おかわりはご自由に
胸元へ伸ばしていた手に力をこめたとたん、彼の身体が離れた。行き場をなくした両手はぽつんと膝の上に落ちた。
音が。ドクドク耳をたたく。触れていたときはあれほど静かだったのに。息も時も、止まっていたのかもしれない。ああ、わたしは――。
熱をもつ前に終わってしまったキス。
なんの話をしていたんだっけ。今日最後の書類にチェックをしながら、彼の半分ひとりごとのようなつぶやきを聞いていた。いつものように。
お昼に食べた新商品のおにぎりは斬新すぎるとか。足は早かったけど球技がまるでダメだったらしい学生のころのこととか。
最近気づいた。彼はふたりきりのときよくしゃべる。そして彼の声は聞き心地がいい。内緒だけど。
雨がやんだって。あしたは冷えますよって。寒いのは苦手なんです、そう言いながら首をすくめたポーズがちょっとかわいくて。笑っていたら。
くすぐったい、頬の奥がきゅっとするくちづけ。
まだうるさく鳴る鼓動を落ち着かせたくて息を吐き出した。
身体を折ってわたしの足元に手をやった彼の、サラッと流れた髪にいっとき見とれる。デスクの上まで引き上げられたそれは書き味なめらかなお気に入りのボールペン。落とすハメになった原因を作った張本人にお礼を言うのもどうかと思いながら顔を上げた。でも出てきたのはお礼ではなく。
「わたしなにかした?」
「なにかしたのは俺のほうですよ」
薄く笑う彼から目がはなせない。
「ヘタクソだったでしょ。ビビりすぎとかカッコ悪いですね」
「ヘタなんて思ってない。もっと欲しいって思ってただけ」
正直に言えば物足りない。でもそれは悪かったからじゃない。足りないから。もっと、と。
ため息なんかつくんじゃなかった。そんなこと思わせて、そんな顔をさせてしまうくらいなら。
「上手いヘタとか、それってだれかと比べてってことでしょう? そういうのちょっとやだ」
わかってはいても悲しい。それに。
「気持ち良さはふたりで見つけていくものだと思う。さっきのはいきなりでびっくりしたけど、次はわたしもできるだけがん」
突然、顔の前に手のひらをかざされた。
「もうそこまでで。ごめんなさい。俺が悪かったです」
だから。
「なんであやまるの」
心なしか頬が赤くなってる気がする。重ねて。あきれているような気もする。こういう表情も最近よく目にするようになった。憂い度満載のため息がふってくる。
「ここがどこかわかってます?」
「総務部」
「はい、職場です。ね。だから帰りましょう。送りますから」
彼は早口にそう言うと手際よくわたしの荷物をまとめあげる。パソコンの電源も落とされイスからも立たされて。ボールペンも引きだしへ。
「帰るんだ」
渡されたコートを着こみながらついこぼした。最初にしかけてきたのそっちのくせに。あ。それでさっきの、ごめんなさいなのか。納得できて視線を上げたら彼は天井を仰いでいた。
「しちいちがしち。しちにじゅうし。しちさんにじゅういち。しち……」
なんで九九? それも七の段からとか?
神妙な顔してお経を唱えてでもいるみたい。わたしのこと若干フシギちゃん入ってますよね、とか彼は言うけど、そっちこそけっこうなものだと思う。
八の段に突入しながら彼も自分のコートを羽織り、グレーのマフラーを手にした。いつ見てもあったかそ……あったかい。
「いまはなくても大丈夫なんで」
ふわりと首にかけられた。思ったとおり。このぬくもりは彼の笑顔と同じ。そうだ。さっき気づいたんだった。わたし。
「自分で思うよりずっと、あなたのこと好きみたい」
それは素敵な事実。
ぐるぐる、ぐるぐる。
あれ? って思うくらいには完全に動きが停止していた彼が今度は猛烈な勢いでマフラーを巻いてくる。
完成したわたしの姿はモコモコで、かろうじて目が出るくらい。肌ざわりサイコーなんだけど、苦しい。真っ赤な顔でにらんでくる彼も怖い。いつの間にかやんでいた九九はもういいの? とはとても聞けない雰囲気。
でも。楽しい。
耳まで染めた彼も楽しいと感じてくれてたらいい。マフラーをすこしゆるめ、ドアを開ける背中に近づいた。開いた口は。
「もう黙っててください。 ――俺の部屋に着くまで」
つぐんだ。
了