第百九話 夜闇の中で(後)
不意に袖を掴まれた俺は、何事ぞと驚いて布団に横になっている晴信を見やる。
すると、そこには俺と同様、驚きと戸惑いをあらわにした武田家当主の姿があった。
どうやら今の袖を掴んだ動き、ほとんど無意識のものだったらしく、晴信自身がびっくりしたように己の手を見つめている。
どこか呆然とした体で硬直する晴信。
ややあって、俺の視線に気づいた晴信は慌てたように口を開き――しかし、そこから声が発されることはなく、かすかな吐息がこぼれるだけだった。
狼狽していると言っても差し支えない姿に思わず眉をひそめる。
このとき、晴信がまた何か妙なことを企んでいるのでは、と邪推してしまったのは直前の会話の影響だった。
だが、すぐにそれは違うと思い直す。
いくら発作の症状が治まったとはいえ、晴信が疲弊しているのは事実なのだ。そんな状態でわざわざ俺を引き止めてまで茶番を演じる必要はない。
であれば――これはあれだな、病気のとき、一人っきりになると妙に心細くなるやつだな。
子供のときは言わずもがな、大人になってからもあれは結構くるものだ。
俺も大学時代、インフルエンザにかかってぶっ倒れ、アパートで一人うんうん唸っていた経験があるが、あれはマジできつい。
このまま誰にも知られずに死んでしまうのではないか。健康なときにはまず考えないことを本気で考え、それにともなって身体と一緒に心が弱っていく。あの感覚は何度も体験したいものではない。
晴信の場合、呼べば家臣がやってくるものの、病気で弱った己を見られることをよしとする甲斐の虎ではないだろう。
というか、それができるなら俺はこの場にいない。
そう考えた俺は、立ち上がりかけた体勢を崩してその場に座り直した。
そして、努めて何気ない風をよそおって口を開く。
「……いや、具合が良くなったと考えるのは少し早計かもしれませんね。また痛みがぶり返してくることも考えられますし、お邪魔でないようなら、もう少しこの場に留まることをお許しいただきたい」
袖を握る晴信の右手を両手で優しく握り締める。
自分が病気だったときに何が欲しかったかを考えれば、とるべき行動は自然と思い浮かんだ。
もちろん、すべては俺の考えすぎという可能性もあったが、それならそれで晴信は手を振りほどいて何か言ってくるだろう。
……しかし、本当にそうなったら恥ずかしいなんてものじゃないな。後々、畳の上で七転八倒するレベルの黒歴史が誕生してしまう。
そんなことを考えて戦々恐々していると、不意にぎゅっと手が握り返された。
褥の中の晴信はどこか懐かしげに目を細めている。
「……母のことを思い出しました」
「お母上、ですか?」
「まだ信繁が生まれる前、病で床に伏せた私の手を、今のそなたのように優しく握ってくれたのですよ」
晴信は小さく息を吐く。
「まだ女童の頃のこと。今となっては母の顔さえおぼろにかすんでいますが……それでも、こんな記憶も私の中には眠っていたのですね。当主に立ってからこちら、母のことを思い出すことはついぞなかったというのに、不思議なものです――加倉」
「は」
「今しがた、そなたは申しましたね。今宵のことは綺麗さっぱり忘れる、と」
「たしかに申し上げました」
「ならば、今から私が何を口にしようとも、それが外に漏れることはないということになります。相違ありませんね?」
「は! 片言隻句でも漏れることあらば、この腹かっさばいてご覧に入れましょう」
それを聞いた晴信はしばし瞑目した後、ゆっくりと語り始める。
それは一人の女性の死を契機として生まれた狂気と、それに翻弄された少女の物語だった。
◆◆◆
――どうして自分はこんなことを他人に話しているのだろう?
武田晴信はそんな問いを己に投げかける。
墓まで持っていくつもりだった汚泥のごとき秘事。家臣はもちろん、たった一人の肉親にさえ伝えるつもりはなかった。
それを今、己は他国の臣にぺらぺらとしゃべっている。我が事ながら気が狂ったとしか思えない。
だが、そう思う一方で晴信は気づく。
秘事を吐き出すごとに己の心が少しずつ、けれど確実に軽くなっていくことに。
これまでは気にも留めていなかったが、他聞をはばかる過去を抱えて生きることは、これほどまでに己に負担をかけていたのかと目を瞠る思いだった。
こんなことならば、もっと早く誰ぞに吐き出しておくべきだったろうか――そう考える晴信の口を苦いものが満たす。
そんなこと、できるはずがないではないか。
母の死を境として、父が年端もいかない娘を性の対象にするようになった、などと。その手段として幼い娘に阿片を用いた、などと。晴信がいまだに純潔を保っているのは、娘の身体が「女」になるのを父が待ち続けたおかげである、などと。
相手が誰であれ、口が裂けても言うわけにはいかない。そう思って今日まで生きてきた。
幼少時から晴信の側近だった春日虎綱や、要害山の石室で犯される寸前だった晴信を間一髪で救出してくれた山県昌景、山本勘助らはかなりのことを察しているだろう。
だが、その三人とて全てを知っているわけではない。
晴信自身、すべてを話そうと考えたこともなかった。
別段、三人の忠誠を疑っているわけではない。
三人は――いや、その三人以外の重臣、馬場信春や内藤昌豊、それ以外の家臣たちも十分信頼に足る人間であると思っている。そこに疑いはなかった。
だが、彼ら彼女らは淳良な人間であると同時に武田家の家臣である。
当主たる晴信が甘え、すがっていい相手ではない。
武田晴信は新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の嫡流、甲州武田家の当主。
そして、当主は常に臣民の先頭に立って甲斐の国を切り拓いていかねばならない。
臣下に対して見せていいのは背中のみ。それが晴信の考えだった。
もし、加倉相馬が武田家の人間であれば、晴信は決して己の胸のうちを明かそうとは思わなかったろう。
それを思えば、今この時はずいぶんと数奇な一幕といえる。
一体いかなる神仏の導きがあったのやら、と妙におかしかった。
――やがて、すべてを語り終えた晴信はほぅと小さく息を吐き、加倉の様子をうかがった。
晴信が話をしている間、ずっと眉間に深いしわを刻んで聞き入っていた加倉は真剣な表情で口を開く。
「……晴信様、何故それがしに今の話を?」
「何故、ですか? そうですね……どうして墓場まで持っていこうとしていた秘事を、よりにもよって上杉の人間に話しているのか。ふふ、本当に我が事ながら何を考えているのでしょうね。夜が明ければ、頭を抱えて悶えることになりそうです」
「は、はあ……」
くすくすと笑う晴信を見て、加倉は困惑したように眉根を寄せる。
そんな加倉に対し、晴信は穏やかに続けた。
「ですが、それが分かっているのに不思議と悔いはないのです。どうやら私は、ずっと誰かに話を聞いてもらいたいと願っていたようですね。礼を言いますよ、加倉。今宵、そなたと出会わなければ、私は一生そのことに気づけなかったでしょうから」
「は、それは、その……どういたしまして……?」
「そなたにとっては聞きたくもない話だったでしょうが、最後まで何も言わずに耳を傾けてくれたこと、これについても礼を言います」
言うや、晴信はいまだ握り合ったままの互いの手をぐっと己の顔に近づける。
話をしている最中、いつ振りほどかれてもおかしくないと思っていた。それくらい汚らしい話をしている自覚はあった。
だが、加倉は一度として手を離そうとせず、むしろこちらを力づけるように強く握り締めてくれた。
その手に晴信はそっと頬を当てる。
硬くゴツゴツとした感触。女性のものではありえない巌のような拳。
はじめて差し伸べられた、救いの手。
晴信はその手に頬ずりをする。
とたん、加倉の口から「ひぅ」と妙な声が漏れた気がしたが、気にしない。
らしからぬことをしている自覚はあったが、これは自分のように面倒な女に優しくする方が悪いのだ、と晴信は思う。
苦しむ自分を介抱したりしなければ。
抱えあげて部屋まで運んだりしなければ。
袖を掴んだ手を握り返したりしなければ。
自分はきっとすべてを明かしたりはしなかった。こんな子供じみた振る舞いで、誰かに甘えたりはしなかった。
だから、今宵のことはすべて加倉の責任だ。そう決めた。
そう思った直後、晴信の口から小さな欠伸が漏れる。
心も身体もかつてないほどに軽い。
このまま眠りに落ちれば、夢さえ見ないすっきりとした睡眠を享受できるに違いない。
久しぶりに――それこそ母が生きていた頃にさかのぼるくらい久しぶりに。
「……加倉」
「は、はいぃ!?」
「……私が、寝入るまでで、構いません……もう少しだけ……こうして……いて……」
加倉の調子はずれの声に笑みを誘われながら、切れ切れに願いの言葉を口にする。
奇跡のような一夜が終わってしまうことを惜しみながら、晴信はそっと瞼を閉じた。
たちまち、己の意識が闇に飲み込まれていくのがわかる。
自分のものではない温もりを頬に感じつつ、武田晴信はゆっくりと眠りに落ちていった……