うさぎのみた空
いつもと同じ朝。しーん、とした空気が、ブルンブルンという音でうちやぶられる。
新聞配達のお兄ちゃんだ。ブルンブルン、キキッ、コトン。ちらりと僕を横目で見ながら、またブルンブルン、と隣のおうちへ行く。何回か、繰り返す。ブルンブルン、キキッ、コトン。ここは、住宅街なんだって。だから、お兄ちゃんは一回一回新聞をコトン、としなければならない。
いつか、お兄ちゃんが僕に言っていた。
「お前、朝から元気そうだな。かわりにやってくれよ」
かわりにやってあげたいのはやまやまなんだ。けれど、僕にはきっとできない。
なぜなら、僕はうさぎだから。
金網の向こう、こん色が、あおむらさきにうすまって、端っこが赤くそまって、少しずつ白くなる。
月が色落ちする。星はいつの間にかいなくなる。天井の木のすきまから、光が差し込んで、目がしぱしぱする。
ふじたさんのお母さんが起きてくる。雨戸をゴンゴロと開ける。もう少しだ。もう少し待てば、僕のごはんの時間になる。
いつもと違う朝。ブルンブルン、キキッ、コトン。まではいつもと同じだったけれど、その日はいつもと少し違った。
ふじたさんのお母さんが、ゴンゴロと雨戸を開けない。いつまでも、ふじたさんのお家は、雨戸が閉まっていた。
僕は、朝ごはんのことを考えた。ぎゅうと大きな音がお腹からひびいた。べろの上が、べたべたした。あたまが、ごはんのことでいっぱいになった。
でも、本当は、朝ごはんのことよりも、もっと、もっと考えていることがあったんだ。なぜなら、僕は昨日の夜から、ずうっと考え事をしていたのだから。考えていないと、ふかふかの胸がきゅうと小さくなった。ちょっと息がしづらくなった。だから、ずっと、ずっと考えてたんだ。
僕がふじたさんのお家にきたのは、三年とちょっと前。とまゆこちゃんが言っていた。まゆこちゃんはふじたさんの家の長女、なんだって。僕はうさぎだから、人間の言う年月は良くわからない。けれど、ここで朝を千百回以上むかえたから、きっと三年というのはそれ位の時間を言うのだろう。最初のころはうまく数が数えられなかったから、少し間違っているのかもしれないけれど、そんなことはあまり気にしない。僕は広い心を持つうさぎなのだから。
三年とちょっと前、おぼろげに覚えていることといったら、ふじたさんの家に来る前にいた場所。僕の兄弟がぎゅうぎゅうでカゴに入っていたこと。あまり周りが見えなかったけれど、いつも僕らはぎゅうぎゅうでふかふかに折り重なって寝ていた。
いつしかカゴの中はぎゅうぎゅうじゃなくなり、すかすかになって、僕だけが残された。こわかった。きらきらの光の中、目をあけるのもおっくうで、ひがな寝て過ごしていた。カゴからは外がみえなくて、何回朝が来たのか、その時の僕は年月の数え方も知らなかった。ふと、頭の毛が揺れた。音が響いた。人間の、言葉だった。
この子を下さい。と言ったふじたさんのお母さん。かわいいね。といったまゆこちゃん。ゆみこのうさぎにして。と駄々をこねた、次女のゆみこちゃん。うさぎだからぴょん太でいいな。と言ったお父さん。
一面の青。ひげをゆらす風。目がチカチカするほどの光。それが太陽だって、初めて知った。初めてだらけだったんだ。こうして、僕はふじたさんのお家のお庭で暮らすことになったんだ。
このお庭は、大好きな葉っぱでいっぱいだった。鼻がかってにひくひくして、茶色の土の匂いが体中に広がる。普段は木で出来た小屋にいなければならないけれど、木の小屋の正面は金網でおおわれていて、たまに小屋にいることを忘れてしまうくらい快適だった。
空から、たまに雨が落ちることを知った。そんな日は、ふじたさんのお母さんが、僕が濡れないようにと木のお家のてっぺんに青色のビニールシートをかぶせてくれる。僕だけのためだ。いたれりつくせりだ。いつでも、ご機嫌だった。
でも、そのお庭は僕だけのお庭じゃなかったんだ。僕のお家から少し門の方側へ離れた所、僕のお家よりもだいぶ大きい、木で出来た三角の小屋があった。ふじたさんの家には、犬のプチがいたんだ。
プチは、大きかった。ふじたさんのお母さんが抱っこすることもできないくらい大きな、茶色のおじいさん犬だった。最初に見たときは、ゆみこちゃんよりも大きくてびっくりした。僕、食べられちゃうんじゃないかって、胸の左側がドキドキしたんだ。でもね、プチは僕を食べようとはしなかった。紳士な犬だった。紳士な犬って、どんなことかわかるかい?
いつでもゆったりしていて、小さいものをいじめない。ふじたさんの家族の言うことをしっかり聞く。知らない人がお庭やお家へ近づいたら「ウォンッ」とひと鳴きして追い払う。広い心を持っている。
「そういう犬を紳士っていうのさ」
そう、野良猫のミケが言っていた。ミケは、たまに庭に遊びにくる、とっても物知りな猫だ。僕が人間の話す言葉をだいぶ理解するようになったのは、ミケのおかげかもしれない。プチはあまりしゃべらなかったし、僕の話し相手はほとんどミケだったんだから。僕は、プチのようになりたいと思った。プチみたいな、紳士な犬。まぁ犬は無理だから、紳士なうさぎにね。
お日様がかんかんでりになった頃、ようやく雨戸が開いた。なんとなく、いつもの「ゴンゴロ」より元気のない開け方。お母さんが顔をだした。
目が真っ赤だった。僕の目は青いらしいけれど、お母さんの目、いつもは僕の毛並みのように真っ白な部分が、真っ赤っかだ。ふと、僕の兄弟を思い出した。みんな、あんな風に真っ赤っかだったから。
「ごめんね、ぴょん太。少し遅くなってしまったね」
お母さんがレタスをくれた。さくさくさくさく。僕は夢中で食べた。
僕が元気に食べたら、お母さんの目はいつもの白と黒に戻るのだろうか。そう考えて、いつもより必死に食べた。
さくさくさくさくさくさくさく。いつもよりも、少ししょっぱい気がした。いつかミケが言っていた。涙はしょっぱいんだって。お母さんは、もしかしたらいっぱい泣いたのかもしれない。僕も、泣きすぎたら真っ赤な目になるのだろうか。
「プチは昨日の夜、空へ帰ったんだ」
さくさくとレタスを食べていたら、小屋の上、金網の向こうからミケが顔だけでのぞき込んできた。いつもドスン、と大きな音をたてて小屋の上にのるミケが、今日は静かにのぼったみたいだ。僕はミケがいることにまったく気づかなかった。必死に、レタスを食べていたんだ。
「ぴょん太、お前さんも元気だしなよ」
ミケは、鼻をすん、とならしながら、プチが空に帰ってしまったと、もう一度小さく音にした。
昨夜、プチは少し苦しそうに丸まっていた。
「最近は寒さが厳しくてな」
口数のすくないプチがそう言っていたのは、ちょうど七日前。太陽が七回顔を出したから間違いないと思う。
あの夜から、プチはほとんどしゃべらず、じっと丸まっていた。昨日の夜は、今年の冬一番の冷え込みだって、ミケが言っていた。真っ暗な空には、粉々の星たちがたくさん光っていた。まん丸の月が空のてっぺんに昇ったころ、ふじたさんのお父さんがプチをお家の中へ運んでいった。プチは、ぜいぜい言いながらお父さんにしがみついていた。しっぽが小さく揺れていた。なんとなく、笑っているようにも見えた。
「草も、土も、お前さんも、私も。みんな、生まれる前にいた空へ、使命はたしたらのぼって帰っていくものさ」
ミケが教えてくれた。
「どうやってのぼるの?」
僕は聞いた。
「私にもまだ分からない。けれど、その時がくれば、きっとわかるはずさ」
「そうなんだ」
僕は、わかったように言葉を返してみた。プチにはもう会えない。お空にのぼるということは、そういうことなんだろう。なんとなく、わかるような、わからないような。でも不思議と、懐かしいような感じもしていた。
一生懸命考えていたら、目の奥がキーンとなって、頭の真ん中がぐるぐるしてきたから、僕はそこで考えるのをやめた。
プチにはもう会えない。ふじたさん一家は、それがとても悲しい。たくさん泣いて、みんなうさぎみたいな真っ赤な目をしている。僕は青い目だけれど、もしかしたらそのうち同じように真っ赤になるのかもしれない。
僕は、ふじたさんの家のうさぎになったばかりだ。まだまだ新米だ。プチは16才だといつか言っていた。だからきっと、僕よりもたくさん、ふじたさんの家の雨戸が開く音を聞いてきたのだろう。大きな体と声で、いつもふじたさんの家を守ってきたんだ。
僕にできることは限られている。長い耳を横にしたり、縦にしたりして考えてみた。一生懸命ご飯を食べる。毛並みを整える。ミケとお話しする。小屋から出してもらった時は夢中で土を掘る。葉っぱの根っこをかじる。
僕にできることは、少ししかない。体だって、プチの半分の半分くらいだ。大きな声だって出せない。うっかりしてたら、ミケにだって食べられてしまうかもしれない。目がしょぼしょぼしてきた。ふかふかの胸が、小さくしぼんだような気がした。
「ぴょん太の毛は、真っ白でふわふわね」
いつの間にか、ふじたさんのお母さんが小屋の前に戻ってきていた。金網を開けて、僕を庭に出してくれた。ひょいと抱えられて、膝の上に乗せてくれた。たくさんなでてくれた。温かかった。
「みんな、ぴょん太を撫でたら元気になるわね」
そんなはずはないと思った。僕はプチの代わりにはなれない。役不足だ。僕は小さなうさぎなんだ。そう思って見上げると、お母さんが笑ってくれた。太陽の光でよく見えなかったけれど、嬉しそうに、僕のうなじのとびっきり柔らかい毛を、ずっと撫でてくれたんだ。
びゅうと大きな風が通り過ぎた。じめじめしていた心が、急にカラッカラに乾いた。僕は、なぜだかとても嬉しかった。
プチの代わりは誰にもできない。
僕の代わりは誰もできない。
僕は、ここにいる。
自分で決めたことではないけれど、僕はずっと、ここにいる。
いつか空に帰るために。使命をまっとうするために。それが何かはまだわからないけれど、僕はここにいる。
鼻がヒクヒクした。土と葉っぱ、それからお母さんの柔らかい匂いを巻き上げるようにと、風が何度も何度も僕らを撫でて通り過ぎていった。
FIN
何のために生きているのか。
迷ったときこそ、シンプルに。
少しでも、温かい心になっていただけたら幸いです。




