第一話 戦国の世へ
戦国時代。そう呼ばれる時代がある。
古くは中華帝国における動乱の時代――いわゆる春秋戦国時代、その後半を指す言葉であった。
秦による統一によって戦国の時代は終わりを告げる。
それ以後、中華帝国は幾たびも戦乱の雲に覆われてきたが、戦国という言葉が浮かび上がることはなかった。
それは一つの時代を象徴する言語として歴史に刻まれることとなったのである。
その春秋戦国の世より幾星霜。
過去の一区分を示す言語となった戦国の名は、中華帝国ではなく、その東に浮かぶ島国にて再び歴史に現出する。
応仁の大乱に端を発し、明応の政変にて顕在化した未曾有の乱世を指す言葉として。
応仁の大乱、そして明応の政変を語れば、どれだけの言葉を費やすことになるか知れない。
言えることは、この二つの大乱において足利幕府の威信が大きく損なわれたこと。
決して喪失したわけではなかったが、大乱以前のそれと比べれば影響力の減退は目を覆わんばかりのものがあった。
そしてもう一つ。幕府の衰退と共に、幕府に拠らない新しい秩序を築かんとする動きが各地に現れてきたことである。
中央権力の失墜が地方勢力の伸張を招くことは自明の理であった。
それは同時に、幕府の無為無策による苛政の下で喘いでいた民衆の切なる願いを背景とした動きでもあった。
それゆえに、立ち上がった者たちの力は増大の一途をたどることになる。
曰く。英雄とはただ優れた力を持つ者に非ず。其は民の願いを具現する者である。
時は戦国、常夜の時代。
血と死が転がり、涙、襟を濡らすが日常たる無情の世。
その闇の中を英雄たちは駆け抜ける。
熱く、激しく、猛々しく。それ以上に華やかに。
戦国の名を再び過去の時代へ押しやるために。
◆◆
越後国 春日山城。
この城は、先の越後守護代 長尾為景がこの地にあった山砦を大規模に改修してつくりあげた城である。
それ以来、長尾氏の居城として、また越後の政治の中心として機能してきた。
ちなみに、守護代とは越後守護の代理という意味である。そして、越後守護 上杉定実は春日山城にほど近い館に居を構えている。
越後の守護が健在なのに、どうして守護代の居城が政治の中心になっているのか。
その答えは――
「いわゆる下剋上の世、というわけだな」
春日山城の一室。
眼下に広がる初夏の山肌を眺めながら、俺は小さくひとりごちた。
下剋上。戦国時代を語るには不可分の関係と言える単語であろう。
下の身分の者が上の身分の者に歯向かい、ついには実力でその座を逐うこと。
その代名詞として有名なのは北条早雲や斎藤道三であろうか。
この二人は徒手空拳の身から一国の主にまで成り上がった稀有な例だが――あ、早雲はけっこう良いとこの出だったっけ? ともかく、この二人ほど有名ではなくても、似たような事例は日本中いたるところに転がっている。
各国守護の下にありながら、力を蓄え、ついには守護を放逐して戦国の世に名乗りを挙げた者――それはたとえば出雲の尼子経久であり、尾張の織田信秀であり、そして越後の長尾為景であった。
これらの人々の名前は本やゲーム、映画やテレビなどで人々の耳に親しまれている。少なくとも、俺はその名を良く知っているし、子供の頃には彼らや、少し後の織田信長、徳川家康、武田信玄、上杉謙信らの本を読み漁ったものである。
そう。これらの人を俺はよく知っていた。知っていたが、それはあくまで本やゲームを媒介にしてのこと。決して、目の前で言葉をかわしたり、ましてや矛を交えたりするような意味ではない。
そんなことは天地がひっくり返ってもありえない。ありえないはず、だったのだが――
「何故だか、こうして矛を交えているわけだ」
人気のなくなった春日山城の天守にあって、俺はここ最近で癖になってしまったため息を吐く。
ため息を吐くたびに幸運が逃げていくという話が本当なら、今の俺の幸運値はゼロを通り過ぎてマイナスに達しているに違いない。それも、地獄の上層に届くレベルで。
だが、それも仕方ないことだと思う。
俺の視線の先には今まさに城内に突入しようとしている敵軍の旗が見える。
その中でもひときわ高々と掲げられる旗に記されているのは、ただ一文字『毘』。
言わずとしれた越後の竜、戦国時代最強を謳われる上杉謙信の旗印である。
確認するが、城に立て篭もっている守り手は俺。攻め手は謙信である。
まあ、まだ今の時点では長尾景虎であるが、そこは大した問題ではない。若いとはいえ、その将略は前年の黒田氏謀反の際にもはっきりと示されている。
問題なのは、あの謙信に攻められる立場になっている俺のことだ。
もう場内に守備兵は残っていない。さして時間をかけることなく謙信はここまでやってくるだろう。
俺を殺しに。
「ため息を吐くくらい許されるよな、これ……」
言いながら、またしてもため息を吐く。
どうして、こんなことになってしまったのか。
すでにあらゆる準備を終え、することのなくなった俺の思いは、自然と過去へ遡っていった。
唐突だが、この俺、加倉相馬はこの時代の住人ではない。もしかしたら、この世界の住人でさえないかもしれない。
我ながらおかしなことを言っているとは思うが、事実だから他に言いようがないのである。
年齢は十九歳。性別は男。身分は文学部の大学生。趣味は読書。特技はどこでも寝られること。
昨今、あちらこちらの大学で文学部の予算が縮小されたり、廃止の憂き目を見ているが、うちの大学もその例にもれず文学部の肩身は狭い。
もっとも、俺にとってはあまり関係がないことでもある。
別に就職の架け橋として大学を選んだわけではなく、好きな読書を心行くまで堪能できる環境を求めて入った大学だ。俺が卒業するまでの間、文学部が存続してくれる以上のことは期待していない。
とはいえ、現実は世知辛いもので、苦労の末にようやく入試をパスしたものの、学費やら生活費やらを捻出し、同時に単位を取得するために最低限必要な講義も受けなければならない。
やれバイトだ、やれ講義だと駆け回っているうちに最初の一年は過ぎてしまった。
さすがに二年目からは、一年目より要領が良くなりはしたが、それでも想像していたよりも大学生活というものは大変なんだなあ、などといささか当てが外れていたところである。
それでも、サークルや合コンといったものに血道をあげる友人たちを横目に、一人のんびりとキャンパスライフを楽しんでいた俺は、大学二年の春、両親の墓参りをするために郷里の新潟に戻った。
墓参りといっても実家はすでになく、親戚縁者も皆無であるため、墓前に花を添えて無事の近況を報告するだけの用事だ。
その帰途、春日山城址に足を向けたのは気まぐれに類するものだった。
冬の寒気は去り、しかし夏の暑熱は訪れていない一年でもっとも過ごしやすい季節。
春日山を包む緑は朝日に照り映えるように輝き、青々とした煌きが山全体を包みこんでいるように見える。
緑萌えるその景色にあく事なく見入る俺。
と、不意に澄んだ鈴の音が耳に飛び込んできた。
まだ朝早い時刻である。俺のような物好きが他にもいるのかと周囲を見渡してみたが、俺以外の人影は見てとれない。
はて、と首を捻った俺の耳にまた鈴の音が聞こえてくる。
俺は疑問を晴らすべく、音が聞こえてきた方向に足を向けた。
ややあってたどり着いた先にあったのは毘沙門堂だった。
簡素な造りの建物には参拝の際に鳴らす鈴が設置されている。
それを見て俺は、ああそうか、と得心した。
あの鈴の音は毘沙門堂の鈴だったのだ。早起きの参拝客が鳴らした鈴の音が、風に運ばれて俺の耳に届いたに違いない。
疑問を晴らした俺はすっきりした心地できびすを返した。
その瞬間、シャリン、とひときわ強く三度目の鈴が鳴った。
先の二回よりもはるかにはっきりと聞こえたそれは、間違いなく何者かが意志をもって鳴らした音であると思われた。
振り返った俺はマジマジと毘沙門堂の鈴を観察する。
今、鳴ったのはこれではない。周囲に俺以外の人影はないし、勝手に鈴が鳴るような強風も吹いていなかった。
では、今の音はどこから聞こえてきた?
改めて毘沙門堂に目を向ける。
構造はそれほど大きくないため、いたずら好きの暇人が建物の影に身を潜めるのは難しい。念のために周囲を確認してみたが、やはり誰もいなかった。
毘沙門堂の中にも人の気配はない。
後から思えばちょっとしたホラー体験だったのだが、この時の俺にそういう意識はなかった。
その手の出来事に共通する寒気や不気味さが少しも感じられなかったからだ。
むしろ、朝靄けぶる毘沙門堂から鳴り響く鈴の音は、これから何か素敵なことが始まるのではないかという、いささか気恥ずかしい期待を俺に抱かせたほどであった。
俺は何かに導かれるように毘沙門堂に手を伸ばし――
戦国の世にやってきたのである。
◆◆
最初は何が何だかわからなかった。
時間が経っても、やはり何が何だかわからなかった。
状況がある程度把握できたのは、いったい何日経ってからだっただろうか。
そこに到るまでのことは涙なしには語れない。だが、男の苦労話なんぞ語っても面白くないだろうから割愛する。
とりあえず、異世界に行った人間が遭遇しそうな状況を思い浮かべてくれれば、おおよそ俺が経験したことと重なるだろう。
異世界。今、俺はそう言った。
繰り返すが、俺がやってきたのは戦国の世。それは、とある人物と短い旅の道連れになった時に確認した事実である。
その一方で、この戦国時代は俺の知る戦国時代とはっきり異なる部分があった。それゆえ、ここは過去の世界ではなく異世界であると俺は表現したのである。
端的に言うと女性の地位が高いのだ。
聞けば、現守護代の長尾晴景は女性であるというし、その妹の長尾景虎も女性だという。他にもちらほら女性武将の名前が聞こえてきた。
後に、それ以外にも色々と差異があることが明らかになるのだが、それについてはおいおい語っていこう。
女性の大名の存在。それは俺が知る戦国の世を変えてしまうには十分すぎるファクターであった。
まあ、完全に男女平等が根付いているかと問われればそうではなく、基本的に家督相続は男性優先。女性が後継者になることもないではないが、それは男性の後継者に恵まれなかった場合に限るという話だ。
女性の身で家督を継いだ者に対する視線は厳しく、それが高じて騒乱の引き金になることもままあるという。
実のところ、俺がやってきた当時の越後がまさにこの状態だった。
先の守護代 長尾為景が没した後、後を継いだのは女性の長尾晴景。越後国内の豪族、国人の多くは女性である晴景を侮り、その統制に服しようとしなかった。
そして、そんな不穏な空気が民衆に色濃く影響を及ぼしていた。
住所不明、目的地不明、奇妙な衣服を着て、わけのわからない言葉を口走る俺のような人間が現れるには、まさに最悪の時期であったといえる。
俺が出会った農民たちの視線は総じて険しく、態度は極めて排他的だった。
目を血走らせ、武器を持った男たちに追われたこともある。
この世界に来た当初、おれの寝床は森の肥溜めだった。鼻の曲がるような異臭さえ我慢できれば、かなり安全だとわかったからだ。
どこでも寝られるという非生産的な特技が、はじめて役に立った瞬間であった。
それはさておき、農民とは話さえままならず、大きな街に行こうとしても関所で足止めされる。それどころか、他国の密偵ではないかと疑われたことも一度や二度ではない。
自分で言うのもいやらしいが、苦学生だった俺は一日二日の絶食であれば何とかなる。幾度も経験したことだからだ。
しかし、まともな物が食べられない日が一週間以上続くのはさすがにつらかった。
このままでは本気で野垂れ死にしかねないと一念発起した俺は、市が立つとの噂を耳にして、そこへ向かうことにした。
むろん、この時代の金など持っていない。
俺が考えたのは、財布にたまたま入っていた真新しい十円銅貨を売ることだった。
怪しまれたら即逃げよう――そう決意していたのだが、あにはからんや、俺はさして怪しまれることなく市に参加することができた。農家の軒先で干されていた衣服を失敬してきたのが良かったのかもしれない。
十円銅貨が売れたらお金を払いに行こうと決意しつつ、いざ本番へ。
結論からいえば、高く売れた。
よく磨かれた銅貨の光沢は、この地の人々の目には金銀と変わらぬ輝きに見えたのかもしれない。
空腹でお花畑が見える状況だった俺は人目をはばからずに大喜びした。そして、代価としてもらった銭で果物を仕入れ、貪るように腹に入れた。
果物にしたのは、空腹で弱った胃に米だ肉だと重いものを詰め込む危険を考慮してのことである。
果物をたいらげて人心地ついた俺だったが、ここでようやく周囲から注がれる奇妙にねとつく視線に気がついた。
遅すぎた、というべきだろう。
見るからに人相の悪い男たちが数人、俺との距離を詰めつつあった。
これはまずいと判断して立ち上がる。すでに逃げ足だけはかなりのものになっていたので、逃げ切る自信はあった――俺の背後に回りこんだ人員がいなければの話であるが。
俺はとうに囲まれていたのだ。
警告もなく、いきなり後頭部を殴られて膝をつく。次の瞬間、誰のものとも知れない足が腹にめり込み、俺は食べたばかりの果物を地面に戻す羽目になった。
この時代、農民は兵士でもある。その腕力は軟弱な現代人の俺が及ぶものではない。
ましてや相手は複数。五人六人とかわるがわる殴打されては我が身を守ることさえできない。顔といわず、腹といわず、殴られ、小突かれ、蹴飛ばされた俺は傷と泥にまみれて地面に倒れこんだ。
薄れかけた意識の向こうから男たちの声が聞こえてくる。
聞き取れた言葉は「殺す」「奴隷」「邪魔」「お宝」等々、どう考えても暗い未来しか浮かばないものばかり。
これは本気で死んでしまうのではないか。
そんな恐れが心臓を鷲掴みにする。
だが、抵抗しようにも身体は指一本動かせない。意識も薄れていく一方だ。
俺に出来るのは歯噛みすることだけ。ちくしょうと罵ることさえ思うようにできない。
やがて意識も限界に来た。
ここまでなのか、と内心でうめいたその時だった。
不意に慌しい雰囲気が伝わってくる。
「無礼者」「守護代」「馬前」「下民」といった、さきほどとは別の意味で不穏な言葉が飛び交う。
それらの声を聞きながら、ついに意識を手放した俺の耳に、ひときわ大きな声でこんな言葉が響いた。
「晴景様」と。