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怪獣の木

これは、本サイトで公開している「月夜のマーナ」の習作です。

(本サイトの規定により、削除せずに残してあります)


大幅に加筆・修正してますので、できれば「月夜のマーナ」を読んでいただけると嬉しいです。

→http://ncode.syosetu.com/n2908f/

 「か〜い〜じゅ〜〜〜〜〜〜!」

 自分の背中で泣き叫ぶ妹の美咲を、良太はなだめることもしなかった。そのかわり、

 ――怪獣はお前だよ。

 と、ため息まじりにつぶやいた。


 保育園からの帰り道、美咲はいつもこの場所で泣き出す。最初は原因がわからず、怯える美咲をなんとか落ち着かせようと必死であやしていた良太だったけれど、今はもうあきらめた。


 あの、空き地の向こうに見える木。

 なるほど、夜空をバックにある種の威厳を持ってそびえるその木の姿は、確かにティラノサウルスのような恐竜に見えなくもない。全体的に葉が右の方にだけ茂っていて、てっぺん付近だけが左側に張り出している。ご丁寧に、口に相当する部分がぱっくりと割れていて、今にも咆哮をとどろかせそうだ。美咲の目に、それが怪獣として映るのは、自然なことだったのかもしれない。

 しかも今夜は満月だ。

 木のシルエットは、よりくっきりと浮かんでいる。葉の一枚一枚が、そっと吹く風に揺れながら、たまに月の光をきらりきらりと反射する。つまり、

 怪獣は、いつも以上に活き活きとしていた。


 でも、

 と、良太は顔を上げた。

 明日、終業式が終われば、小学校は夏休みに入る。自分が家で美咲の子守をすれば、夜、この道を通ることもない。今日が、最後だ。


 それにしても。

 今日の美咲の暴れっぷりは、いつもよりも激しい。

 両手両足を、まるででたらめに振り回している。絶え間なく泣き叫び、良太の背中から落ちそうになる。危なくてしようがない。

 良太はいったん美咲を降ろした。美咲を立たせ、向かい合ってしゃがむ。

 「か〜い〜じゅ〜〜〜〜〜〜! か〜い〜じゅ〜〜〜〜〜〜!」

 もう、何で泣いているんだか自分でもわからない。そういう状態じゃないかな。

 子供は、長い間泣いていると、惰性で泣き続けてしまう事がある。自分が泣いていることが悲しくて、悲しいことが悲しくて、悲しいことが悲しいことが悲しくて、という、無限ループに陥ってしまうのだ。

 そんなときの対策はただひとつ。

 泣き疲れるまで、放っておくしかない。

 この道は、大きな空き地と、林に挟まれている。家は少し離れたところにしかないから、それほど迷惑でもないだろう。良太は、美咲の小さな右手を軽く握って、美咲が泣きやむのを待った。


 母さんは、今日も遅いのかな。

 父さんは、まあ、間違いなく遅いだろう。最後に会ったのはいつだったっけ?

 良太は、働く両親を少しでも助けようと、美咲の子守を自分で引き受けた。とはいえ、学校まで連れて行くわけにはいかない。学校が終わり、宿題を済ませたら、晩ごはんの時間までに美咲を保育園から連れて帰る。その後は、他愛もない遊びにつきあったり、一緒にテレビを見たり、風呂に入ったりする。

 模範的なお兄ちゃん。

 いい子ぶるつもりはなかったけれど、結果的に良太は、両親からとても頼りにされるようになり、それが誇らしく、嬉しかった。

 そんな思いにふけっていると、


 ぴた。

 まさしくそんな表現の通り、美咲が泣きやんだ。

 同時に、ふう、と花の香りが良太を包む。芳香剤のように嘘くさくない、生花のように命の鋭さを持っていない、柔らかく、暖かく、少し切なさを含んでいる、花の香り。

 良太は、美咲の視線で、自分の後ろに誰かが立っていることを知った。

 ――美咲の泣き声がうるさかったのかな?

 良太は、しゃがんだまま、恐る恐る、後ろを見た。


 側面に大きな星がデザインされている、派手な色遣いの丸っこいスニーカー。

 くるぶしまでの、短くて真っ白なソックス。

 細いすねが、月明かりの中で、だからこそ透明に輝いている。

 膝の上までの紺色のスカートが、風になびく。


 ――ああ、これはセーラー服だ。


 上着の裾から、素肌が見える。

 良太の視線はいったんそこで止まる。

 その上に、穏やかなふくらみを持った胸。

 良太の鼓動が、速くなる。

 信じられないほど細い首。

 少し尖った顎。

 への字の口、小さな鼻、逆三角形の目。


 ――への字? 逆三角形?


 良太は、息をのんだ。

 べつに、逆三角形の目がどうこうというつもりはない。

 良太は自分が、まあ、押さえた表現で言えば美少年ではないこと、正直に言えば不細工な部類に入ることを薄々感じている。

 だから良太は、他人がどんな顔をしていようと、それをあざけるようなことはしなかった。ましてや、顔のパーツの一つが逆三角形だろうと正五角形だろうと、気にはしない。

 問題は、


 その、逆三角形の目、への字の口と、それらが奏でる威圧感が、


 自分と、美咲に、向けられているということだった。

 鬼か、般若か、悪魔。

 出会ったことはないけれど、もし会ったら、きっとこんな感じなんだろう。良太は、身動き一つできなくなった。


 「ごっ」

 良太は、喉をふるわせ、

 「ごっ」

 このまま踏みつぶされるのではないかという恐怖に駆られながら、

 「ごっ」

 自分と、美咲を守らなければならないという使命を、

 「ごっ」

 果たそうとして必死に、

 「ごめんなさい…っ」

 と謝った。


 セーラー服の少女は、何も言わずに立っている。

 良太も、それ以上何も言えない。

 沈黙を破ったのは、美咲だった。

 「う」

 まずい。良太は瞬時に危機を感じた。

 美咲はいま、恐怖の無限ループに陥ってしまった。

 怪獣が恐い。お姉さんが恐い。

 怪獣とお姉さんが恐い。

 怪獣とお姉さんが恐い事が恐い。

 怪獣とお姉さんが恐い事が恐い事が恐い。

 恐い恐い恐い。恐い恐い恐い。

 恐い恐い恐い恐い恐い恐い──。


 「うー…」

 「みっ、美咲! 大丈夫だから、な?」

 無駄だと思いつつ、良太は必死でなだめようとする。

 しかし、美咲を恐怖の無限ループから救ったのは、意外なことに(恐怖の一因である)セーラー服の少女だった。

 「美咲」

 少女は、逆三角形の目によく似合う低い声で、美咲に話しかけた。

 「あれが、恐いのか?」

 自分の視線で、怪獣の木に、美咲の視線を誘導する。

 良太には、少女が、自分が恐怖の対象になっていることに気づいていないのか、根本の恐怖だけを見いだそうとしているのか、判断できなかった。

 ともあれ、美咲の頭脳は、まだ複数の事象を処理できるほど発達していない。

 質問されたことで、美咲は恐怖の思考を止め、無限ループから抜け出た。

 「…うん」

 「そうか」

 そう言ったきり、少女は黙ってしまった。


 怪獣の木を消してくれるのか、怖がらなくてもいいとなだめてくれるのか。良太と美咲は、少女を黙って見つめた。

 しかし、少女は二つの視線を気にせず、逆三角形の目を少し細めて怪獣の木をじっと見つめ、もう一度、「そうか」と言ったきり、去ってしまった。


 良太は、美咲が怪獣のことを思い出さないうちに、美咲を背負って走って家に帰った。



   ◆



 家に着くと、母が珍しく早く帰ってきていた。

 母は、晩ごはんの温かい香りと共に、エプロンで手を拭きながら二人を出迎えた。

 「お母さん」

 美咲は大急ぎで靴を脱ぐと、母にしがみついた。

 良太は軽い嫉妬を感じながら、放り出された美咲の靴を揃える。

 無口な母は、「おかえり」の代わりに、とびきりの笑顔を二人に向けた。


 食卓には、すでに茶碗が並べられていた。

 レンジが嫌いな母は、弱火でことことと温めていた魚の煮物を器によそう。

 魚が嫌いな美咲は、「ゲー」と言いながら椅子に座る。

 良太は美咲の頭をポンと叩いて「好き嫌い言っちゃだめだよ」とたしなめる。

 父が仕事で帰ってこないのは寂しいけれど、3人で囲む食卓にはもう慣れてしまった。


 「今日ね、変な人に会ったんだ」

 良太は柔らかく味のしみた魚をほぐしながら、そういえば、と軽い気持ちで口にした。

 「え」

 母の顔が一瞬こわばった。しまった、と良太は慌てて言葉を足した。

 「中学生くらいの、女、の人なんだけど」

 緊張を解く母の顔を見て、良太も安堵する。

 「美咲が泣いてたら、あの怪獣の木が恐いのかって」

 「怪獣の木?」

 「ほら、病院の横の、広い空き地。奥の方に、怪獣みたいに見える木があるんだ。あれが恐いかって」

 そんなのあったかしら、と、母は顎に人差し指を当てた。

 「美咲が恐いって答えたら、そうか、って言って、帰っちゃった。なんだったんだろ」

 「小さい女の子が泣いてたから、心配になって来てみたんでしょ」

 良太は納得できなかったけれど、「きょうね、保育園でねー」という美咲の一言で、その話は終わってしまった。


 美咲のとりとめのない話を、母は黙って聞いている。

 ときどき大げさに驚いたり、話の続きを聞き出したり。


 ――母さんは、無口だけど、聞き上手だよな。


 僕も、小さい頃はこんなふうに、

 母さんと話したんだろうか。

 記憶にはないけれど、

 母さんの笑顔に向かって。

 今はもう会うこともない友達の話、

 砂場で遊んだことや、読み聞かせてもらった絵本の話。

 母さんは、今と同じように、

 静かに微笑みながら聞いてくれたんだろうか。


 良太は、少し冷めた味噌汁をすすった。



   ◆



 ――それにしても、やっぱり、変な人だったよな。

 美咲の世話を母に任せ、良太は久しぶりに静かな入浴タイムを過ごしていた。

 良太は、可愛らしく丸っこいスニーカーと、逆三角形の目を交互に思い出し、なるべくその二つの間にある、

 上着の裾から見えたすべすべの肌と、

 その少し上にある、やわらかいふくらみは、

 思い出さないように努力した。

 もっとも、良太にとってそれは無駄な努力で、どうやっても妄想が広がってしまう。


 「なんだったんだろう」

 妄想を断ち切るために、良太は口に出してそう言った。

 「美咲が泣いてたから来たのかな? でも、あんな人、この辺じゃ見たことないしなあ。それに、」

 少し身をかがめ、口を水中に沈める。

 「恐いかって、そんなことを聞いてどうするっていうんだ」

 良太は、ざぶ、といったん湯船に潜ってから、風呂を出た。


 「お兄ちゃん」

 とてとてとて、と美咲が駆け寄ってくる。かわいいな、と、良太はそれを抱きとめる。

 友達は、妹なんて生意気なだけだって言うけど。美咲は、うん、かわいい。

 「おにいちゃん、明日も、保育園、行くの?」

 「うん、お昼を過ぎたら迎えに行くからね」

 そうだ、明日は、終業式だ。

 終業式が終わったら、そのまま美咲を迎えに行こう。そうして一緒に帰ってきて、夜まで一緒に遊んであげよう。それから、そうだ。

 「美咲、こんど、遊園地に行こうか?」

 「うん!」

 遊園地というのは、駅前からバスで20分ほどの所にある、市営の小さな遊園地のことだ。簡単な乗り物があったり、ウサギなどの小動物に触れられるので、美咲くらいの子から小学校低学年くらいの子供たちには人気があった。

 良太自身は、もうそんな遊園地は卒業したけれど、


 美咲と一緒なら、きっと楽しい。


 「お兄ちゃん、やくそく!」

 良太は、美咲が差し出した小指に自分の小指を絡め、心の底からの笑顔を浮かべた。



   ◆



 終業式が終わると、良太は走って保育園に向かった。

 ああもう、担任の話が長くって、遅くなってしまった。

 車に気をつけるように。川には近づかないように。暗くなる前に家に帰るように。宿題は毎日やるように。家の手伝いをするように。病気をしないように。悪いことをしないように。テレビを見過ぎないように。冷たいものを食べ過ぎないように。エアコンに当たりすぎないように。友達と遊ぶように。ゲームばっかりしないように。登校日を忘れないように。歯を磨くように。毎日風呂に入るように。

 わかってる。わかってることばかりだ。そんなことより、早く保育園に行かなくちゃ。


 良太は、友達がさっそくいくつかの言いつけを破るべく、誰かの家に集まって、エアコンの効いた部屋でアイスでも食べながらゲームをしようと誘ってきたが、断った。

 早く美咲を迎えに行かなくちゃ。


 良太が保育園に着くと、先生が出迎えてくれた。

 「良太くん、こんにちわ」

 「こんにちわ。あの、美咲は」

 挨拶もそこそこに、美咲の姿を探す。

 そんな良太を、いいお兄ちゃんね、と先生は柔らかく見つめる。

 「みんな、今お昼寝中なのよ。起こしちゃかわいそうだから、ね?」

 良太は、保育園の職員室に誘われた。


 「いえ、そんなことないです」

 冷たい麦茶を飲みながら、良太は照れていた。

 「偉いわよう、毎日毎日迎えに来るなんて」

 「うちの子なんて、良太くんより三つも年上なのに全然ダメ」

 「妹さん思いなのよねえ、美咲ちゃんも幸せねえ」

 三人の先生に囲まれて、良太は真っ赤になって俯いてしまった。

 ほめられるのは嬉しい。それが、父さんや母さん以外の人からなら、なおさらだ。でも、こんなふうに取り囲まれてさんざんほめられるのは、さすがに恥ずかしい。

 なんとか話題を逸らしたいのだけれど、共通の話題といえば美咲のことや家のことだし、それを話せば話すほど、良太はほめられてしまう。良太はさすがに逃げ出したくなった。


 「あの…、ちょっと」

 そんな良太を救ったのは、職員室に入ってきた若い先生だった。助かった。この先生は恩人だ。

 「高橋…さん?」

 「え、あ、はい」

 滅多にさん付けの名字で呼ばれることのなかった良太は、少し緊張した。この先生にはあまり面識がない。なじみの先生は、良太くん、と呼んでくれるのに。

 「あの、門の所に、お客さん…なんですけど…」

 僕にお客さん?

 たまたま保育園に来ている僕に?

 良太は首を傾げながら窓の外を見た。

 そこに立っていたのは、

 逆三角形の目をした少女。

 ぎゃ、と良太は叫んだ。


 良太は、保育園の職員室で、逆三角形の目をした少女と向かい合って座ることになってしまった。

 ──こういうの、なんて言うんだっけ。一難去ってまた一難、だっけ。先生たちにほめられてたほうが、まだ良かった。


 良太の視線は、自然に少女の足下に引き寄せられた。

 昨日と同じ、丸っこくてかわいいスニーカー。この靴と逆三角形の目が繋がっているということが、どうしても信じられない。

 「…あの…、僕に用って」

 良太は、うつむいたまま切り出した。少女の表情が恐ろしくて、とても顔を合わせることなんてできない。もっとも、下を向いていても、頭をぐいぐいと押さえつけられているような圧迫感を感じている。

 「お前にじゃない」

 良太には、少女の声が遠雷のように聞こえた。なんて低く、迫力のある声だろう。さっきまで、先生たちのきゃらきゃらころころという笑い声に包まれていたのが嘘のようだ。


 ──僕にじゃ、ない?


 「じゃ、あの…」

 「美咲に会いに来た。そうしたら昼寝中だといわれた」

 追い返してくれりゃいいのに。良太は、さっきは恩人だと思えた若い先生を憎んだ。当の先生たちは、二人の邪魔をしないように遠くから、しかし保育士として最小限の警戒心を持ち、意識だけをこちらに向けていた。


 「美咲…に、何の、用、ですか?」

 スニーカーを見つめたまま、良太はやや警戒気味に答えた。膝の上に置いた拳に、おもわず力がこもる。

 「昨日の」

 そう言いながら、少女は少し大げさに足を組んだ。

 うつむいていた良太の視線は、無意識にスニーカーを追って上に移動した。スカートの少し奥が見えそうになって、良太は慌てて顔を上げた。


 ──しまった。


 目を合わせてしまった。

 少女の視線が、良太を絡め取る。良太は、身動きが取れなくなった。

 「昨日の、美咲が怖がっていた木のことだが」

 「怪獣の木…? って、それよりも、」

 この人は、いったい、何なのだろう?

 どうしてわざわざ、美咲に会いに保育園まで来たんだろう?

 どうして美咲がこの保育園にいるとわかったんだろう?

 良太は、何から聞いていいのかわからなかったが、


 とりあえず目の前の疑問から片づけることにした。


 「それよりも、そのヘルメットは…?」

 安全+第一。

 少女が膝の上に置いている、そう書かれた黄色いヘルメットを指さし、良太は恐る恐る尋ねた。

 「これか? 工事現場とかで、見たことないか?」

 「ありますけど…」

 「見たとおりの物だ」

 良太は、はあ、とだけ答えた。それ以上の答えは期待できず、それ以上の質問は許されないと悟ったからだった。


 「美咲は、いつごろからあの木を怖がるようになった?」

 「…お姉さんには関係ないでしょう」

 こっちの質問に答えてくれないなら、こっちだって答えてやるもんか。良太は、せいいっぱいの強気で少女の目を睨みつけた。

 少女は、良太に答える気がないとわかると、机に置いてあった麦茶を手に取り、ぐいぐいぐい、と飲み干した。

 良太は、脈動する細いのどに見とれてしまった。


 目を閉じてさえいれば、

 この少女の、なんて綺麗なことだろう。

 コップが離れる瞬間のくちびるの、

 なんて柔らかく眩しいことだろう。


 少女はコップを机に戻すと立ち上がり、先生たちに「おじゃましました」と告げて、職員室から出ていってしまった。


 「良太くん、今の方は…?」

 「え…、あ、近所の…、お姉さんです。たまに美咲と遊んでくれて」

 嘘をつくことに、あまり抵抗はなかった。そう答えるのが、いちばん簡単だった。

 「ふーん? 無愛想だけど、綺麗な子ねえ」

 「はぁ…」


 良太は、また先生たちに囲まれたけれど、話は半分も聞いていなかった。

 彼女は誰だ? 彼女は何だ?

 どうして美咲に。どうしてこの保育園に。

 どうしてヘルメットを。いや、それはこのさい放っておこう。

 また美咲に会いに来るだろうか。来るだろう。


 怪獣の木が、

 どうしたっていうんだ?



   ◆



 「それでね、ケンちゃんがね」

 「うん」

 「お砂場でね、シャベルね、なくしちゃったの」

 「うん」

 「それでね、みんなでね、探してあげたの」

 「うん」

 「…お兄ちゃん、おてて、痛い」

 「うん」


 良太は、知らない間に美咲の手を強く握っていることに気づいた。

 「ああ、ごめんごめん」


 保育園からの帰り道、良太と美咲は、いつものように手をつないで歩いていた。


 僕が、美咲を、守らなきゃ。

 良太は、傾いた美咲の帽子を直してやった。

 夏の日差しは、容赦がない。お母さんが子供の頃は、真っ黒になって遊べなんて言ってたらしいけど、今はなるべく紫外線を浴びないようにって言われてる。


 「美咲、知らない人について行っちゃだめだよ」

 「わかってるよう」

 「お菓子あげるって言われても?」

 「ついていかなーい」

 「絶対ダメだよ?」

 「お兄ちゃん、うるさい」

 美咲は、良太の手を振り払って駈けだした。


 がん。

 今日、学校の先生にさんざん分かり切ったことを注意されて嫌な思いをしたのに、同じ事を美咲にしてしまった。

 お兄ちゃん、うるさい。

 良太はショックで足下がおぼつかなかったが、美咲を追って走り出した。


 もちろん、多少ふらついていても、幼児の足に追いつけないわけがない。けれど、そんなこととは関係なく、


 美咲は、立ち止まっていた。

 怪獣の木の見える、少し手前で。


 怖がるのは夜だけかと思ったけど、これは思ったより重傷だな。

 「美咲? 大丈夫だよ、行こう」

 美咲は、ふてくされたように口をとがらせている。

 よし、と良太は、美咲に背を向けてしゃがんだ。

 「ほら、おんぶ」

 「うん」

 美咲は、美咲にとっては大きい背中に、よじ登った。

 「よっし、いっくぞーっ!」

 良太は、美咲を背負ったまま、全力で走り出した。

 美咲は、きゃあきゃあとはしゃぎながら、良太の首にしがみつく。

 美咲の腕は熱いけれど、それがとても心地よい。良太は風を切って、美咲が怪獣の木に気づく暇を与えずに走り抜けた。


 「到着!」

 結局家まで走ってきた良太は、玄関の前でやっと美咲を降ろした。

 「とうちゃーく!」

 美咲も、意味がわかっているのかいないのか、両手を上げて叫んだ。

 汗だくになった良太は、家に入るとすぐに風呂を沸かした。

 これは、先月になって、やっと母から許可されたことだ。良太の家の風呂は沸かすのに少し手間がかかる旧式のものだったので、良太がいじってはいけないことになっていた。

 しかし、母が帰るまで風呂を待っていては美咲がかわいそうだからと、母の目の前で風呂を沸かしてみせる「認定試験」を受けて合格し、それ以来、それは良太の役目になった。今では、母が帰ってくると「おかえり」に続いて「お風呂沸いてるよ」と付け加えるのが日課になっている。

 良太と美咲は、風呂が沸くまで戸棚にあったおやつを食べて待った。

 冷蔵庫にあった麦茶に砂糖を入れると、美咲は一気に飲んでしまった。もう一杯、もう一杯とせがむ美咲に、本当にもう一杯だけだからね、と麦茶を渡す。

 我ながら甘いなあ、と反省するけれど、美咲にせがまれて断る術を、良太は持っていなかった。いいんだ。しつけは親に任せる。僕の役目は、美咲が退屈しないように面倒を見ることと、危ない目に遭わないように守ってやることなんだから。


 危ない目。

 美咲が遭うかもしれない危ない目って、なんだろう。

 誘拐?

 交通事故?


 あの、鬼のような顔をしたお姉さんは、美咲に何をするつもりだろう。

 良太を、大きな不安が襲った。

 自分に向けられたものではない、やいば。

 その切っ先にいる、大切な、妹。

 僕には、美咲を守ることができるんだろうか?


 いや、守るんだ。守らなきゃ。

 良太は、美咲の頭に手を乗せて、大切な妹をじっと見つめた。

 「お兄ちゃん?」

 コップから口を離して、首をかしげる美咲。

 良太は、不安を隠して笑顔を作る。この半年くらいで、ずいぶん作り笑顔がうまくなった。

 「そろそろ沸いたよ。お風呂入ろう」

 「うん!」

 とりあえず、家にいれば、何も不安はない。

 良太にとって、家は堅強な城も同然だった。鍵をかければ、あの般若のようなお姉さんも入ってこられない。ここにいれば、大丈夫だ。


 その日、母は遅くまで帰ってこなかった。

 良太は、今日保育園で起こったことは言わなかった。言えば、よけいな心配をさせてしまうから。

 母のことを思っての内緒だったけれど、なぜだか、良太の胸はちくりと痛んだ。



   ◆



 夏休み初日。

 良太が薄目を開けると、蝉の声がじいじいと響いていた。

 台所からは美咲の下手な鼻歌が聞こえる。良太は安心した。

 たっぷりと汗がしみこんだTシャツを脱ぎながら台所に向かうと、朝食が用意されたテーブルには、母のメモがおいてあった。

 涼しいうちに宿題を済ませること。

 わかってるけど、難しいんだよな。良太は苦笑いをして、メモを丸めて捨てた。

 「美咲、おはよ」

 美咲は、チラシの裏に絵を描いていた。

 「おはよー」

 「何、書いてんの?」

 「かいじゅう」

 あれほど毎晩のように怪獣に怯えて泣いているのに、どうして怪獣の絵なんか描くんだろう。

 「怪獣、怖くない?」

 「いいかいじゅうだもん」

 ふうん、と良太は曖昧な返事をして切り上げる。

 美咲のことはかわいいと思うけれど、どうしても理解できない部分だって、ある。

 美咲は、絵を描いている間はおとなしい。妙な鼻歌は聞こえてくるけれど、それは決して耳障りじゃない。今のうちに、宿題を済ませてしまおう。

 良太は、自分の机から宿題の山を取り出し、でたらめに、その中の一冊を抜き出した。

 算数。良太はがっくりと肩を落とし、それでも他の教科を選び直そうとはしなかった。どうせ、どれを選んでも同じように肩を落とすからだった。


 それでも、今日の良太には、算数は都合の良い教科だった。

 一問答えては美咲を想い、一問答えては恐ろしい顔をした少女に震え、一問答えては怪獣の木の謎を想像し、一問答えては暑さに閉口する。いろいろ考えてしまって集中できないから、時間を細切れにできる算数がちょうどいい。

 蝉の声は、日が昇るにつれてますます賑やかになる。

 良太と同い年くらいの少年の声が聞こえてくる。

 角の家の犬が、それに答えるように吠える。

 30分もしないうちに、良太は鉛筆を放り投げた。もちろん暑さのせいもあるけれど、あまりにもいろいろ考えることがあって、宿題がはかどらない。

 美咲は相変わらず絵を描いている。

 怪獣は三体に増えているように見える。みんな「いいかいじゅう」なのだろう、美咲はご機嫌でクレヨンを走らせている。

 良太は、ごろ、と床に寝ころんだ。天井を見つめて、考えをまとめてみようとする。


 怪獣の木、がある。

 美咲がそれを怖がる。

 逆三角形の目をしたお姉さんが現れて、「木が怖いか」と聞く。

 翌日、美咲の保育園にそのお姉さんが現れる。

 それから──、


 それだけだ。

 そこから先は、何を考えても、すべては、あのお姉さんが何者なのか、というところで行き止まりになってしまう。


 確かめる必要がある。

 美咲を守るために。


 兄として?

 兄として。


 あのお姉さんが何者で、美咲に近づいて何をしようとしているのか。

 セーラー服に騙されちゃいけない。かわいいスニーカーに騙されちゃいけない。

 保育園を突き止めてくるなんて普通じゃない。

 そのうち、この家にも来

 「どーん!」

 ごふっ。

 「み、美咲…、どーんってしちゃダメって…言っただろ?」

 美咲はまだ軽いけれど、さすがに不意打ちで腹の上に乗られると、一瞬息ができなくなる。

 「たいくつー!」

 馬乗りになり、不満顔で両腕を振り回す美咲。

 仕草のひとつひとつが、かわいくて仕方ない。

 良太は美咲の脇を支え、持ち上げた。そのまま立ち上がり、くるくる回って美咲を振り回す。

 それだけで美咲の機嫌は直り、一転してはしゃぎ出す。一瞬ごとに表情を変える美咲は、良太にとってもいいおもちゃだった。美咲と遊んでいるあいだ、良太は不安を忘れることができた。



   ◆



 「美咲…?」

 遊び疲れて眠ってしまった美咲のほほを、軽くたたいてみる。

 起きないことを確認すると、良太は、帽子を深くかぶりなおした。

 扇風機は回してある。小窓を開けてあるから、風は通る。

 もしもの時に、押すだけで母に電話が通じるボタンは、美咲も使える。

 もっとも、そんなに家を空けるつもりはない。ちょっと怪獣の木のところまで行って、その木の周りに何か秘密がないか探して、何か見つかったら、あるいは何も見つからなくても、すぐに帰ってくる。

 ──あのお姉さんに、捕まったりしなければ。


 良太は、そっと美咲から離れた。唇だけを動かし、行ってきます、と言い残す。

 外に出ると、頂点を過ぎたばかりの太陽が、良太を突き刺した。それでも、多少風があるからだいぶ楽だ。良太は、走り出した。

 最初の角を曲がる。右側が畑、左側が住宅街。朝早くには、このあたりでトマトを売っている。

 一軒の酒屋がある。この道は車が少ないけれど、酒屋の角だけは、見通しが悪いから注意すること。

 その先に、分かれ道。右は駅に続く道、左は、

 林と、

 病院の横の広い空き地に挟まれた道。奥の木立の、さらに少し奥に、

 怪獣の木が立っている。


 幼児には怖い姿。けど、僕には、

 ただの木だ。

 緊張しているのは、木が怖いからじゃない。

 …お姉さんが怖いんだ。


 どっちにしろ、僕は恐がりだ。

 良太は自分を情けなく思いながらも、美咲のために、と自分を奮い立たせ、空き地に踏み入った。

 あの木に、どんな秘密があるんだろう。何か埋まってるのかな。

 木のところに、何かいたりして。


 ──幽霊とか。


 良太は、考えれば考えるほど怖くなりそうだったので、早足で木に向かった。

 近づいて見上げるようになると、怪獣の姿はくずれ、普通の木になってしまう。良太は勢いを増し、木に突進する。

 とうとう木の根本までやって来ると、良太は恐る恐る幹に触れた。

 ほら見ろ。何もない。何もいない。怖がることなんか、何もないんだ。


 木の幹に触るなんて、久しぶりだな。

 それは、決して気温が高いせいだけでなく、温かく感じられた。

 気づけば、茂った葉に護られた木陰は、そよと吹く風だけを良太に与えてくれている。

 良太は、木に背をもたれ、足を投げ出して座った。

 温かくて、涼しくて、心地よい。

 遠くから聞こえる蝉の声、

 もっと遠くから飛行機の音。

 木陰に漏れる光の点が、風に揺られてくるくると踊る。


 こんなのもいいな。ここにこうして座って、

 美咲に絵本を読んであげて、

 美咲が飽きて眠ったら、僕は読書感想文を書く本を読もう。

 宿題だって、ここで本を読むなら辛くない。


 良太は帽子のつばをぐいと下げて、目を閉じた。

 怪獣の木だなんて、バカバカしい。

 こんなに気持ちいいのに。

 良太はすっかり緊張を解き、心地よさに身を委ねた。



   ◆



 「おい」

 頭上から聞こえた声に、良太は硬直した。恐る恐る見上げると、

 いや、見上げなくてもわかっている。

 木の上に、逆三角形の目の少女がいた。五メートルほど上、太めの枝に、安全+第一の黄色いヘルメットをかぶって立っている。


 「なっ、ななななな」

 腰が抜ける、というのを、良太は生まれて初めて体験した。

 逃げたい、立てない、動けない。

 良太は、かろうじて動く右手人差し指を少女に向けた。

 「ななななな、なんで、そんな所に」

 「調査だ」

 少女はさらりと答える。

 「ちょ、調査?」

 「そんなことより」

 少女の目が、ぎん、と細くなる。ひ、と良太がのけぞる。

 「お前、向こうを向け」

 「えっ、な、なんで?」

 背中を向けたら食われる。間違いない。食われる。間違いない。

 どうしよう。逃げよう。どうやって。動けない。


 少女は、すっかりパニックに陥っている良太に、ため息をついた。

 スカートをつまみ、軽くひらつかせ、

 「下から覗くな、と言ってるんだ」

 「え?」

 良太は、少女の意外な言葉を受けて、パニックは収まったけれど、

 代わりに、頭が真っ白になった。

 「え? 下から? なに?」

 そして少女は、とどめを刺すべく、もう一度スカートを振った。今度は、少し大きく。

 良太の心臓が、弾けた。

 「ごっ!」

 慌てて後ろを向き、頭を抱える。

 「ごめんなさいいいいっ!」


 少女は、良太が下を向いたことを確かめると、ひらりと飛び降りた。

 「よっ」

 「え?」

 まさか飛び降りるとは思っていなかった良太は、思わず振り返り、上を見た。

 良太の目に、それはスローモーションのように映った。

 五メートルの高さから、なんのためらいもなく飛び降りる少女。

 両手で押さえているけれど、風圧でめくれ上がるスカート。

 とす、と意外なほど静かな着地。


 着地するやいなや、目を座らせた少女は、両手を腰に当て、良太に言った。

 「見るなと言っただろう。お前、意外と…」

 「そっ、そんなんじゃないです! ごめんなさい!」

 「まあいい」

 え、いいの?

 少女は、拍子抜けする良太の横に立ち、ヘルメットを脱いで、木を見上げる。

 「いい木だな」

 「え? あ、はい」

 「茂り方がいい」

 「はあ」

 「幹も太いし」

 「ですね」

 「スカートも覗ける」

 「はい。え、あ、いや、それは」

 「美咲は、」


 不意打ちに、どくん、と良太の心臓が縮む。

 「美咲は、どうしてこんなにいい木を怖がるんだと思う?」

 どうしてって。

 決まってるじゃないか。怪獣の形が、恐いんだ。

 けれど、良太は答えない。

 少女も、答えを待たずに続ける。

 「何かが見えているのか、見えなくても感じているのか」

 「何かって…幽霊みたいなもの、ですか?」

 少女は、ちらりと良太を見た。

 「かもな。それを、調査していた」


 なんなんだこの人。なんなんだ。

 幼児が泣いてて、この木を怖がってるから、幽霊がいないかどうか調べてる?

 何のために?


 夏休みの、自由研究かな。中学生でも、自由研究ってやるのかな。

 宿題。そうだ、宿題しなくちゃ。算数、途中で放り出して、


 美咲!


 そうだ、すっかり忘れていた。美咲を家に置いてきたままだった。

 こんなに暑いのに。お昼ごはんも食べてなかった。帰らなきゃ!

 良太は走り出した。


 「あ、おい!」

 少女の声は、届かなかった。



   ◆



 「ただいまっ! 美咲っ!」

 家に飛び込んだ良太を迎えたのは、涙でぐちゃぐちゃになった美咲を膝に抱いた母だった。目を覚ました美咲が、母を呼ぼうと緊急ボタンを押したらしい。

 「良太…」

 無口な母は、言葉少なに良太を責めた。最後まで言われなくても良太には母の叱責が伝わる。

 「ごめんなさい…、友達のとこに行ってて…。美咲、ごめんな」

 美咲は、母の膝に顔をうずめてしまった。

 「お兄ちゃん、きらい。きらい。きらい」

 くぐもった声で、何度も繰り返す。


 仕方がない。

 僕は、美咲を護るために、出かけていった。

 仕方がない。

 あの木のところで、お姉さんに会って、帰りが遅くなってしまった。

 仕方がない。

 目が覚めたら、兄がいなかった。心細くなって母を呼んだ。

 仕方がない。


 だから僕は、お母さんに叱られた。

 仕方がない。

 だから僕は、

 美咲に、

 嫌われた。


 仕方がない。


 「美咲…、ごめんな」

 良太は、ぼそと言い残して、自分の部屋にこもってしまった。

 「お兄ちゃん、きらい」

 容赦のない美咲の声が、その背中に刺さった。


 結局、母はそのまま職場へは戻らず、美咲を連れて夕飯の買い出しに行った。


 僕は、ダメだ。

 あの木のことは何もわからず、

 お姉さんのことも何もわからず、

 中途半端に放り出して逃げてきた。

 帰ってきたら、

 これもまた中途半端に放り出しておいた妹に嫌われた。


 僕は、中途半端だ。

 子供なのに、妹を守ろうとか。

 子供なのに、お母さんを心配させないようにとか。


 幼い妹に、ちょっと頼りにされてるからって、いい気になって。

 保育園の先生たちにちょっとほめられたからって、いい気になって。


 結局、僕は、

 何もしてないじゃないか。


 良太は、壁際で膝を抱えたまま、窓から見える空を見ていた。


 夏の空は、夕方になってもまだ、ぎん、と白く明るい。

 ゆっくりと陽の力を弱めては行くけれど、

 昼の間にため込んだアスファルトの熱気と蝉の声が、

 少しずつ太陽と入れ替わるように、あたりに満ちてくる。


 いつの間にか、蝉の声に混じって、台所から包丁の音が聞こえてきている。

 いつもなら、母に構ってもらえない美咲が良太の所に来るけれど、今日はもちろん、そんなことはなかった。


 ──美咲のためを思って出かけたのに。


 良太は、理不尽に拗ねている自分がますます嫌になる。

 ずっと我慢していた涙がにじみ出てきたころ、母が部屋の戸を開けた。


 母は、黙って良太の頭に手を置く。

 反省している息子を、さらに追い込む母ではない。

 良太は、黙って頷き立ち上がる。

 許してくれた母に、いつまでも拗ねた顔を見せる息子ではない。


 食卓では、美咲が待っていた。

 大好きなコロッケを、泣きそうな顔で見つめている。

 良太は美咲に声をかけることが出来ず、小さく「いただきます」とつぶやいた。



   ◆



 翌朝、良太は母に起こされて目を覚ました。

 「美咲、今日は保育園に預けるから」

 良太の頭に置かれた手から、母の怒りは伝わってこなかった。美咲がそれを望んだのだろう。その証拠に、美咲はまだ良太の顔を見ようとしない。


 ──意外と執念深いんだな。


 「良太は、宿題もあるだろうし。ね」

 母親の気遣いが嬉しく、情けなく、恥ずかしい。

 やっぱり僕は、母を気遣っているつもりになっていただけだ。

 妹の面倒も、ろくに見られないくせに。


 「母さん、帰りは?」

 「昨日早く帰っちゃったから…、今日は遅いかも」


 じゃあ、僕が美咲を迎えに行かなくちゃ。

 それまでに、機嫌直してくれてればいいけど。

 …勝手だな。機嫌直して、って、僕が悪いんじゃないか。


 良太はそれでも、美咲に笑顔で手を振り、いってらっしゃいと見送った。

 美咲は、また、泣きそうな顔をしていた。


 静かになった家の中で、良太は一人、朝ごはんを食べた。

 トーストにマーガリンを塗るときのカリカリという音、

 牛乳が喉を通るときの音、


 静かな部屋の中で、良太はその音の意外な大きさに、今さら気づいた。一人なんだな、と思い知らされる。のろのろと朝食を終えると、良太は家を出た。あてはないけれど、ひと気のない家は寂しくてしかたがない。

 良太は、とぼとぼと歩きながら考えた。


 これから、どうしたらいいんだろう。

 美咲と、元通り仲良くするには。

 美咲に、頼りにされる兄になるには。

 母に、頼りにされる息子になるには。


 決まってる。あの木のこと、あのお姉さんのことを明らかにする。それしかない。

 良太は、怪獣の木に向かった。


 怪獣の木がある、広い空き地の前に立つと、良太はあたりを見回した。

 また、突然声をかけられるかもしれない。昨日は、みっともなくたじろいでしまった。

 でも、

 今度は、

 負けない。

 正面から立ち向かって、聞き出してやるんだ。

 あの木のことを。

 美咲に会って、何をするつもりなのかを。


 一歩進むたびに、ジャリが音を立てる。その都度、良太のとがった神経が、ぴり、と響く。

 良太は木を見つめる。その葉の隙間から逆三角形の目が覗いていないか。


 木の根本まで来ると、良太はいるのかどうかわからない相手に声をかけた。

 「お姉さん、いますか」

 お姉さん、という呼び方はどうかと思う。

 いますか、という問いかけもどうかと思う。

 これから、対決、しようとしている相手に。

 けれど、名前は知らないし、年上だし。


 いずれにしろ、少女はいないようだった。

 良太は神経をとがらせたまま、木の根本にあぐらをかいて座った。


 ──ここはやっぱり気持ちいいな。


 陽は遮られ、風は通り、適度な木漏れ日のゆらぎは見ていて飽きない。

 良太は、少女を、待った。



   ◆



 不覚にも、うとうとしていると。

 じゃり、という音に、良太は目を覚ました。


 ──来た?


 良太は顔を上げた。

 その視線の先に、少女がいた。


 今度は驚かない。今度は負けない。そう誓っていた良太だったが、

 思わず、ぽかんと口を開けてしまった。


 セーラー服に、黄色い安全+第一のヘルメット。これはいつも通り。

 逆三角形の目に不似合いなスニーカーも、いつも通り。

 しかし、

 右肩に担いだ頑丈そうな三脚と、左手に提げた大きなバッグ。


 ──何を、する、つもりなんだろう?


 あっけにとられている良太に気づくと、少女はいったん立ち止まったが、構わずに歩き始めた。

 良太は座ったまま、少女を睨む。少女は良太と視線を合わせたまま、ずんずん進む。

 とうとう、1メートルの至近距離で、2人は向かい合った。

 良太は少女を睨み続けている。少女は何も言わない。

 少女はバッグを降ろした。どさ、と重そうな音がした。肩に三脚を担いだまま、バッグのファスナーを開け、直径20センチほどの円盤状の巻き尺を取り出した。

 巻き尺を引き出し、先端を良太に突き出す。


 良太は、わけがわからないながらも、その先端をつかむ。それを確認すると、少女は巻き尺をのばしながら木から離れていった。


 ──なんで、ごく自然に手伝わされてるんだ。


 「しっかり持ってろ」

 少女がまるで叱るように言う。その言葉には圧力があり、逆らえない。


 少女は10メートルほど離れると、そこに三脚を立て、巻き尺を巻き取った。

 三脚に乗せられた望遠鏡のような物で、木を見上げる。


 さすがに、良太は気になってきた。

 「あの」

 少女はノートに何かを書き込みつつ答えた。

 「何だ」

 「何して…るん…ですか?」

 敬語を使うことに多少抵抗はあるけれど、ため口にはもっと抵抗があった。

 「木の高さを測っている」


 良太は、今度も驚いた。まさか、ちゃんと答えてくれるなんて思わなかった。

 「距離と、角度がわかれば、木の高さがわかる。学校で習わなかったか」

 「習った…かも」

 「12メートル30センチ、と」

 少女は良太の質問に答えてくれたけれど、それで何かがわかったわけでもない。

 「木の高さを測って、それで、どうするんですか?」

 今度は、少女は答えない。


 これだ。

 都合の悪いことには答えない。意地悪だ。


 しかし、少女の胸の内は、良太の考えていることとは少し違っていた。少女は少し間をおいて、ためらいがちに、答えた。

 「…まだ、わからない。ひょっとしたら、何もしないかもしれない」

 良太には、理由はわからないけれど、少女の行動の鍵になるものが見えてきた。

 「美咲、ですか?」

 少女は黙ってうなずく。良太は、やっぱり、と歯がみをする。

 「美咲には、会わせません。お姉さんみたいな、その、恐い、あの、顔の、ええと」

 だんだんしどろもどろになってしまう。さすがに、本人に向かって「お姉さんみたいな恐い顔の人」とは言いにくい。

 良太の言いたいことは伝わったはずだが、少女は気にも止めず、黙々と作業を続けていた。木から空き地の端までの距離や、木の枝の広がりの幅を測っている。

 どうも事態が進展しない。良太にはいろいろ聞きたいことがあるけれど、なかなか聞き出せない。たとえ聞きたいことを箇条書きにして読み上げても答えてくれないだろうと思えたし、だからといって相手にうまく答えさせるような話術を、良太は持っていない。

 どうしよう、どうしたら。

 良太が困り果てていると、少女が手を止めて口を開いた。

 「恐いか」

 「え?」

 「わたしが恐いか」


 何を今さら。悪魔と般若の中間みたいな目つきで「恐いか」なんて、ええと、愚問、だ。かといって、「恐い」と答えるのもシャクだし。

 「美咲が、怖がってるんです」

 我ながら、うまい回答だ。

 「スニーカーは、かわいいとは思わないか」

 「そりゃ、まあ」

 「セーラー服も、かわいいだろう」

 「服は、まあ」

 「パンツも、かわいかっただろう」

 「確かに。…え、あ、いや、そんな」

 良太は慌てて取り消そうとしたが、そんなことは気にも留めず、少女は作業を続けている。

 けれど少女は、少し肩を落としているように見えた。

 そのまましばらく作業を続けていたけれど、


 「今日はもう、終わりだ」

 突然そう言い出して、後かたづけを始めた。巻き尺や水平器、望遠鏡のような物、ボタンがたくさんある機械。どかどかどかと、バッグに詰め込む。

 それが終わると、少女は三脚を肩に担ぎ、良太に言った。

 「それ、よろしく」

 良太は、少女があごで指した先に視線を移し、そこに大きなバッグがある事を見つけると、当然の事だけれど、


 「──え?」

 と聞き返した。

 「よろしくって、何?」

 「何って…、わたしがこんな大きい荷物を持てるわけないだろう。女の子だぞ?」

 来るときは自分で持ってきたじゃないか、という良太の反論は、最後まで聞いてもらえなかった。そのかわり、少女は良太の肩にバッグをかけた。そして、黄色いヘルメットを脱ぎ、良太にかぶせた。


 ふわ、と花が香る。

 初めてこの少女に出会ったときと、同じ香り。温かくて、柔らかくて、ちょっと切なくて。

 良太が、ぼう、としている間に、少女は歩き始めてしまった。良太は慌てて後を追う。そんな義理はないのだけれど、完全に主導権は少女にあった。

 「ちょっと、待ってよ」

 もちろん少女は、待たなかった。



   ◆



 重い荷物を抱えてよろよろと追いすがる良太を、少女は振り返ることもせず、歩き続けた。

 良太の全身から、汗が噴き出る。陽はだいぶ傾いたけれど、それは焼くような気持ちいい暑さではなくて、蒸すような苦しい暑さを良太にもたらした。

 「どこまで歩くんだよう、ちょっと休ませてよ」

 とうとう良太が弱音を吐くと、少女はジュースの自販機の前で立ち止まった。

 良太はその場でへたり込み、うずくまる。がこん、とジュースが落ちる音がする。


 ──お小遣い持ってくればよかったな。


 良太が恨めしそうな顔を上げると、そこに少女がいた。炭酸飲料の缶を差し出している。

 あっけにとられている良太に、少女は缶を押しつけた。

 「手伝わせているんだからな。これくらいの礼はする」

 良太は、恐る恐る缶を受け取る。缶の冷たさと、結露の潤いが良太を生き返らせた。

 「あ…、ありがとう」

 「うん」

 しかし、良太が缶を開けようと指をかけたとき。

 「ただし、」

 思わず良太の手が止まる。

 「その缶、思いっきり振ってある」

 「え?」

 良太は缶を眺めた。間違いない、炭酸飲料だ。じゃ、どうして振ったりしたんだろう? 飲めないじゃないか。

 良太の気持ちを見透かすように、少女は言う。

 「目の前にジュースがあるのに飲めない。悔しいだろう」

 「そりゃ…悔しいよ。なんでこんなことするんだよ」

 少女は、良太の隣にしゃがみ込む。

 「わたしも、悔しい」

 「はあ?」

 わけがわからないことをいう少女に良太がとまどっていると、少女は良太からジュースの缶をもぎ取り、フタを開けた。わ、と良太がよけようとしたけれど、ジュースは吹き出さなかった。

 少女はジュースをひと口飲むと、何事もなかったように良太に返した。そして、もう一度つぶやく。

 「わたしも、悔しい」

 良太は、極めて平静なふりをして、飲み口に口を付けた。内心は、口から飛び出た心臓がそのままぴょんぴょんと跳ねていってしまいそうなほどだったけれど。


 良太がジュースを飲み干すと、少女は立ち上がった。

 「もう少しだ。行くぞ」

 「あ、うん」

 ジュースをもらったからというわけではなくて。一本のジュースを分け合ったからというわけではなくて。

 良太には、だんだん、この少女を避ける理由がなくなってきた気がしていた。

 もとより、今日はすべてを明らかにするくらいのつもりで来ていたんだし、こうなったら最後までつきあってやろうじゃないか。意気込んではみたけれど、どちらにしろ、このバッグを運び終えるまでは自分が解放されないであろう事は、よくわかっていた。


 神社の横を抜けると、田んぼが広がっていた。田んぼに挟まれた道を百メートルほど行くと土手がある。さすがに土手を登るときは、少女がバッグを運ぶのを手伝ってくれた。

 良太がここまで来るのは久しぶりだった。来たところで特に何があるわけでもないし、何より普段から川に近づいては行けないと、学校の先生や母に言いつけられていた。けれど、久しぶりに眺めた土手からの眺めは、


 なんて、きれいなんだろう。

 左手の上流には金色の空、

 右手の下流には紺色の空。

 川の流れに沿って水面を見渡せば、

 いつ色が変わったのかわからないくらいに滑らかな、

 金から紺へのグラデーション。

 対岸の土手を走る人と、

 その足下に添う犬のシルエット。

 「何もないから」と近寄らなかった景色は、


 なんて、きれいなんだろう。


 良太が景色に見とれているから遠慮したのか、少女は少し小さな声で、

 「あそこだ」

 と、土手の下、少し先の木を指さした。その根本に、小さなテントがぽつんと置いてある。

 「あそこって…あのテント?」

 「そう」

 「あそこに住んでるの?」

 少女は少しむくれたような顔をした。

 「住んでるわけじゃない。一時的に、寝泊まりしているだけだ」

 つまり、住んでるんじゃないか。

 良太は少女を追って、テントに向かった。



   ◆



 キャンプ場でもないところに建っているテントというのは、不気味で、近寄りがたい。まともでない人物が住み着いている可能性が、高い。良太は心の中で、「この場合も当てはまる」とつぶやいた。

 テントには生活臭はない。キャンプのような華やかさもなく、ただ夜露をしのぐだけという感じだった。

 良太はテントのわきにバッグを置いた。体が浮くように軽く感じられた。


 さて。


 どうやって、きりだそう。

 ここまで来たからには、根掘り葉掘り、全部聞き出してやる。なぜ怪獣の木のことを気にするのか、なぜ美咲に会いたがっているのか、なぜこの町に来たのか、なぜテントで暮らしているのか、なぜ重い荷物を持っているのか、なぜ黄色いヘルメットを被っていたのか、


 ――聞くことが多すぎる。


 良太は、迷った。いきなり核心を突くべきか、いろいろ話しているうちにだんだん核心に迫るべきか。

 その迷いを引き継ぐように、少女が口を開いた。

 「何から、話したらいいかな。とりあえず、何が聞きたい? 美咲のことか?」

 良太は、うなずいた。少女もうなずき返して、続ける。

 「あの、怪獣の木、だけどな、美咲は、本当にあの形を怖がっているのかな」

 「そりゃ、怪獣、怪獣って泣いてるんだし。…あ」

 けれど、


 昨日、美咲は、怪獣の絵を描いて遊んでいたじゃないか。いいかいじゅうだからこわくない、と。

 「わたしはな、」

 良太の表情に答えを見つけたように、少女は言う。

 「美咲は、わたしやお前には見えない物を見ているんじゃないか、と思うんだ」

 「見えない物?」

 「わたしにも見えないし、見た記憶もないが…、確かに、子供にしか見えない物はある、らしい」

 何を言ってるんだろう? 子供にしか見えない物? だって、

 「僕だって、子供だよ」

 「そうか? 妹の面倒を見て、母親を気遣える男を、わたしは子供だとは思わない」

 少女の言葉には、まるでそれが当たり前であるかのように、ためらいがない。ためらいがないからこそ、その言葉は良太をうつむかせた。

 「駄目だよ。僕はお母さんが優しいからって、甘えてるだけなんだ」

 「一人で生きることができるかどうか、ではない。人と共に生きられるかどうかだ」

 少女は良太に向かい合った。

 良太は、何も答えられない。人と共に生きられるかどうか――。その答えを出すのは、良太には、難しすぎる。

 「…何かあったのか?」

 好奇心やお節介ではない。少女は、本気で良太を、良太と妹の仲を心配している。それがわかったから、良太は、

 何も言えなかった。自分で解決しなければならないこと、それを知っていたから。だから良太は、


 「…なんでもない」


 とだけ、答えた。



   ◆



 「僕、もう行かなくちゃ。美咲、迎えに行かなくちゃ」

 良太は逃げるように帰ろうとしたけれど、立ち止まった。最後にもう一つ、聞いておきたいことがあった。

 「あの…、お姉さん、名前聞いてもいい…?」

 「…わたしか?」

 少女は、わかりきっているくせに、なぜかもったいぶるように聞き返す。良太は不自然な緊張感に包まれる。

 そして少女は、ゆっくりと、口を開いた。


 「わたしの名は…、タンゲバル」


 良太は、ぎょっとして、タンゲバルと名乗る少女を凝視した。

 なるほど、威圧感のある逆三角形の目には、タンゲバルという名がよく似合っている。

 彼女の口から低く轟いた、およそ人間らしくない、悪魔のような名前。どこの国の人だろう? いや、それ以前に、


 そうだ、この人は、

 人間、なんだろうか?


 おののく良太に、少女は続ける。

 「…何を考えているか、だいたいわかるが」

 「え?」

 「仁丹の丹に下、原っぱの原とかいて、たんげばる、と読む。日本人だ」

 良太は、手のひらに「丹下原」と書いてみた。

 「め…珍しい名字、だね」

 「そのかわり、下の名前は単純だ。花子という」

 逆三角形の目の上辺が、わずかに弧を描いた。笑ったのかもしれない。


 少女がとりあえずは人間らしいことを知った良太は、少し安心した。

 「それで…、えと、花子さん、」

 名前で呼んでいいものかどうか、上目遣いで花子を見る。

 もちろん、花子はそれを咎めない。

 「花子さんは、美咲に何が見えるか、それを知ってどうするの?」

 花子は川の上流を見た。

 すでに陽は、彼方の街並みに沈んで行こうとしている。

 花子の視線を追おうとして、良太は眩しさに目を細める。

 沈む夕陽、花子のシルエット。

 良太は、その姿に引き寄せられるように、花子の横に立つ。見上げる彼女の横顔が、夕陽に照らされている。


 ──きれいだな。


 良太が人の姿をきれいだと感じたのは、これが初めてだった。何も考える事ができず、ただ見つめてしまう。不思議なくらい鼓動が早くなっている事にさえ、良太は気づかなかった。


 ──花子という名前、単純につけたんじゃない。きっと、花のように…。


 え。


 気がつくと、花子は良太の顔を見下ろしていた。

 「人の顔をじろじろ見るもんじゃない」

 「ごっ、ごめんなさい」

 「美咲に、会わせてくれ。一度でいい。危険はないし、それに…」

 花子は言い淀んだ。

 「それに?」

 「それに、これは、人助け、なんだ」

 自分を納得させるように、言い聞かせるように。そして、なんだか悲しそうに。

 良太は、答えを出さずに走り出した。


 結局、何もわからなかった。それどころか、謎が増えた。

 人助け? どうして? 何が? 本当に人助けなら、どうして悲しそうに言うんだろう?

 わかったのは、あのお姉さんの名前――たんげばる、だっけ。丹下原花子。

 何のヒントにもならない。


 良太は、

 息を切らして走った。

 花子から、逃げるように。

 花子の横顔を、思い出さないように。


 けれど良太は、

 なかなか、夕日に照らされた花子の横顔を忘れることができなかった。



   ◆



 「べつに、ぜんぶ押しつけるつもりじゃないの」

 無口なはずの母は、正座をさせた良太の前で同じように正座をして、長々と説教を続けていた。

 結局、良太が保育園に着いたときには、母が美咲を連れて帰っていたのだった。

 「お友達と遊びたいときには遊んでいいし、」

 良太は、ただ黙って下を向くしかなかった。

 「夏休みの宿題だって、あるだろうし」

 美咲は、離れたところから見ている。まだむくれているようだった。無理もない、迎えに来るはずの兄が、いつまで経っても来なかったんだから。


 ああ、お母さんに叱られているところなんて、見られたくなかったな。


 でも、仕方がない。

 僕があのお姉さん――花子さんのところに行っていて、美咲を迎えに行かなかったんだから。

 叱られるのは当たり前だし、美咲もきっと、

 怒ってるんだろうな。


 「良太? 聞いてるの?」

 「あ、はい。…ごめんなさい」

 「美咲、ずっと待ってたんだからね」

 いつもはこんなにねちねちと怒ったりはしないのに。どうして今日は、正座までさせて。

 情けない。僕は、情けない。叱られて、情けない。妹に見られて、情けない。


 そのとき、

 美咲が良太に駆け寄ってきた。良太をかばうように、良太に飛びつく。

 「お母さんダメ! いじめないで! お兄ちゃんかわいそう!」

 「え、ちょっと、美咲」

 母は美咲に、少し強く言う。

 「美咲、お兄ちゃんはね、美咲を迎えに行くって言ってたのに、行かなかったのよ?」

 「いいの! せんせいと遊んでたから、いいの!」

 母はため息をつく。そしてあっさりと立ち上がり、

 「じゃ、晩ごはんにしましょう。すぐ支度するから待っててね、お兄ちゃん」

 お兄ちゃん、とわざとらしく呼ばれたことで、良太にはすべてわかった。

 母は僕を叱っていたんじゃなくて、


 意地になっていた美咲の心を、少し素直にさせるために。


 やっぱり、僕は子供だな。でも、


 良太は、すがすがしく笑う。

 一人で生きることができるかどうか、ではない。人と共に生きられるかどうかだ。

 「美咲、ありがとな。助かったよ」

 美咲は、正座している良太の膝に覆い被さるように抱きついたまま、かぶりを振った。

 「お兄ちゃん、かわいそうだったもん。お母さん、おっかなかった」

 「そうだね、お母さん、おっかなかったね」

 「おっかなかった!」

 「うん、おっかなかった!」

 すっかり仲直りした兄妹は、強大な敵に立ち向かった自分たちを褒め称えるように、小躍りしてはしゃいだ。

 母は、その様子に苦笑しながら、揚げ上がったコロッケを皿に盛った。

 二晩続けてコロッケというのは、料理好きな母にとってはつまらない。けれど、


 ゆうべのコロッケは、きっと、しょっぱかったから。

 「さあ、ごはんにしましょう」

 母のいつも通りの呼び声に、兄妹はいつも通り食卓についた。


 「そうだ、」

 3個目のコロッケに手を出しながら、良太は美咲との約束を思い出した。

 「美咲、明日、遊園地に行こうか。お母さん、いいでしょ?」

 駅前からバスで20分ほどの所にある市営の遊園地は、美咲にとってはこれ以上ないくらいに楽しいところだ。美咲は、良太に連れて行ってもらう約束を忘れていたこともあって、大はしゃぎした。

 「気をつけてね」

 すっかり仲直りした二人に、母は静かに微笑む。


 明日は、夏休みに入って初めて、楽しい日になりそうだ。



   ◆



 翌朝、良太と美咲は、分かれ道の前に立っていた。

 遊園地に行くなら、駅のある右の道へ。そのことは美咲も知っているから、そこで立ち止まった良太に不思議そうな目を向ける。

 「お兄ちゃん、はやく行こうよ」

 「う、うん…」

 良太は、美咲に引かれて駅へと歩き出した。


 花子さんは、今日もあの木のところに来るだろうか。

 来るだろう。彼女はそのためにこの町にいるんだろうから。

 花子さんは、今日も美咲を待っているだろうか。

 待っているだろう。彼女は、美咲に会わせて欲しいと言った。


 僕は、美咲を、花子さんには会わせない。

 それは、正しいんだろうか。

 花子さんは、人助けだと言った。

 僕はそれを、人助けを邪魔しているんだろうか。

 ひょっとして僕は、酷いことをしているんだろうか。

 花子さんが助けようとしている誰かを、見捨てようとしているんだろうか。


 良太は、はしゃぎながら先を行く美咲を見つめる。

 美咲にしか見えないもの、

 美咲にしか助けられない人、

 もしそれが本当にあるのなら。

 僕は、どうするべきなんだろう。


 いくら考えても、答えは出てこない。答えを出すための材料が、少なすぎるから。答えが出ないなら、


 そうだ、今日は楽しもう。美咲と、遊園地で、夕方まで。

 良太と美咲は、バスに乗った。


 はしゃいで大声を出す美咲を軽く叱る。

 バスが停まるたびに、あといくつ、あといくつと訪ねる美咲に閉口する。

 やたらと降車ボタンを押したがる美咲の小さな手を押さえつける。

 それらすべてが、美咲にとっては楽しく、良太にとっては幸せだった。

 だから、遊園地までの20分は、あっという間に過ぎた。


 遊園地と言っても、ここは市営の小さな公園のようなものだ。ジェットコースターはあるけれど、小さな子供向けだから、良太くらいの少年には刺激がない。それでも、ヤギやヒツジ、ウサギとふれあえる一角もあったりして、子供にも親にも、それから良太のように妹や弟を連れてくる兄にも、とても評判のいい遊園地だ。

 美咲は、最初にジェットコースターに乗りたいと言った。美咲は恐がりのくせに、こういう乗り物が好きだ。

 良太は、たいした勾配でもないのに大げさに歓声を上げたりして、美咲と一緒になってはしゃいだ。二人の気分が同調すると、その相乗効果でよりいっそう楽しくなる。良太は、ほんとうに久しぶりに、何も考えずに楽しんでいた。


 午後になり、いよいよ勢いを増してきた太陽を見上げながら、良太は「次は何をしようか」と考えていた。

 今日は美咲を連れてきたつもりだったけれど、


 なんか、僕のほうが楽しんでるみたいだ。


 良太は少し照れくさくなって、ベンチに腰掛けて帽子を深くかぶり直した。

 帽子のつばの下から、美咲がいたずらっぽくのぞき込む。

 「ちょっと疲れたから、休ませてよ」

 弱音を吐く兄に、美咲は、しょうがないなあ、とベンチに座った。


 子供たちの歓声と、安っぽい音楽、蝉の声が入り交じって、ここはかなり賑やかだ。けれど、とても気が休まる。肌はじりじりと焼かれて、


 日焼け止め持ってこなかったから、たぶん、帰ったらお母さんに叱られちゃうな。でも、


 夏の陽に焼かれるのは、とても、心地良い。


 足をぶらぶらさせている美咲を見ると、その目は、向こうでジュースを飲んでいる子供を追っている。

 美咲は、のどが渇いているんだろう。けれど、こういうとき、美咲が自分からねだることはない。もっとはっきり、自分のしたいこと、欲しい物を言ってくれるといいんだけどな。良太は、ポケットから財布を取り出しながら、言った。

 「美咲、お兄ちゃん、のど乾いちゃった。ジュース買ってきてよ」

 「うん!」

 「美咲も、何か欲しかったら買ってきていいからね」

 お小遣いは、母から預かっている。

 「…ソフトクリームでもいい?」

 う。それはちょっと高い。

 「ええと…、まあ、うん、いいよ」


 やっぱり僕は甘い。いいんだ、しつけは母さんに任せるんだ。

 下手なスキップで売店に向かう美咲を見送りながら、良太は苦笑いした。



   ◆



 夕方までたっぷり遊んだ二人は、公衆電話で母にこれから帰ることを伝えた。

 遊園地から出る時には連絡すること、寄り道しないで帰ること。母のいいつけは、これだけだった。市営遊園地は夕方には閉まってしまうので、この約束を守れば、帰りが遅くなることはないから。


 夏の夕日はとてもゆっくり降りて行く。

 誰も気づかないくらい緩やかに暮れて行く空に、決して追い立てられることもなく、

 バスから眺める町は、のんびりと夏の暑い夕暮れを楽しんでいる。

 良太は、遊び疲れて眠ってしまった美咲が倒れないように肩を支えながら、さっきまでの美咲との話を思い出していた。

 遊園地へ行くという約束を覚えていてくれて、うれしかった、と。


 そして、母との約束。帰るときは電話すること、寄り道をしないこと。


 良太には、

 もう一つ、

 気になる約束があった。


 約束、したわけではないけれど、

 美咲に会わせてくれ、という花子の頼みに答えを、


 出さないまま、

 僕は逃げた。


 約束をしたわけじゃない、けれど。

 逃げるのは、もっと卑怯じゃないだろうか。


 そして何よりも、花子さんは、僕の答えを待っている。それは、

 約束と同じ事だと思う。


 良太は、バスを降りると、何も言わずに美咲の手を引いて歩き出した。

 美咲は目が覚めたばかりで、ぼんやりとしている。手を引かれるまま、歩いている。

 そして良太は、


 立ち止まる。

 左へ行けば家、右へ行けば怪獣の木がある空き地。

 そして良太は、


 美咲の手を引いて、右の道を選んだ。

 「お兄ちゃん? おうちはあっちだよ。帰らないと、叱られるよ」

 「うん、ちょっとだけ。ね」

 そうだ。

 お母さんとの約束も大事だけれど、

 花子さんが、人助けをするというのなら。


 それを手伝うのだって、大事だ。帰りが少し遅くなっても、バスに乗りそこねたとか、少しくらい言い訳できる。ちょっと、会わせるだけ。それだけだから。


 「かいじゅうの木…」

 美咲が不安そうに良太にしがみつく。

 「大丈夫だよ、今日は」

 本当は、もっと恐い、逆三角形の目の花子さんがいるのだけれど、それはあえて言わない。良太は、自分がずるくなったような気がしていやだった。


 空き地の前に出ると、


 そこに広がっていたのは、異様な光景だった。



   ◆



 空き地の真ん中、怪獣の木から10メートルほど離れた所に発電機が置いてある。その横には簡易テーブルがあり、いくつものダイヤルやメーターが付けられた操作盤が乗せられていた。

 操作盤からは1本の太い電線が怪獣の木の先端まで続いており、そこから何本かに分かれた電線が、クリスマスツリーの飾り付けのように、木を何重にも巻きながら地上まで下りている。その途中からはさらに電線が分かれていて、それらは傘を広げたように斜めに張り出し、木の周囲の地面に突き刺された金属製の杭に繋がっている。


 そして花子が、電線の張り具合を確かめていた。


 「来てくれたか」

 花子は良太たちに気づいた。

 美咲が、良太の背中に隠れる。良太は、何を言っていいかわからなかった。だいいち、ここに来たことが正しかったのかどうかさえ、まだ迷っていた。

 おびえる美咲に、良太は優しく語りかける。

 「大丈夫。僕、あのお姉さんとお友達になったんだ。恐くないよ」

 恐くないよ、と言われてその恐怖を打ち消せるほど、花子の目つきはぬるくない。美咲は警戒したまま目だけを出して花子を覗いたけれど、やっぱりまた隠れてしまった。


 「美咲」

 花子の呼びかけに、美咲は体を硬直させる。

 もうちょっと優しく呼びかければいいのにな、と良太は苦笑する。

 花子は、構わず問いかける。

 「美咲、あの木が恐いと言ったな」

 だから、もうちょっと優しい言葉遣いにすればいいのに。

 「…うん」

 美咲は恐いながらも“お兄ちゃんのお友達”に答える。

 「どうして恐いんだ。怪獣が嫌いなのか」

 「ううん」

 良太の鼓動が、強く、早くなる。僕の見えない物を見ている美咲。

 「…怪獣の周りの、光ってるやつが恐いのか?」

 光? あの木の周りに?

 良太は木を見上げた。もちろん、良太にはただの木に見える。それが、美咲には、

 「うん」

 「どんな光だ? 四角? 星?」

 良太には、わかった。

 花子は、自分には見えなくても、知っている。美咲が、何を見ているのか。それはたぶん、花子が今までにも同じことを、彼女の言う「人助け」を、何度もしているから。

 美咲が、良太の陰から顔を出した。木をじっと見て、つぶやく。

 「…丸いの」

 「いくつくらい?」

 「いっぱい」

 花子は、納得したように木を振り返った。

 そして美咲に、最後の質問をする。

 「光、だけか? 他に何か、いないか?」


 いないか? って…、その訊き方はつまり、人のようなもの、がいないか、ということだろうか。

 あの木の下に、幽霊、が…?


 「いる」

 美咲の、普段よりも確かに低い声に、良太は震えた。

 「み、美咲…、いるって…、なに、が?」

 「…わかんない。ボールがじゃまでよく見えないの」

 美咲はそう言うと、良太の背中にしがみついて、完全に良太の陰に隠れてしまった。

 花子はその様子を見て、さっきまでよりも少し穏やかに言った。

 「美咲、ありがとう。もう大丈夫だ。あの恐いのは、わたしが消してやる」

 「…ほんと?」

 美咲は、けれど、顔を出さずに弱く答える。



   ◆



 「ちょっと、待ってよ」

 自分だけが何も知らず、何も見えない良太は、美咲を背にかばったまま、花子に問う。

 「大丈夫って、これから何をするの? それから…、美咲に見えてるものって、…なに?」

 花子は、しばらく沈黙した後、話し出した。

 「古い大きな木には、」

 ただしそれは、良太の問いへの直接的な答えではない。

 「たくさんの想いが集まるものだ」

 良太には、花子の話すことが理解できない。けれど花子は構わず、感情を見せずに独り言のようにつぶやき続ける。

 「想い、願い、祈り、思い出。木にはそういったものが集まる。人は古来から、木に寄り添って生きてきたから」

 「ひょっとして、それが美咲の言ってる、光、ってこと?」


 ――なかなか賢いな。


 花子は良太の飲み込みの早さがなんとなく嬉しかったけれど、彼女の表情からはそれが読み取れない。

 「そう、想いというのは、魂のカケラみたいなものだからな。それがいくら集まっても危険はないが…」

 「ない、が?」

 花子は黙ってしまう。良太は、その沈黙に答えを探す。

 「想いと一緒に、幽霊がいる、ってこと?」

 「幽霊じゃない」

 即座に否定する花子に、良太は少し安堵した。けれど、

 「じゃあ、なんなの?」


 「この近所にな、おばあさんがいる」

 花子は、また良太の問いに直接の答えにならない話を始めた。良太には、花子がより話をわかりやすくするためにそうしていることがわかってきていたし、花子は、多少遠回りをしても良太は最後まで話を聞いてくれるとわかってきていた。

 「もうだいぶ弱っていて、この夏を乗り切れるかどうか、といったところだ」


 遠くに住んではいるけれど元気な祖父母を持つ良太に、老人の死は、理屈の上でしか理解できていない。寂しくて、悲しくて、ぽっかり穴が開くこと。遺される者の気持ちはなんとなくわかるけれど、去る者の気持ちは、いくら想像しても実感できるものではなかった。


 「そのおばあさんがな、」

 花子は、良太の視線を誘い、木の方に向ける。

 「あの木に、強い想いを残している。その想いを解き放ち、おばあさんが心おきなく去れるようにする。それが、わたしの仕事だ」

 良太には、花子の声がだんだん小さくなった理由がわからなかった。

 「じゃあ、人助けっていうのは…、そのおばあさんのため?」

 「そうだ」

 良太は、昨日とは違う理由で、花子の横顔を見つめた。

 昨日は、きれいだな、と見とれてしまった。でも今日は、


 悪い人じゃなかった。――顔は恐いけど。

 これからこの世を去ろうという人を救う。なぜ、とか、どうやって、ということはわからないけれど、それはたぶん素晴らしいことなのだろう。

 花子さんは、悪い人じゃなかった。――顔は恐いけど。


 でも、

 それならどうして、花子さんは、


 あんな――、後ろめたそうな表情を、しているんだろう。


 「それで、想いを解き放つって、どうやって…?」

 花子は、触れて欲しくないところに触れられた動揺を隠せない。決して良太に目を合わせようとはせず、

 「とても、酷いことをする」

 と、つぶやいた。

 「え?」

 酷いこと?

 「あの木に、ある種の電流を流す。そうすれば、想いは消える」

 「ふーん」

 良太は、よくわからないけどそうなんだろう、と軽く相づちを打つ。

 「もう帰っていいぞ」

 そんな言い方はないだろう、と思うけれど、そろそろ帰らないと母さんに叱られてしまう。良太は美咲の手を引き、家に向かった。美咲、ありがとう、という花子の声が聞こえてきたが、


 ――僕には一言もなしか。


 美咲は役に立った、らしい。

 花子さんの目的も、わかった。

 あの木に、僕には見えないけれど何かがいて、それはもうすぐいなくなるんだろう。

 僕にとっては何も変わることはない。

 美咲は、もうあの木を怖がらなくなるのかな。

 花子さんには、もう、会わないのかな。


 僕は、

 結局、何もしなかった。

 花子さんにおびえて、

 重い荷物を運ばされて、

 ジュースおごってもらって、

 美咲を連れてきて。


 明日からは、普通に、夏休みを過ごそう。


 良太は、美咲を背負って家へと急いだ。

 今日の美咲は、いつもより少し重く感じた。



   ◆



 もそもそと晩ごはんをたべる良太に、母は首をかしげた。

 けれど、たぶん遊び疲れているんだろう、くらいにしか思わなかった。

 美咲は、こんなにはしゃいでいるのに。母は、対照的な兄妹の様子を楽しみながら、美咲の延々と続くおしゃべりにつきあっていた。


 想いを解き放つ。

 花子さんは、そう言っていた。

 それが、人助けだ、と。

 この近くに住んでいるおばあさんのためだ、と。


 僕には、よくわからない。

 わからない、けれど、何か、


 何か、


 胸の奥のほう、端っこではなくて、真ん中のほうに、

 大きな石が詰まっているような、


 いやな、いやな、いやな気分。

 僕は、このまま、ぜんぶ忘れてしまって、いいのかな。


 「やくそくだよ」


 そう。約束。


 「お兄ちゃん」


 そう。僕と、美咲の。


 「良太?」


 そう。僕と、母さんの。


 約束。それは、


 「お兄ちゃんってば」

 「え」


 気がつくと、美咲が横に立っていた。良太の腕にしがみつき、心配そうに見上げている。

 「良太、どうしたの?」

 「ああ、ええ、なんでもないよ。ちょっと、ぼうっとしてただけ」

 「お兄ちゃん、また遊園地連れて行ってね」


 ああそうか。

 約束だ。

 また遊びに行こう。そうだ。

 「そうだね、また行こうね」

 「やったー! やくそく!」


 目の前に突き出された美咲の小指を見つめて、良太は思う。

 美咲は、この細くて小さな一本の指に、何を託すのだろう。

 小さな、小さな、小さな、小指。

 それで何を信じ、何を願うのだろう。


 小指と小指で交わされた、約束。

 それは思い出の、最初の切れはし。

 降り積もった想いの、いちばん底でいつまでも温められて。

 やがて花が咲くように、実を結ぶように。

 約束は咲き、いくつもの思い出をたわわに実らせる。



 とても、酷いことをする。



 花子さんは、そう言っていた。

 良太には、その意味が、今わかった。

 願い。約束。記憶。想い。

 それは、人と人を、いつまでも繋ぐものだ。

 大切な人を信じ、

 大切な人を想い、

 大切な人を慈しみ、

 そしていつまでも、大切な人と、共に。


 良太は、


 家を飛び出した。

 僕は馬鹿だ。どうしてすぐ気がつかなかったんだ。想いを消す。それがどんなに酷いことか。花子自身は、それを隠そうとは決してしていなかったのに、どうして僕は、気がつかなかったんだ。僕は、僕は、馬鹿だ。



   ◆



 良太が全力で走っているころ、花子はまだ空き地にいた。

 配電盤のいくつかのスイッチを入れ、ダイヤルを慎重に回す。ぶうん、と唸るような音に神経を集中し、徐々に電圧を上げてゆく。やがて、木がうっすらと青く光り出す。花子はさらに慎重に、別のダイヤルを少しずつ少しずつ回す。そこに、

 良太が駆け込んできた。わあっ、とわめきながら、花子にはわき目もふらずに木に突進する。

 花子は慌てた。

 「なっ、待てお前、おい!」

 そう叫びながら、主電源を切った。直後、良太は木に巻き付けられた電線を狂ったように引き剥がした。花子は安堵した。もう一瞬、スイッチを切るのが遅ければ、良太は真っ黒に焦げてしまっただろう。花子は、叫びながら暴れる良太を、呆然と見つめた。


 何本かの電線を地面に引きずり降ろすと、良太はやっとおとなしくなった。気が済んだ、とかそういうことではなく、叫び続けながら暴れたので、体が動かなくなって、しゃがみ込んでしまったのだった。


 「おい、何のつもりだ」

 良太は、そう呼びかけられて初めて気づいたように、花子を見た。ひ、と良太は後ずさる。花子が怒っている。いつも通りの逆三角形の目が、さらに、今はつり上がっている。薄く開いたへの字の口からは、食いしばった歯がのぞいている。今、雷でも鳴ろうものなら、良太はきっと気絶してしまう。

 良太は、けれど、立ち上がり、ゆっくりと花子に近づいていった。


 「人助けなんて、嘘じゃないか」

 さらに目つきを険しくする花子にも、良太は動じない。

 「あの木の周りには、光がいっぱいあるって、美咲が言ってたよ」


 ――気づいたか。やっぱりな。


 花子は、軽く舌打ちをする。

 隠していたことがばれたからではなくて、

 良太が、知らなくてもいいことを知ってしまうことへの悔やみ。


 「約束とか思い出とか、そんなの消しちゃだめだ。おばあさんがどんな人かは知らないけど、その人のために他の人の思い出を消すなんて、許せないよ!」

 花子にはわかっている。良太が、どれほど妹を愛し、大切に思っているか。約束と思い出の持つ意味を、どれほど深く感じているか。だから、


 花子は、何も言えなかった。


 とても、酷いことをする。

 けれどこれは、人助けだ。

 けれどこれは、とても、


 とても、酷いことだ。


 花子は、良太にどう説明しようかと悩んだ。良太なら、きっとわかってくれる。けれど、どう説明したら。

 花子の沈黙の意味を、興奮した良太は正確に受け取ることができなかった。良太は、花子が目をそらした隙に、配電盤に挿してある鍵を引き抜いた。

 「おい、それはだめだ、返せ!」

 慌てる花子の姿に、良太は確信した。これがなければ、大切な思い出が消されることはないんだ。おばあさんには――悪いけど、たぶんこれで、たくさんの人たちのたくさんの思い出が、守られるんだ。

 良太は逃げた。

 花子から逃げるのは、これで二度目だ。けれど今度は――。


 人から、

 物を、

 奪って、

 逃げた。


 僕は泥棒だ。

 違う、助けるためだ。

 おばあさんを犠牲にして?

 けれどたくさんの思い出を守るために。

 おばあさんを犠牲にして?

 人から物を奪って?


 助けて、助けて、助けて。


 良太は、自分の心の中の渦に巻き込まれ、必死にもがきながら走った。

 途中何度か転んで膝をすりむいたけれど、構わずに走った。

 振り返るのも恐くて、鍵を握りしめて、走った。


 家の前で、母が待っていた。

 「良太? どうしたの? 何があったの?」

 「何でもない」

 「すりむいてるじゃない」

 「何でもない」

 「良太」

 「何でも、ないっ!」

 良太は、母を押しのけて家に飛び込み、そのまま布団に潜ってしまった。



   ◆



 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 返さなきゃ。謝らなきゃ。

 理由はどうあれ、人の物を取ったのは間違いだ。

 違う。これは、大切な思い出を守るためだ。

 違う。泥棒は泥棒だ。

 違う。僕は。違う。


 夏用の薄い布団を通して、低い声が聞こえてきた。

 久しぶりに聞く、父さんの声だ。どうしよう。叱られる。きっと、ものすごく、叱られる。

 わかってる。返さなきゃ。わかってるのに、叱られる。いやだ、いやだ、いやだ。


 「良太、入るぞ」

 びく、と良太は硬直した。

 父は部屋の戸を閉め、こちらに歩いてくる。枕元に、どか、と座った。

 「何があった」

 良太は答えない。答えられなかった。

 「晩ごはんの最中に家を飛び出して、膝をすりむいて帰ってきた、か。ただごとじゃないな」

 「…何でもない」

 「秘密か?」

 秘密。隠し事。声に出して言えない、罪。

 良太は、ぎゅっと目を閉じた。そうすることで、世界との接点をも閉じられるような気がした。けれど父は、それを許さない。掛け布団をはぎ取って良太の肩を強く掴み、良太をこの世界に引き戻した。

 「こそこそ逃げ隠れするな、堂々としていろ。秘密を持つのは悪い事じゃない」

 「…え?」

 隠し事をしないこと。それが良い子の条件、だと思っていた。けれど、夏休みに入ってからというもの、良太は隠し事ばかりしている。それは悪いこと、だと思っていたのに。

 「父さんにだって、母さんにだって、隠し事くらいある。ただな、」

 やっと自分の方を向いた良太に、父は静かに語りかける。

 「心配なんだ。良太がいじめられてるんじゃないか、とか。逆に、人に迷惑をかけてるんじゃないか、とか。どうなんだ?」

 「そんなのじゃないよ」

 「なら、自分で解決できるか」

 「…うん」

 後ろめたい気持ちはあった。僕は、花子さんから鍵を奪った。迷惑をかけている。けれどこれは僕の問題だ。鍵を返すか返さないか、僕が決めなきゃならないことだ。

 「なら俺は何も言わない。お前が困ったら手を貸してやるが、まずは自分で解決してみろ」

 自分のことを、俺と言った。僕のことを、お前と言った。

 良太にはその意味がよくわかる。これは親と子の会話じゃない。父さんは、男と男の会話をしてくれているんだ。良太はそれが嬉しくて、


 泣いてしまった。

 父は黙って部屋を出た。


 あなた、どうだった?

 さあな。

 さあって、何があったか聞かなかったの?

 大丈夫だよ。

 ろくに話も聞かないで、なんでそんなこと言えるの?

 大丈夫だってば。それよりメシ…。


 良太は、泣きながら笑ってしまった。

 さっきは男らしく見えた父が、母にはたじたじだ。

 良太は、握りしめたままだった鍵を、枕元に置いた。これを返すか返さないか、僕が答えを出さなきゃ。

 返すのは、おばあさんと花子さんのため。返さないのは、誰のものかわからない、たくさんの思い出を守るため。


 その夜、良太が眠るまで、答えは出なかった。



   ◆



 翌朝、良太はいつものように美咲の下手な鼻歌で目が覚めた。

 よりによって枕元で歌わなくても、とは思うものの、べつに不快ではない。

 「美咲、おはよう」

 「おはよ」

 美咲は、絵を描くのに忙しいらしく、そっけない返事を返した。

 良太は、美咲の鼻歌を聞きながら、もう少しまどろむことにした。ゆうべは結局、何時頃まで起きていたのだろう。そう考えながら、今日、花子に鍵を返すべきかどうか、良太は悩んだ。

 布団の上で何度も寝返りをうちながら、結局答えが出ないまま、いつの間にか眠ってしまった。


 良太が再び目を覚ました時には、もう昼を過ぎてしまっていた。美咲の姿は見えない。

 胸騒ぎがした。最近、美咲はやたらと一人で外に出たがるようになった。もちろん、近所の公園に行くくらいだったら、なにも問題はない。時間を見計らって迎えに行けば、小さな友達と一緒に砂場で遊んでいる。

 けれど。

 今、美咲はどこにいるんだろう?

 良太は家を出て、歩いてすぐのところにある公園に行ってみた。たぶん、ここにいるだろう。しかし、

 そこに、美咲はいなかった。

 良太はあせった。美咲の行きそうな所なんて、たかが知れている。八割がた、この公園だ。けれど、

 あとの二割を、良太は知らない。

 良太は走り回った。コンビニ、少し遠い公園、怪獣の木がある空き地、駅前まで行ってみたけれど、美咲は見つからなかった。

 交通事故。どうしよう。誘拐。どうしよう。

 良太は、とにかく母親に連絡することにした。叱られる、たぶんものすごく叱られる。けれど、このまま美咲が見つからなかったら。

 畑の横を駆け抜ける。全力で走るけれど、走っても走っても、前に進んでいない気がする。自転車に追い抜かれる。ああ、乗せてくれないかな。少しでも早く、家にたどり着きたいのに。

 やっと畑を過ぎて、角を曲がる。普段は気にしていなかったけれど、ここは少しだけ下り坂になっている。良太は勢いを増したように感じたけれど、まだ、まだ、まだ、遅い。もっと速く、もっと速く、もっと速く走りたい。

 最後の角を曲がって家が見えると、


 玄関の前に、美咲がしゃがんでいた。その横には、

 花子がいる。美咲の肩を抱きかかえていた。花子は、駆け寄ってきた良太を睨み付けた。

 「たまたま見つけたんだ。国道を、泣きながら歩いていた」

 花子は、美咲の肩に回した腕に、ぐっと力を込めた。


 「美咲…」

 「お兄ちゃん…」

 気が緩んだのか、美咲はわあわあと泣き出した。

 「美咲、勝手に表に出ちゃダメじゃないか。探したんだぞ」

 そのとき、花子が、


 良太の頬を叩いた。


 「な…なにすんだよ」

 「お前が何を思い悩もうと、勝手だ。しかしな」

 花子が、一段と凄みの効いた目つきで良太を睨む。

 「美咲を、その犠牲にするな」

 「…ごめんなさい」

 「暑い。早く鍵を開けろ」


 こうして、良太と美咲の家に、とうとう花子が入ってきた。



   ◆



 「みやげだ」

 花子は、白い箱を取り出した。

 「吉倉屋の和風ケーキだ。紅茶よりも、冷たい麦茶が合う」

 「ええと…」

 花子は、戸惑う良太に、いらだった。

 その、いらだった表情を美咲に向けると、美咲は、ひ、と言って飛びのいた。

 「美咲、おみやげのケーキ、一緒に食べよう。うまいぞ」

 「う…うん」

 「麦茶、あるか?」

 「う…うん」

 「じゃ、持ってきてくれ。美咲と、こいつと、わたしの分」

 「う…うん」

 美咲は逃げるように台所に走っていった。


 「あ…あの…」

 美咲がいなくなると、恐る恐る、良太が切り出した。

 「例の鍵のこと?」

 「まあな」

 「勝手に持ってきたのは悪いと思ってる。けど、やっぱり、その…」

 花子は襟元を広げて、こもった熱を逃がす。

 良太はあわてて視線をそらす。

 「別に、鍵を返せとは言わない。スペアキーがあるからな」


 ──え?


 美咲が戻ってきた。

 「…おまたせしました」

 いつの間にか、そんな言い回しを覚えた美咲に、いつもなら頬が緩む良太だけれど。

 今は、そんな気になれない。


 「さあ、ケーキを食べようか。あれ。そうか、フォークもいるな。美咲、持ってきてくれ」

 花子が棒読みでそう言って、美咲を追い払う。美咲がいなくなると、花子は続けた。

 「スペアキーはあるがな、お前に誤解されたままなのは気分が悪い」

 「誤解?」

 良太は、花子の言葉を思い出そうとした。


 ――とても、酷いことをする。


 そうだ、確かにそう言っていた。

 「酷いことだ、って花子さんが言ったんじゃないか。何が誤解なんだよ」

 「アルバム持ってるか?」

 もう、花子の不意打ちには慣れた。

 「アルバムっていうか…。お父さんのパソコンの中に、デジカメのデータがあるよ」

 「デジ…?」

 花子は、こういうものには疎いらしい。

 「ええと。うん、アルバム、あるよ」

 「…そうか。ええと。それがな、いっぺんに全部消えたらどうする?」

 花子の戸惑いを見て、良太は、少し意地の悪い言い方をした。

 「ハードディスクがクラッシュしても、バックアップのCD−Rがあるから大丈夫だけど。それも消えたら、っていうことだよね?」

 花子は良太を睨みつけた。生意気なガキが自分の知らないことをしゃべっていて、気にくわない。その目つきはいつも以上に鋭かったけれど、良太にとっては、花子を悔しがらせている優越感のほうが大きかった。

 「全部消えたら、そりゃ、悲しいと思うよ。大切な思い出だもん」

 「それで、」

 ちょうど皿とフォークを持って戻ってきた美咲を、花子の目は無意識に追う。

 「アルバムがなくなったら、お前は美咲のことを全部忘れるか?」

 いきなり自分の名前を呼ばれて、美咲はきょとんとしている。

 良太には、答えられなかった。花子の言いたいことがわかったから。


 花子は、ケーキを取り分けながらつぶやいた。

 「あの木に集まってるのはな、持ち主からはぐれてしまった、誰の物かもわからない想いなんだ。アルバムから剥がれて、道ばたに落ちてる写真みたいなものだ。だから、」

 いちばん大きくて派手なケーキを美咲に渡しながら、花子は、自分自身に、言った。

 「思い出を消すのは、酷いことだ。でも、それで確実に一人の人が救われる。それならわたしは、人を救う方を選ぶ」


 花子と良太は、何も言わずにケーキを食べた。

 美咲はどうしたらいいかわからず、二人の顔を交互に見ている。重苦しい空気に耐えきれず、泣きそうな顔をしている。

 花子はその様子を見ると、精一杯、彼女にとっては精一杯優しい声で、

 「美咲、おいしいか」

 と聞いた。けれど、美咲の「うん」という短い返事の後には会話が続かなかった。



   ◆



 ――何か話さなくちゃ。


 良太は、今度は自分が沈黙を破った。

 「花子さんは、いつも、こういう事をしてるの?」

 花子は、さく、とイチゴにフォークを突き刺した。

 「いつもじゃない。普段はちゃんと学校に通ってる。連休とか夏休みには、依頼を受けて少し遠出する。調査して、処理して、終わりだ。邪魔ものがいなければ、すぐ終わるんだが」

 ぎろ、と花子が睨む。

 たじ、と良太がのけぞる。

 「一人でやってるの?」

 「いままでは父に付いていたが、今年から任されるようになった」

 少しだけ得意げに見えた花子に対しての、なんだ初心者か、という良太のつぶやきは、無視された。

 「人の想いというのは、お前が考えているより強い。特に、今回みたいに、死…この世を去ろうとしている者は、自分が残した想いに引きずられ、苦しむことが多い」

 「苦しんで、どうなるの…?」

 花子は、ちら、と上目遣いに良太を見た。

 「べつに、どうにもならない。死んでしまえば、それでおしまいだからな。ただ…」

 ケーキの最後のひとかけを、名残惜しそうに弄びながら、花子は顔を上げた。

 「すがすがしい気分で去ってほしい。そうは思わないか」


 相変わらず、逆三角形の目は恐い。けれど、

 良太は、初めて、花子の瞳に優しさを見たような気がした。


 良太は迷った。花子の言葉を信じて、鍵を返すべきかどうか。もちろん、スペアキーがあるというから、鍵を返すかどうかというのは本当の問題ではない。つまり、

 花子を信じるかどうか、という、曖昧で形のない、気持ちだけの問題だ。だから難しい。簡単に答えが出る問題ではないし、答えを出したところで、割り切れるかどうかというのは別問題だから。

 「美咲、クリームだらけだな」

 花子は、美咲に手を伸ばした。美咲は目を見開いて、硬直したままその指先を見ていた。が、

 花子の指が、口の周りについたクリームをとってやると、美咲は急に体の力を抜いて、安心したようだった。


 ――ああ、猫みたいだな。


 良太は、ときどき道ばたで出会った野良猫を撫でることがある。もちろん、近寄るだけで逃げてしまうのもいるけれど、たまに、触らせてくれる猫もいる。最初はおびえて警戒していた猫が、頭に触れた瞬間に、こちらに敵意のないことを感じ取り、安心してくれる。その瞬間が、良太は好きだった。


 「さてと」

 花子は、最後に美咲の口をティッシュで拭くと、立ち上がった。

 「わたしはこれで帰る。突然押しかけて悪かったな」

 「え、あ、ううん、ええと、ケーキ、ごちそうさま」

 「今夜10時、あの空き地で待ってる。鍵は、そのとき持ってきてくれ。美咲は連れてくるなよ。夜遅くに出歩いたら危ないからな」


 どくん。


 あと何時間か。それまでに答えを見つけておけ。

 良太はそう言われた気がして、急に焦った。けれど、


 もう、決めていた。

 花子を信じる。鍵を返す。

 それで割り切れるかどうかは別問題だけれど、


 鍵を返してしまえば、あとは、


 僕一人の問題だから。



   ◆



 「お母さん」

 夜9時半を過ぎて、良太はやっと切り出した。

 「これから、ちょっと出てきていいかな…?」

 母は驚いた。

 「友達と、月の観察をしようって約束してたんだ」

 母には、もちろん、それが嘘だとわかっていた。けれど、

 良太も、嘘がばれていることを知りながら、嘘をついている。つまり、


 ――理由は聞かないで。


 良太は、そう言っている。母はもちろん良太が何をしに行くのか心配だったけれど、良太を信じようという父との約束を守ることにした。そう、この子は、悪いことをする子じゃない。親バカではなくて、心から、そう思う。

 「…あまり遅くならないようにね」

 母は、それだけ言うと、家事に戻った。


 美咲はもう寝てしまった。

 大丈夫、行って、鍵を返して、帰ってくる。それだけだから。

 良太は家を出た。


 こんな遅くに一人で表に出たのは、初めてだった。

 夜だというのに、蝉がじいじいと鳴き続けている。まわりが静かだから、昼間よりもうるさく感じるくらいに。昔は、蝉は昼間しか鳴かなかったらしいけれど、今では朝でも夜でも鳴いているのがあたりまえだ。

 良太は、あちこちの茂みに隠れていそうな何かに怯えながら、怪獣の木がある空き地に向かった。心細いけれど、この先に待っていてくれる人がいると思うと、それがたとえ般若でも悪魔でも、心強い。

 自販機に照らされながら、シャッターの降りている酒屋を通り過ぎ、分かれ道を左に進む。

 もう、迷いはない。

 空き地に行って、鍵を返す。そしたら帰る。それでおしまい。家に戻って、お風呂に入って、寝る。それでおしまい。


 空き地に着くと、花子がいた。木に巻き付けた電線をチェックしている。約束の時間までまだ間があるせいか、花子は気づかなかった。

 花子は、真剣な顔つきで作業を続けている。

 月に照らされている花子は、昼間よりも、きれいに見えた。


 ――ヘルメットの影で、目が見えないからだな。


 良太はそう納得しようとしたけれど、本心では、そうではないことに気づいていた。

 何となく声を掛けづらく、所在なげに突っ立っていると、やっと花子が気づいてくれた。

 「何だ、来てたのか。早かったな」

 花子は左手で汗を拭きながら、右手を差し出した。

 「じゃ、鍵を返してくれ。試運転しておきたくて、待ってたんだ」

 「スペアキーがあるんでしょ?」

 良太はポケットから出した鍵を花子に返した。

 「そんなものはない。鍵はこれ一本だ」

 「…騙したんだ?」

 責めるような良太の口調に、花子はさらりと答える。

 「鍵を返さなきゃ、って来てもらっても嬉しくない。わたしの言うことに納得して、それで来てもらえれば…、」

 「…れば?」

 「まあ、その。嬉しい」

 花子はぶっきらぼうに言い放つと、操作盤に鍵を挿した。右にひねると、いくつかのランプが灯る。続いて配電盤のスイッチを入れると、木に巻き付いた電線のあちこちから、パチパチと激しい火花が飛んだ。

 良太は思わず身を屈めた。

 「うわっ」

 「大丈夫だ。…通電ヨシ、と」

 スイッチを切り、鍵を抜くと、花子は再び電線のチェックを始めた。


 鍵は返した。もう、家に帰っていいんだろうけれど。

 良太は、なかなか立ち去れずにいた。このあと何が起こるのか、それに興味があった。

 「花子さん、僕は、このまま見てていいの?」

 花子は手を止めずに、「ああ」と答えた。


 やがて全てのチェックが終わったらしく、花子は木から離れて操作盤の前に立った。ヘルメットの顎ひもを締め、目つきが鋭くなる。良太は緊張感に押され、数歩後ずさった。

 「さて、始めようか。危ないから、そこから動くなよ」

 花子はそう言うと、再び鍵を挿して右にひねった。



   ◆



 数回の火花が収まると、花子は操作盤の、一番大きなダイヤルを右にひねる。

 それに従って、木全体がぼうっと青く光り出す。別のダイヤルをひねるとそれはだんだん明るく黄色い光に変化し、ついには木は金色の光に包まれた。

 きれいだ──。

 良太が見とれていると、


 金色の光が突然、視界全体に広がった。と思うと光は一転して急速に収縮し、一つの球になった。

 一瞬の間をおき、その球体から、いくつもの光の玉がでたらめに飛び出した。

 そのうちのいくつかが、良太に向かってきた。良太は反射的に腕で顔を覆うけれど、光の玉は腕を、そして良太自身を突き抜けた。

 瞬間、良太に、

 いくつもの記憶が流れ込む。


 この嵐じゃ、渡りの船は出ないかもしれないなあ。


 あの人はなぜ来てくれないのだろう。


 この木だけは、残してやってください。


 お父さん、あそこに蝉がいるよ。


 生きて帰ってきてください。


 本当に引っ越しちゃうの?


 ごめん、クリスマスには、帰れないかも。


 ほら、この印。私たちが出会った記念に彫ったんだっけ。


 「な…」

 良太は、その場にへたりこんだ。

 「なに…? 今の…」

 「吹き飛ばした想いの一部を、お前が感じ取ってしまったんだ。大丈夫か?」

 花子は、視線を木に向けたままだ。

 「だい…じょうぶ…」

 言いながら良太は、花子の視線を追った。

 金色の木の根本にたたずむ、金色の少女。

 「なんだ、あれ…。ゆ、幽霊?」

 年は、花子より少し上くらいか。

 セーラー服の上着に、だぶだぶのズボン──もんぺ、だっけ──を履いている。

 金色の少女は、ときおり少しにじむように、不安定だ。


 花子は、配電盤のいくつかのダイヤルを調整しながら、金色の少女に問いかけた。

 「あなたは…静江さんですね。なぜ、そこにいるのですか?」

 金色の少女・静江は、突然の問いにとまどいながらも、簡潔に答えた。

 「待っているのです」

 「誰を?」

 花子は、ダイヤルを微調整する。静江の姿が、安定した。

 「勝義さんを」

 「良太」

 花子は、やはり視線を動かさず、良太に言った。

 「あの人を待たせている、勝義という男。心当たりは?」

 良太は、花子に初めて名前を呼んでもらったことに気づかなかった。

 「心当たりなんて、あるわけ、」


 あった。


 良太は、自分に流れ込んできた記憶の一つにたどり着いた。

 「…昭和19年、だったと思う。勝義さんは、戦争に行くことになって」

 知り得ない事実が、自分の記憶のように鮮明に甦る。良太は信じられない思いで続けた。

 「静江さんと、約束したんだ。必ず生きて帰ってくる」

 そうだ。そうしたら──、

 「帰ったら、祝言を上げよう、と」

 「しかし、」

 花子が後を継いだ。

 「勝義さんは帰ってこなかった、と」

 静江は、ぐっと唇をかんだ。

 「関係ありません。私は、勝義さんを待つと約束したんです。たとえ、…彼が戦死したと聞かされても」

 そんな。

 良太は、理不尽なことを言う静江が信じられなかった。

 待っている? 死んだ人を? 何十年も、こんな木の下で…?

 花子が、感情のこもらない声で告げる。

 「もう待っていても仕方がない。今、楽にしてあげます」

 配電盤のスイッチに指をかける。


 「ダメだ!」

 突然、良太が走り出し、花子と静江の間に立った。

 電線から火花が散り、静江の姿がゆがむ。

 「な…、バカ!」

 良太がフィールドに入った影響を打ち消すため、花子は配電盤を複雑に操作しながら叫んだ。



   ◆



 「良太、どけ! そこにいると危険だ!」

 「この人は、」

 良太は大きく手を広げ、

 「勝義さんを信じているんだ。絶対、帰ってくるって」

 この想いを、消したくない。

 「勝義さんと約束したことは、大切な、思い出なんだ」

 そう、約束したんだ。

 必ず、

 帰ってくる、と。

 それは、祈りに似た気持ちだったけれど、

 そう約束することで、

 私は、戦争の恐怖を打ち消し、

 「静江を、心の支えにしようと、戦地でだけでなく、帰ってからも、一生、静江を、心の支えにしようと」


 ──まずい。

 花子は、良太の変化に舌打ちした。

 良太は今、混乱している。自分に流れ込んだ記憶を制御できず、勝義に乗り移られたような状態になってしまっている。

 良太の目が、赤く充血し、とがり始めた。戦時教育を受けている者特有の、悲壮感を強い決意と信念で打ち消そうとする目つき。

 「良太──」

 花子の言葉は、しかし、突然響いた幼い声にかき消された。

 「お兄ちゃん!」

 花子は思わず振り向いた。

 美咲? なぜここに?

 美咲は良太の姿をした勝義に駆け寄る。

 「お兄ちゃん!」

 「美咲! だめだ、止まれ!」

 花子の制止を、しかし美咲は聞こうとしない。

 花子は美咲を追おうとした。しかし、美咲と、さらに自分までもがフィールドに入ってしまうと、良太も、美咲も、自分も、危険だ。

 「くっ!」

 花子は、配電盤に戻ってダイヤルを調整した。


 良太は美咲を睨みつけた。

 「なんだお前は! 来るな! 邪魔をするな!」

 美咲はそれでも、良太の前に立ち、小さな手で、良太のTシャツの裾をつかんだ。

 「お兄ちゃん、どうしたの?」

 「うるさいっ!」

 良太が、拳を高く振り上げる。

 美咲は良太の拳を見あげる。

 拳が、強く振り下ろされる。

 しかし美咲は、

 良太の拳が自分を襲うとは、

 ひとかけらも、

 思っていない。

 まさに、その拳が、

 自分に向かって、振り下ろされているというのに。


 良太を信じる美咲の瞳は、

 ぎりぎりのところで、良太の拳を止めた。

 風圧で、美咲の髪が、ふわ、と揺れる。

 美咲は、まるでそうなることを知っていたように、

 良太の拳に手を添え、ほほえんだ。


 拳を解いた良太の手のひらが、

 美咲のほほを、

 優しく、柔らかく、

 包み込む。

 「美咲…!」

 正気に戻った良太は、美咲を抱きしめた。

 「お兄ちゃん? どうしたの? どうしたの?」


 「ありがとう」

 静江が、静かに、つぶやいた。

 「良太さん、ありがとう。おかげで、勝義さんの気持ちが、よくわかりました」

 良太は、静江を振り返る。

 「私はやはり、間違っていませんでした。待っていてよかった。…こうして、あなた方に会えたから」

 静江の気持ちが固まったことを知ると、花子は美咲を呼んだ。

 「美咲、良太を連れて、こっちにおいで」

 呆然と静江を見ている良太を、美咲が、驚くほど強い力で引っ張ってくる。

 「お姉ちゃん、来たよ」

 「うん、ありがとう」

 ダイヤルを調整しながら、花子は礼を言った。

 逆三角形の目を、美咲は、もう怖がらなかった。


 「静江さん、これからあなたを解き放ちます」

 「はい。覚悟はできています。もう、消えてしまっても後悔はありません」

 花子は、一瞬の間をおいて、かぶりを振った。

 「それは違う。消えるんじゃない」

 「え?」

 花子は、

 深く息を吸い込み、少し大きい声で言った。

 「この木の束縛から、解放されるんです。勝義さんは、向こうで待っています。この木から離れて、そこに行けるようにするんです」

 静江は、うつむき加減でほほえんだ。ほんとうに幸せそうな、笑顔だった。

 「ありがとう」

 静江がそういうと、花子は、スイッチを一つ切り替え、小さなダイヤルを回した。

 静江と木の光がいっそう強くなり、赤みを帯びる。

 さらにダイヤルを回すと、耳鳴りのような音の後に、

 パシッ、

 という響きを残して、静江の姿が消えた。

 花子はゆっくりとダイヤルを戻す。それにつれて木の光も青く、弱くなっていった。


 ふう、と大きく息を吐き、

 花子は、配電盤のメインスイッチを切った。

 そうして訪れた静寂の中、ずっと後ろから見ていた良太たちに、振り向かず、言った。

 「──わたしは、嘘をついた。わたしは、この世に想いが残ることは知っている。けれど、あの世があるかどうかなんて、知らない」

 花子の声が、だんだん小さくなる。

 「わたしは、嘘をついた。静江さんに、気休めの嘘を」

 すっかり落ち着いた良太は、わざと明るい声で言った。

 「嘘じゃないと思うよ」

 「え?」

 「僕は、信じてる。きっと静江さんは天国に行って、そしたら勝義さんと会えると思うよ。だから──」

 良太は、ハンカチを花子に渡しながら言った。


 「だから、泣かないで」



   ◆



 翌朝、良太と美咲は河川敷に向かっていた。

 「お兄ちゃん、川に行ったら危ないよ、叱られるよ」

 「大丈夫、でも母さんには内緒だよ。美咲も、お姉ちゃんにバイバイしたいだろ?」

 「お姉ちゃん、いなくなっちゃうの?」

 「…たぶんね」

 神社の脇を抜け、土手を見ると、軽トラックが一台止まっていた。花子を迎えに来た車だろうか。

 荷台に荷物を積み込んでいる花子が見えたので、良太は呼んでみた。

 「花子さーん」

 その瞬間、花子はものすごい勢いで駆け寄ってきた。

 「大声で呼ぶな、バカっ!」

 「あれは、お父さんの車?」

 「…うん」

 なぜかふてくされたように答える花子の気持ちは、まだ良太にはわからなかった。

 「お前たち、見送りにでも来てくれたのか?」

 「うん。それから、謝ろうと思って。仕事の邪魔して、ごめんなさい」

 花子は何も答えなかった。かわりに、しゃがみ込んで、美咲に話しかけた。

 「美咲、元気でな」

 「お姉ちゃん、今度はいつ来るの?」

 「んー、わからない。でも、きっとまた、遊びに来る」

 良太は安心した。花子さんは、嘘はつかない。きっと、本当に遊びに来てくれるだろう。


 車の方から、花子を呼ぶ声がした。


 「もう行かないと。じゃあな」

 「うん、じゃあ」

 「お姉ちゃん、バイバイ」

 花子は走って戻っていった。父親が白い歯を見せて何かを言っている。どうやら、花子をからかっているらしい。


 ――もう一回、意地悪しておこうかな。


 良太は、車が走り出すと、いちにのさん、で美咲と一緒に叫んだ。

 「おねえちゃーん、バイバーイ!」

 助手席の窓から拳を振り上げる花子がとても嬉しそうに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。




 人の想いは、きっとそこに残っている。


 人が去り、時が過ぎ、

 本人すら忘れてしまった想いは、けれど、


 いつまでも、そこで金色に輝いている。


 来る人を待ち、去る人を思い、

 それが叶わないと知っていて、けれど、


 僕らは、想い、願い、信じよう。

 また、会えるよね、と。


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― 新着の感想 ―
[一言] ちょっと薄い気はしたけど、全体的な儚い雰囲気は好きだった。
[一言]  読んでいて嬉しくなりました。良太と、妹、謎の少女、との関わり方がいい。物語(=作者)の人物への視線がいい。大人たちがしっかりしているのがいい。土地の雰囲気がいい。  少女の存在感がいい。い…
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