第百三話 大賢は愚なるが如し
「虎綱」
「はい、御館様」
「このような時にそなたが戯れを言うわけがないと承知していますが、念のために確認します――本当にこの書状を持ってきたのは加倉相馬なのですね?」
「まことに加倉殿です」
主君の問いに春日虎綱ははっきりとうなずいてみせる。
それを見た晴信は再び手元の書状に視線を走らせた。何度見ても、末尾には相模の大名 北条氏康の署名と花押がはいっている。虎綱の言葉とあわせて考えるに、打ち続く疲労と心痛ゆえの幻覚というわけではなさそうだ。
だからこそ、余計にわからない。
晴信は眉間にしわを寄せてつぶやいた。
「いったい何をどうすれば、上杉の使者として塩を運んできた人間が、北条家の書状をもって甲府を訪れることになるのですか? そもそも、加倉は傷の療養で諏訪に留まっていたはず。それがどうして相模からやってくるのです?」
「ええと……当人の弁によりますと、諏訪で捕らえた板垣信憲の口から先代の悪辣さを知り、これを打倒せんと志したものの、御館様が上杉の助太刀を欲するとはとうてい思えず、それならば御館様の手が届かない場所で先代の思惑を叩き潰そうと考えた結果、このような状況になったとのことです」
「討ち取ったはずの信憲が生きていた件についても詳しく聞きたいところですが……そちらは後回しにしましょう。具体的にはどう動いたのです?」
この問いに虎綱は丁寧に応じた。おおよそのことは加倉の口から聞いている。
いきなり晴信と対面しても信用してもらえないと判断した加倉は、虎綱という窓口を経由して晴信に話を通そうと考え、虎綱に事の経緯を説明しておいたのである。
この判断は功を奏した。
虎綱の話が進むにしたがって晴信の眉間のしわは深まる一方で、話しているのが虎綱でなければ間違いなく途中で話を切り上げていたに違いない。
それくらい上杉一行の行動は荒唐無稽であった。少なくとも、晴信の目にはそのように映った。
「怪我の療養を隠れ蓑にひそかに諏訪を出立。そのまま甲斐に入り、釜無川を下って駿河へ。そこで北条の手勢と偶然遭遇して海路小田原へ向かい、北条家の書状をあずかって再び甲斐へやってきた、ですか。痴人の夢想と切って捨ててもかまわない気がしますね。証拠の書状があってさえ信じがたい。糸の切れた凧だとて、もう少し大人しく飛ぶでしょうに」
「御館様。加倉殿は、その、神出鬼没な御仁ですが、嘘偽りを口にする方では……」
「わかっていますよ。こちらを欺こうというなら、もう少しマシな嘘をつくでしょう」
荒唐無稽であり、容易には受け入れがたい内容であるからこそ、それは確かな真実なのだろう。
晴信はかすかに苦笑した。
「虎綱をして神出鬼没と言わしめるとは、さすがは当世の楠木正成といったところですか。言いたいことは多々ありますが……今川が退き、上杉と北条が動かぬというのであればあの男を討つことに注力できる。ここは素直に感謝しておくとしましょう」
「御意」
「虎綱、要害山城の内側は探れましたか?」
「申し訳ございません。城内の警備が厳重でいまだに仔細は掴めておりません。信繁様のお姿も確認できておりません」
面目なさげにうなだれる虎綱を見て、晴信は小さくかぶりを振った。
「責めているわけではありません。あの男は甲賀衆との縁が深い。やはり、そうそう懐を探らせてはくれませんね。ですが、千や万の軍が立てこもっているはずもなし。城の構造はこちらも把握しているのですから、強襲に次ぐ強襲で攻め落とせばよいだけのこと。昌景が下山城から戻り次第、私みずから兵を率いてあの男を討ちます。甲府のことはあなたと昌景に委ねますよ、虎綱」
「お、お待ちください! 御館様が直接指揮を執る必要はございません! お命じいただければ、私が――」
「父と弟の不始末です。娘であり姉である私が尻拭いをしなければなりません」
毅然として言い切った後、晴信は虎綱を見やった。
「私が動けば、必ずや甲府の町で異変が起こります。その手の蠢動に関してあの男の右に出る者はおりません。くれぐれも用心なさい」
「……かしこまりました」
「上杉の者たちには部屋を与えて休ませ、湯を使わせなさい。ああ、向こうから何か要求はありましたか?」
諏訪での一件もある。上杉からの要望であれば、たいていのことは呑まねばならないだろう。それこそ北信濃の城砦の五つ六つはくれてやっても構わない。
だが、案の定というか何というか、上杉側から要求はなかった、と虎綱は言う。
――いや、正確に言えば一つだけ、あるにはあった。
「しばらくの間、躑躅ヶ崎館に滞在することを許していただきたい、と」
「ふむ。上杉はすでにあの男の存在を知っている。信繁の謀反についても耳にしているでしょう。混乱する武田の内情を探る絶好の機会と見ましたか」
「……あの、御館様、続きがありまして」
「なんですか?」
「相模から運んできた干鯛で雑炊をつくり、町の人々に無料で振る舞いたいとのことです」
「……炊き出しをしたいということですか? 上杉の人間が、甲府で?」
「は、はい。あ、それと北条家からもらった蜜柑を、こちらは子供たちを中心に配りたいので、そちらの許可もいただきたいと」
蜜柑は相模の一部で栽培されている果物であり、北条家は他家への贈答品や家臣への褒美に蜜柑を用いることがある。
晴信も北条家から受け取ったことがあるので蜜柑の存在は知っていた。
わからないのは、どうして上杉が高級品であるはずの蜜柑を大量に持っていて、なおかつそれを甲府で配ろうとしているのか、その点である。
そもそも鯛だとて立派な高級魚。庶民はおろか、武士階級の人間でもそうそう口にできるものではない。
それらを敵地で無料で振る舞うという発想は晴信の頭には存在しなかった。
「そもそも、炊き出しで振る舞えるだけの大量の鯛や蜜柑をどうやって調達してきたのですか、加倉は?」
「なんでも共同作戦の一環として、北条幻庵殿に樽単位で供与されたそうで……」
「……まったく意味がわからないのですが」
「え、ええとですね、加倉殿によれば、幻庵殿は甲府の町の様子を憂えていたそうです。人間、寒くて暗くてお腹が空いていると碌な事を考えないもの。先代はそういった空気を生み出し、膨らませることに関しては悪魔的な手腕を持っている。甲府に難民を集めて何事かたくらんでいるに相違なし、と。それを聞いた加倉殿は、ならばそういった空気を払拭するために暖と灯と食を絶やさないようにしなければ、と考えたそうでして」
「……なるほど。それで炊き出し、それで共同作戦ですか」
「はい。炊き出しもまた先代を討つための戦の一つである、と加倉殿は仰っていました」
鯛も蜜柑も、この加倉の案を聞いた幻庵が手を打って賛同し、甲斐に向かう加倉に大量に押し付けたというのが真相であった。
むろん、そこには早姫救出に力を尽くした上杉一行への感謝も込められていたであろう。
すべてを聞いた晴信は反射的に眉をひそめようとした。
どうして武田の本拠地を守るのに上杉と北条の人間がしゃしゃり出てくるのか。そう思ったからだ。
常の晴信であれば、間違いなく不快を覚えたに違いない。
だがこのとき、晴信の胸中に不快感が生じることはなかった。
生じたのは不快感とは対極に位置する感情。
我知らず、晴信はくつくつと喉を震わせた。
先ほど虎綱が口にした加倉の台詞が脳裏をよぎる。
これもまた『御館様の手が届かない場所で先代の思惑を叩き潰そうと考えた結果』なのだろうか? きっとそうなのだろう。
まったく、なんという出鱈目さか!
「ふふ、虎綱」
「は、はい?」
「前々からそうではないかと疑っていたのですが、今こそ確信しました――加倉は馬鹿なのですね」
「は、はあ」
「馬鹿といって悪ければ大愚と言いかえましょう」
それはたいして変わっていないような――そう思いはしても口には出せない虎綱だった。
晴信はそんな配下の密かなツッコミに気づく風もなく、機嫌よさげにコロコロと笑っている。
それを見て虎綱は思わず目を瞠る。
滅多に見せることのない童女のような笑い方は、晴信が心から笑っていることの証であった。
「そう、炊き出しが戦であるなどと大愚でなければ言えぬこと。これまで加倉の言動が読めなかったことも、相手が大愚であったからと考えれば得心がいく。大愚なればこそ見えず、大愚なればこそ掴めず」
それは端的に言えば「馬鹿の考えることはよくわからん」ということである。
だが、大賢は愚なるがごとしという言葉もある。
おそらく加倉相馬はそういう人物なのだ。これまでどうしても掴めなかった相手の正体を、このとき、晴信はようやく掴めた気がした。
「戦を見る目が余人とは根本的に異なる。それゆえの大愚。なるほど、輝虎が重用するのもうなずけます。ふふ、そういうことなら私も加倉の策に乗じるとしますか。いかにあの男でも、大愚の策を読むことはできないでしょうからね」
そう言うと、晴信は上機嫌のまま立ち上がる。
そして、いまだ戸惑ったままの虎綱を促して自室を後にした。