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月、誘う



 笑い声がする。

「ねぇ。明かり、消して」

 一瞬、自分のよこしまな考えが読まれているのかと思った。自嘲しつつチーズを盛っただけの皿を置いて、請われるままに照明をおとした。床に座り込んだ彼女は窓の向こうを見上げている。また。彼女は笑った。

 なにがそんなにおかしいの。そう問う前に振り返られて言葉をなくした。

「見て」

 淡い明かりを浴びて微笑むそのひとがあまりに美しくて。

 身体のなかをなにかが走る。

 気づいたときには手をとられ、彼女の隣に腰を下ろしていた。細い指が指し示す先には雲のない夜空にくっきりと浮かび上がる大きな月。

 この位置からだとよく見えることを初めて知った。部屋の主である自分より、ここに来てまだ一時間くらいの彼女がそのことに気づくなんて。

「なにを笑ってたの」

「うさぎがね、どんなふうに踊るのかなって」

「餅をつくんでしょ」

「お餅つきのあとで踊るの」

 そうだっけか。

 この時期特有の自然現象に不思議や魔法は存在しない。それでもいつもより輝きを増した姿は幻想的で。子どもみたいな空想も今夜なら悪くない。想いびとが上機嫌ならそれでいい。

 でも、なぜか。

 いま目の前にいる彼女はそれまで見てきた彼女と違うような気がしてる。

 ここへ招き入れたときは口数も少なくて男の部屋、というより俺か。に、対する緊張感がよく伝わってきた。普段が快活なぶん借りてきた猫のようなさまは、かわいそうなようでかわいくもあり。

 アルコールのせいだろうか。そういえば店でもここでも飲むばかりで、つまみのたぐいはほとんど口にしてなかった。いつもはバランス良く食べろって注意してくるくらいなのに。

 ぼんやりと空を見上げる横顔は口もとに笑みを浮かべていながらもどこか淋しげに映った。

 月とうさぎが遊ぶ懐かしい童唄。優しい旋律とはべつにその唇に魅せられる。

 気づいたら、もうそこからそらせない。

 揺れるたびに肩が触れ、髪が頬をなでて。かすれた声に耳が熱くなる。のどが渇くのはスカートじゃ隠せない無防備な足のせい。

 見つめる。見つめられる。息を飲んだ。こんな目は知らない。こんな彼女を自分は知らない。

「輪になって、くるくる。くるくる、踊るの」

 たまらず彼女の身体を引き寄せた。想像したとおりの、想像以上のやわらかな弾力。背中から囲いこめば髪からも首筋からも花の香りがした。

 笑える。様子が違うのは自分のほうだ。らしくなく急いで。気を抜けば、彼女の意思など無視してしまいそうなほどに。

 許して欲しい。そしてできれば。あなたにも俺自身を求めて欲しい。

「くすぐったい」

 首のうしろへ落とした口づけは、はっきりとその先を促すものだったはず。なのに彼女は笑うばかりで応えようとしなければふりほどこうともしない。

 彼女が息をつめた。苛立ちと焦燥が渦巻く腕のなかは抱擁なんて甘いモンじゃなく。拘束から逃げだした腕が窓へ伸ばされる。すがるような手、求める先にあるものに気づいて彼女の顎をさらった。

 そういえば、あれを見てからか。あの月が。

 遠い故郷を想う、おとぎ話のなかの哀れな姫君。姫を欲した男たちのように、俺もあなたを追いつめてしまうだろうか。わずかに揺れる目の奥は、なにも言わない。

 彼女同様、俺も空想が得意らしい。こみ上げてくるのを止められないまま。たがいの息がまじりあう距離で告げた。

「月へはやらないよ」

 今度はこっちが笑いかけながら。月を抱くその手を優しくひきはがした。




 

 

 



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