第百五話 不器用な謝辞
「さて、事が後先になってしまいましたが――加倉相馬」
「は、はい!」
「こたびの働き、武田家当主として心より礼を言います。むろん、そなたは武田のために計らったわけではないでしょうが、結果として我が家に多大な貢献を果たしたのは事実。望みのままに褒美をとらせましょう」
晴信の澄んだ声音が耳朶をくすぐる。
穏やかに微笑みながら語りかけてくる声は柔らかく、親しげですらある。
内容の方はいわずもがな。かりそめにも甲斐と信濃、二カ国を治める大名が「望みのままに」と言明したのだ。破格といっていいだろう。
本来なら諸手をあげて喜ぶべき場面である。
だが、今の俺は額、背中、腋その他全身冷や汗まみれで、顔をあげることもできない。
というのも、今、室内には俺と弥太郎の他、段蔵、秀綱、そして虚無僧様がいらっしゃるからだ。言うまでもないが、風呂あがりの虚無僧様は網笠をかぶっておらず、素顔をさらしている。
なのでここからは輝虎様とお呼びする。
おそらく――いや、間違いなく晴信は輝虎様の存在に気づいている。上洛前に輝虎様とじかに顔を合わせているのだから、気づかないはずがない。
しかし、晴信は輝虎様の顔を見ても眉一つ動かさなかった。
そして、輝虎様たちを室内に招きいれた後、冒頭の台詞を発したのである。
輝虎様から見れば、風呂から上がってきたら、なぜか俺と晴信が一対一で向かい合い、親しげに褒美のやりとりをしていたという状況だ。
――く、まずい。これはもしや晴信による反間の計か!? 俺と輝虎様の間に疑心暗鬼を忍ばせようとする魂胆とみた!
とはいえ、面と向かって褒美をはねつければ無礼になる。ここは穏便に……
「ありがたきお言葉です。それでは、虎綱殿を通してお願いした炊き出しの許可をいただきたく存じます」
「ああ、言い忘れていましたが、そちらは褒美とは関わりなく許可しましょう。薪に鍋に机に椀、そういった物もこちらで用意します。それ以外で何か望みはないのですか?」
「炊き出しのお許しをいただければ十分でございます」
「ふふ、無欲なことですね。であれば、こちらで勝手に見繕ってそなたの城に届けさせましょう」
あくまで俺に褒美を受け取らせようとする晴信に対し、俺は再度断りの言葉を発しようとする。
が、それに先んじて晴信はくすりと微笑み、言った。
「もちろん、そなたの主にも書状で事の次第を伝えます。輝虎殿は毘沙門天の化身。他家から褒美の一つや二つ受け取ったところで、そなたの忠誠を疑うような真似はいたさぬはず。そうではありませんか、加倉?」
「それはそのとおりです、が……」
ああもう! そんな言い方されたら「はい」と答えるしかないじゃないか!
……なんか後ろの方からメラメラと燃え盛る怒気が伝わってくる。
常ならば輝虎様は晴信に苦言を呈していただろう。うちの家臣に妙なちょっかいをかけるのはやめていただきたい、と。他家の大名から褒美を受け取れば、たとえそれが公明正大なものであっても、口さがない者たちが騒ぎ立てる。輝虎様にしてみれば、晴信のやり方は上杉家中に波風を立てるものでしかなかった。
だが、輝虎様には正体を隠して甲斐に入り込んだという弱みがある。
晴信がそれを見て見ぬふりをしてくれている以上、自分から上杉輝虎としての発言をすることはできないわけだ。
ここにおいて俺はようやく理解する。
晴信があえて輝虎様の正体に言及しなかったのは、輝虎様にこの引け目を与えるためだったのだ、と。
汚いさすが晴信汚い。
にこにこ笑う晴信と、苦虫を噛み潰した輝虎様が無言で対峙する。
気のせいか、室内の空気が三度くらい下がった気がした。
……誰かこの空気を打破してくれる猛者はいないだろうか。
ちらと他の面々を見やると、弥太郎はおろおろとうろたえており、段蔵は我関せずを貫いている――ように見えて額に冷や汗をうかべている。
秀綱はと見れば、背筋を伸ばして座ったまま動かない。瞑想しているかのように先刻から微動だにしないが……まさか現実逃避をしているわけではない、ですよね?
長重は一足早く風呂に行ったようだし、長安は躑躅ヶ崎館ではなく、甲府の町にある大蔵の実家に泊まっているのでここにはいない。
ええい、長安の猿がいてくれれば空気を変えることくらいはできたものを!
内心でうめきながら止まらない冷や汗をぬぐっていると、晴信がそんな俺に気遣わしげな視線を向けてきた。
「おや、加倉、どうしました? そのように汗をかいて」
あなたのせいですとは言えず、俺は言葉を濁す。
「は、どうやら少々旅の疲れが出てきたようでして……」
「そうでしたか。無理もない、虎綱の報告を聞いただけでもめまいを覚えたほどですからね。実際に事にあたったそなたの苦労は察するに余りある。輝虎殿がいれば、その苦労をねぎらってやることもできたのでしょうが、残念ながらここにそなたの主はおらず――ふむ、是非もない」
言うや、晴信は自然な動作ですすっと俺に近寄ると、白い繊手を俺の額に押し当ててきた。
思わぬ晴信の行動に、室内に無音の驚愕が炸裂する。
むろん、もっとも驚いたのは俺である。反射的に身をのけぞらせて晴信から離れようとした――のだが、しなやかでひんやりとした手の感触が俺の動きを中途で止めた。
心地よい感触に自然と身体から力が抜ける。
ややあって、額から手を離した晴信はかすかに首を傾げた。
「熱はないようですね。ですが、心気に少しばかり乱れがあるようです。後ほど典医に命じて、疲労に効く薬を処方させましょう」
「そ、それはありがたいことでございますが、あの、晴信様?」
ちょっと距離が近すぎませんかね?
ほんとに目と鼻の先にお顔があるのですが……しかし、こうして間近で見ると、ただでさえ美人さんの晴信が五割増しで可憐に見える。
顔ちっちゃ! 睫毛なが!
そんなことを思いながら内心でわたわたしていると、晴信が楽しげに微笑んだ。
「ふふ、どうしました、さように慌てて? 虎綱の言によれば、加倉相馬という男は神出鬼没にして大胆不敵、いかなる事態でも動揺することのない胆力と思慮深さをあわせ持つ傑物である、とのことでしたが――」
褒めすぎです、虎綱殿!?
俺がこの場にいない虎綱に心中で語りかけていると、晴信はさらに言葉を続けた。
「今のそなたは、いささかその評にそぐいませんね」
そう言うと晴信はそっと俺の頬に触れてきた。
香でも焚きこんでいるのか、目の前の佳人の衣服から薫香が立ちのぼってくる。ほのかな甘さと苦さの中に、薄荷を思わせるすっきりとした香りが含まれている。そして、晴信自身のものと思われる、ほんのかすかな汗の匂い。
相手の体温さえ感じ取れそうな距離で、それを吸い込んだ俺はくらくらとめまいを覚えた。
そんな俺を見て、弥太郎があうあうと慌て、段蔵の視線がこころなしか鋭くなり、秀綱は困惑したように眉根を寄せている。
輝虎様はといえば、思わずという感じで膝立ちの姿勢になっていた。
と、そんな輝虎様を見た晴信は小さく笑い、何事もなかったように俺の頬から手を離すと、すすっと元いた場所に戻ってしまう。
なんかもう、明らかに上杉側の反応を楽しみ、からかっていますね。
うあ、輝虎様、震えていらっしゃる……
戦々恐々とする俺とは対照的に、晴信はしてやったりの澄まし顔。
のみならず、ぷるぷる震えている輝虎様を見やって追撃の矢を放つあたり、さすがに甲斐の虎は容赦なかった。
「おや、そこの者も旅の疲れが出ているようですね。寝室で休んではどうですか?」
「……お心遣い痛み入る。されど、拙者は護衛の任を帯びておりますゆえ」
「ふむ、ならば無理にとは言いません。ところでそなた、私が知る越後の人間とよく似ていますね。ちなみに、その者の名は上杉輝虎というのですが――」
「……人違いでござる」
輝虎様は低く押さえた声で自分が輝虎であることを否定する。
というか、見て見ぬふりをしてくれていると思ったら、ここでぶっこんできたか。どういうつもりなのかと俺は眉根を寄せる。
輝虎様の否定を聞いた晴信は、舌鋒鋭く追及を行うかと思われたが、あっさりと退いた――退いたように見えた。
「そうですか、それは失礼。実は越後から来た一行に、あからさまに怪しい虚無僧がいることは虎綱から報告を受けていたのです。主君から重任を授かった加倉が、そのような怪しげな者を従えているのは、その虚無僧が同行を拒否できないほどの身分の者だからだと私は推測していたのですが、ふむ、これは私の考えすぎでしたか」
「……御意にござる」
「確かに現在の越後守護は天道を掲げ、正義を奉じる者。そのような者が虚無僧の姿を借りて間者の真似事をするはずがない。だいたい、そのような振る舞いをすれば加倉が迷惑をこうむることは火を見るより明らか。真に家臣を思う当主であれば、そのようなはた迷惑な行動は慎むはずです。そなたもそう思いませんか?」
「……おっしゃる、とおりかと……」
「そうでしょう。そうでしょう。当主みずから臣下の護衛と称して任務について回るなど、それはあまりに笑止千万、あまりに子供だまし。ふふふ、このようなところに輝虎殿がいるなどと、我ながら埒もないことを言いました。忘れてください」
「…………は」
……すみません、逃げてもいいですか?
今の輝虎様がどんな顔をしているのか、見たいような見たくないような。
きっと俺が見たこともない顔をなさっているのだろうなあ、と現実逃避気味に考えていると、晴信がどことなく艶々した顔で口を開いた。
「さて、主従ともども疲れが残っているようなので、そろそろ本題に入るとしましょう」
「本題、ですか?」
「そうです。そのために供を連れず、虎綱にまで席を外させているのです」
そう言うと晴信は怖いくらいに真剣な表情になった。
今しがたの悪戯っぽい雰囲気はどこにもない。
「改めて、こたびの上杉の働きに礼を申します。そなたらの働きがなければ、甲斐の情勢は今よりもさらに悪しきものとなっていたでしょう」
そう言った後の晴信の行動を見て、俺は思わず息をのむ。
あの武田晴信が頭を下げたのだ。
むろん、頭を下げたといっても平伏したわけではない。わずかに、かすかに、ほんの少し、頭を垂れただけ。見る者によっては頷いたくらいにしか見えなかったかもしれない。
だが、俺は呼吸が止まるかと思うほどに驚いた。まさか、あの誇り高い晴信が、上杉の家臣である俺たちの前で――そして上杉の当主である輝虎様の前で、ほんのわずかであっても頭を下げるとはまったく予想していなかった。
俺以外の者たちも、それぞれの性格に応じて驚きをあらわにしている。
そんな俺たちを前に、晴信は言葉を重ねた。
「ここより先は私の任。我が父の業、必ずやこの手で断ち切ってみせましょう。春日山にいる輝虎殿にも伝えておいてもらえますか。晴信が礼を述べていた、と」