第百十一話 騒乱前夜
「ねえねえ段蔵。相馬様の様子、変だよね?」
「言うにや及ぶ、というものでしょう――本人は隠しおおせているつもりのようですが」
小島弥太郎の小声の問いかけに対し、加藤段蔵がこちらも小声で応じる。
炊き出し二日目。加倉は秀綱、輝虎両名との話し合いのために席をはずしている。
常ならば主のそばを離れない側近両名であるが、剣聖と軍神が左右についていれば曲者の心配はいらない。
昨日と同様、炊き出し用の大鍋に具材を投入しながら、弥太郎たちは会話を続けた。
「何があったのかな……相馬様、すごい怒ってるよね」
「そうですね。何かがあったことは間違いないでしょう。問題は何があったのか、ですが……」
「段蔵でもわからない?」
「わかりません。探ろうと思えば探れるでしょうが……加倉様の様子から推して、下手な詮索は逆鱗に触れます」
段蔵は一昨日のことを思い出す。
湯殿に行った加倉が一時的に行方不明になった夜のことだ。
さいわい、加倉は夜更けに戻ってきて事なきを得たのだが、敵地とも言うべき躑躅ヶ崎舘でいったい何をしていたのか。
当然のように段蔵たちはその点を疑問に思い、主に問いただそうとした。
――だが、段蔵たちの口から追及の言葉が発されることはなかった。
戻ってきた加倉は口数少なで、表情は能面のごとく平坦であり、全身から冷えた妖気を漂わせていた。
あの時の加倉の顔を思い出すと、今でも背筋に悪寒が走る。
言葉にせずともわかった――主が本気で怒っているのだ、ということが。
そんな主に詮索の言葉を向けられるはずがなかった。
とはいえ、加倉の配下として活動するためには、あるていどの事情をつかんでおく必要がある。
その推量の助けとなるのは、加倉が新たに開陳した策の内容であった。
これまでは極力武田家の陰に隠れようとしていた加倉が、はっきりと上杉、北条の名を前面に押し出し、その圧力をもって信虎をつり出そうとしている。
あの策の内容を見れば、加倉の怒りの矛先が武田信虎に向けられているのはほぼ間違いない。
もともと加倉は信虎のやりように強い怒りと不快感を示しており、だからこそ彼の人物の野望を阻むために駿河くんだりまで出向きもしたわけだが、あの夜以降、加倉が押し隠している(つもりの)憤怒の深さは過去のそれとは一線を画している――段蔵の目にはそう映るのだ。
それらの事実から導きだされる結論は一つ。
おそらくあの夜、加倉は『何か』を知ったのだ。過去に見聞きしたどれとも異なる、信虎の唾棄すべき醜行を。
だからこそ、あれほどまでに怒り狂っている。
そして、躑躅ヶ崎舘において、信虎の知られざる醜行を加倉に語れる人物はごくごく限られる……
と、そこまで考えて、段蔵は意図的に自分の思考を遮断した。
この先は自分が踏み込むべきではない領域だ。
段蔵たちに伝える必要があると考えれば、加倉の方から事情を説明してくれるだろう。それがないということは、段蔵たちが知る必要はない――あるいは、知らせることができない内容であるということ。
ゆえに、ここは胸中の心配を押し隠し、黙して普段どおりに振る舞うのが加倉相馬の臣下たる己の役割であろう。
段蔵はそう考えた。
考え、そして苦笑した。
「……まったく。気がつけばずいぶんと飼いならされたものです」
忍の世界で飛び加藤と恐れられる己が、主の心情をおもんぱかって情報収集を控えるなど、里にいる長が聞いたら目を剥いて驚くだろう。あるいは、腹をかかえて笑い出すだろうか。
そんなことを考えていると、隣にいる弥太郎がいぶかしげに口を開いた。
「段蔵、なんだか楽しそうだね?」
「……そんな顔をしていましたか?」
問い返すと、弥太郎はこくこくと頷いた。
段蔵はおのれの頬に手をあてて、軽く頬肉をつまむ。
「――ふむ。たしかに思った以上にゆるんでいますね。これでは主様の話をしている時の弥太郎と同じです」
「……? ええと、それはどういう意味だろ?」
「自分で思っていた以上に朱に染まっていた、ということです」
「むう?」
弥太郎ははてと首をかしげる。
しかし、段蔵はそれ以上の説明をしようとはせず、さっさと話題を切り上げた。
「いい具合に鍋が煮えてきましたね。ほら、弥太郎。そろそろ香草を投入してください」
「あ、はい! 味噌雑炊は風味が命、だったよね!」
「そのとおりです。つまりこの鍋を生かすも殺すもあなた次第。期待を裏切らないでくださいね?」
「ものすごい重圧だ!」
軽口を交わしつつ、弥太郎は真剣そのものといった様子で香草を散らす。
それを見ながら段蔵は思う。
率直にいって、炊き出しにやってくる難民たちが繊細な風味を感じ取れる舌を持っているとは思えず、弥太郎が風味付けに失敗してもたいした問題にはならないだろう。みな、腹がふくれれば満足するに違いないのだ。
ただ、だからといって適当につくっている姿を衆目にさらすのはよろしくない。
それでは上杉軍の評判に傷がつく。真剣に炊き出しに取り組んでいる姿を示すことも策の一つなのだ――ことに、今も遠目にこちらをうかがっている者たちに対しては。
段蔵が何気ない風をよそおってそちらに目を向けると、粗末な衣服を着た年配の男たちがたむろしているのが見えた。
いかにも炊き出し目当ての難民といった風だが、彼らが段蔵たちを――より正確にいえば上杉軍を見張っていることに段蔵は気づいていた。
信虎が抱える甲賀忍かと思ったが、それにしては少々隠形がお粗末である。
おそらく、あらかじめ難民に紛れこんでいた信虎配下の野武士だろう。
加倉の指示によって、炊き出しの現場には武田、上杉、北条の軍旗が並んで掲げられている。
気のせいか、三家の軍旗を見あげる男たちからは焦りのようなものが感じられる。この情報は間違いなく要害山城まで届くだろう。
その様子を見た段蔵は心中でそっとつぶやいた。
武田晴信、北条氏康、上杉輝虎。自業自得とはいえ、この三者を同時に相手どって戦う者には同情を禁じえませんね――と。
◆◆◆
要害山城に立てこもる武田信虎にとって、事が思い通りに運んだのは城を占拠するまでであった。
難攻不落の要害山城を奪い、武田信繁の名をもって叛旗をひるがえし、晴信を心身両面から追い詰める――現状は信虎にとって最後の仕上げというべき段階に入っている。
だが、この段階に入ってからこちら、事態は信虎の思惑をこえて動き始めた。
ことに、ここ数日はそれが顕著であった。
「上杉に北条、じゃと?」
「御意。上杉からは塩が、北条からは魚と米が、それぞれ大量に甲府に運び込まれております」
それを聞いた信虎は、ち、と音高く舌打ちした。
先日来、晴信が沈黙を保っていることを信虎はいぶかしんでいた。常の晴信ならば、とうに要害山城に攻め寄せているはず。それをしないのは、あるいは病が発症して動けないからか、と推測していた。
あにはからんや、上杉、北条の二家と語らって、彼らを国内に引き入れていようとは。
両家が晴信に協力を約したのであれば、援助は物資のみにとどまるまい。相応の数の兵も差し向けていると考えるべきだ。
晴信が動かなかったのはそれらの援軍待ちだったと考えれば、ここしばらくの不可解な沈黙も説明がつけられる。
信虎は不快そうに吐き捨てた。
「かりそめにも甲斐の国主たる者が、国内の乱を鎮定するために他国の兵を引き入れるとは。ふん、晴信め。わしを討つためなら暗君になることも辞さぬというわけじゃな。それに、北条が晴信についたということは――」
早姫を用いた諸々の策略がすべて水泡に帰した、と考えるべきだろう。
この時期の北条の参戦はそういうことだった。
駿府城代 根津政直から鷹の知らせが来ないことも、この推測を裏付けている。おそらく、早姫は北条の手の者によって奪回されたのだろう。
「察するに幻庵ばばあの仕業かの。根津のうつけめ。女ひとりの首を斬ることもできぬとは」
再度の舌打ちをこぼしつつ、信虎は眉根を寄せて今後の方策を思案した。
晴信が攻めてくるのを待って、その背後で難民を使嗾して躑躅ヶ崎舘を襲うのが信虎の基本戦術だった。
躑躅ヶ崎舘が危機におちいれば晴信は軍を退かざるをえない。そのとき、信虎自身が兵を率いて城内から突出し、退却する晴信軍の後背に襲いかかる。峻険な山道を逆落としに突き進むのだ。
百戦すれば百勝するであろう必勝策だった。
だが、晴信の後ろに上杉軍、北条軍が控えているとなると話がかわってくる。
その状況で難民が決起しても二国の軍に蹴散らされるだけだ。
あるいは、要害山城を攻めるのは二国の軍で、晴信は躑躅ヶ崎舘から動かないかもしれない。この場合でも信虎の策は不発に終わる。
「……であれば、逆にこちらから打って出るしかないのう」
信虎はニヤリと笑う。
もとより信虎は野戦の将。その本領は篭城よりも出戦にある。
今回、要害山城に立てこもろうとしたのは、それがもっとも効率の良い作戦だったからであって、決して晴信を相手に居すくんでいたわけではない。
聞けば、躑躅ヶ崎舘周辺は祭りのような騒ぎになっているという。
炊煙がさかんにたちのぼり、笛や太鼓といった鳴り物まで用いられているらしい。
おそらく、どこぞから旅芸人の一座を招きいれ、難民たちの不安と不満をなだめようとしているのだろう。
晴信のことだ、そうやって難民の中から不審者をあぶりだそうとしているのかもしれない。
だとしたら、なおのこと決着は早めにつける必要がある。
現在、要害山城は武田軍に包囲されているが、兵を外に出す抜け道はいくつもある。
信虎は肉厚な唇をひん曲げて、ここにはいない者に告げた。
「くかかか! 再会ついでに国主たるの心構えをとっくりと説いてやるとしようぞ。待っておれ、わが娘よ!」
月の見えない夜。
信虎の哄笑に応じるかのように強風が吹き荒れ、山中の木々を激しく揺らした。
風は城内の木戸を大きく軋ませた後、勢いを保ったまま山腹を駆け下っていく。
その先には常ならぬ活気にわく躑躅ヶ崎舘があった……