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聖将記  作者: 玉兎
第一章 邂逅
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第十一話 邂逅


 柿崎城へ侵攻を開始した日から、まださほど時が経ったわけではない。

 だが、俺は眼前の春日山の光景を懐かしく感じている自分に気づき、小さく笑った。

 梅雨が去って間もないこの時期、存分に水分を吸収した草木の成長は目を瞠るばかりで、芳醇な自然の息吹が春日山の内外に満ち満ちているように感じられた。



 春日山城に帰還した俺に従うのは弥太郎のほか十名。いずれも今回の戦いから俺の直属の部下となった者たちである。

 俺が春日山に帰還したことを知るのは、彼女らをのぞけば斎藤朝信ほか数名の武将のみ。ほとんどの諸将は俺が米山にいると思っているだろう。



 前触れもなく帰城した俺の姿を見て、留守居の者たちは驚きのあまり口をぽかんと開けていた。

 中には、慌てて逃げ支度を始める者もいる。前線で敵軍と戦っている大将がほとんど単身で駆け戻ってきたのだ。なにやら不測の事態が生じたと思われても仕方のないことだろう。



 俺は彼らに落ち着くように言い置くと、そのまま晴景様の下に伺候しこうした。

 すでに俺が帰還した報告は受け取っていたのだろう、俺の顔を見た晴景様は驚く素振りを見せず、けだるげに口を開いた。



「退却の命令を下した覚えはないが……相馬、お主はここで何をしておるのじゃ。景虎めの首、持ち帰れと命じたはずじゃぞ」



 晴景様の方向からむせるような伽羅きゃらの匂いが漂ってくる。

 初夏の清新な空気が、たちまちのうちに物憂げなこうのかおりに染め替えられていく中、俺はひざまずいて独断で帰還したことの許しを請うた。



 だが、決して目的もなく帰ってきたわけではないことも申し添える。

 むしろ、これは俺の中では最後の仕上げに等しい。

 今回の春日山城への帰還は、景虎様を討ち、晴景様に勝利を捧げるための最終幕なのである。

 それを聞いた晴景様は目をみはり、俺の顔をじっと見つめてくる。

 ややあって、わずかに頬を紅潮させた晴景様が再び口を開いた。



「むろん詳しく聞かせてもらえるのであろうな?」

「もちろんでございます。しかし、この策は秘中の秘。できますれば、お人払いをお願いいたします」

「……ふむ、よかろう。きやれ、わらわの部屋で話を聞こうぞ」

「御意……って、はッ!? 晴景様のお部屋でですかッ!?」



 慌てる俺を見て、晴景様の目にめずらしく楽しげな光が躍った。

 にこりと笑って口を開く。



「まさか拒否はいたすまいなあ、相馬よ?」

「……か、かしこまりましてございます」



 主君の笑みの圧力に押されたように、俺は慌てて頭を垂れた。

 こうして晴景様の私室に入る栄誉をさずかった俺であるが――正直なところ、意外さを禁じえなかった。

 さぞや豪奢な造りをしているに違いないとの予測とは裏腹に、晴景様の部屋には黄金玉箔(ぎょくはく)のたぐいも、高価な調度品も置かれていなかったからである。

 質素と言ってもよいくらいのたたずまい。



 部屋の中央に座した晴景様は意外そうな俺の顔を見て、してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべた。

 童女のように澄んだ響きを帯びた笑い声が俺の耳朶をくすぐる。

 その笑いが一段落すると、晴景様は表情を改めた。



「さて、相馬よ。驚いたお主の顔も堪能できたことゆえ、本題に入ろうか」



 今の今まで浮かべていた楽しげ表情は消え去り、刃のように硬質な光を宿した瞳が俺を見据えている。

 晴景様はさらに続けた。



「ここならば聞き耳をたてる者はおらぬ。景虎の耳に入ることもなかろうよ。そなたの秘策とやら、開陳せい」

「御意。では――」



 これまで自分の胸の中にしまいこんでおいた策を晴景様に披露する。

 端的に言えば、景虎様をこの城までおびき出し、抹殺するのだ。

 もし景虎様が俺の予測どおりに動かなかったら。あるいは、俺の予測の上を行かれてしまったら、この策は呆気なく粉砕されてしまう。

 だが、たとえ失敗したとしても失われるのは俺一人の命だけ。それは成功によってもたらされる果実の旨みを思えば、賭けるに値する対価であろう。

 そんなことを考えながら、俺は策の全容を晴景様に説明していった。



◆◆



 結果からいえば、晴景様は俺の作戦を了承してくれた。

 驚きと疑念が幾重にも絡まりあった、なんとも珍妙な表情をしながらではあったが。笑いをこらえるのに腹筋を総動員しなければならなかったことは内緒である。



 ともかく、主君の許可を得た俺はすみやかに準備にとりかかった。

 中でも真っ先に手をつけたのは晴景様に城から出てもらうことである。

 グズグズしていては景虎様に機先を制される恐れがあったからだ。



 向かった先は越後守護 上杉定実(さだざね)様のやしきである。

 越後守護とはいえ、実権がない定実様に固有の武力はない。その邸の防備はきわめて薄く、もしまとまった数の敵に襲われたらひとたまりもないだろう。

 晴景様はそこで俺の策の成否を見定めることとなった。

 正直なところ、俺としてはもっと防備のととのった城に入ってもらいたかったのだが、晴景様本人が定実様の邸を望まれたのである。



 守護代(晴景様)に傀儡にされていた守護(定実様)が、転がり込んできた守護代に対して害意を抱くのではないかと危惧する俺に対し、晴景様はその心配はいらぬと断言した。

 定実様は晴景様の失政に対して諌めの言葉を発することはあったものの、それに乗じて実権を取り戻そうという動きは見せなかった。それに、定実様の奥方は晴景様、景虎様の異腹の姉君であり、晴景様とも縁が深い。

 それゆえ定実様がこの期に乗じようとする危険はない、と晴景様は自信ありげに語った。



 心配のすべてが払拭されたわけではなかったが、これ以上時間をかければ策自体に差し障りが生じる。

 俺はいたし方なく弥太郎たちを晴景様の護衛につけ、上杉邸まで送らせた。そして送り届けた後も邸の防備につくよう指示する。

 弥太郎は俺と共に春日山城に残りたいと望んだが、そこはきっぱりと拒絶し、晴景様を守るよう厳命した。



 今回は関川の時のような命令違反は許さないと強い口調で命じる俺を前に、弥太郎は力なく首を縦に振るしかなかった。

 涙目の美少女に見下ろされるというのは色々な意味で得がたい体験だったが、俺は心を鬼にして弥太郎を上杉邸へと向かわせた。




 そうして、晴景様と弥太郎たちが春日山城を出た翌日のこと。

 春日山城に急使が駆け込んできた。

 動転しきった様子の兵士は、俺が姿を見せるや叫ぶように告げる。頚城平野に忽然こつぜんと『毘』の旗印があらわれた、と。

 言わずとしれた長尾景虎の旗印。

 頚城平野に姿を現した百騎あまりの景虎軍は、風を切って進軍を開始。まっすぐに春日山城へ向かっているという。

 報告を聞き終えた俺は、城に残るすべての家臣一つの命令をくだした――





 景虎様が春日山城に攻めかかってきたのは、それからわずか一日後だった。

 いくら少数、しかも騎馬のみで部隊を構成しているとはいっても速すぎるだろう。よく馬が潰れないものだと感心した。

 あるいは馬を潰す覚悟で替え馬と一緒に行動していたのかもしれないが、それにしたって神速にもほどがある。



 天守から大手門の方を見下ろすと『毘』の旗印が何かに導かれるようにまっすぐこちらに向かっているのが見えた。

 すでに城内に人はいない。兵であれ、下男であれ、あるいは女中であれ、すべて城外へと逃がした。

 新参の俺の説得に耳を貸さず、先代様のご恩に報いると言い張って城に残った兵士もいたが、すでに景虎様によって蹴散らされていることだろう。

 せめて命は無事であるように、と頑固な彼らのために祈っておく。



 事ここに到り、俺のなすべきことはただ待つだけ。

 不思議と落ち着いていた。恐怖も、後悔も、ないわけではなかったが、それ以上にやるべきことはやったという充足感がある。

 もしかしたら、それは自己満足に類する錯覚なのかもしれないが――それでも最後に心に残った想いが胸を張れるものであったことを素直に喜ぼう。




 しばらくして、階下からあわただしい足音が響いてきた。

 がちゃがちゃとなりひびく重たげな具足の音。侵入者たちの声を漏れ聞くに、どうやら無人に等しい城内の様子に困惑しているらしい。

 ふと空に視線を向ければ、いつのまにか黒々とした雨雲が春日山を覆うように湧き起こりつつある。陽光が遮られ、天守の間に影が差す。



 と、そんな天候の変化に気をとられているうちに敵軍は真下の階まで迫って来ていた。

 少し意外だったのは、こちらに向かって来る足音が思いのほか静かであったことだ。先刻まで城内を荒々しく踏みしだいていた武者たちのそれとは一線を画する落ち着いた足取り。



「――来たか」

 そんな俺の呟きに応じるように、その人物は姿を現した。




◆◆◆




 それは景虎軍にとってあまりにも簡単な戦いだった。

 米山の南、黒姫山を突破し、頚城平野へ。

 無謀ともいえる山越えにあたったのは厳選した騎兵二百騎。そして、見事山越えを成し遂げて頚城平野までたどり着いたのは、当初の半分にあたる百騎のみ。



 わずか百騎で春日山城を落とすことなどできるはずもなかったが、景虎はためらいなく進軍を命じ、麾下の兵たちは躊躇なく命令に従った。

 号令一下、春日山城へ向けて疾駆する彼らの勢いは、鬼神すら避けるであろう凄まじさ。

 この一団の進路を遮ろうとした者はことごとく馬蹄に踏みにじられ、あるいは悲鳴をあげて逃げ散った。



 破竹の勢い。

 その言葉のままに春日山城に押し寄せた景虎軍は、ここでも圧倒的な強さを見せ、堅城として名高い春日山城の大手門をその鋭鋒で突き破る。その勢いは、三の丸、二の丸でも続いた。

 だが、このあたりで将兵の顔に疑問の色が浮かびはじめた。



「もろすぎる。いかに米山の守りに兵を割いているといえど、これはあまりに……」



 景虎の隣で駆けていた直江景綱が呟くように言う。

 それは他の将兵の疑問を代弁するものだった。

 春日山勢が米山に全兵力を集結させたことは確認している。ゆえに居城たる春日山城の防備が手薄なのは当然のことだ。

 だが、それを踏まえてもなお城兵が少なすぎるように思われた。これではほとんど無人に等しい。



 景綱は疑問を覚えつつも、先頭をひた走る景虎に遅れまいと馬の脚を速めた。

 そうして本丸に侵入した景綱ほか栃尾の将兵は疑問を確信に変えた。変えざるを得なかった。



「本丸まで無人とは面妖な……宇佐美殿がおらぬことが惜しまれる」



 景綱の隣で実乃さねよりが眉根を寄せて唸っている。

 高齢の宇佐美定満は体力的に今回の強行軍に耐えられないため、同道していなかった。

 定満がいれば敵の思惑を探れたかも知れないという実乃さねより

 景綱はその言葉に同意したが、ここにいない者の知恵をあてにしても仕方ないと考えた。



「罠であることは間違いないと存ずるが、だとしても進むしかありますまい」



 ここまで来て、形の見えない敵の罠に怯えて逃げることなぞできるはずがない。

 そんなことをすれば栃尾勢の、景虎の武名は地に落ちる。



 もとより退くつもりのなかった景虎は、景綱の言葉にうなずいて城内に足を踏み入れた。

 景綱は慌てて景虎の先に立って罠や伏兵を警戒し、実乃さねよりは景虎の背後を固める。

 そうやって本丸を制圧していく景虎たちであったが、状況は依然として変わらない。

 ときおり城兵が名乗りをあげて斬りかかって来ることもあったが、それも精々十に満たぬ数である。景虎たちの手にかかれば、斬り捨てるまでもなく取り押さえることができた。



 捕まった者たちを尋問してはみたものの、彼らは頑として口を割らない。

 さあ殺せ、やれ殺せと騒ぐばかりだ。

 いたしかたなく、実乃さねよりは彼らを縛り上げた後で城の一室に放り込んでおいた。



「これは上まで行くしかないようですな」



 実乃さねよりの言葉に景虎は小さく、しかしはっきりと頷いた。

 上――春日山城天守の間。この戦いにおける最後の敵が、そこで待っているはずであった。





 そして。

 景虎は天守の間にひとり佇む敵将と対峙する。

 甲冑はおろか大小さえ差していないその姿は、とてものこと武将とは思えない。

 交錯する両者の視線。

 越後の支配権を巡る争いは今、佳境を迎えつつある。



 景虎の視線の先で敵将がゆっくりと口を開いた。



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