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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第百七話 夜闇の中で(前)



 中庭の一隅で誰かが苦しげに喘いでいる。

 素人目にも明らかに切迫しているのがわかり、俺は慌ててその人物のそばに駆け寄った。

 風呂あがりの浮かれ気分を蹴り飛ばし、驚かさないようにゆっくりと声をかける。



「もし、お加減が悪いようですが大丈夫……って、え?」



 声に応じてこちらを振り向いた相手の顔を見て、思わず瞠目どうもくする。

 目の前にいるのが武田晴信だと気づいたからだ。

 よくよく見れば、髪や服など晴信を思わせるヒントは存在したのだが、己の身体を抱きしめながら弱々しく喘ぐ姿は、つい先ほど上杉一行をやり込めた人物とは似ても似つかない。

 実は晴信には病弱な双子の妹がいたのだと言われれば、俺は無条件で信じただろう。



 切れ長の双眸は油膜が張ったように濁り、自信と思慮にあふれていた表情は激痛と苦悶で歪んでいる。

 桜色だった唇は血の気を失い、紫色に変色していた。

 言葉も出ずに立ち尽くしていると、そんな俺を見た晴信がかすれた声をつむぐ。

 


「……よりにも、よって……そなた……ですか」



 それは俺を加倉相馬として認識している声だった。

 これで双子説は消えた――いや、そんなことを考えている場合じゃない!?



「は、晴信様!? いったい何が……いや、それより医者か。今、人を呼んで参りますゆえ、しばしお待ちを!」



 御館様が倒れたぞ、と大声をあげればすぐにも人が集まってくるだろう。

 だが、それはまずいと考える程度の冷静さは残っていた。

 武田晴信が病身であるという噂は今日まで越後に伝わっていない。おそらく晴信は身に巣食う病をひた隠しにしていたのだろう。

 それを俺が暴き立てれば、武田家は大混乱におちいり、信虎と戦うどころではなくなってしまう。最悪の場合、そのまま信虎に呑み込まれてしまう。



 ゆえに、ここは晴信の側近のみに伝えるべきだ。おそらく春日虎綱ならば晴信の病のことも知っているはず。

 そう考えた俺はすぐさま館に戻るべく身をひるがえす。だが、駆け出す寸前、晴信の右手ががしりと手首を掴み、俺の動きを阻んだ。



「ぐぉ!? な、何を――」

「……無用、の、気遣い……です……」



 苦しげな吐息の狭間に切れ切れの言葉が差し込まれる。

 その言葉の意味するところは明らかで、この場に人を呼ぶなと晴信は言っているのだろう。

 それが自家の混乱を嫌ってのことなのか、他家の人間を警戒してのことなのかは分からない。だが、どちらであれ、今の晴信の苦しむ様を見て「はいわかりました」とうなずくことはできなかった。



「し、しかし、それではあなた様が……! 春日殿に直接伝えれば混乱は避けられると存じますッ」

「無用と……言いました……放っておけば、そのうちおさま……くぅッ!?」



 ビクリと晴信の全身が跳ね、麗顔を覆う苦悶が深まる。

 その反動だろう、晴信は今しがた掴んだ俺の手首を力任せに握り締めてきた。

 細い指から病人のものとは思えない握力が伝わり、ミシリと骨が軋む。



あッ!?」



 俺は思わず苦痛の声をあげたが、晴信はおぼれる者がわらを掴むように、こちらの手を離そうとはしなかった。

 いや、離す離さない以前に、こちらを掴んでいるという意識がないのかもしれない。

 断続的な激痛に襲われているようで、晴信の身体は痙攣けいれんするようにビクビクと震えている。

 そのたびに口からこぼれるか細い声は、もう悲鳴のようにしか聞こえなかった。



 うお、ちょ、待って、待って、どうすればいいんだ、これ!? あの武田晴信が耐えられない症状とか、明らかに普通の病じゃないだろう!

 人工呼吸? 心臓マッサージ? AED?

 全部できねえよ、バカ野郎!



 もう後のことは気にせず、とにかく大声をあげようと俺は決心しかけた。

 もしこのまま晴信が倒れてしまった日には、俺は苦しむ晴信を見殺しにしたことになってしまう。そうなれば武田の家臣――なかんずく虎綱が何をしてくるか分かったものではなかった。



 自らの決心を実行に移すべく、大きく口を開ける。

 だが、その寸前、それまでかろうじて己の足で立っていた晴信の身体がぐらりと大きく傾いた。そして、そのまま俺に向かって倒れこんでくる。

 とっさに膝立ちになって受け止める俺。

 意図したわけではなかったが、晴信を正面から抱きしめる格好になった。



 荒い息づかい、冷たい肌、奇妙に粘つく汗。晴信の身体から立ち上るつんと鼻を刺す異臭は、大量の汗と衣服に焚きこめたこうが混ざり合ったものだろう。

 先刻、部屋で向かい合ったときにはあれほど隙のない振る舞いをしていたというのに、今の晴信にはその面影が微塵も感じられない。



「晴信様、晴信様!」



 呼びかけても返ってくるのは乱れた呼吸の音だけ。

 晴信の右手は今も俺の手首を掴んだままで、もう片方の手はすがるように俺の胸のあたりをわし掴みにしている。

 何とか症状を和らげられないものかと思案した俺は、晴信の背に手をまわして背中をさすろうと試みた。



 ところが、背に触れた瞬間、ねちゃりとした不快な感覚が手のひらから伝わってきて、思わず眉をひそめてしまう。

 多量の発汗が衣服を重く湿らせている。これでは背中をさすっても不快感が募るだけだろう。というか、このまま濡れた衣服で夜風に晒されていたら、肺炎まで併発してしまうのではないか。



 これはやはり人目を気にしている場合ではない。

 俺は一度うなずくと、晴信の身体を両手で抱え直し、いわゆるお姫様だっこの態勢になって立ち上がった。

 意識がない者特有の、ずしりと重たい感触が腕に伝わってきて切迫感が増す。



 晴信の部屋の場所は分からないので、いったん俺の部屋に戻り、そこで弥太郎たちの手を借りて汗まみれの服を着替えさせる。まずはそこからだ。

 部屋に戻る途中、武田の家臣に見つかる可能性もあるが、そうなったら仲間が湯あたりしまして、とでも言ってごまかそう。

 俺の口八丁手八丁が火を吹くぜ!




 いまだ若干の混乱を残しながらも、館に戻るべく足を踏み出す俺。

 と、その俺に向かって、抱きかかえていた晴信がかすれた声をかけてきた。



「……加倉……そちらではない……あちらに、行きなさい……」



 そう言って晴信が震える手で指し示したのは、館の反対、中庭の草木が密集している一角だった。

 あたりに灯篭はなく、暗がりから虫の声が響いてくる。昼間ならばとにかく、夜に足を踏み入れたい区画ではない。

 俺の躊躇に気づいたのか否か、晴信がさらに言葉を続けた。



「……少し、進むと……唐楓とうかえでが、あります……そこを、右に、抜けなさい……」



 苦しげに指示を出す晴信を見ていると「行きたくない」とか「唐楓ってなんですか」とか、そういった言葉を口に出すのははばかられた。

 ま、まあどこに足を踏み入れようと、躑躅ヶ崎館の中であることに変わりはないのだ。夜行性の獣や賊に襲われる心配はないだろう。俺は意を決して暗がりに向かって歩き始めた。



 ……夜の間だけ番犬が放たれているとか、そういうオチはありませんように、とこっそり祈りながら。



◆◆



 晴信の指示に従い、中庭を抜けた先にあったのは一軒の離れだった。

 そこが晴信の私室だと知ったのは、室内に入って晴信の身体を布団に横たえたときである。

 普通、そういう場所には侍女や小姓が控えているものだと思うが、甲斐の虎であっても、余人に煩わされることのない場所が欲しいと思うらしい。



 それは別段驚くべきことではない。

 驚くべきなのは、室内に用意されていた新しい着替えや清潔な布地、たらいに入った水などである。

 今の状況で欲しいと思うものがことごとく準備されている。

 あたかも、事情を知る何者かが先回りして用意していたかのようであった。



 だが、そんな人間がいるのなら、主人である晴信を俺に任せておくはずがない。

 であれば、これらの用意をしたのは誰なのか。

 考えられるとすれば一つだけ――晴信自身だ。

 おそらく、いつ発作が起きても対応できるように、常にこれらの用意を整えているのだろう。侍女や小姓を控えさせていないのも、病のことを悟られないためだと考えれば納得がいく。



「さて、問題はここからなんだが……」



 俺はぼそりと呟く。

 前述したように、すでに晴信は布団に寝かせている。

 気のせいか、呼吸も少しは落ち着いてきているようだ。少なくとも、先ほどまでのように激痛で顔を歪めることはなくなっている。

 となれば、俺の役目はここまで。後は御館様の私室に忍び込んだ曲者だと誤解される前に、さっさと中庭経由で自分の部屋に戻りたいところなのだが……



「晴信様。着替えはご自分で出来ますでしょうか?」

「……できるように、見えますか……?」



 見えません。だから困っているのです。

 とりあえず朝まで休むにしても、汗まみれの服を脱ぎ、身体を拭き、新しい服に着替える――最低限この三つは済ませないとまずい。

 晴信が一人で出来れば何の問題もないのだが、憔悴しきった今の晴信にそれが無理であることは傍目にも明らか。

 となると、俺が手伝うしかないのだが、それが無理であることもまた明らかだった。



「やはり、春日殿にはお伝えした方がよろしいのではないでしょうか」



 虎綱なら着替えの手伝いも問題なく行える。こうして部屋に戻ってきた以上、晴信の病が漏れる恐れもなくなった。

 そう思って言ったのだが、晴信は首を左右に振った。



「臣下に、無用の懸念けねんを……与えるつもりは……ありません……」

「しかし、お一人では着替えができぬとおっしゃったではありませんか」

「ええ……ですから、そなたに……頼みます……」

「またまた、ご冗談を」

「ふふ……どうせ、ここまでの醜態を……晒したのです……あと一つ、二つ……醜態を重ねた、ところで……大差はない、でしょう……」



 そう言って、晴信は億劫そうに上体を起こそうとする。だが、消耗しきっているせいか、その程度の動きさえ思うにまかせないようだった。

 俺は慌ててそんな晴信を助け起こす。

 すると、晴信は俺に短く礼を述べ、大儀そうにほぅと息を吐き出すと、おもむろに腰の帯に手を伸ばした……




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