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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第百四話 二度目の対面



 夜。

 躑躅ヶ崎館の中庭では虫たちが競うように鳴き声を響かせ、その合奏は室内にいる俺のもとまで届いていた。

 秋の夜長に鳴く虫に季節の風情を感じるのは、日本人であることの特権だろう。

 できれば目を閉じて、自然の織り成すオーケストラに耳を傾けていたかった――が、残念ながら今の俺にその余裕はなかった。



 逃避的思考を払いのけ、俺は目の前の盤面に意識を集中させる。

 そこには将棋の駒が縦横に並べられており、ここに至るまでの俺と対局相手の熱戦を物語っている。

 戦局は劣勢、挽回は困難。されど諦めたらそこで投了ですよ。

 まがりなりにも上杉家の軍師として、せめて相手に冷や汗の一つでもかかせてやらなければ面目が立たぬ……!



「王手」

「まいりました」



 すぅっと頭を下げて相手に完敗を告げる。

 実に二十分ぶり三度目の敗北であった。





 何をやっているかって?

 武田晴信と将棋で対局中です。

 どうして将棋を指しているのかって?

 俺の方が訊きたいです。



 案内された部屋で甘粕長重と将棋を指していたら――女性陣は湯殿に行っていた――いきなり晴信がやってきたのである。

 そして、俺と長重の間に置かれていた将棋盤を見て対局を求めてきた。

 長重は俺と晴信の顔を交互に見て、何やらうなずいた後、そそくさと退散してしまう。緩衝役を欲した俺の胸中を読み取ったのかもしんない。薄情者め。



 ともあれ、こうして俺と晴信は二人で将棋を指すこととなった。

 ノータイムでびしばし攻めてくる相手にあっという間の三連敗。もはや弱い者いじめの感さえある対局を終わらせた晴信は、何かを確信したように小さく呟いた。



「やはり、同じ条件の下で戦えば読むことができる。こちらに引きずりこむにせよ、あちらに踏み込むにせよ、盤面を同じくすることが肝要ということですね」



 心のヒダまで見透かすような晴信の視線に背筋がぞくっと震える。

 決して美人に見つめられて興奮したとか、そういうあれではない。

 これは――そう、蛇に睨まれたかえる的な感覚だ。なんというか、知られてはまずいことを、知られてはいけない人に知られてしまった気がする。

 俺はほとんど反射的に口を開いていた。なんでもいいから口を動かしていないと、このまま相手に呑まれてしまう。



「と、ところで、それがしなどと将棋を指していてよろしいのですか?」

「よいからこうして来ているのです。さて、加倉相馬、せめて一矢なりと報いんという気概はありますか? 今ならば受けて立つにやぶさかではありませんが」



 言いながら晴信がパチパチと音を立てて駒を並べていく。

 桜色の唇が楽しげにほころんでいるところを見るに、甲斐の虎さんはことのほかご機嫌の様子である。

 別段、上杉家の軍師に連勝したから気を良くしたわけでもないだろうが――いや、案外、私人としての晴信はこういうことに喜びを感じる性質たちなのだろうか?



 だとすると、ここで勝負を拒絶すると、向こうの気分を害してしまう可能性があるな。炊き出しに関して許可を得たい俺としては、こんなつまらないことで晴信の機嫌を損じるのは避けたい。

 なにより、ここまで言われて引き下がるのは業腹だった。将棋に格別な思い入れがあるわけではないが、手もなくひねられて何も感じないわけでもない。 

 意地があるんだよ、男の子にはな!



「そこまで仰られてはこちらも後には引けません。春日山の成金なりきんと呼ばれたそれがしの力、ごらんにいれましょう」



 成金の意味は急に金持ちになった方ではなく、将棋のが成って金の動きをするようになった方の意味である。

 ようするに、短時日で出世した俺へのやっかみだった。

 パチリ。



「口さがない者どもはどこにでもいるものですが、わざわざ自分でその呼び名を選ぶことはないでしょう。もう少しマシな呼び名は選べなかったのですか、今正成」



 パチリ。



「将棋の勝負なのですから、将棋由来の呼び名の方がふさわしいと存じまして。それに、自分で自分を今正成と呼ぶのはいささか面映おもはゆいのです」



 パチリ。



「ふむ、たしかに私も自分のことを甲斐の虎などと自称するのはためらわれます――どこかの誰かは己を毘沙門天の化身と呼んではばからないようですが」



 パチリ。

 


「げふんげふん――晴信様、蜜柑みかん召し上がりますか?」



 パチリ。



「いただきましょう」



 パチリ。



 などという会話を交わしながら互いに駒を動かしていく。

 必然的に向かい合っている晴信の姿が視界に映る。こうして晴信と間近で向かい合うのは、上洛前の上杉、武田両家の顔合わせ以来であるが――相変わらず綺麗な人だった。

 肌は病的なまでに白く、整った容貌は見るからに儚げで、身体は抱きしめれば折れてしまいそうなくらい細い。



 晴信に芝居の役どころをあてがうなら、深窓の令嬢、病弱な姫君、少しひねって妖精エルフの王女――そんなところだろう。楚々としたたたずまいは、自然と見る者の庇護欲をかきたてる。

 そんな人物が鎧兜を身にまとい、戦場で輝虎様と互角以上に渡り合ったのだから、まったく人は見かけで判断するべきではない。

 と、そんなことを考えていると、当の晴信が怪訝そうに口を開いた。



「……どうしたのです、そのようにじっとこちらを見て? そなたの番ですよ」

「むお、失礼しましたッ」

「私の顔に何かついていましたか?」

「いえ、何度見てもお綺麗な方だなと、つい見惚れ――あ」



 やべ、いきなり何を言ってるんだ、俺は!?

 無意識のうちに相手に見入っていたところに声をかけられ、慌ててしまった。

 俺の言葉を聞いた晴信はぽっと頬を赤らめ――るわけもなく、それどころかキッとまなじりを吊り上げて俺を睨んできた。

 穏やかだった空気が一変し、室内に緊迫感が満ちていく。



「見え透いた世辞ですね。陳腐なほめ言葉を口にする者はたいてい腹に一物あるものですが、さて、今正成殿の狙いはいかに? ここで私を篭絡ろうらくして、甲斐を傀儡にするつもりですか?」

「い、いえ、そのようなつもりは毛頭ございません! 今のはその、慌てていたせいでつい本心がぽろりと……」



 慌てて釈明すると、晴信はなおも鋭い目つきのまま口を動かした。



「つまり本心から私を綺麗だと感じた、と?」

「さ、さようでござる!」

「それは輝虎と比べても、ということですね?」

「はい――はい? いや、それはまた別の話でございまして……」

「ふむ。それでは問いをかえましょう。そなた、輝虎にも同じようなことを申しているのですか? 輝虎とそなたは恋仲である、という噂もあるようですが」

「まさか! そのようなことは根も葉もない……とは言い切れませんが、しかし、事実ではございませんッ」

「なるほど。つまり、そなたは今、輝虎にも告げたことのない賛辞を私に贈ったわけですね」



 いつの間にか晴信の顔からは険が消えており、かわりに悪戯っぽい微笑が口元に浮かんでいる。

 ……あ、あれ、なんか答えを誘導された?

 取られてはいけない相手に、取られてはいけない言質げんちを取られてしまったような――さっきからこんなんばっかりだな、俺!?

 何か壮絶にしくじった気がしてわたわたしていると、晴信が澄ました顔で続けた。



「冷静に考えてみれば、そなたは上杉の臣。阿諛あゆ追従ついしょうで私の歓心を買う必要のない立場でしたね。なればこそ、その言葉は真実なのでしょう。ふふ、そう考えると少しばかり面映おもはゆい。こたびの一件では越後に礼状の一つも送らねばなるまいと考えていましたが、その中に今の一幕を書き添えたくなる程度には嬉しい言葉でしたよ」



 朗らかな笑顔で恐ろしいことを口にする甲斐の虎。

 ――いや、あかんて。それはあかんて。

 思わず真顔になってしまう。

 べ、別にこのことを知った輝虎様が激怒したりすることはないと思うが……なんか、うん、とにかくそれはまずい気がする。



「は、ははは、ご冗談を……」



 冗談、ですよね?

 震える声で訊ねたら、にっこりと笑みを返された。

 わあ、素敵な笑顔!

 できればもっと違う場面で見たかった!



 そんなしょーもないやり取りをしていたら、廊下からパタパタと元気の良い足音が響いてきた。

 ふすまが勢いよく開け放たれ、風呂あがりの弥太郎が姿をあらわす。その目は感動できらきらと輝いていた。



「相馬様、お風呂すごいです、お風呂! お湯がどばーって、湯気がぶわーって! 景色もすごくって、なんかもう、ほんとにすごいですッ!」



 上気した頬に手をあて、まくし立てる弥太郎。

 しまいには拳をふりあげて力説するあたり、本当にここの湯殿が気に入ったのだろう。

 そういえば、弥太郎たちが風呂に行ってから結構な時間が経っている。今まで誰一人戻ってこないところを見るに、弥太郎以外の女性陣の評判も同様なのだろう。



「ふふ、自分で設計した湯殿をそこまで激賞してもらえると、作り手冥利に尽きますね」

「……ふぇ?」



 晴信が嬉しげに口を開くと、そこでようやく晴信の存在に気がついたのか、弥太郎が目をばちくりとさせて晴信を見やる。

 弥太郎は間近で晴信を見たことがないので、相手が武田家の当主であるとはわからなかったようだ。

 ただ、ここ躑躅ヶ崎館では、見覚えない人間はイコール武田家の家臣である。他家の人間の前でおおはしゃぎしてしまった自分に気づき、弥太郎の頬がりんごのように真っ赤になった。



「し、し、失礼しましたァ!」



 慌ててかしこまる弥太郎を見て、晴信がくすりとやわらかく微笑んだ。

 それはこれまで俺に見せてきた表情とは異なり、何の底意もない自然な表情だった。どこか幼ささえ感じさせる。

 たぶん、大名としての武田晴信がこの笑みを浮かべることはないだろう。今のは私人としての武田晴信の微笑みだ。そう思った。



 どうやら晴信は弥太郎の純朴な性根を一目で見抜き、好感を抱いたらしい。

 虎綱あたりから、あらかじめ報告も受けていたのだろう。次に晴信が発した声はとても優しげだった。



「かしこまることはありません。そなたが小島弥太郎ですね? 私は武田信濃守晴信です」

「は、はい、小島弥太郎です! 武田しな……え?」



 相手の名乗りを復唱しようとした弥太郎がぽかんと口を開ける。

 そして、ギギギ、とブリキ人形のような動作で俺の方を向いた。



「あ、あの、相馬様……この方って……?」

「名乗られたとおり、甲斐の大名 武田晴信様だ」

「き、聞き間違いじゃなかった……あの、なんで武田様が相馬様のお部屋に……?」

「それは俺にもわからな――あ」



 ふと気づく。

 弥太郎が湯殿から上がってきたということは、そろそろ他の女性陣も戻ってくるということだ。

 それはつまり、この場で虚無僧てるとら様と晴信がばっちり顔を合わせてしまうということではないか。



 そうこう言っている間にも、廊下から複数の足音がこちらへ近づいてくる。

 まず間違いなく素顔の虚無僧様もいらっしゃるだろう。

 俺の脳裏で思考が高速回転した。



 選択肢その一、逃げる

 ――どこへ行こうというのかね?



 選択肢その二、虚無僧様を隣室に押し込める、もしくは晴信に今すぐお引取り願う

 ――時間的に無理。だってほら、もうすぐそこまで足音近づいてるし……ああ、まどに、まどに!



 選択肢その三、諦める

 ――現実は非情である。



 これぞまさしく空回り。どんなに高速で回転しても、ハムスターの回し車より役に立たん。

 結局、俺にできたのは、迫り来る危機クライシスを身体をかたくして待ち受けることだけであった……




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