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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第百十話 炊煙



「孫子(いわ)く。暗くて寒くて腹が減ると人間はろくなことを考えないものなので、灯と暖と食は絶やさぬようにすべし」

「真顔で嘘を言うのはやめてください。弥太郎が感心してしまうでしょう」

「ええ!? 嘘なんですか!?」



 二人の配下と他愛もないやりとりを交わしつつ、目の前の大鍋をゆっくりとかき混ぜる。

 香ばしい味噌のかおりが漂う鍋の中身はたい味噌みそ雑炊ぞうすい 北条家特製ばーじょん。

 干した鯛からにじみ出る旨味うまみと上質な味噌の味わい、新鮮な山菜の歯ごたえと香草の風味がたまらない一品ひとしなである。



「孫子(いわ)く。これに収穫したての新米を加えるとか、どう考えても美味いに決まってるだろうべし」

「語尾が雑すぎます」

「それが嘘なのは私でもわかります!」



 かき混ぜすぎると風味が飛ぶので、混ぜるときはできるだけゆっくり、かつ丁寧に、というのが氏康の指示だった。

 かまどの熱気と立ちのぼる湯気で額ににじみ出た汗をぬぐいつつ、俺は氏康の指示どおりゆっくり丁寧に鍋をかき混ぜていく。



 と、そんな俺を横合いからじぃっと見つめる視線があった。

 ちらとそちらに目を向けると、心配そうに此方こなたを見やる弥太郎と目が合う。

 今朝おきてからずっとこの調子だ。正確に言えば今朝ではなく昨夜――晴信の部屋から戻ってからであるが。



 ……まあ、風呂に行ったはずの人間が、真夜中に頬に傷をこさえて戻ってきたら心配するわな。

 何かあったことは一目瞭然。ましてやここは武田家のお膝元。当然のように血相をかえた弥太郎たちから事情を問いただされる羽目になった。



 しかし、晴信の事情を他言するわけにはいかず、かといってそれを抜きにして語ると、他国の大名と艶事つやごとめいた真似をしてましたという内容になってしまう。

 なので、昨夜の俺の行動は「風呂あがりに中庭を散歩しつつ今後の作戦を考えていたら、時間を忘れて考えにふけってしまった」ということになった

 頬の傷に関しては、顔に止まった蚊を叩こうとして力を入れすぎた結果である。



 ……うん、我ながらもう少し何とかならなかったものかと思うが、俺は俺で晴信から聞いた情報を処理しきれずに一杯一杯だったのだ。やむをえない仕儀である。

 当然というか何というか、弥太郎たちは俺の説明にまったく納得していなかったが、こちらの様子からただならぬ事が起きたと察してくれたのだろう、厳しい追及は行われなかった。

 もっとも、そのかわり今日は朝からぎこちない空気が流れていて、微妙に気まずい。



 先刻からの軽口は、そんな空気を少しでも和らげるための苦肉の策であり、弥太郎や段蔵もきちんとノッてくれているのだが――やはり、いつもどおりというわけにはいかないようだ。特に弥太郎は折に触れて気遣わしげな表情を向けてくる。

 むう、できれば弥太郎にこんな顔をさせたくないのだが、本当のことを言うわけにもいかないしなあ……

 よし! こうなったら一刻も早く諸悪の根源を叩き潰し、晴信と弥太郎、双方の憂いを取り除くしかあるまい!

 そのための手は打ってあるしな!




「……主」

「お、長安。準備の進み具合はどんなもんだ?」

「とどこおりなく進んでいる。兄上も協力してくれているので舞台道具もそろっている」

新之丞しんのじょう殿か。後で改めて礼を言っておかないといけないな」

「戦からのがれ、なき者たちのために食と笑いを提供する。それは甲斐のためであり、武田のためでもある。兄上のことだから礼は不要と言うはず。それよりも――」

「それよりも?」

「炊き出しは明日以降も続くと聞いた。演目の方も笑劇ばかりでは飽きられる。折を見て『今正成』の上演も考えている。礼を言う時間があるなら稽古に当てるべきと進言する」

「おう、了解だ。稽古でも何でもどんとこい!」



 『今正成』甲斐公演とか、昨日までなら全力で拒否していた案件であるが、今の俺はやる気に満ち溢れている。

 甲府まで逃げのびてきた難民たちの不安と不満を静め、彼らの中に紛れているであろう武田信虎の私兵をあぶりだす。

 そのために必要なのは、今しがた長安が述べたとおり、一に食料、二に笑い。

 それも武田家が用意したそれではなく、食料は北条が、笑いは上杉が提供すれば効果は倍増するに違いなかった。



 ここで言う『効果』は二つの意味を持っている。

 一つは甲斐の民衆に対する効果。

 ここにいるのは今川軍の苛烈な侵略により、生まれ育った土地を離れざるを得なくなった人々だ。そんな彼らに対して、三国同盟の一角である北条家、さらにこれまで信濃の地をめぐってつのを突き合わせてきた上杉家が味方についたと伝えれば、間違いなく喜び、安堵する。



 ある程度の地位や学識の持ち主であれば、一方的な助力を受けることによる武田の面子や、両家に対する「貸し」に思い至り、諸手をあげて歓迎するとはいかなくなるだろうが――普通、庶民はそんなことは気にとめないものである。三国の平和と協力を喜ばないのは、現在の治世に不満を持つやからくらいであろう。

 結果、反乱分子のあぶり出しは容易になるという寸法である。



 それだけではない。上杉と北条が晴信に合力ごうりきしたという情報はすぐに信虎にも伝わる。

 これが二つ目の『効果』だ。

 要害山城に立てこもった信虎の狙いは、晴信を城に引き付けた上で背後の躑躅ヶ崎舘を奪い、前後から挟撃するというものだと推測できる。

 その信虎にとって、上杉と北条が晴信についたという知らせは凶報以外の何物でもない。

 特に北条家に関して信虎ははじめからかなり警戒していた。早姫を用いて今川と殺しあうべく画策したのがその証拠である。

 その北条家がほぼ無傷で晴信に助力していると知れば、いつまでも要害山に立てこもってはいられまい。



 今、甲府の町から立ちのぼっている炊き出しの炊煙すいえんは、巣穴に閉じこもった獣をいぶし出す武器である。

 たまらず巣穴から飛び出た獣を、迎え撃つも罠にかけるもこちらの思いのまま。

 これまでは今川家という隠れ蓑のせいで居場所さえ掴めなかった信虎であるが、要害山城という堅固な拠点を手に入れたことで、結果として己の居場所をおおやけにしてしまった。その意味では以前の信虎よりも今の信虎の方が組しやすいといえる。



 ――そこまで考えて、俺はギリッと奥歯を噛んだ。

 本来、俺は甲斐の内乱にここまで踏み込むつもりはなかった。

 俺ができるのは北条家と信虎を分断するまで。実際に信虎を討ち取るのは武田の当主である晴信の義務であり、権利でもあると考えていたからである。

 晴信もまた、上杉の人間がしゃしゃり出ることを許しはすまいという確信もあった。



 が、先夜のことで考えを改めた。

 信虎を討つ。一分でも一秒でも早く討つ。そのために出来ることはすべてやる。そう決めた。

 必ず叩き潰してやる。



 むろんというべきか、今の策は独断で決めたものではない。ちゃんと晴信および北条家の人間と協議した上で策定したものである。

 一夜明けた晴信様は、これまでと同様に一分の隙もない装いで俺と相対し、終始落ち着き払った振る舞いを見せていた。

 こう、秘密を共有した男女にありがちな目配せとか、恥じらいとか、そこはかとなく甘える仕草とか、そういったものは一切ありませんでした、ええ。

 途中「あれ、ひょっとして昨日のは全部俺の夢?」と内心で首をかしげたほどである。



 ただ、上杉、北条を巻き込んだ俺の作戦案がほぼそのまま認可されたところを見るに、先夜のことが夢でなかったことは間違いないと思われる。

 常の晴信であれば、俺の作戦案は却下されていたであろうから。



 ともあれ、準備は着々と整いつつある。

 なお、難民の情報収集には秀綱と輝虎様が当たっており、そのため二人は炊き出しの場にいない。

 あの二人であれば、難民に混じって甲府に潜入している者たちを見つけ出すことも不可能ではあるまい。

 本来、こういうことに輝虎様の手を煩わせるのは避けるべきなのだが、それはそれ、前述したとおり信虎を討つために出来ることはすべてやると決めている。

 よって、使えるものはすべて使う。輝虎様ほどの御方を遊ばせておくなど出来るはずがなかった



 ――まあ実際は、覚悟を決めて頼んだら、えらく弾んだ声で快諾してくれたのだけれども。




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