「妖書」
久しぶりの自室は、きれいに掃除されているものの、どこか閑散としていた。
何ヶ月ぶりだろうと思ったところで、エレインさまたちに襲撃を受けたときのことが思い起こされ、私は思わず眉をひそめた。
よく考えてみれば、事件はまだ解決したわけではない。
「妖術師」のことだけでなく、首謀者はまだ勾留中で、裁判も終わってはいないのだ。
しかし、今はそのことを考える場合ではない。
私はラトエンさまに≪通信≫を送る。
{ラトエンさま、祝です。今、私の部屋に来ました}
{わかった。聖下にはすでにお報せしている。卿は歩いて謁見の間まで来てくれ}
{わかりました}
私は部屋を出て、謁見の間に向かった。
謁見の間に着くと、部屋の外でラトエンさまが待機していた。
ラトエンさまは人払いをすると、私を伴って謁見の間に入る。
私は聖下に挨拶をして、請われるままに聖下の許へと歩み寄った。
「祝、お久しぶりです。元気そうですね」
「はい、ありがとうございます。みんなのおかげで、うまくやれています」
「それは重畳です」
そう言って聖下が微笑む。
その聖下の笑顔には、しかし、陰があった。
「聖下は、お疲れでしょうか?」
「そう見えますか?」
「あっ、はい。畏れながら」
「いいのです。これでも、魔導帝国時代に較べれば楽なものなのですよ」
「そうなのですか?」
聖下は苦笑しつつ、うなずいた。
そして聖下は、両手をぽんと叩いて、
「そんなことよりも、「妖書」の話です」
と言って、真面目な顔になった。
「は、はい」
「祝は、「妖書」を顕現させてみたことがありますか?」
唐突なその質問に、私は首をかしげてしまう。
「顕現、ですか?」
その意味するところが、私にはわからなかった。
「聞いたところによると、「黒書」は魔導書の形を取って顕現させられるということでした」
「そうなんですか?」
私がびっくりしていると、聖下とラトエンさまが顔を見合わせた。
「やってみてくれないか?」
ラトエンさまが言う。
しかし、そんなことが簡単にできるのだろうか?
「はぁ、はい。やってみます」
私は生返事をして、「妖書」を顕現させる、ということを意識してみた。
すると、私の中に魔導書のイメージが確たる姿で湧いて出てきた。
私は驚きつつも、それを手の中に顕現させるというイメージを思い描いた。
結果は、呆気ないものだった。
私の手の中には、一冊の魔導書らしきものが現われていたのだ。
「これが……「妖書」」
その魔導書――「妖書」――は、臙脂色の革表紙に包まれた、大きくて厚めの本だった。
装丁などはなく、つるんとしているが不思議と肌になじむ。
重量感はなくて、見た目とのギャップが大きい。
私はおそるおそる、それを開いてみた。
中は真っ白で、なにも書かれてはいない。
そして、一頁の厚さは薄く、上質の紙のようだった。
頁をめくってみると、最初の方になにか見えて、そこで手を止めた。
そこには、≪守護の指輪≫のことが記載されている。
そういう仕組みなのか――
私はひとり、納得していた。
私が使った力が記述されるということなのだろう。
「どうですか?」
聖下の言葉に、私は我に帰った。
「あっ、すみません。はい。できたみたいです」
「そのようですね。それからは、とても強い力を感じます」
しかし、持ち主だからなのか、私にはピンとこなかった。
「それを、見せていただくことはできますか?」
私は、頁を開いたままの状態で、聖下に手渡そうとした。
すぐにラトエンさまが近寄ってきて、「妖書」を手に取った。
ラトエンさまは、一度「妖書」を見た後で、聖下に恭しく差し出した。
聖下は「妖書」を受け取ると、頁に目を落として、
「祝、ここは白紙の頁ですか?」
と聞いてきた。
「えっ、いえ、あの、私には、見えてますけど、白紙になってますか?」
「ええ。わたくしには白紙に見えます」
「私もだ」
「そう、なんですか? それは、きっと、そういう仕組みなんだと思います」
そういう気がした。
心の深いところで、そういうものなんだという感覚がある。
「そうですか。わかりました」
私のその曖昧な言葉を、聖下は納得してくれた。
「では、この頁を切り離すことはできますか?」
「頁を切り離すんですか?」
しかし、それを言葉にした途端、それができるという感覚を覚えた。
「ああ、できる、みたいです」
私はラトエンさまから「妖書」を受け取ると、無地の頁を一枚手にとって、思い切って切り離した。
頁は軽々と、そして綺麗に切り離され、その名残は「妖書」の方には見られなかった。
頁を切り離すと同時に、これになんの力を込めるか、という思いが浮かんだ。
私はとりあえず保留、と念じてラトエンさまに差し出す。
ラトエンさまは頁をしげしげと観察した後で、聖下に手渡した。
聖下も頁を表裏ひっくり返したりしながら、真剣な眼差しで見ていた。
しばらくの後、聖下は、
「これにはなにかの力が込められているのですか?」
「あっ、いいえ。保留、ということにしてあります」
「保留ですか?」
「はい。切り離したときに、どんな力を込めるかっていうのが浮かんできて、なので保留しようと」
「それでは、これに今から力を込めることはできますか?」
「えっと、はい。できます」
これも、自然と答えがわかる。
「なにか力を込めて作りますか?」
私が問うと、
「例えばどんなものが作れますか?」
と聞き返された。
「えっと、<妖詩勁>の基本能力ならすぐにできるみたいです」
心の底から浮かんでくる答えを言う。
「では聞くが、その力で例えば私が<勁力>を会得することはできるか?」
「あ、はい。できます。えっと、ラトエンさまが元々持っていたものなら、全部できます」
ラトエンさまは、私の答えを聞いて、
「どう思われますか?」
と、聖下に尋ねた。
そうか、これってレッドスケルトンと同じだ。
私は今さらのようにそのことに気づいた。
おそらく「黒書」も同じ理屈なのだろう。
私には、魔導書として顕現させて「妖書」を使うという発想がなかったから、こんな簡単な方法に気づかなかったのだ。
つまり、みんなに<妖詩勁>を会得させる必要はなかったのだ!
なんということだろう。
大失態だ。
力は得られたとはいえ、人間をやめるなんてことを思い煩わせる必要はなかったのだ。
後でみんなに謝らないといけない。
私は自分の迂闊さ、不甲斐なさにしょんぼりしてしまった。
そこで私は、はたと気がついた。
かつて戦った「魔妖剣」の男、ヘイズ=レイは<黒勁>を会得していた。
ならば、死禍を起こしている「妖術師」も<黒勁>を与えられていると考えておくべきだろう。
そして<死勁>も会得していると想定すべきだと思う。
では、レッドスケルトンとの違いはなんだろう?
たかが強いアンデッドごときには、<黒勁>を与える価値はないということだろうか?
それはそうかもしれない。
しかし、「妖書」とおなじように<死勁>だけを与えることに損失がないとしたら、<死勁>持ちのアンデッドが大量発生していないのは何故だろう?
もっと<死勁>をばらまいた方が彼らにとっては好都合だろうに。
「黒書」と「妖書」では、根本的な部分でなにか違うということ?
「祝、わたくしにそれをしてくださいますか」
聖下の言葉に、私は我に返る。
「えっ、あっ、はい。もちろんです」
私は慌てて言ったが、
「どうかしたのですか?」
と、聖下に問いかけられた。
そこで、私は今浮かんだ疑問点を話してみた。
「なるほど。「黒書」では、<黒勁>以外の<勁力>を与えることにも、なにかしらの制限のようなものがあるのではないか、ということですね?」
「そうじゃないかという可能性ですけれど」
「いや、卿の言うのはもっともだろう。私も同じように思う」
ラトエンさまが言った。
「しかし、私たちの調査では、そこまで詳しくはわからなかったな」
「調査、されていたのですか? 「黒書」について?」
「そうだ。と言っても、私たちが直接調査していたのではなく、神境にいる仲間を通じて、だがな」
「そうだったんですか」
そう言えば、今目の前にいるふたりはアバターなのだった。
「卿は、特殊な形とはいえ<黒勁>を会得しているのだろう? その辺りについてはわからないか?」
正直に言って、私の中の<黒勁>にはあまり触れたくはなかった。
しかし、そうも言っていられないだろう。
「やってみます」
私はそう答えて、自分の奥底にある「黒書」を顕現させた。
それは、漆黒の装丁の魔導書だった。
姿や、そのあり方などについては「妖書」と同じように感じる。
私は「妖書」を脇に抱えて、「黒書」を開いてみた。
頁も漆黒で、中には金色の文字でなにやら書き込まれている。
それを見た瞬間、私の頭の中に「黒書」についての知識が流れ込んできた。
――!!!
私は慌てて「黒書」を消した。
おぞましかった。
恐ろしかった。
文字通り、魂が冷えた気がした。
私はふらついて、その場に尻餅をついてしまう。
「大丈夫か!?」
ラトエンさまが駆け寄ってくれた。
しかし、私の手は震えて、差し出してくれたラトエンさまの手を取ることができなかった。
「無理をさせてしまったようだな。すまなかった」
ラトエンさまは、苦々しい表情を浮かべて、私を抱き上げてくれる。
「祝、大丈夫ですか?」
私は、ぎこちなくうなずいた。
しかし声が震えることは抑えることができない。
「一応、大丈夫だと、思います」
「なにがあった?」
私はラトエンさまの顔を見上げて、
「「黒書」に、魂を触られた、そんな感じがしました」
と答えた。
その瞬間、気配を感じて私はラトエンさまの肩越しにそちらを見た。
そこには、恐い顔をした絢佳ちゃんがいた。
「絢佳、ちゃん?」
「祝ちゃん、今、「黒書」を使ったです?」
絢佳ちゃんの視線に、私は身をすくませた。
「ひ、開いた、だけ」
私はかろうじてそれだけを答えることができた。
絢佳ちゃんは探るように私を見つめた後で、ゆっくりとうなずいた。
「それならいいです」
しかし、絢佳ちゃんはそれだけでは収まらなかった。
聖下の方を向くと、
「祝ちゃんになにをさせようとしたです?」
と、鋭く言い放った。
そこには明確な怒気が含まれていて、視線を向けられていない私でも怖く感じたほどだった。
「申し訳ありませんでした。軽率な願いを言ってしまいました」
聖下はそう言うと、頭を下げた。
そして、ラトエンさまがその後を継いで、今なにがあったかを話した。
「なるほどです」
絢佳ちゃんはそう言うと、再び私の方を向いた。
「祝ちゃん、「黒書」から解放されたい、という話を覚えてるです?」
「う、うん。もちろんだよ。ただ、こんなことになるとは、私も思ってなくて、その、ごめんなさい」
「覚えているならいいです。わたくしは祝ちゃんのことを心配しているです」
そして、慈愛をたっぷりと含んだ表情に変えて、
「「黒書」に侵蝕されていないか、それだけが心配だったです」
と言った。
私の抱いた感覚は、正しかったということだろう。
私は、深くうなずいた。
「うん、ありがとう。もう二度としない」
絢佳ちゃんが微笑んで、うなずき返してくれた。
「ひとついいだろうか?」
そこで、ラトエンさまが言った。
「ここには厳重に≪結界≫が施されているはずだが、どうやってそれをすり抜けてきた?」
「簡単なことです。わたくしは≪ジャンプ≫してここに来たです」
その言葉を解さなかったらしきラトエンさまに、絢佳ちゃんは言葉を重ねた。
「一度、<ミラムホーム>から外に出て、ここに≪ジャンプイン≫してきたです」
「そんなことが!?」
「できるです。祝ちゃんが指標になってくれたです」
「えっ、私?」
「そうです。指標があれば、≪ジャンプ≫にはこういう使い方もできるです。そして、それに対しては、特別な≪結界≫が必要なのです」
「つまり、その方法に対しては、無防備だということだな?」
「はいです」
「その≪結界≫を張るにはどうしたらいい? いや、どのような力が必要なのだ?」
「祝ちゃんならできるです」
呆気ないその言葉に、
「私?」
と反射的に言ってしまった。
「できるです」
絢佳ちゃんがいつものように、にこやかに笑う。
「それと、わたくしも「黒書」にそれほど詳しいわけではないですけど、その話ならわたくしが知っていたです」
「是非とも、教えて欲しい」
ラトエンさまが即答する。
「いいです。先ほどの祝ちゃんの疑問ですけど、「黒書」では<黒勁>を含もうと含まなかろうと、他人に<勁力>を与えるには、自身の<黒勁>までという制限があるです」
私も、それにうなずいた。
先ほど流れ込んできた知識でも、そうだとわかっていたからだ。
「絢佳ちゃんの言うとおりです」
「祝ちゃんに逆に質問ですけど、「妖書」にはその制限がないです?」
私は「妖書」を手に、考えてみる。
「えっと、必要な条件は、双方の同意、同じ社会に属していること、相手が現在の力で持ちうる可能性があること、かな?」
「つまり、数的制限はないです?」
「うん。ああ、でも、ないのは私だから、かも」
「どういうことだ?」
ラトエンさまの疑問に、
「えっと、私は「妖書」の開発者と同じ権限と力があるんです。<龍姫理法>の管理者権限みたいな。だから、制限がないんです。そうでなければ、「黒書」と同じ制限がある、みたいです」
「なるほどです」
絢佳ちゃんがうなずく。
「ちなみに、一体誰から「黒書」について聞いてきたのか教えてもらえるです?」
絢佳ちゃんはラトエンさまにそう尋ねた。
「口止めされているのでな、申し訳ないが、さる筋としか言いようがないな」
ふむふむ、とうなずいて、
「わかったです。無理に聞こうとまでは思わないです」
絢佳ちゃんは引き下がった。
「でも、祝ちゃんはここに「妖書」の話をしに来たんじゃないんです? そちらはいいんです?」
絢佳ちゃんの言葉に、私はそう言えばそうだった、と思い出した。
「そうだな。話が逸れてしまっていたようだ」
ラトエンさまもそう言った。
「「妖書」についても、神境で研究をしていたのだが、これはとてつもなく強力で、恐ろしい力だ」
「は、はい」
「これからも、この力については秘匿してもらいたい」
「わかりました」
「それから、実地の研究のために<妖詩勁>そのものも欲しいのだが、できるだろうか?」
「えっと、それはつまり、誰かに<妖詩勁>を与えるっていうことですか?」
「他に手段がなければそうなるな」
私は「妖書」に手を置き、考えてみた。
それは、簡単なことだった。
「できます。えっと、<妖詩勁>そのものを残す、という方ですけど。≪妖詩の断章≫を作れば、それでいいみたいです」
「そこから<妖詩勁>を会得するということか?」
「それは、できればしたくないんです。だめですか?」
「理由を聞いても?」
「はい。それは、私の配下になってしまうからです」
「配下の数に制限が?」
「いえ、そういうことではなくて。見知らぬ人を配下にするというのはちょっと。それに、できれば私の配下とかそういう人はできる限り作りたくないんです」
「なるほどな。卿らしい考えだ」
ラトエンさまが笑う。
「聖下、いかがでしょうか?」
ラトエンさまの問いかけに、
「構いません」
聖下も賛同してくれた。
「ならば、その≪妖詩の断章≫を作って欲しい」
「わかりました」
と、そこで私はさっきの話が途中になっていることに気づいた。
「えっと、<勁力>を取り戻すのと、どっちからやりますか?」
「祝のやりやすい方からで構いませんよ」
聖下からの言葉に、私は宙に浮いている頁を≪妖詩の断章≫にする方からやることにした。
私が念じると同時に、白紙の頁に漆黒の文字が浮かび上がる。
<妖詩勁>0LVの、それだけではなにもできないが、「妖書」について調べることのできる≪妖詩の断章≫だ。
「これが、「妖書」研究用の≪妖詩の断章≫です」
「厳重に管理し、活用させてもらう」
ラトエンさまが厳かな口調で言った。
「よろしくお願いします」
私は頭を下げてお願いしておいた。
「<勁力>の会得は、聖下とラトエンさまと、どちらからやりますか?」
私の質問に、
「私からやってもらおう」
と、ラトエンさまが答えた。
私はうなずいて、「妖書」をもう一枚切り取り、そこに<勁力>会得の力を込めて、ラトエンさまに渡した。
すると、受け取ってすぐにラトエンさまが目を瞠る。
「これはすごいな」
<感勁>で見てみると、ラトエンさまに<勁力>があることがわかった。
「うまくいきましたか?」
それでも念のため、そう尋ねてみた。
「ああ」
ラトエンさまはうなずいた。
そして、聖下の方を振り向いた。
「聖下、問題はないようです」
「ありがとう。では祝、わたくしにもお願いします」
聖下にうなずくと、おなじように「妖書」の一頁を切り取って渡した。
聖下にも<勁力>が戻ったのがわかる。
そして、聖下とラトエンさまは互いにうなずき合うと、一瞬だけふたりの姿がブレて見えた。
「神境の本体とこちらのアバターとの間で、同期をおこなった」
ラトエンさまがそう説明してくれた。
「なにか安心感がありますね」
と、聖下が嬉しそうに言う。
「それは、なによりでした」
私が言うと、聖下は笑顔でうなずかれた。
私はひと仕事終えた感じがして、ほっとした。
絢佳ちゃんがそっと寄り添ってきて、手を繋いでくれる。
私は嬉しくなって、絢佳ちゃんに微笑みかけた。
絢佳ちゃんもにっこりと笑って返してくれた。
「もうひとつ、いいだろうか?」
と、そこへラトエンさまが言った。





