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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第百八話 夜闇の中で(中)



 月明かりのみを光源とした仄暗ほのぐらい室内。

 かすかな衣擦れの音が響き、晴信の身体を覆っていた小袖こそでが布団の上に落ちる。

 俺の目の前で白い背中があらわになり、わずかに遅れて、黒髪が汗を吸って背中に張り付いていく。その光景はひどくなまめかしいものだった。



 と、晴信が億劫おっくうそうに右手を首の後ろにまわし、無造作に髪を束ねて、背中ではなく胸に髪を垂らす。

 再び視界を占める白の色彩。

 うなじからこぼれた汗のしずくが、形のよい背中を伝って、晴信の身体を下へ下へと滑り落ちていく。その滴が細くくびれた腰を経て、少しだけのぞく臀部でんぶにたどり着いた瞬間、生唾を飲み込んでしまった俺はきっと悪くない。



「……どうしました? 早く拭いてください」

「は……はい……」



 落ち着け、落ち着け、俺。病人を看病するだけだ。人工呼吸がキスにカウントされないのと同じ。人命救助、人命救助。

 ああ、だめだ、心臓のバクバクが一向に止まらない――いや、止まったら俺死んじゃうじゃん!

 ちがう、そうじゃない。なんで一人ノリツッコミしてるんだ、俺は。ええい、自分が混乱しているのが手に取るようにわかるとか、なんて斬新な体験だ!



 こういうとき、経験があればもっと落ち着いてスマートに行動できるのだろうか。

 そんなことを頭の隅で考えながら、俺はおずおずと用意されていた白い布地に手を伸ばす。

 これを水に浸して――いや、いきなり冷たい布を押し当てるのはまずい気がする。まずは乾拭からぶきからいこう。掃除の基本は乾拭からぶきである。

 晴信は家具ではなく人間であるが、細かいことは気にしない。



 もう一つの掃除の基本、綺麗にするのは高所から。

 まずは肩の汗をぬぐい、うなじもさっと拭いておく。晴信の口から「……ん」と小さく押し殺した声が漏れたが、聞こえない聞こえない。妙に色っぽいとか考えない!

 肩を終えたら次は背中から腰にかけて。とにかく無心で手を動かしていく。



 ……しかしあれだな、こうして触っていると、晴信の身体の柔らかさうや腰の細さがよくわかる。

 特に腰はどこらへんに内臓が入っているのかと不思議に思うレベル。それでいて、腰から下にかけての肉付きはしっかりしているものだから、くびれの色気が半端ない――って、いかん、また欲望がだだ漏れしている!?



 布越しに伝わる柔らかい感触、むせるような汗の匂い、途切れ途切れに聞こえてくる喘ぎ声が耳朶を震わせる。

 気がつけば、目の前の白い背中から目が離せなくなっていた。自然と息が荒くなっていく。

 女体への欲望が理性を侵食していくのがはっきりと自覚できた。



 ――あ、これやばいやつだ。

 数秒ともたず、晴信を押し倒して布団にくみしく自分の姿を幻視した。







 次の瞬間、バッチンッッと大きな音が室内に響き渡った。

 俺が力任せに自分の頬をぶっ叩いた音である。



「ぐおおぉぉ、ってぇ……!」



 勢いよく叩きすぎたせいで目の前にお星様がちらついている。

 口の中が派手に切れたらしく、鉄錆てつさびの味が口中に広がっていく。唾を吐けば真っ赤に染まっているに違いない。

 あと、勢いをつけすぎたせいで、頬を叩いた瞬間に指先が目の中に入って超痛い。

 だが、おかげでなんとか正気に戻れたからよしとしよう。



 ……いや、冗談抜きで危なかった。

 ここで晴信に襲いかかっていたら、間違いなく市中引き回しのうえ打ち首獄門(ごくもん)な未来が確定していた。

 地味に人生最大の危機だったかもしんない。

 ふうやれやれと胸をなでおろしていると、ある意味元凶である方からお声がかかった。



「どうしました、加倉。手が止まっていますよ?」

「は、申し訳ございませ……ん?」



 肩越しに俺に流し目をくれる晴信と目が合った。

 正面を向いていた晴信は、すぐ後ろで行われた俺の奇行を知らないはず。むろん、俺が自分の頬を叩いた音と、直後にあげた悲鳴は聞こえたに違いないが、それだけですべてを察することは不可能だろう――というか不可能であってくれ。

 希望的観測をまじえて、俺はそう考えていたのだが……



「ふふ、今の私はあなたに手向かいできず、家臣を呼ぶこともかなわない。欲望を遂げるにはまたとない機会ですよ?」



 見抜いていらっしゃる!

 いや、冷静に考えれば誰でも見抜けそうな気がするけれども!



「……さ、さて、何のことでしょう?」

「おや、今しがた、己の頬を打ったのは、女子おなごの肌を見て邪心を湧かした己を戒めるためではなかったのですか?」

「滅相もない! 上杉の家臣が、病で倒れた者に邪欲をわかすはずはございません! それがし、ときおり自分の頬を叩きたくなる奇癖があるのでござるッ」

「それはそれで、そなたが心配になりますが……」



 俺の下手くそな釈明に苦笑で応じた晴信は、ここで俺から視線を切って再び前を向いた。

 そして右腕を高く掲げてわきをあらわにする。俺がその気になれば、簡単に乳房を見ることができる大胆な格好ポーズだった。



「ぶふぉあ!? は、晴信様!?」

「そなたが私の肢体に邪念を湧かしたのであれば、ただちに出て行くよう告げるつもりでしたが、そうではないと聞いて安心しました。さあ、続けてください」

「は、いや、あの、さすがにこれ以上はご自身でやった方がよろしいのではないかと……」

「早くしてください。腕をあげているだけでも疲れるのですよ……ああ、正面からの方が拭きやすいというのであれば、そちらを向きますよ? 殿方の目に裸身を晒すのは少々気恥ずかしいですが、手間をかけさせている身としては、わがままを言うわけにはいきませんからね」

「謹んで作業を続けさせていただきますので、どうかお身体の向きはそのままでお願いします!!」



 背中を見ただけで欲望に飲まれかけたのだ。

 正面から晴信の裸身を見た日には、俺の理性なんぞ夏の日差しを浴びた氷なみにあっさり溶けて消えるに違いない。

 ええい、こうなったらわきだろうがわき腹だろうが綺麗に拭いてやらあ! かかってきやがれ!

 我ながらわけのわからないことを心の中で叫びつつ、俺は目の前の白い肌をいかに綺麗にするか、ただそれだけに意識を集中させた。







 およそ四半刻(三十分)後。

 俺は精も根も尽き果てた姿で一人うなだれていた。

 許されるなら、今すぐこの場に寝転がって眠ってしまいたい。それくらい疲れ果てていた。



「……ふふふ、成し遂げたぜ」



 というか、成し遂げてしまったぜ。

 肩といわず、背といわず、腋といわず、晴信の身体からにじみ出る汗を丁寧にふき取り、その後、ぬらした布地で改めて身体を清めていく。

 邪念なく作業に従事した俺だったが、ふとした拍子に布地が(俺の手ではない!)胸やら尻やらをかすめる都度、晴信の口から「……ん」だの「……あ」だのとなまめかしい声が漏れるので大変だった。

 ……途中から、わざとやってんじゃないかと疑ったくらい頻繁に声があがったので、ほんと大変だった。



 最終的には足元に鉄扇を置き、輝虎様が見ていると思って桃色思考を振り払いました。

 すべてが終わり、晴信が新しい小袖を着て布団に横たわった瞬間、俺も一緒に布団に倒れてしまいそうになった。それくらい心身ともに疲弊ひへいした時間であった。

 色々と危なかったし、ぶっちゃけ身体を拭いただけでも十分まずい気もするが――とにかく終わった! 自分に勝ったぞ、万歳!

 そして、終わった今だからこそ言えることがある!



「ところで晴信様」

「なんですか、加倉」

「途中から、普通に話をしていましたよね?」



 俺はじと目で横たわる晴信を見下ろす。

 中庭にいたときの晴信は、一言発するだけでも辛そうに息を荒げていた。

 しかし、この部屋に戻ってきてからは、声自体は弱々しくとも息遣いはしっかりしていた気がする。

 そして、声音なんてものは己の意思でいくらでも変えられるわけで――



 俺の疑問に対し、晴信は横になったまま澄まし顔で応じた。



「庭で会ったときに言ったはずですよ。放っておけば、そのうちおさまる、と」

「つまり、はじめから自分で身体を拭けるくらいには回復していらした?」

「さて、それはどうでしょうね」



 相手の返答に思わずため息が漏れる。

 いや、今もこうして横になっている以上、身体が辛かったのは本当なのだろう。なので、余計な手間をかけさせて、と文句を言うつもりはない。

 正直に言って役得だったという思いもある。

 だが、晴信の立場に立ってみれば、危険であったことは言うまでもなかった。



「本当にそれがしが襲いかかっていたら、どうするおつもりだったので?」

「手向かいできないと言った言葉はまことです。である以上、この身はそなたに汚されていたでしょうね。正直なところ、そうなっていれば色々と楽だったのですが」

「……それは、どういう意味でございましょう?」

「ふふ、上杉の家臣が武田の当主を力ずくで犯した――その事実を示せば、輝虎はたいていの言い分を呑まざるを得なくなります。下手人の処刑もその一つ。そなたの首は即座にねられ、私が倒れた事実を知る者はいなくなる、という寸法です」



 それはわりと本気でありえた未来だった。

 思わず首をすくめていると、晴信はさらに言葉を続ける。



「あるいは、別の手も考えられますね。そなたの行動は上杉にとっても、そなた自身にとっても破滅しかもたらさない。ですが、同じ行為でも同意があったとみなされれば、それは罪ではなく慶賀すべき行為となります」

「同意、と言いますと……え?」

「私とそなたが想い合って身体を重ねた、と輝虎に告げるのです」



 色々な意味でおっそろしいことを告げる晴信に、俺は言葉も出なかった。



「より正確にいえば、私がそのように口裏を合わせるわけですが。ともあれ、こうすればそなたが首を撥ねられることはなくなる。輝虎の天道が汚されることもない。そして、そなたは私に頭が上がらなくなる。こうすれば、やはり私が倒れた事実は掻き消えるでしょう。ついでにそなたを越後から引き抜くこともかなうわけです」



 スラスラと策謀を明かしていく晴信に、俺は内心でドン引きしていた。

 え、俺に身体を拭かせながら、そんなことを企んでたんですか?

 たしかに、他家の人間である俺に病で苦しむ姿を見られたのは致命的だったと思うが、だからといって当主みずからハニートラップを仕掛けるのはどうなんだろう。

 ましてや倒れてすぐの状態だ。俺が言えた義理ではないが、もう少し自分の身体を大切にしてもらいたい。俺の口を封じる手段などいくらでもあるのだし。



 そんなことを考えながら晴信の顔を見た俺は、ふと、相手の頬がわずかに赤らんでいることに気がついた。

 はじめは熱が出たのかと思って焦ったが、額に手を当ててみても異常は感じられない。

 あらためて晴信の顔を覗き込むと、御館様はつつっと視線を逸らしてしまわれた。その仕草は、どことなく都合が悪くなったときの輝虎様を彷彿ほうふつとさせる。

 そういえば、今しがたの晴信の台詞、こころなし早口だったような気がするな。



 ……これはあれか、ひょっとして晴信なりの照れ隠し、だったのだろうか?

 恥ずかしいところを見せた相手に何といってよいやらわからず、思わず憎まれ口を叩いてしまった的な。

 やだ、晴信様ってば案外可愛い。




 ついつい内心でそんなことを思ってしまったのは、俺なりの安堵の表現だった。

 なにせ、あんなに苦しんでいた晴信が憎まれ口を叩けるくらいには回復したのだ。一時はわりと本気で命の危機だと考えていただけに、他愛のないやり取りにも嬉しさがこみ上げてくる。

 この分なら、そろそろ部屋に戻っても大丈夫だろう。





 ……正直なところ、さっきの症状が何なのかは気になっている。あれは明らかに尋常な苦しみようではなかった。

 だが、それは訊ねてはいけないことだ。その程度の分別は持ち合わせている。

 今夜見たもの、触れたものは残らず忘却した方がいいだろう。特に脳裏にちらつく白い裸身については、念入りに記憶容量データベースから削除デリートする必要がある。そうしないと、これから先、晴信を見るたびに赤面する羽目になること請け合いだ。



「それでは晴信様。御身体の具合も良くなったようですし、それがしはこの辺で失礼させていただきます。今宵のことは綺麗さっぱり忘れますので、どうかご心配なく」



 そう言って俺はゆっくりと立ち上がった――もとい、立ち上がろうとした。

 すっと伸びた晴信の手が俺のそでを掴んだのは、その時だった。




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