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聖将記  作者: 玉兎
第八章 狂王
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第百一話 越相会談



「当主の姿も、客人の姿も見当たらぬ。もしやと思って綱成に調べさせてみれば……まったく、何を考えておるのじゃ、そちは」

「それはもちろん、上杉の方々の人となりをこの目で確かめようと――」

「客人をそっちのけで農作業に精を出しておられたよしにございます、刀自とじ

「あ、綱成、告げ口は良くないと思います!」



 小田原城の一室に案内された俺は、早々に始まった北条一族のじゃれ合い――もとい語らいを若干の困惑と共に眺めていた。

 この場にいる北条一族は氏康、綱成、そして幻庵の三人。

 あえて言う必要もない気もするが、唇を尖らせて綱成に文句を言っている氏康は、俺たちにいろいろと教えてくれた千代さん本人である。



 ――千代は幼名ですので、偽っていたわけではないのです。



 とは城に戻る途中、氏康がこっそり俺の耳元で囁いた台詞である。

 そんなことを思い出しながら部屋の中を見回す。

 さして広くもない室内には、木槌きづちやら銅板どうばんやら動物の皮革ひかくやらが散乱しており、何かの作業場のように見える。



 壁際に並べられたU字型の物体は……ふむ、これはくらか? 他にも尺八らしきものが数本壁にたてかけられている。鞍と尺八ではまったく用途が違うような気がするが、なんで同じ場所でつくっているのだろうか。

 虚無僧様のように馬上で尺八を振るう人用につくられた馬上銃ならぬ馬上尺八?

 一本もらって帰ろうかしら。



 手持ち無沙汰で作品を観察していると、それに気づいた部屋の主がぽんと膝を叩いた。



「ほ、いかんいかん。客人を置いてきぼりにしてしもうたわい」



 そう言ってこちらに向き直った人物は、一言でいうと三十年後の氏康だった。

 容姿のみを見ればとうが立った感があるが、涼やかな双眸は思慮と落ち着きを宿してきらめき、見る者を包み込む包容力を感じさせる。

 ――もし、敵として対峙したら、こちらを脳天から断ち割る大薙刀おおなぎなたのごとき威圧感を叩きつけてくるに違いない。



 相州北条家の長老 北条幻庵。

 今、俺が感じているのが包容力の方であることに心ひそかに安堵する。

 その一方で、いつ威圧感の方が前面に出てきてもおかしくない立場であることも確か。

 ここはひとつ、気合を入れてかからねばなるまい。幸い、北条家との外交に関しては輝虎様から一任してもらえたことだし。



 内心で気を引き締めていると、いきなり幻庵が動いた。

 無造作に俺に歩み寄り、戸惑うこちらの手を力強く握り締める。

 と、服に焚きこめている香のかおりがふわりと鼻先をくすぐった。



「語るべきことは多々あれど、まず何よりも先に礼を申そう。我が一族を助けてくれたこと、心より感謝する」

「は、恐縮です」



 俺個人は大したことはしちゃいないのだが、上杉家の代表として幻庵の謝辞を拝受する。

 俺がしかつめらしくかしこまっていると、幻庵の後ろにいる二人も長老にならって頭を垂れた。

 なんというか、息があっている。城下での氏康と綱成のやりとりといい、北条一族は親族間の仲がとても良いようだ。



 だからこそ、余計に早姫のことは我慢ならないのだろう。

 北条家としては、すぐにでも全軍を挙げて信虎を討ちたいに違いない。

 だが、そうすれば関東諸侯が空になった北条領を襲うことは必定。それに武田晴信が北条軍の行動を甲斐への侵略とみなした場合、晴信をも敵に回すことになる。

 そうなれば事態は泥沼におちいり、収拾がつかなくなる。



「ゆえに、当家としてはまず甲斐に使者を出し、我らの敵はあくまであの小童こわっぱであって晴信殿ではないことを理解してもらうつもりじゃ」



 幻庵は言う。念のために言っておくと、小童というのは信虎のことである。

 なお、使者に関してはとうに甲斐へ遣わしており、今は晴信の返事待ちであるという。



「一つ目の問題は晴信殿が北条の援軍を受け入れるか否かであるが、これについては使者の返事待ちゆえ、今は援軍を受け入れたという前提で話を進める。二つ目の問題は、今しがた言うたとおり、北条軍が甲斐なり駿河なりに兵をいれれば、高い確率で関東諸侯が動くということじゃ。関東管領の声望が失墜した今、連中の足並みが揃うとは思えぬが、だからというて無視はできぬ。彼奴らが欲目を見せる前に、先んじて動きを制しておきたい。そこで、じゃ。我らと上杉が手を組んだと喧伝すれば、間違いなく彼奴らの足を止めることがかなうのであるが……」

「それをすると、上杉家が関東管領を裏切ったことになってしまいますね」



 俺が否定的な感情を添えて口を動かすと、幻庵は苦笑しておうぎで口元を覆った。



「さて、別段、この機に上野こうずけに兵を送ったりはせぬが」

「それを関東管領が信じてくれるとは思えませぬ」



 信虎との戦いで北条と協調するのは問題ないが、その関係を関東の勢力争いに持っていかれるのは困る。

 いかに上杉家が「それはそれ、これはこれ」と弁明したとしても、関東諸侯は「上杉家が関東管領を見限って北条についた」と判断するだろう。



 ――本音を言えば、そうなったところで一向に構わない。むしろ、関東から距離を置きたい俺としては、すすんでそうしたいくらいである。

 だが、北条につくにしても手順というものがある。

 関東管領に一切の連絡、説明なしに北条との共闘を宣言するのは完全な裏切り行為だ。輝虎様の天道に汚点をつけることになりかねない。



 かといって、今から平井城に使者を送り、これこれこういう理由で北条と共闘しますがおたくを裏切る意図はありませんよー、なんぞと説明している時間はない。

 そもそも、それで関東管領が納得するとも思えないしな。秀綱に業正殿のところに戻ってもらい、業正殿経由で関東管領を説くという手もあるが……やはり時間がかかりすぎるのが難点だった。



 それを聞いた綱成が苛立たしげに膝を叩く。



「では、どうしろというのだ、加倉殿は!」

「まずは軍を用いて武田信虎を討つ、という考えを捨てるべきかと愚考いたします」

「……なに?」



 怪訝そうに眉をひそめる綱成に、順を追って説明する。

 そもそも、俺は晴信が北条軍を領内に招き入れるとは考えていない。自国に攻め入ってきた敵軍を討つために、それ以外の国の軍を招きいれるなど亡国の君主の行いだ。あの晴信がそんな愚行をおかすとは思えない。



 おそらく、共闘を持ちかけた北条の使者は体よく追い払われるだろう。

 それでもなお北条が信虎を討とうというのであれば、晴信ごと甲斐を押し潰さなければならないが――そこまで行くと、もう暴走に近い。

 復讐のために道理をかなぐり捨てた相手に上杉が協力する義理はないだろう。

 俺がそう言うと、綱成が形の良い眉を急角度で吊り上げた。



「我らがそのような無道を為すはずがなかろう!」

「軍をもって信虎を討とうとすれば、他に手はありません」

「む……それは確かにそうだが……」

「ですから、軍を用いるという考えを捨てるべきだと申し上げました。それがならぬというのであれば、我らは早々に相模から立ち去る所存です」



 きっぱりと断言する。

 別に北条に喧嘩を売るつもりはないが、信虎憎しのあまり目が曇っている人間と組むのは危険だ。

 有能な敵より無能な味方の方がたちが悪いというのは、古来より変わることのない戦の鉄則である――まあ、北条が無能だとはかけらも思っていないけれども。



 率直に言えば、今しがたの幻庵の言葉は俺を試すためのものだったのでは、という気がして仕方ない。

 あそこで俺が考えなしに首を縦に振れば、上杉家(たの)むに足らずと判断するつもりだったのではあるまいか。

 俺が半眼で幻庵を見やると、北条家の長老はくつくつと喉を震わせた。



「いやいや、そんなことはないぞ? ただまあ、噂の今正成も大したことはないと判断したであろうな。それは否定せん。おはやのことについては心から感謝しておるが、だからというて無条件で手を携えるのは早計。信虎めは憎らしい敵であるが、あれの狡猾は雪斎すら出し抜いた。足手まといを伴って戦える相手ではないからの」

「たしかに。無能な味方は敵より厄介なものです」

「えらく実感がこもっておるなあ」



 愉快そうに笑った幻庵は、ぐいっと身を乗り出して俺を見た。



「ひとつ問う。もし、そなたが北条の軍師であれば、この局面をいかにさばく?」

「刀自、何をおっしゃいますか!? 他家の人間に訊ねることではありますまい!」

「よいではないか、綱成。今の北条はおはやのことで平静を欠いておる。わらわにしても、身のうちにたぎる熱を持て余しておってな。己の考えが最善であるか、いまひとつ自信が持てぬのよ。他家の意見を聞いて、はじめて見えてくるものもあろう」

「それは、理解できますが、しかしですね――」



 幻庵と綱成が何やら言い合っていると、すすっと近くに寄ってきた氏康が――器用に正座したままの姿勢だった――ひそひそ声で言う。



「恩人を試すような真似をして申し訳ありません。刀自もなかなか普段どおりとはいかないようで……おはやのこと、本当に可愛がっておりましたから」

「お気持ち、お察しいたします。試されたことに関しては気にしておりませんよ。我らはつい先ごろ戦をした間柄、警戒も用心も当然のことです」

「気遣い、痛み入ります――それで、あの、加倉殿であれば、この状況でどのように動かれますか?」



 なにやらわくわくした様子で俺を見る氏康。

 こちらを試したことは申し訳ないと思うが、それはそれとして俺の考えは気になるらしい。

 むう、なんかすごい期待されている。今正成とか、ぶっちゃけ名前が一人歩きしてるだけなんですが。

 というか相模にまで伝わってるのか、今正成? あるいは、先の戦の後、北条家が集めた越後の情報の中に含まれていたのか。

 どちらにしても、俺がこっぱずかしいことにかわりはないけどな!



「そ、そうですね。別段、奇をてらう必要はないと思います。まずは駿河に三千ばかり兵を出して今川領を脅かします。早姫のこととは関係なく、三国同盟を反故にして武田に攻めこんだ今川家を討つという名目で」

「甲斐ならともかく、駿河に兵を入れるのに晴信殿の許可はいらない、ということですね」

「はい。北条が駿河に兵を差し向ければ、今川軍は兵を帰さざるを得なくなります」

「しかし、それは敵も折込み済みのことではありませんか? おはやの首を送れば、北条が駿河に兵を出すのは必定です。今川軍が甲斐からいなくなることは、敵にとって望むところであると思えます」



 氏康の言葉にうなずく。

 氏康の言うとおり、信虎の計画において今川軍はすでに用済み。あとは自分の手勢だけで甲斐を奪うつもりだろう。

 だが、それだけならば氏真を説いて兵を退かせれば済む話。



 わざわざ氏真の奥方の首を斬るよう指示したのは、今川と北条を潰し合わせて邪魔が入らないようにするためだ。

 和議、和睦など考慮もできない徹底的な死闘。それを両家にもたらすために残虐な真似をした。



 見方をかえれば、信虎は己が甲斐を制した後、北条の勢力がそのまま残っていることを嫌ったのである。

 晴信相手に戦えば、たとえ勝っても深手を負うのは避けられない。そこに北条勢がなだれ込んでくれば、いかに信虎であっても如何いかんともしがたいだろう。

 だから、早姫をつかって北条家を血みどろの殺し合いに引きずりこもうと画策した――



「それならば話は簡単です。向こうが嫌がることをすればいい。駿河に攻め込み、けれど今川軍とは戦わずにさっさと退く。そうしていつでも甲斐に攻め込める準備を整えておけば、それだけで信虎に圧力をかけることができます。それに――」

「それに――なんでしょうか?」

「たとえ敵の計画に沿ったものだったにせよ、北条軍が動いたおかげで今川軍が甲斐から退くことは事実です。そのあたりを晴信殿に説けば、一軍は無理だとしても、手練てだれの一部隊くらいなら入国を許してもらえるかもしれません」



 それを聞くや、氏康が目を輝かせてぱちんと手を叩いた。



「なるほど! その中にこっそり私が紛れ込むこともできるということですね!」

「はい――はい? い、いや、さすがにそれは無理ではないかと……と申しますか、北条家の当主様が軽々しく他国におもむくのはどうかと思います」



 唐突に妙なことを言い出した氏康に対し、俺は諌めの言葉を向ける。

 いや、俺が北条家のことにあれこれ口を出すのは僭越だと分かっている。ぶっちゃけ他人事だし。

 ただ、ここで制止しておかないと、後々厄介な事になるぞと心の中で誰かが囁くのである。

 すると、氏康様はちょっとご機嫌ななめなお顔で唇を尖らせた。



「ですが、上杉家の当主殿は加倉殿と行動を共にされておられるのでしょう?」

「ぐふぅ!?」

「わ!? ど、どうしました?」

「い、いえ、なんでもありません……」



 何でそれを知っている北条氏康。

 いや、北条三郎や風魔衆あたりから、輝虎様の情報が伝わっていることは覚悟していたけれども。

 今日まで何も言ってこなかったので、知らぬふりをしてくれるものと、俺が勝手に期待していただけである。

 そんな俺の気持ちも知らず、氏康は頬に手をあててため息を吐いた。



「理解のあるご家臣に恵まれて、上杉殿がうらやましい限りです。私の場合、すぐに綱成が飛んできてしまうので、ゆっくり畑仕事をすることもできません」



 いえ、こちらもこちらで、重臣たちに置手紙を残してこっそりついてきただけですけどね。

 まあ、察しの悪い引率者がまったく正体に気づかなかったせいでもあるけれど。

 それと氏康様、その綱成さんが怖い顔で睨んでおられますよ。



「あ、綱成。刀自とのお話は済んだのですか?」

「とっくの昔に終わっています! 具体的にいえば、姉者が加倉殿ににじり寄ったあたりで!」



 最初から聞いていたということですねわかります。

 その後、綱成による怒涛の説教が始まるかと思われたが――それは未発に終わった。

 息せき切って現れた家臣の一人が、この場にいる誰もが予想だにせぬ報せをもたらしたからである。



「申し上げます! 甲斐に差し向けていた使者が戻りました。一大事でございます!」

「……一大事とはいったい何事です?」



 氏康が一瞬表情を曇らせたのは、おそらく今川氏真戦死の報を予測したからであろう。

 信虎の行動を見るかぎり、氏真を切り捨てるのは時間の問題。それに気づかない氏康ではあるまい。

 だが、家臣の言葉はそんな俺の予測を軽々と飛び越えてきた。



「甲斐にて謀反が発生いたしました! 武田晴信の弟、武田信繁が要害山城を占拠して姉に叛旗を翻したよし!」



 それを聞いた瞬間、俺は思わずその場で立ち上がっていた。

 武田信虎ではなく武田信繁。今、確かに北条の家臣はそう言った。

 前代ぜんだいの亡霊ではなく、晴信の弟であり、武田宗家の後継者と目されていた信繁が背いた事実は武田家にとって重い。重すぎるといってもいい。



 いったい甲斐で何が起きているのか。

 俺は眉間にしわを寄せ、これから起こるであろう嵐の規模を推し量った。



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