第百二話 石室の中で
ぴちゃり、ぴちゃりと水滴が石畳を打つ音が響く。
昼なお暗い石室を照らすのは部屋の四隅で揺れる燭台の火。
中央には人間の頭ほどもある大きさの香炉が置かれ、白色の煙を吐き出し続けている。
奇妙に甘い匂いがたちこめるなか、武田信虎は杯に満たした酒をぐびりとあおった。
信虎がいるのは要害山城、最奥部にある石室である。
山の中腹につくられた要害山城の裏手には切り立った崖が存在している。後背からの奇襲を許さない天然の防壁。信虎は国主だった時代に崖の一画をくりぬき、この石室をこしらえた。
中は夏でもひんやりと冷たく、冬はほのかに暖かい。
入り口は小さく、通路は大人ひとりがようやく立って歩ける程度の高さと幅しかない。そのため、敵に攻め込まれた際の対処も容易になっている。
万が一、城が攻め落とされた場合、ここでも防戦ができるように設計されているのだ。むろんというべきか、石室から外に通じる抜け道もつくられていた。
石室内部は広めにつくられており、天井も高い。
ごく限られた石工のみを集め、多くの歳月を費やしてつくったこの石室を信虎はいたく気に入っていた。国主だった時も口実を設けてはたびたび足を運んだほどである。
前述した過ごしやすさもその一因だが、何より良いのは常に耳が痛くなるほどの静寂に包まれていることだった。分厚い石が外界の音を遮断し、家臣の諫言や農民の泣訴に煩わされずに済む。
また、外の音が中に届かないということは、中の音も外には伝わらないということである。この点も信虎にとっては都合が良かった。
「なにせ、連れ込んだ女がどれだけ泣こうが喚こうが、まったく気にせずに済むからのう。農民に武士、尼に公家、そして実の娘。くかか、晴信めにとっては思い出したくもなければ、近づきたくもない城であろうて! そこにわしが舞い戻った。今頃は躑躅ヶ崎館で戦々恐々としておるかも知れぬなあ」
心地よさげに哄笑しながら、信虎は再度酒杯をあおる。
要害山城を築いたのは信虎自身であり、当然のことながら城内の構造はすべて把握している。
城を落とす際も抜け道を使って城内に兵を送り込み、内側から城門を開かせてあっさり陥落させていた。
この城は躑躅ヶ崎館が危機に晒されたときに立て篭もる詰城、いわば武田家にとっての「最後の砦」である。
初手で要害山城を奪ったことで晴信は退路を失った。
また、要害山城からは躑躅ヶ崎館の様子が一望できる。晴信が兵を動かせば、それはたちどころに信虎の知るところとなってしまう。この戦術上の優位はそう簡単に覆せるものではなかった。
「くく、晴信め。油断したか、さもなくば慢心したか。信繁よ、どう思う?」
「……どちらでも、ない……」
信虎の問いかけに対し、うめくような応えがあった。
それは両の手足を麻縄で縛られ、身動きできない状態で石の床に転がされている武田信繁の声だった。
ただ、もしこの場に以前の信繁を知る者がいても、床に転がされている半裸の少年を信繁と判別することは難しかったに違いない。
両眼は落ち窪み、目元には濃い隈が浮かび上がり、健康的に赤らんでいた頬は痩せこけて土気色に変じている。
溌剌として生気に満ちていた少年武将は、わずか半月足らずで十も二十も齢を重ねたように見えた。
そんな息子を見て、信虎は愉しげに唇の端を吊りあげる。
「ほう、その心はなんじゃ?」
「……姉上が大切にするのは、城ではなく……人、だからだ……」
「くかか、人は城、人は石垣、人は堀、であったか? 駿河で逼塞していたおり、ちらと噂で聞こえてきたが、よくもそのような甘い考えで甲斐を保てたものよ」
「甲斐を、保つどころか……姉上は、信濃制覇まで……成し遂げた……!」
それまで苦しげにあえいでいた信繁は、ここで唇を引き結び、倒れた格好のまま信虎を睨めあげた。
武将としても、人君としても、晴信の方がお前より上だと言いたげに。
落ち窪んだ眼窩の奥で、黒の双眸に猛火が躍る。
それを見て信虎は愉快げに、また満足げに笑った。
「まださような目ができるか。阿片の煙に浸して幾日経ったか……只人ならとうに堕ちておるところだが、善哉善哉、さすがはわしの息子よ、くかかかか!」
甲高い笑い声が石室の床や天井に反射し、不気味な反響を繰り返す。
信繁は何度目のことか、手足に力を込めて束縛をほどこうと試みたが、巧みに締められた麻縄は軋むばかりでほどける気配もない。
口惜しげに唇を噛む信繁を見て、信虎は目を細めた。
「そうしておると、晴信めをこの石室に連れてきたときのことを思い出す。あれもわしを睨みながら、自由になろうと足掻いておったわ。手も足も出ぬ娘を思う存分なでまわし、舐めまわし、嬲りつくすのは実に甘美な味わいであったぞ。いずれ、そなたにも味合わせてやるゆえ、楽しみにしておるがよい」
「…………ッ!」
信繁がうなり声をあげて信虎を睨む。
信虎がこの話をするのは初めてではない。だが、何度聞こうとも慣れるということはなく、また、慣れたいとも思わなかった。
実の父が姉を弄んでいた――そんな事実は聞けば聞くほど怒りが募るばかりである。
「くふ、眼光だけで人を殺せそうじゃな」
そう言うと、信虎は白煙を吐き出し続けている香炉を手元に引き寄せ、心地よさそうに鼻から煙を吸い入れた。
それが阿片であることを知る信繁の目に隠しきれない侮蔑の色が浮かぶ。
それを正確に読み取った信虎はにんまりと唇を歪めた。
「晴信めはずいぶんときめ細かく、貞潔にそなたを育てたらしい。そなたにわしの血が発現するのをよほどに恐れておったとみえるな。そんなそなたを我が業で染めるもまた一興――ほれ、貴様ら、何をしておる! はようここに来ぬか!」
信虎が叱咤したのは、それまで石室の隅で声もなく身を寄せ合っていた女性たちであった。
布一枚身に着けていない彼女たちは、要害山城から逃げ遅れた侍女や女性兵士、あるいは城の陥落後に周辺の村からかどわかされてきた村娘たちである。
ある者は怯え、ある者は諦め、ある者はぼんやりと宙を見つめている。生まれも育ちもばらばらな女性たちに共通する事項があるとすれば、それは誰一人として信虎の命令に逆らわなかった点であった。逆らえばどうなるか、壁に染み付いた大量の血痕が教えてくれている。
「昼夜分かたず阿片を吸い続ければ、いかに頑健な心身も緩み、脆うなるもの。その上で女子の柔らかき乳と舌で全身を愛撫されれば、いかな哲人、賢人も情欲に膝を折るわい。苦痛には抗えても快楽には抗えぬのが人間の性じゃ」
信虎はそう言うと懐に手を入れ、一枚の貝を取り出す。
中には黄土色をした塗り薬のような物体が入れられていた。
それを指で拭い取った信虎は、舌でべろりと表面を舐め、満足したようにうなずいてから床に置かれた酒盃にべったりと塗りつける。
しかる後、酒盃に酒を満たして混ぜ合わせた。
「これはの、ただの阿片ではない。阿片を煮出し、乾燥させ、効き目を凝集させた代物よ。百の量が二、三になるまで目減りしてしまうのがちと難点であるが、そのぶん効果は絶大といってよい。この世に居ながらにして天上の甘露を味わえる逸品じゃ」
酒盃を口元に寄せられた信繁は歯をかみ締めて懸命に抗った。だが、信虎によって命じられた女たちによって身体を押さえられ、身動ぎできなくされてしまう。
せめてもの抵抗に口を閉ざすも、信虎に鼻をつままれ、抵抗むなしく開かれた口から酒を注ぎこまれる。
半分以上が口の端から零れ落ちたが、信虎は床に落ちた分を女たちに舐め取らせると、みずからは信繁の股間に手を伸ばした。
その手には先ほどの阿片の残りがべたりと張り付いたまま。
わが子の逸物を無造作に握った信虎は、残った阿片を丁寧に塗りつけると、くつくつと喉を震わせた。
「意思をも溶かす蜜の味。じっくりと味わうがよい、信繁。なに、忌避することはないぞ。そなたの姉が幾度も、幾度も通った道であるゆえな、くかかかか!」
◆◆
しばし後、ひとり石室から出てきた信虎は、信繁の前とは一転して険しい表情を浮かべながら口を開いた。
「盛清」
「ここに」
宙ににじみ出るように現れた黒衣鬼面の忍に短く問いかける。
「躑躅ヶ崎館の様子はどうじゃ?」
「いまだ動きはありませぬ」
それを聞いた信虎はふんと大きく鼻で息を吐いた。
「まさか本当に信繁が叛いたと考えているわけでもあるまい。わしの仕業であることは分かっているはずじゃが、なぜ動かぬ、晴信?」
信繁謀反の報を聞いた時点で、晴信はすべてが父の仕業だと確信するはずだ。
信虎に時間を与えれば、虜囚の身となった信繁がどのような目に遭わされるかは明らかである。
晴信はすぐにも直属部隊を率いて打って出てくるだろう――信虎はそのように推測していた。
そうなればしめたもの。あとは難民に扮して甲府に紛れ込ませている配下をつかって空になった躑躅ヶ崎館を奪い、前後から晴信を挟撃するつもりであった。
ところが、今日まで晴信はまったく動かない。晴信が躑躅ヶ崎館に腰を据えているため、難民に混じっている部隊も身動きがとれずにいる。
もしかすると、それが狙いかと思わないでもなかったが、時間をかければかけるほど信繁は確実に心身を蝕まれていく。
晴信はそれを知っているはずなのだ。なのに動かない。
「……弟を切り捨てたか? ふん、父を切り捨てた娘だ、ありえぬことではないが……」
むざむざ敵の虜囚となり、また、名を騙られたとはいえ、堂々と晴信相手に叛旗を翻したことで武田信繁の名声、人望は地に落ちた。
晴信が後継者としての信繁に見切りをつけたとしても不思議はない。そして、後継者としてのみならず、弟しての愛情も失せたとすれば、晴信がいまだに躑躅ヶ崎館から動かないことの説明もつく。
だが――
「うぬはそういう女ではなかろう、晴信? 誰よりも情深きうぬが弟を見捨てるとは思えぬ。であれば――ふむ、動かないのではなく、動けないと見るべきか」
信虎は小さくつぶやいた後、再度盛清に問いを投げる。
「盛清、駿府の根津から鷹は来たか?」
「そちらもいまだに。ただ、先日報告いたしましたとおり、今川軍の撤退はすでに始まっております」
「それが解せぬのよ。根津の報告がないということは、氏真の妻はまだ生きておるということ。北条も動いておらぬとみてよい。だのに、なぜ今川が兵を退く?」
今川軍が退くこと自体は計画どおりである。
だが、届くはずの報告が届かないことが信虎には訝しい。のみならず不快でもあった。
これまで信虎は今川家の情報網を好き放題に利用することができた。自身の手駒である甲賀衆を思うままに動かすこともできた。
だが、今川家を離れ、要害山城で独立を果たした今、当然ながら今川家の情報網は使えない。甲賀衆にしても、固有の武力を蓄えるまでは戦力として大部分を手元に置いておかねばならぬ。
こと諜報に関するかぎり、信虎の力は大きく損なわれている。
――その間隙を縫って、何かがするりと足元に忍び寄ってきた気がした。