第五十四話
「エル、えーるー! ここ入ろうよ」
早く早く、と満面の笑みで大きく手招きをする夏音の指差す先には、廃れた、元は喫茶店であったらしい建物があった。
「……。」
それを見たエルは無言だ。
これが一度目ならまだ良い。
けれど、このやりとりを今まで三回ほど繰り返したエルは、さすがに夏音を半眼で見つめた。
「ん?」
どうしたの、と首を傾げてくる夏音に、エルはため息を吐く。
これで悪意がないのだから、たちが悪い。
「それ、廃業してるわよ…」
「えっ」
──一度目は夜にしか開店しない店を見つけ(諭した)、二度目はいかにも裏の職業の人間たちが集いそうな店に入ろうとし(慌てて止めた)、三度目はおどろおどろしい雰囲気のところに目を付けた(通報されるからと諦めさせた)。
よくもまあ、こういう店だけを見つけるものだ。ここが裏通りだというのも関係しているんだろうけど。
「……もう、大通りに戻る?」
「いや、探検続ける! もうお腹すかなくなってきたし。興奮したからアドレナリンが分泌されてるんだろうね」
「あど…?」
「アドレナリン。血糖値を高める働きを持つホルモンなんだよ。詳しくは知らないけど、それが分泌されることにより空腹を一時的に感じなくなるんだとか。事故に遭ったときや非日常に出くわしたときも分泌されて、痛みを感じなかったりするらしいよ」
私は幸い事故にあったことはないけどね、と付け加えると、エルから質問がきた。
「カノンがこちらに来たときは?」
「あーっとね、あの時は私何日間か眠ったまんまだったから、それには該当しないと思う……?」
その返答は、質問に答えているはずなのに疑問系だった。
あの時は少し混乱していて、それどころではなかったというのが適切か。
「でも、空腹を感じない体験をしたことはあるよ。例えば、お気に入りの本を読んでいるときとかね。お昼を抜かしてその時間を読書の時間に当てたけれど、平気だったよ」
夏音は、多分これもアドレナリンが関係しているんだと思う、と頷きかけ、とめる。
「エルはどう? お腹すいた?」
「え? ……そういえば、そんなでもないわね。けど、カノンが倒れては元も子もないのだから、早く昼食食べるわよ。表に出ればそれなりに喫茶店でも食事どころでもあるから、戻りましょう」
「えー…。そんなにヤワじゃないよ。一食抜いたくらいで倒れないよ?」
「自分が知らないうちに、精神的疲労が溜まっているかもしれないじゃないの。ただでさえ慣れない土地なんだから、ニホンと同じに考えない方が良いわ」
「……むぅ」
何か反論したいが文言が思い浮かばない夏音は、替わりに口をとがらせた。
それを意に介さず、エルは夏音を引っ張り表通りへと戻る。
残念だと息を吐いた夏音は、暫くしてから諦めたようにその通りを歩き始めた。
「じゃあ、せめて昼食の希望聞いてよ。甘いものが食べたい」
「甘いもの? …昼食ではなくてお菓子が食べたいの?」
「パンケーキならご飯になるよー?」
「何よ、それ?」
「えっとね、これは日本古来の食べ物ではないんだけど…」
突然、エルが夏音の腕を掴む。
それまでパンケーキの説明をしていた夏音は、言葉を切ってエルを窺った。
どうしたのだろう、急に。
そうやって見ていると、顔を上げたエルと目があった。
…どうしてこの状況になったのかはよく分からないけれど、とにかく、エルが今声を出さないで欲しいのは分かったので、首を傾げるだけに留める。
説明求めます、と視線を送ると、ややあってエルが口を開いた。
「……言っておくけれど、甘いご飯なんてこの世に存在していないわよ」
「えー」
メープルシロップとバターのたっぷりのったホットケーキ食べたかった。…今度シフォンケーキを作る傍ら、パンケーキ作りにも挑戦してみようかなぁ。
そう零す夏音は、存在していないのであれば仕方がないと、渋々そのオーダーを諦めた。
「じゃあどこでもいいやー。エルの食べたいものは?」
「私……? えっと、何でも構わないけど…」
「ってことは、まともなお店ならどこでも良いんだね? じゃあ今から探すぞーっ」
表通りはお洒落なお店が多いから、一つだけ選ぶのも大変だよね、と言いつつ楽しげにお店を見て回る夏音。
先ほどの疑問は既に頭に無いようだった。
それを疑問に思ったエルが訊ねると、「社会人になるとね、流すことも必要なんだよー。…何でもかんでも首を突っ込むと、ろくな事にならないっての、よーく分かってるからねぇ」との返答。
けど、相談したいのであればいつでも聞くよ?と胸を張る夏音に、エルは微苦笑を浮かべた。
「……妙なところで大人びているのね」
「……ん? それ、褒めてる? 貶してる?」
あまり要領を得ないエルからの返答に、夏音はしきりに首を傾げたのだった。




