第百話 相州北条家
小田原城は城郭のみならず城下町をも城壁で囲んだ、いわゆる総構えの構造を持つ日ノ本屈指の堅城である。
この堅城を拠点として関東制覇を目論む北条家は、初代早雲以来数十年をかけて伊豆、相模の地を掌握し、今や武蔵の国をも領有するに至っている。
先に関東管領を打ち破ったことからも明らかなように、北条家の勢威は関東随一といって差し支えなかった。
上杉軍は北条軍を破って上野の地を奪回したが、あれは桶狭間の敗戦を受けて主力部隊が本国に帰還した隙をついたもの。
実力で北条軍を退けた、などと考えていたら恥をかくことになるだろう。
北条家の現当主は北条氏康。
初代早雲の創業、二代目氏綱の蓄積を受け継ぎ、わずか数年で北条領を武蔵全域にまで拡大し、一時とはいえ関東管領を撃破して上野まで制してのけた。
今やその名は東国全土に鳴り響いているといってよい。
北条家がここまで急激に勢力を拡大させることができた一番の理由は やはり当主である氏康の器局才幹に求められるだろう。
戦場にあって退くことを知らない勇猛な戦いぶりは『相模の獅子』と畏れられ、その一方で内政においても優れた手腕を有している。
むしろ、氏康の本分は外征ではなく内政にあるのかもしれない。
聞けば、氏康はみずから領内を飛び回るほどに内治民政を好み、領民から寄せられる信望は天井知らず。
氏康の代になってからこちら、北条家の国力は「増加」ではなく「飛躍」と称し得る伸びを見せているそうだ。
そらまあ『四公六民』だの『三公七民』だのという極低税率を実現しておきながら、税収そのものは増えていくという魔術的手腕を持っていたら領内は発展するだろう。
『五公五民』でさえ名君と呼べる時代である。北条家と境を接する民衆は、伝え聞く氏康の善政を羨み、心ひそかに北条軍の侵攻を待ち望んでいるという。
民とはすなわち兵である。北条の治世を羨む兵を率いて北条軍と戦えば、勝敗はおのずから明らかであろう。
実際、北条家が破竹の進撃を続けている理由の一つに、敵方の将兵の戦意の低さが挙げられる。
また、北条家は単純な年貢率以外でも、臨時の労役を撤廃するなど税の不安定さをなくし、徴収の時期を明確にした。
これにより、領民は不安定な税に怯えることがなくなり、結果として安定した税収を確保できるようになったという。
それ以外にも北条家が打ち出した政策は学ぶべきところが多い。
定期的に検地を実施し、正確な石高を把握することで代官や役人の中間搾取をなくしたり、飢饉の際には大規模な減税を行ったりといったことだ。
時に徳政令を出すために家督交代を行うなど――氏綱が氏康に家督を譲った際がこれに当たる――北条家が内治に傾ける情熱と労力は、はっきりと上杉家を上回っている。
さらに家臣団の統制も北条家らしく独創的かつ効果的なものだった。
いわゆる小田原評定である。
北条家の鉄の団結を支える制度の一つで、月に二度開かれる重臣会議のことを指す。
北条家は初代以来、まったくといってよいほど直臣や国人衆の叛乱が起きていない。その理由の一つは、武力に訴えることなく己の意見を国政に反映させることができる小田原評定の制度にあることは疑いない。
後年――というか、別の世界では芳しくない意味を付与されてしまう『小田原評定』であるが、この世界にあっては北条家を関東の覇者たらしめる有意な制度の一つとなっていた。
「――これは手ごわい」
小田原城下を歩きながら、俺はしみじみと呟いた。
北条氏康が戦国期随一の民政家と呼ばれていることは知っていたが、その政策の詳しいところまで知っていたわけではない。
だからこそ、実際にそれを見聞した俺は驚きと感嘆を禁じ得なかった。
俺自身はもちろんのこと、ここに虚無僧様がいて良かった。
年貢の軽減、税の徴収の安定化、検地の実施による中間搾取の排除、それらによって生じるであろう家臣団の不満を吸い上げる制度。
いずれも上杉家がこれから推し進めていかなければならない課題ばかりである。
机上の案ではなく、実際にそれらが運用されている国を見て回ることは、今後の上杉家に計り知れない利益をもたらすに違いない。
もちろん、北条家のやり方をそのまま上杉家にあてはめることは出来ない。地理も、気候も、人の気質も、何もかもが違う家同士なのだから当然である。
年貢の軽減一つとっても、越後では四公六民では国が成り立たない。
だからこそ、北条家が三代かけて根付かせていった制度を、じっとりと、ねっとりと、舐めまわすように仔細に観察するのである。
そこから相模と越後の差異をあぶり出し、修正し、少しずつでも落とし込んでいくために。
ふふ、北条家の繁栄の秘密を丸裸にしてやるぜ……!
せめてそれくらいのお土産を持って帰らないと、越後に残った守護代様の怒りが雷霆となって俺を撃つからな!
ぶっちゃけ、素で生死がかかっているので俺も必死である。
と、そんな俺を見て、一人の女性が心配そうに声をかけてきた。
「あの、顔色が悪いみたいですけど、大丈夫ですか?」
「あ、はい、大丈夫です」
なに、ちょっとうすら笑いを浮かべ、ちょっと目を血走らせ、ちょっと全身に脂汗をかいているくらいで、特におかしなところはない。
ないったらないのである。
「本当ですか? なにやら深刻な怯えが見て取れるのですが……」
俺の心配をしてくれているこの女性、北条家から派遣されてきた世話係で、名を千代という。
俺に北条家の制度を詳しく教えてくれたのは、この千代さんだった。
ぬばたまの、と形容したくなる綺麗な髪を、無造作に頭の後ろで束ねているのがいかにも惜しい。
よく見れば絶世といってもいいくらいの美人さんなのだが、当人は自分の容姿にあまり関心がないようで、語るのはもっぱら内政に関することばかり。白皙の頬がりんごのように赤らむくらい熱を込めて語ってくれる。
なんというか、北条家の国づくりについて話すだけで幸せです、と全身で表現していた。
主家への忠誠もあるのだろうが、千代さん本人が民政を好んでいるのだと思われる。
どれくらい好んでいるかというと、世話係の職務を放棄して農民の収穫作業の手伝いに行ってしまうくらいに、である。
世話係たる身が、客をそっちのけで着物の裾を汚しているのはいかがなものかと思うが、ああも楽しげに振る舞われると文句も言えない。
こちらも招かれて訪れたわけではなし、細かいことは言いっこなしということにしておこう。
もっとも、声には出さねど顔には出ていたようで、俺の視線に気付いた千代さんは照れ笑いを浮かべながら裾についた泥を払い落とした。
◆◆
その後、千代さんと共に収穫の手伝いをしながら、北条家の制度についてさらに詳しく聞いていく。
そうして話を聞けば聞くほど、北条家の巨大さがわかってしまってため息を吐きたくなる。
城下町の街路はよく整備されてゴミ一つ落ちておらず、道端で争う者はいない。
野に出れば、黄金色の稲穂が相模の田野を鮮やかに彩り、刈り入れに出ている農民たちの顔から笑顔が絶えることはない。
いずれも平和と繁栄のあらわれである、と俺には思えた。
特に「道端にゴミが落ちていない」ことはすごいと思う。
北条領内では道徳が守られているのだ。
領民が貧窮にあえぎ、明日をも知れない暮らしを送っていれば、決して起こりえないことである。
「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。なるほど、関東管領では相手にもならないわけだ」
衣食住に不安がある人間は道徳を意識しない。恥や礼儀なんていうものは、生活に余裕が出来てはじめて意識するものだ。
北条の領民は道徳を守るだけの余裕がある。一部の人間だけではなく、ほとんどの領民がそれだけ余裕のある暮らしをしている。明日に不安を覚えていない。
すごいとしか言いようがなかった。
北条領内で一向一揆のたぐいが起きていないのは、関東が一向宗の影響力が薄い地域であるからだが、善政によって一揆の根を未然に刈り取っているという理由もあるのではないか。
ふと、そんな気がした。
「……む?」
横合から視線を感じた俺がそちらを向くと、そこには驚きとも納得ともつかない不思議な顔をした千代さんがいた。
彼女の桜色の唇がゆっくりと開かれる。
「我が領内を見て管子の教えが出るのですね。なるほど、侮れません」
その言葉にこれまでの「千代さん」とは異なる響きを感じたのは、たぶん気のせいではない。
俺はわずかに目を細め、左手で腰の鉄扇を握る。
俺たちの間に緊張が走った――と思った次の瞬間、千代さんは農民からもらった握り飯をほお張り「美味しいですね、これ」とニコニコ微笑んだ。
……相手が緊張を解いてしまうと、俺ひとりで警戒を続けるのもばからしくなってくる。
仕方ないので、俺も自分の分の握り飯にかぶりつき――塩が利いててうまかった――それを食べ終えて、さてそろそろ城に戻ろうかと考えた時だった。
不意に彼方から馬蹄の轟きが響いてきた。
見れば、何やら物々しく甲冑を着込んだ一団がまっすぐ俺たちの方に向かってくる。
完全武装の騎馬武者がおよそ十騎。黄色地に染められた旗指物が風になびいている。
それを見た弥太郎や段蔵が俺と千代さんを守るために前に出る。秀綱と虚無僧様もそれに続いた。
……あれ?
「い、いや、虚無僧様は出たら駄目でしょうが!」
「護衛の身であれば当然のこと。くわえていえば、それがしに様など不要でござる」
それはもういいですから!
俺たちが慌しく迎撃の準備を整えている間、隣にいた千代さんは慌てたように左右を見回し、こそこそと俺の背に隠れてしまう。
間もなく、武者たちは俺たちの前まで馬を寄せてきた。
その先頭にいた人物の顔を見た弥太郎が驚きの声をあげる。
弥太郎だけではない。黄色の鉢巻を締めた凛々しい女武者の顔は、俺の記憶にも新しいものだった。
「先の上野での戦以来か。久方ぶりと申すべきかな、加倉殿」
「お久しぶりです、北条綱成殿」
幾人かの口から驚きの声が漏れた。
北条軍の主力である五色備えの一角、地黄八幡の北条綱成を知らない者はいないだろう。
上野での凛然とした武者ぶりは数ヶ月経った今でもはっきりと思い出せる。
だが、今の綱成はあの時と異なり、どこか慌てた様子で息を乱していた。
いや、頬を上気させ、まなじりを吊り上げている姿を見るに、慌てているというより、怒っているというべきだろうか。
やはり上杉の人間は歓迎されざる存在であったか、と俺が考えたとき。
綱成の視線が俺から、俺の背後に隠れている人物に向けられる。
それを察した千代さんの身体がびくりと震えたのが伝わってきた。
「もし、そこな女性よ。一つ訊ねたいことがあるのだが」
さきほどの怒り顔から一転、実にイイ笑顔を浮かべた綱成が口を開く。
「な、なんでございましょうか、お侍様」
「このあたりで人を見かけなんだか、と思ってな。お家の大事をよそに、単身でささっと城から抜け出してしまった我が主なのだが」
「さ、さあ、私にはわかりかねます、はい」
「ふむ、それは残念だ。まあ我が主の抜け出し癖は今に始まったことではないからな。素直に名乗り出てくれれば怒りはしないつもりだったが、知らぬのか、ふむ……残念だ」
「……は、はい、そうですね、残念です」
一瞬、なぜか逡巡する千代さん。
綱成はなおも言葉を続ける。
「まったく、どこに行かれたのやら。まさか、上杉の人間を口実に使って収穫の手伝いに来たわけでもあるまいになあ!」
「はう……」
「それも供一人つれずに。お陰で私どころか、部下たちまで駆り出される始末。いい加減、ご自分のお身体の大切さをわきまえてもらいたいものだ。そうは思わぬか?」
「そ、そうですね、本当にそう思います」
千代の同意を得て、綱成の口はさらに滑らかになっていく。
「そうであろう。そうであろう。もう伊豆、相模の大名では済まぬ。北条家は関東管領をしのぎ、関東すべてを斬り従える覇道を歩み始めたのだ、今まで以上に身の安全には注意してもらわねばならぬのに、いまだに一人でふらふらと! 実に、実に嘆かわしい! これでは先代様に顔向けできぬではないかッ」
「あうう……」
綱成の口からあふれる言葉は滝のよう。
そして、何故だか千代さんはその滝に打ち据えられて萎れる一方である。
――いやまあ、ここまでくれば俺にも察しはつきますけどね!
何とかして差し上げたいところだが、残念ながら俺は上杉の人間。北条主従の会話を仲裁する権利も能力もありません。
なので、巻き添えを食わないように隅に寄っていようと思ったのだが、背後の千代さんが服の裾をしっかり掴んで離してくれない。
結果、逃げるに逃げられず、何故だか千代さんと一緒になって綱成の愚痴だか非難だか説教だか分からない言葉を延々浴びせられる羽目になった。