人殺し
それから私は、部屋に連れて行かれて、ベッドに寝かされた。
横になっても、眠ることはできなかった。
まぶたを閉じれば、死体が浮かぶ。
傷だらけで、血の気のない死体が。
それはもう、動かないし、なにも言いもしないが、無言の圧力のようなものを発しているように感じられた。
お前が、殺した――と。
私は、その妄想に怯えた。
謝罪の言葉をいくら唱えても、それは消えない。
罪の意識から逃れるためにする言い訳は、通用しないのだろう。
心からの謝罪ができれば、あるいは違っていたのかもしれない。
しかし、私にはできなかったのだ。
私は自分に甘く、頼りない、心の醜い人間だ。
厳密には人間ではないかもしれないが、それはこのさい関係がない。
この世に生きている衆生として、智門に形だけにせよ帰依したものとして、許されないことに変わりはないからだ。
不殺生戒を犯す。
それは、最悪の破戒行為だろう。
私は泣いた。
ぽろぽろと涙を溢れさせて、泣き続けた。
それは、罪の意識に苛まれての、弱い涙だ。
決して、悔恨の涙ではない。
そんなものですらなかった。
ただ、己の弱さに泣いていたのだ。
そうしている間も、絢佳ちゃんやクレアちゃん、沙彩ちゃんが代わる代わる私を慰めてくれていた。
しかし、私は自分の殻にこもって、その言葉に耳を傾けることさえできなくなっていた。
拒絶していたとも言える。
みんなには、私のこの思いはわからない。
そんなことを、考えていたように思う。
そんなある日のことだ。
部屋のドアがノックされ、オルガちゃんが入ってきた。
お盆に食事を載せて、眩しいほどの笑顔で。
「祝さま、おはようございます」
私は、ぼんやりと彼女を見て、こくりとうなずいた。
「お返事がありませんでしたけれど、失礼して入らせていただきましたわ」
そう言って、オルガちゃんはベッド脇にまでしずしずと近づいてきて、テーブルにお盆を乗せた。
「外はいいお天気ですのよ」
オルガちゃんは、私の返事を待つことなく、喋り続けた。
「季節もそろそろ初夏。今日は、少し暑くなるかもしれませんわね」
にっこりと微笑む彼女を見て、私は目を逸らした。
なにか、自分なんかが見ていい存在ではない、そんな気がしたのだ。
オルガちゃんはその間に、窓に寄ると、カーテンを開け、窓を開いた。
朝の清廉な風が吹き込んできた。
「祝さま、寒くはありませんか?」
私は軽く首を振る。
「よかったですわ。では、換気のために少しの間、開けておきますわね」
そして、ベッド脇のスツールに腰掛けた。
「祝さま、お食事をお持ちいたしましたの」
そう言うと、オルガちゃんはじぃっと私を見た。
返事もせずにいると、
「お食事をなさらないと、お身体に毒ですわ」
ゆっくりと、優しい声でそう言った。
「でも、私、食事とか、いらない、身体、だから……」
私は、ぼそぼそと言った。
オルガちゃんが目を瞠る。
私の身体のことを聞いて驚いているのか、私はそう思った。
しかし、それは違った。
「お返事、いただけましたわ」
オルガちゃんは、小さい声で、そう言ったのだ。
そう言われてみれば、もう何日も、口をきいていなかった。
誰とも。
「そうですのね。でも、食べた方がいいに決まっていますわ。少しでも、お召し上がりになってくださいまし」
オルガちゃんはそう言って、テーブルに行った。
戻ってきたオルガちゃんは、スプーンを手にしていた。
「はい。あーん、してくださいな」
オルガちゃんは、くすっと笑いながらそう言った。
そして、空いた手で私の身体を起こす。
私は、オルガちゃんの顔を見た。
どうして、オルガちゃんは、笑顔なんだろう?
そんなことを思う。
「はい。あーん」
オルガちゃんがもう一度言う。
私は、素直に口を開けた。
そっとスプーンが口元に運ばれ、中身が注がれる。
口の中に入ってきたのは、お粥だった。
ほんのり塩味の効いたお粥。
私はそのまま嚥下する。
オルガちゃんは、さらににっこりと笑う。
「やっと召し上がっていただけましたわ」
そう言ったオルガちゃんの目が、きらりと光る。
涙だった。
どくん、と胸が鳴る。
「さあ、もう一口お召し上がりください」
オルガちゃんはもう一杯、私の口に運んだ。
私はこれも受け入れる。
そうしなければならない気がした。
次いで、オルガちゃんがコップを手にしてくる。
「お水ですわ」
私はうなずいて、コップから水をすする。
水が喉元から胃に入るのがわかる。
同時に、身体の中から清められていったような、そんな気がした。
どこかぼんやりとしていた視界が晴れる。
鈍磨していた思考がすっきりとしはじめる。
私は、目をしばたたかせて、改めてオルガちゃんを見た。
オルガちゃんは、涙を溢れさせながら、笑っていた。
そんな姿が、とても美しく見えた。
それに対して、私のなんと醜いことか。
しかし、その醜さもまた、彼女によって清められた気がした。
それはきっと、私がオルガちゃんを受け入れたから。
「もっとお召し上がりになりますか?」
私は首を振る。
「ごちそうさまでした」
私は、素直にそう言った。
オルガちゃんは口元に手を当てて、そして、ゆっくりとうなずいた。
涙が一筋、流れる。
考えるまでもなく、それは、私が流させてしまった涙だ。
そして、もうそんな涙を流させてはいけない。
私はベッドに肘をついて、半身を起こした。
自分の部屋だが、どこか現実感がない。
今までずっと、ここで過ごしていたとは思えなかったからだ。
実際、私の心は、ここにはなかった。
自分の心の奥底に逃げ込んでいたのだから。
オルガちゃんは、もう泣いてはいなかった。
涙を拭き、優しい笑顔で私を見つめている。
「祝さま、それでは、これから、湯浴みをいたしましょう?」
私はうなずいた。
そして、彼女に支えられながら、浴室に行った。
オルガちゃんに服を脱がせてもらい、椅子に座る。
桶にお湯をくんで、オルガちゃんがゆっくりと私にかけていく。
私にまとわりついた澱が、一緒に流されていく気がした。
そして、タオルをお湯に浸して、そっと私の身体を拭いてくれた。
汗が拭き取られ、単純に心地いい。
もう何日もベッドに潜り込んだままだったのだ。
私は不潔だろうと思い、恥ずかしくなった。
しかし、オルガちゃんは厭な顔ひとつせず、黙々と私の身体を拭いていく。
これがクレアちゃんたちだったら、えっちな悪戯もされてしまうところだが、オルガちゃんはそんなことはしない。
安心できた。
私は最後にオルガちゃんにタオルを要求した。
オルガちゃんはちょっと驚いた顔をしたが、笑顔でタオルを渡してくれる。
さすがに陰部まで洗わせるわけにはいかない。
そっと拭き取って、桶にタオルを入れた。
「これできれいになりましたわね」
オルガちゃんの声は、どこまでも優しい。
私はぎこちなく笑おうとするが、うまく表情が動かなかった。
私はバスローブを着せられて、また部屋に戻ろうとしていた。
スリッパがぺたん、ぺたんと床を叩く音が響く。
私は、一歩ごとに思考が明瞭になっていくように感じた。
そして、ふと、立ち止まった。
「祝さま?」
オルガちゃんが小首を傾げる。
「み、みんなは、どこ?」
私の言葉に、オルガちゃんは、
「皆さまは食堂においでですわ」
と答えてくれた。
私はうなずくと、すぐ先にある食堂のドアの前まで歩き、ノブを回した。
ドアを開けると、食堂のテーブルを囲むみんなの姿が目に飛び込んできた。
クレアちゃんが驚いて立ち上がり、沙彩ちゃんは目を瞠っている。
セラさんは相変わらず部屋の隅に立って、こちらを一瞥するも、特に関心はなさそうだった。
リィシィさんはすぐに笑顔になり、そして、絢佳ちゃんは私の胸に飛び込んできた。
私は絢佳ちゃんを支えきれずに尻餅をつく。
「祝ちゃん!」
絢佳ちゃんが私にしがみついた。
「絢佳ちゃん……」
私が名前を呼ぶと、絢佳ちゃんが胸に埋めた顔を上げた。
その目は涙で真っ赤になっている。
「絢佳ちゃん、ごめんね」
そして、みんなの方を見る。
「みんなも、ごめんなさい」
「祝、大丈夫なのか?」
おそるおそるといった風に、クレアちゃんが聞く。
「うーん。わかんないけど、たぶん」
私も、自分の状態をきちんと把握できているとは言えないので、答えも曖昧なものになってしまう。
「まあ、座れよ」
「うん」
私は、絢佳ちゃんに手を引いてもらって立ち上がった。
そして、席に着いた。
私は、入り口に立つオルガちゃんを振り返った。
「オルガちゃん、ありがとう」
オルガちゃんは、満面の笑みを浮かべて、頭を下げ、ドアを閉めた。
改めて、みんなの顔を見渡した。
みんな、半信半疑といった感じで、安心していいのかと心配も浮かぶ、そんな表情だった。
みんなにこんなに心配をかけて、私はダメな子だ。
そう思った。
なればこそ――
私は指輪を包み込むようにして、誓った。
これ以上、ダメな子のままではいない、と。
立ち上がり、ちゃんとした子になるのだ、と。
私は席を立つと、みんなに頭を下げた。
「心配かけて、ごめんなさい」
顔を上げると、みんなは顔を見合わせていた。
「私、みんなに心配かけないで済むように、もっと強くなる。どうすればいいのか、まだわかんないけど、がんばっていこうと思う。だからどうか、これからも、よろしくお願いします」
そう言って、もう一度、頭を下げる。
私は出来が悪い。
でも、私には、みんながいる。
いてくれている。
それなら、私ひとりではできないことでも、きっとできる。
私は、そう思った。
顔を上げると、みんなの顔には、笑顔があった。
私も、ほっとして、頰が緩む。
それと同時に、涙が溢れた。
嬉しかったのだ。
みんなの笑顔が見れて。
「祝ちゃん」
絢佳ちゃんが口を開いた。
「そんなに気張らなくていいです。わたくしたちは、祝ちゃんを見捨てたりはしないです。
だから、もっとわたくしたちを頼って欲しいです。ひとりで抱え込まないで、わたくしたちに想いをぶつけて欲しいです」
絢佳ちゃんの言葉に、私は胸が詰まった。
「そうだぞ」
クレアちゃんが言う。
「絢佳さんの言うとおりです」
沙彩ちゃんもだ。
「うん」
「約束ですわよ」
リィシィさんも、そう言ってくれた。
「約束する」
「じゃあ、なにをそんなに思い詰めていたのか、言ってくれるか? だいたいのところは、想像はつくんだけど」
クレアちゃんの言葉に、私はうなずいた。
「私、初めて人を殺してしまって、その罪の意識に耐えられなかったの」
「やっぱりそうか」
「祝さん、あたしも似たような経験があります」
沙彩ちゃんが言った。
意外な気もしたが、沙彩ちゃんは真面目な人だから、そういうこともあったのかもしれない。
そうも思った。
「初めて人を殺めたとき、あたしも思い詰めました。人を守る盾であること、悪を裁く剣であること。悪人もまた人であることに変わりはありません。それを、あたしは自分では消化しきれませんでした」
「どうやって、立ち上がったの?」
私の質問に、沙彩ちゃんはほほ笑みを返す。
「これは、「聖騎士」の教えで、心構えとする話なんですが、祝さんにも、参考になると思います」
私はうなずいた。
「殺人という罪を犯すことを他人にさせない。その罪をも肩代わりし、罪の意識を他人に抱えさせない。そして、決してその罪を忘れてはいけない。そういう教えです」
それは、覚悟とでも言うのだろうか。
「聖騎士」としての生き様だろうか。
ともあれ、それはとてもしっくりとくる言葉だった。
そのまま私が実行できるかどうかはわからない。
でも、参考にはなる気がした。
「なるほどなぁ」
クレアちゃんが、うんうんとうなずきながら言った。
「沙彩らしいというか、「杜番」らしい答えだな、それは」
「うん、私もそう思った」
クレアちゃんとふたり、うなずき合った。
「私のばあいは、さすがにすぐに慣れはしなかった。その晩なんかは、毛布被って震えてたものさ。
でもな、同輩がいて、「姫騎士」としての生活を送るうちに、平気になっていったよ。騎士ってのは、そもそもそういうもんだろうって思うようになったんだ」
騎士というのは領主や国家に仕える剣だ。
それは、国家の暴力装置と言えるもの。
人殺しを怖がっていては、存在意義に関わるというものだ。
でも、それを短期間で乗り越えられ、受け止められたのは、クレアちゃんの強さだと、私は思った。
「わたくしのばあいは、参考にならないと思うですけど、一応言うです」
絢佳ちゃんが言った。
「わたくしの武術、<星辰流戦闘術>の免許皆伝者は一代にひとり、そう定められているです。
そしてそれは、先代と死合をして勝つこと、つまり、殺すということです」
それは、衝撃的な告白だった。
「わたくしが初めて殺意を以て人を殺したのは、師匠になるです。ただ、訓練中に手加減を過って殺してしまったことが、ほんとの最初の殺人経験になると思うです。
そして、それ以外でも人死にの当たり前な、過酷な鍛錬をして、はじめて身につくのが<星辰流戦闘術>なのです。だから、わたくしはそれも、当然のことと受け止めたです」
絢佳ちゃんの語ったことの重さに、みんなが黙り込んでしまった。
「だから、絢佳ちゃんはそんなに強いんだね。身も、心も」
私は納得して言った。
「そうなるです」
それに対し、絢佳ちゃんも当然と答えた。
そのとき――
「人を殺すことは、そんなに特別なことなのか?」
セラさんが、不思議そうに言った。
「あたしは、物心ついた頃には、もう殺してた。だから、あたしには、よくわからない」
殺し合いを興業とする闘奴賭博。
その一番の犠牲者の言葉だ。
さらなる重圧が部屋に満ちた。
クレアちゃんは苦々しげに、沙彩ちゃんは悲痛に顔を歪めている。
「セラさん」
私は、彼女に問うた。
「今でもセラさんは、闘技場の外でも、平気で人を殺せる?」
「ああ、うん、たぶん」
セラさんの言葉は、しかし、曖昧なものだった。
「たぶん、ご主人にそう命じられれば、あたしは殺す。その後のことは、経験がないけど、たぶん、特になにも感じないんじゃないかな」
「そう」
セラさんの、なにも感じないだろうということよりも、ご主人と言ったことの方が、私は堪えた。
しかし、それは今、話すべきことじゃない。
「私は、それを哀しいと思う。気に病めと言ってるわけじゃないけど、人殺しを平気になっては、欲しくないな」
私の言葉に、セラさんは目を逸らし、黙り込んでしまった。
「わたくしもよろしいかしら?」
沈黙を破ったのは、リィシィさんだった。
私はうなずく。
「なにかを得るということは、なにかを捨てるということ。わたくしが教わったことは、そういうことですわ。
つまり、なにかを為すにあたって、なにも失わずに済むことはない、ということ。人を守るためならば、進んで罪を犯すということ、ですわ」
リィシィさんの言葉は、とてもシンプルなものだった。
沙彩ちゃんの言ったことと似通ってはいるが、もっと単純化され、現実に即したものという感じがした。
「わたくしは、悪漢を討つべく剣を揮い、何人もこの手にかけてきましたわ。初めてのときのことは、今でもはっきりと覚えておりますの。
相手は、卑怯者でしたわ。人を貶め、殺しておいて、自分の命が危うくなるにあたって、命乞いをしてきましたの。
でも、わたくしはそれを許しませんでしたわ。命乞いを遮って、その卑怯者を殺しましたの。それに悩まされることも、後悔もしませんでしたわ」
なんという心の強さだろう。
それとも、鈍さだろうか?
信条に遵じて、悩むことすらないとは。
「わたくしたち「魔勁剣」は、入門に際し、すべての己の幸せを捨てよ、と命じられますの。それができないもの、迷いがあるものは、入門させてもらえませんわ。
この身に「虚無」を帯びるということ、それはそういうこと。幼い頃から、将来、「魔勁剣」になるべく、厳しく躾けられてまいりましたから、わたくしには、迷いはありませんでしたわ。
それはきっと、人倫の道にもとるものなのでしょう。でも、それでもなお、そうしてまでも戦わなければならないのならば、わたくしはそれで構わないと、そう思っておりますの」
「壮絶だな」
クレアちゃんが呟いた。
「そうですわね。でもそれが、開祖の示された道なのですわ。第二紀末期には、その覚悟が必要とされたのですのよ」
リィシィさんは、私を改めて見て、
「わたくしの話が、祝さんの参考になるとも思っておりませんわ。でも、そういう生き方もこの世にはある、それを知って頂きたかったのですわ。先ほどの絢佳さんのお話とも通じることかと、思いますの」
そうかもしれない。
この世には、いろんな考え方がある。
一概に、なにかだけがよくて、なにかだけが悪いとは言えないだろう。
価値観とは、そもそも相対的で主観的なもの。
なにを参考に、自分を確立するか、大事なのはそこなのだろう。
そのためには、広く見聞するのは有益だ。
今のみんなの話も、そういうこと。
私は、どうやって生きていけばいいのだろう?
その答えは、まだわからない。
でも、みんながこうやって力を貸してくれる。
みんなの生き様を見ながら、じっくりと決めていけばいいのではないか。
私は、そう思った。
そうして、ようやく立ち上がることが、できた。





