風が生暖かく感じたのか。
胸を騒がせる、確信にも似た予感。
何かに急かされるように立ち上がった俺の耳に輝虎様の声が飛び込んできた。
――虚無僧様の変にくぐもった声ではなく、俺の知るいつもの輝虎様の声。
「――相馬、よいか」
「はい、輝虎様」
答えるやすぐに襖が開け放たれ、輝虎様の姿が視界にうつしだされる。
深編笠をとった輝虎様は、秀麗な容姿を甲斐の外気に晒しながら、眼差しに鋭気をたたえて口を開いた。
◆◆
甲府盆地の南方に武田の四つ割菱の旗印を掲げる一軍が姿を現した。
武田晴信のもとにその報告が届いたとき、日はとうの昔に暮れていた。
数はおおよそ一千。すべて騎兵であり、一直線に躑躅ヶ崎館へ馳せ向かっているという。
一千もの騎兵を晴信に無断で動かすうつけ者は家中にいない。
しかも時刻は夜、向かう先はこの館ときては、敵以外に判断しようがなかった。
「……動きましたか」
躑躅ヶ崎館の奥、当主の間で、武田晴信は小さく呟いた。
◆◆
叫喚と共に突進してくる暗灰色の騎馬隊は、まるではじめから命を捨てているかのような猪突ぶりを見せた。
騎兵の突進を防ぐ槍衾のまっただなかに躍りこみ、突かれようが斬られようが委細かまわず、敵兵をなぎ倒そうと暴れまわる。
この南からの攻撃を受け止めたのは武田家が誇る六将のひとり、春日虎綱である。
虎綱は晴信からあずかった二千の兵をもって防衛線を築いていた。敵の襲来はあらかじめ予測されていたことであったが、ここまで狂猛な敵と渡り合うのは虎綱も久しくないことであった。
生還を度外視し、死を恐れない――いや、むしろ死を望んでいるのではないかとさえ思える獣のごとき獰猛さ。
虎綱はあらかじめ七重の防衛線を築いてきたが、その四つまでを最初の突撃で食いやぶられてしまった。
並の武将ならばこれで動揺し、逃げ腰になって一気に崩れていたかもしれない。
だが、虎綱は敵の度を越した凶暴さが激情の産物であることを見抜き、配下の兵に守勢に徹するよう命じた。
このような無謀な攻撃がいつまでも続くものではない。堅く陣を守って動かなければ、敵は勝手に踊り狂って疲労するだろう。
「向こうの狂熱に付き合う必要はありません。数はこちらが上なのです。一人に対して必ず二人以上で戦いなさい」
当初こそ混乱したものの、虎綱の指揮の下、武田軍は徐々に冷静さを取り戻し、数を利して一人一人、確実に敵の数を減らしていった。
血と臓物の悪臭が戦場を覆い、夜の闇の中で喚声と激語が無数に飛び交う。
時を追うごとに形勢は武田軍の有利に傾いていった。虎綱の指揮によって、敵は手ひどく叩かれて数を減らしていく。
しかし、それでも勢いは止まらなかった。怯む様子もなく同じ突撃を繰り返し、血まみれの肉塊となるまで暴れまわって果てていく。
そんな常軌を逸した戦いぶりを目の当たりにして、武田軍は攻撃の手を緩めることこそなかったものの、得体の知れない薄気味悪さを感じずにはいられなかった。
夜間ということもあり、戦っている相手が人間ではなく、肉食の獣であるかのような錯覚にとらわれる。
その恐怖が尾を引いたか、繰り返される猛攻によって陣の一部に乱れが出た。
そして、この敵兵は狂的な攻勢を繰り返す反面、そういった破れ目を見逃さない狡猾さを持っていた。武田軍の乱れに乗じ、手薄になった場所に攻撃を集中してくる。
短くも激烈な戦闘の末、虎綱の本隊は敵の勢いに押されて後退を強いられた。
これを見た敵軍は勢いに乗り、かさにかかって攻撃を仕掛けてくる。それによって武田の陣形はさらに大きく乱れた。
天頂から戦況を俯瞰している者がいれば、武田軍が緩やかな『∩』字型になっていることに気づいただろう。
このままでは中央を突破され、躑躅ヶ崎館への侵攻を許してしまう。
そう思われたとき、虎綱がさっと右手をあげた。
それに応じて、馬廻衆の一人が上空めがけて二度、火矢を放つ。
その直後、武田の両翼が動き始めた。
袋の口を閉ざすように、中央突破をはかっていた敵軍の背後を塞ぐ。
同時に、それまで敵の猛撃に押されて退却を重ねていた虎綱本隊も取って返し、うってかわって頑強な抵抗を示し始めた。
中央突破を成功させるかに見えた敵軍は、一転して武田軍に包囲されていた。
四方八方から降り注ぐ矢の雨によって陣形が崩れ、バタバタと兵士が倒れていく。もともと戦力的には武田軍が優っていたのだ。みるみるうちに兵力差が開き始め、ほどなくして戦闘は一方的な形勢を示し始める。
だが、それでも敵は戦いをやめようとはしなかった。
降伏を呼びかける虎綱の声に応じず、あくまで戦いを継続する。
虎綱もやむをえず攻囲を強めていき、やがてこの方面にあらわれた敵は夜の闇に溶けるように消滅した。
生き残った者は百名に満たない。事実上の全滅である。
他方、武田軍の死者は二百あまり。彼我の差を見れば圧勝といってよかったが、虎綱にとって二百の戦死者と、戦闘終了までに要した二刻(四時間)近い時間は手痛い計算違いであった。
部隊を再編した虎綱は、念のために二百ほどの守備兵をこの地に残して、残余の兵を率いて躑躅ヶ崎館に帰還する。
この間、躑躅ヶ崎館と甲府の町ではいくつもの衝突が発生していた。
◆◆
少し時をさかのぼる。
春日虎綱が敵軍との戦闘を開始した頃のこと。
躑躅ヶ崎館の内部に怪しい人影が潜入していた。
木立にさえぎられ、深い闇がわだかまる一角から姿を現した者たちは全員が武装している。
その中の一人が、眼前の館の景観を無感動に眺めながら声を発した。
「盛清」
「は」
「からめ手門を開き、外の連中を招きいれよ。しかる後、祠廟を押さえるのだ。御旗楯無は、正当な持ち主の手に戻るべき宝器よ」
「御意、ただちに」
応諾の声を残して鬼面の忍者は闇に消える。
数名の甲賀衆が盛清に続いた。
それを見送った後、男――武田信虎は自らも動き出した。
といっても、闇に隠れて様子をうかがうことなどしない。足音を潜めるでもなく、堂々と歩を進める。
まるで、我が館の庭を歩いているかのような平然とした姿に、麾下の者たちの方が不安を隠せない様子だった。
ただ、その不安を口に出す者はいなかった。それをすれば信虎の機嫌を損じることがわかっていたからである。
また、館の中から不審者をとがめる声があがることもなかった。
信虎は知っていたのだ。有事の際にはどう人が動くのか。手薄になるのがどこか。目的地に向かう抜け道がどこにあるのか。
それらすべてを、掌を指すように知っていたからこそ、逃げ隠れする必要を認めなかったのである。
「――とはいえ、それは貴様とて同じであろうがな、晴信。こうもたやすく入り込ませるとは、ふん、策があるにしてもわしを甘く見すぎであろう。その増上慢には灸をすえてやらずばなるまい」
信虎の顔に嗜虐的な笑みが浮かぶ。
それは、これから繰り広げられる暴虐と陵辱の宴を思い描いたゆえのものだった。
久方ぶりに訪れたかつての居館に足跡を残しつつ、信虎は進む。
向かう先は躑躅ヶ崎館の離れ――晴信の私室だった。
信虎は知る由もなかったが、いま歩いている道はほんの数日前、体調悪しく倒れた晴信が加倉相馬に命じて己を運ばせた道であった。
目印の一つである唐楓を右に抜けると、ほどなくして闇夜の向こうに離れが見えてきた。
再び信虎の頬が笑みの形にゆがむ。
だが次の瞬間、不意にその笑みが凍りついた。
その視線の先に一人の女性が立っている。
闇夜にも鮮やかな紅色の着物に紺袴。
長い黒髪は頭の後ろで一つに結わえ、額には白の鉢巻、肩にはたすき。
握るは四尺六寸余の大薙刀、銘 備州長船兼光の業物なり。
凛々たる装いは、古の巴御前もかくあらん。
その女丈夫を見た信虎は、小さく小さくつぶやいた。
奥、と。
たった一字をつぶやいた。