第百六話 消えない傷
「まったく、ひどい目にあった……」
深々とため息を吐きながら湯船に身体を沈める。
躑躅ヶ崎館の、おそらくは賓客専用と思われる湯殿は、一言でいえば露天風呂だった。
自然の岩場を思わせる開放的な造り。十人くらいは楽々と浸かれそうな湯船には、かすかに白く濁った湯が満々と張られている。そこに身体を沈めると、自然に口から嘆声がこぼれ落ちた。
見上げれば空には満天の星。湯殿から立ちのぼる蒸気が冷たい夜風に溶けていく。
せまっ苦しい蒸し風呂ではとうてい味わうことのできない解放感だ。先刻、弥太郎がやたらと感激していたのもうなずける。
軽く足で床をこすってみると、丁寧に磨かれた石材の感触が伝わってきた。石材は緻密に組み合わされているようで、隙間らしい隙間は見つからない。目立たないところに細かく人の手が加えられているようだった。
ああ、輝虎様と晴信の対峙によってガリガリと削られた精神が癒される……
などと考えていると。
「ずいぶんと大変だったようですね」
先に風呂に入っていた甘粕長重が、声に同情を込めて話しかけてきた。
陽に焼けた赤銅色の肌が、年に見合わぬ迫力をかもし出している。こうして見ると、長重はいかにも歴戦の戦士といった体躯をしており、俺とはえらい違いだ。
しかし、その戦士も危急の場から逃げ出すようでは台無しである。
今になって俺に同情するくらいなら、先刻あの場に残っていてほしかったと訴えると――
「一介の猟師が大名家の話し合いに同席するわけにはいかないでしょう。武田殿も諒とは申しますまい」
見事に正論で返されてしまった。
そう、諏訪から行動を共にしている長重であるが、その立場はあくまで協力者。上杉家に仕えているわけではないのである。
「こちらとしては、そろそろ観念して上杉家に加わってほしいところなんですが。上杉家は才気ある若者の来訪を心からお待ちしておりますぞ?」
「さて、果たして私に才気があるのかどうか、まずはそこから考えなければ安易に返答はできません」
もう何度目のことか、未来の上杉四天王を取り込もうと試みるが、これまでと同様になかなか色よい返事がもらえない。
まあ、仕方ないといえば仕方ないのだけど。
長重は白峰山の高峰に住む甘粕一族の次期当主。さらにいえば、甘粕一族には輝虎様の父祖の代にまでさかのぼる因縁が存在する。安易に仕官するとは言えないのである。
ただ長重個人に関していえば、今日まで輝虎様と行動を共にしたことで、心理的な障壁はずいぶん低くなっているというのが俺の印象だった。
干沢城の牢屋にいた頃は、輝虎様の名前を出すだけで眉間にしわを寄せていたというのに、今ではそんな素振りはまったく見せない。
のみならず、こんな冗談まで口にするようになった。
「そもそも、上杉の方々と共に旅をした上で、自分のことを『才気ある若者』だと思うことは難しいですよ」
「むむ。たしかに虚無僧様や秀綱殿は言わずもがな、弥太郎や段蔵にしても十分に傑物に含まれますからね。ただ、俺から見れば、長重殿は十分に彼女たちの領域に足を踏み入れていると思いますが」
「それを言うなら加倉殿もでしょう。正直に申せば、私が一番驚かされているのは貴殿です」
「はっは、弱すぎて驚いたというオチですね」
こと武芸に関していえば、俺は一行の中でお荷物もいいところだ。
干沢城でもずいぶん苦労したしな。
今回の旅の途中、時間を見つけては秀綱に稽古をつけてもらっているのも、そのあたりを気にしてのことだった。
念のために言っておくと、秀綱の新陰流を学んでいるわけではない。
――いや、正直、興味はあった。すごくあったのだけど。
こう「新陰流奥義『転』……」みたいに呟きつつ、戦場でばったばったと敵をなぎ倒していくシチュエーション、憧れない男の子がいるだろうか? いや、いない。
だが、俺がその領域に行きつくために必要な時間は、秀綱いわく「……十年くらい?」とのこと。
むろん、十年というのは片手間に修行をしながらの十年ではなく、人生のすべてを剣に捧げた上での十年である。
ついでに言えば、最後の疑問符に秀綱の心遣いを感じたのは気のせいではあるまい。おそらく十年というのはかなり甘く見積もった数字。実際には秀綱は二十年くらいは必要だと言いたかったのではないか、と俺はみていた。
十年といったとき、小首を傾げてたしな!
そんなわけで、剣豪 加倉相馬誕生の夢は始まる前に潰えてしまった。無念。
とはいえ、未来の剣聖と共に旅ができるこの機会を棒に振る必要はない。
だから、しっかりと稽古はつけてもらった。
何の稽古かといえば打たれ稽古である。秀綱の剣を、俺の鉄扇で出来るだけ長く防ぎ続けることで、戦場で斬りかかられた際の技術、度胸を養うのだ。高野山で輝虎様とした稽古もこれであった。
秀綱にとっては退屈なことだったと思うが、おそるおそる申し出た俺に対し、快く応じてくれたのはありがたかった。
ちなみに、はじめの方は秀綱の剣筋がまったく見えずに打たれるがままだった。その後、秀綱は俺にあわせて若干速度を抑えてくれたのだが、そうすると今度は刀身が光の鞭のようにしなって四方八方から襲い掛かってくるのである。軽くトラウマものの光景だった。
輝虎様の時もそうだったが、超がつく一流の方々は次元が違う。
あ、死んだ、と思ったのも一度や二度ではない。
だが、そのおかげで随分打たれ強くなれたし、度胸もついた。軍神や剣聖に比べれば、そこらの将兵など恐るるに足らない。
次はぜひ長重に弓を習いたいと考えており、その意味でも早めに上杉家に引っ張り込みたかった。
せっかくこうして出会えたのだ。武田や北条あたりに先を越されたら目もあてられない。
そんなことをあれこれと考えているうちに、気づけばずいぶんと時間が経っていた。
長重はしばらく前にあがっているので、湯殿にいるのは俺ひとり。
ゆったりと湯につかりながら、虫の声に耳を傾けているのはえもいわれぬ心地よさであるが、このままだと確実に湯あたりしてしまう。
俺は未練を残しながら風呂からあがった。幸い、炊き出しに関しては晴信から許可をもらえたので、あと数日は甲斐に滞在できる。風呂に入る機会はいくらでもあるはず、と自分に言い聞かせながら。
それくらい躑躅ヶ崎館の湯殿は俺の心をとらえたわけだが、今現在の甲斐の状況を考えれば、俺の言動は「たるんでいる」と怒られても仕方のないものだった。
うん、自覚はある。
だが、言い訳させてもらうと、俺はこの時点で今回の件はすでに片がついたと考えていた。
より正確にいえば、上杉家がやれること、俺がやれることはすべて為したと考えていた。
そもそも、俺が駿河に向かったのは北条家の早姫を助け出し、北条家が信虎に取り込まれる事態を避けるためである。
これは無事に成し遂げた。この期に及んで北条家が信虎に付くことは万に一つもありえない。
武田家に関していえば、一族の信繁が信虎に取り込まれてしまったようだが、こちらについては上杉が口を出せることではないし、口を出す必要もないと思える。
『我が父の業、必ずやこの手で断ち切ってみせましょう』
輝虎様や俺を前にして晴信はそう言った。
そこから推測するに、おそらく信虎を討つ目算はすでに立っている。へたに上杉が出しゃばれば、かえって邪魔になるに違いない。
そういうわけで、俺たちがやるべきことは炊き出しくらいのもの。少しくらい気を緩めてもかまうまい。
俺はそんな心境で長風呂を堪能していたのである。
……さっきの対面の影響が残っている部屋に戻りたくないなあ、という気持ちがちょっとばかりあったことは否定しない。ついでに言えば、その気持ちは今も継続中である。
――よし、ここは一つ頭を冷やす意味で、少し夜風にあたってから戻ろうか! できれば輝虎様たちが全員寝入るくらいの時間まで!
幸い、躑躅ヶ崎館の中庭は見事な庭園となっており、夜でも灯篭に火がともっているので、庭を観賞していたといえば自然な理由付けになる。
そんなことを考えながら中庭に向かった俺は、やっぱりずいぶんと気が緩んでいたのだろう。
その結果、再び晴信と対面することになったのは偶然以外の何物でもなかった。
◆◆◆
予兆はなかったように思う。
頭のてっぺんから冷水を浴びせられたような悪寒が全身を包んだとき、武田晴信が真っ先に考えたのはそのことだった。
悪寒に次いで全身から汗があふれ出し、手足が晴信の意思によらずカタカタと震え出す。
わずかに遅れて、臓腑がねじれるような痛みが身体の中から伝わってきた。
「……ぐ……ッ!」
晴信は口からこぼれかけた苦痛の声を無理やり飲みくだし、足を踏ん張って地面に倒れ込むことを避けた。
こんなところで武田晴信が倒れたら、武田家の内外によからぬ噂が広まってしまう。そうなれば、ただでさえ混乱している武田家はさらなる混乱に見舞われるだろう。
それだけは何としても避けなければならなかった。
今、全身を襲う症状は晴信にとって初めてのものではない。それどころか、幾度も、幾十度も経験したものだ。もはや馴染んだ感さえある、父親が残した置き土産。
常ならば、この症状が襲ってくる前には予兆がある。吐き気を催す不快感が身体の奥から這い上がってくるのだ。
だが、今日に関してはそれがなかった。
上杉一行とのやりとりで高揚した心身が、不快な予兆をはねのけてしまったのかもしれない。
「ふふ、つくづく上杉は……私に、祟ります、ね……ッ」
晴信がひとり中庭に出て夜風に当たっていたのは、宿敵に対して頭を下げるという行為によって茹った頭を冷やすためであった。
久しぶりに心の底から笑うことができた、その余韻にひたりたかったという思いもあったかもしれない。
いずれにせよ、すぐに自室に戻るつもりだったので侍女や小姓に知らせなかったのだが、これが裏目に出た。
いや、あるいは幸運だったのかもしれない。
死人のごとき顔色をした今の晴信を見れば、配下の者たちは否応なしに「病」の一文字を思い浮かべるだろう。
へたに典医でも呼ばれたら、それこそ取り返しがつかなくなる。
――知られるわけにはいかないのだ
――武田家当主の身体が阿片に犯されていることは
これまでの経験から、症状には波があることを晴信は知っている。
しばらく耐えていれば多少はおさまる。そうなってから部屋に戻り、身体を横たえれば配下に気づかれることはないだろう。
最悪の場合、症状をおさえる別の手段もある。
ともかく、気づかれないように部屋に戻るのが第一……
「くぅ!?」
ひときわ強い痛みが胸から伝わってきて、晴信は小さな苦悶を漏らした。
身体の中で心の臓が暴れまわっている――そんな錯覚を覚えてしまうくらい、脈動が激しく、不規則になっていく。
自然、呼吸が乱れ、はっはっと犬のような喘ぎが漏れた。
今川軍の侵攻が始まってからこちら、常に気を引き締めていたこともあって、発作はしばらく遠ざかっていた。そのせいであろうか、今日の症状はずいぶんと強い。
心がどれだけ拒もうとも、身体がかつての快楽を欲している。
そんな己の身体を厭うように、晴信は己の腕に爪を突き立てた。
キリキリと、心臓に針でも突き立てたような痛みが襲ってくる。たまらず上体を屈めると、頬やあごを伝ってボタボタと汗が垂れ落ちた。白く濁った汗は、たちまち地面に小さな水たまりをつくる。
この短い時間で、晴信の衣服は水浴びでもしたかのような有様になっていた。
「己の身体ひとつ……御しえぬとは……ッ」
みっともない、と奥歯を噛む。
そう思うのは今に始まったことではないが、先に上杉輝虎らと顔を合わせていただけに余計に惨めさがつのる。
輝虎にはこんな経験はないだろうと思えば、自分でも驚くほどに妬ましさが湧き上がってきた。
もしも、あの聖将が己と同じ目に遭ったなら――年端もいかぬ身で父親に肉欲を向けられ、薬に犯されていたら、それでも輝虎は正義だの天道だのというお題目を掲げることができたのだろうか。
そして、そんな主君に対して、あの軍師は忠誠を誓えるのだろうか。
かすむ視界、薄れゆく意識の中で、晴信は八つ当たり気味にそんなことを考える。
――そのとき、どこか聞き覚えのある声が晴信の耳に飛び込んできた。




