優しいひと
くゆる煙の向こうに街の明かりが透けて見える。ぼやけた視界が嫌で逃げるようにまぶたを閉じても、胸は晴れない。今さらな迷いごと、灰皿に押し潰した。
「はい、時間切れ」
うつむいてさまよわせていた目が俺に向けられる。
「ほら、答えらんないじゃん。結局その程度なんだよ」
――アイツヲスキナノ?
「違う。わたしは彼のことをちゃんと」
「もう遅いって。 ……もろもろ、ね」
グラスに残る残骸をあおる。芳醇な香りは渇いたのどをいつもより焼くのに、いつものように染み渡りはしない。
じっと見つめられてる。そのことに優越を感じながら、ことさらゆっくりと視線を合わせた。追い詰められたと震えていた目がだんだんと別の色を帯びていく。笑ってみせたのがさらにお気にめさなかったらしく、彼女は顔をそむけた。
腫れた下唇。噛みしめてまで耐えたのは、なに?
「責められてるみたい」
「やましいことでもあるからじゃないの」
「なにそれ」
髪をかきあげるのは苛立ちの証。そういう顔、もっとさらけ出してたら、今そんなに泣くことはなかったろうに。
残念ながら従順さだけじゃ男は満足しないんだよ。
彼の前で努めておしとやかであろうとするあなたを、猫かぶりだと笑ったけど本当は。
すごく可愛いかった。可愛いくて、同時に憎らしくてどうにかなりそうだった。
ねぇ。なじみの店で過ごすふたりきりのこの時間は、あなたのなかで“やましいこと”にはならないの。
「瑠衣はさ、けっこうワルい女だよね。そのへん自覚ある?」
次の注文を伺うバーテンに視線で断りを返す。いくら呑もうと今夜はたぶん味すらわからない。
「なんか。今日の相馬君、刺々しい。煙草も知らなかった」
淋しげな声音は聞きようによっては甘えているようにもとれる。
こんな風に彼女がこぼす気まぐれを、俺はいつも自分に都合の良いように解釈してきた。そんなことしたって。
「なぁんもいいことねぇもん」
内にうごめく熱をなだめながら紳士を気取って。
怖がらせないように慎重に距離をつめ信用を得たと思ったら、ポッと出のヤツに横からあなたを掻っさらわれて。
物慣れた風を装って理解ある友人を演じ、一番の相談相手の座に収まったって。
出来上がったのは、ただただ無様で未練がましい男。それでも。
「煙草、嫌いなんだけど」
「知ってる」
見せつけるように火を点し、旨そうに肺へ入れてから吐き出してやる。はっきりと不快感をあらわにする彼女の表情が、煙に甘い香りが覆われてくさまが、自分の願望そのままのようでおかしくてたまらない。
それでもあなたが幸せに顔をほころばせるなら良かった。
少なくとも、良いんだと思いこませることは出来たのに。
「帰る」
「だめだよ」
自分で思うよりずっと低くはい出た声が彼女の動きを制する。
バックをとる細い指の間でそれは照明に反射して。見たくもないものほど見てしまう。
「なんの下心もなしに男が女に優しくすると本気で思ってんの?」
彼女の頬がみるみる赤く染まっていく。腹を立てているのか。悲しいのか。震え続ける唇からはどちらにもとれる。
「知らないワケじゃないよね。気づかなかったは、なしだから」
これは彼女を封じる呪文。共犯に仕立てるための。汚い手段でも、欲しいものを指を喰わえて眺めているよりはずっといい。
また、彼女は唇を噛む。すぐにでも止めさせたいのに。手にした煙草を言いわけに衝動をこらえた。
目に涙までためて。かわいそうに。
これでもう戻れない。
壊した後に残るのは――。
「まぁ、深く考えずにさ」
煙が夜を濃くしていく。
俺はこれから。
「試してごらんよ」
あなたにひどいことをする。
了