第十八話
気が付くと、目の前に誰かがいた。そいつは立っていて、じっとこちらを見つめていた。
──どうしてだろう。
顔は見えないのに、こちらを向いていることはわかる。表情ですら窺い知れない暗闇の中で、それでも、こちらへと何かを伝えたがっているのは分かる。
「───」
しきりにこちらへと何かを言っている。
だが、それは、まだ微睡みの中に意識がある私には、声として認識されていなかった。頭が働いていないのだろうか?
ただの音。しかし、それは確かに私へと呼びかけてきている。
──やがてそいつは、こちらへと歩み寄ってきた。
『怖い』──それは感情ではなく、本能だった。
この、自分の身体ですら認識できないほどの暗闇が。
そんな暗い中、『余裕』の表情で悠々とこちらへと歩み寄ってくる相手が。
それを、どこか客観的に、冷静に判断している自分が。
──そんなことをしている間にも、相手はどんどん近付いてくる。
逃げたいのに、足に力が入らない。足どころか、身体が動かない。自分のものではないような感覚に陥る。
──嗚呼、でも。立たなくては、逃げなくては。そうしなければ、きっと──
そう念じているのに、身体は言うことを聞いてくれない。心は完全にパニックになっているのに、頭はすごく冷静で…まるで、自分がもう一人いるかのような感覚だ。
ずるずると、私は腕の力だけで後ろへと下がった。勿論、腕もまともに働かず、ほんの数センチしか下がることは出来なかったのだが。
相手がニマァっと笑う。目の焦点は私に合っていて──それが最後。目が合ってしまったことが契機となったかのように、私はもう一ミリも動けなくなった。瞬きすらできず、身体中の筋肉を強ばらせて、相手を見ることしか出来ない。
嫌だ触れるな消えろ近付くなそのまま何処かへ行ってしまえ。──心の底から沸き上がってくる、嫌忌の感情。
恐怖を怒りにすら変えられず、後からこみ上げてくるのは己への侮蔑。
どうして流された。どうしてもっと抵抗しなかった。死に物狂いで抵抗すれば良かったのに、どうしてそれをしなかったのか。
茫然自失している自分にすら嫌気がさして、彼女は自らの腕へと爪をたてた。──と。
「───」
すぐ近くで声がして。意識を目の前に戻すと、そこには目の前に迫った、あの男の──
「──夏音!!」
その声で、私は夢から一気に現実へと意識が切り替わった。
「ッ、……っは…」
意識が覚醒した私を待ちかまえていたのは、死ぬんじゃないかと思うほどの圧迫感。息を吸いたいけれど、なぜか浅い呼吸しか出来ない。
苦しい。生理的な涙が頬を伝った。
「夏音。息吸って、吐いて…そう、ゆっくりで良いからね」
「っ……かいと…?」
「うん、そうだよ。──大丈夫、僕はずっとそばにいるからね」
兄が、両腕で私を包み込んでくれた。安心する人のぬくもり。…良かった、いる。
「…かいと、怖いの」
「夢だよ。大丈夫」
そう言いつつ、夏音の表情がよく見えるように、そっと抱きしめていた腕を離した。
「うー…」
何か気に食わないことでもあったのだろうか。眉根を寄せて俯いてしまう夏音。
「……」
「……」
そして、しばらくはどちらも喋らない時間が生まれた。
気まずくなっての沈黙ではなくて、夏音は息を整えるのに必死(というより、周りに迷惑をかけたくないんだと思うけどね)だし、僕は夏音の顔色が悪くないか伺うことに集中していたことが原因だけれどね。
「…だいぶ良くなったー。お騒がせしました」
「……うん」
その証拠に、夏音は息が整ってからすぐにそう言ってきた。僕を心配させないようにか、笑顔まで浮かべて。
たしかに呼吸は通常通りだけれど、精神的にはまだ落ち着いていないのがバレバレだよ。だって笑顔がぎこちないからね。 …とは思ったものの、そこは詰問せずにそっとしておく。
代わりに、かすかに頷いて、『本当に大丈夫?』と目線で問いかけてみる。
こくりと頷く夏音。
「……。本当に? なんなら、今日は一日中寝ていても構わないんだよ。──くれぐれも無理はしないようにね」
「今回はそんなに酷くないから、大丈夫だよ。…お騒がせしましたー」
今回は心配しなくても大丈夫──そう言って夏音は再び微笑む。
「……ぶっちゃけ、私が休んでも海斗が側にいてくれないと意味がないんだよね。
でもさ、海斗は休めないでしょ? 学生の頃とは違って、海斗は魔王…この国を統べる、唯一無二の存在なんだから。
──海斗がいないなら、動いていても休んでいても一緒だよ。あのことに対しての恐怖はあるけれど、別に人が怖いって訳じゃないんだし…。それに、人と話していた方が気が紛れる」
「……じゃあ、僕もやす──」
「まなくていいから。今、唯一無二の存在って言ったばっかでしょうが」
王の資格は海斗にしかないんだから、と付け足された。
「……まぁ、そうだけど」
確かに、血筋的にはそうだ。
もし、万が一に、血筋が途絶えたときは、他の貴族達──公爵家とかから、王家に相応しい家柄を一家だけ選んで、王家とするらしい。
あ、ちなみに、王家に嫁いだり王家に選ばれたりされるのは、人型の魔族──魔術師とかエルフだけだけれどね。
それには理由があって、人間と同じ姿をしているのが、魔界には魔術師しかいないってから。
…魔界の住人たちは皆平等だし、僕ら的には獣人が嫁いできたりしてもいいと思うんだけどね。
けど、そうすると、人間と姿が違うことによって不信感を抱かれたりして、人間達との交渉がうまくいかない可能性があるからってことで、人間しか嫁げないシステムになってるらしい。
……余談だけれど、勇者と結婚するなんて、普通ないんだからね?
気質的にも、魔王と勇者は合わないだろうし、大体、勇者はおいそれといるものじゃないし。
「…唯一無二って点に関しては、王女である夏音も同じ立場なんだけどね。 僕と同じような立場だよ?」
「……私には何も聞こえなかったかなー」
「現実逃避しても無駄だよ、夏音」
両手で耳をふさいでいる夏音を見、苦笑をもらす海斗。
「…私には、とてもじゃないけれどそんな大役務まらないってば。
私は王宮図書補なのー。王女とか知るかぁ!」
「……王宮図書補?」
「え、あれ? 言ってなかったっけ?」
こてんと首を傾げる夏音。…可愛いけれど、それより気になることがあるんだけれど。
「王宮図書補って、どういうことかな?」
「王宮図書館の図書補になろうかと思って! 王宮図書館にはそういう人がいないらしいから。司書の資格は持っていないから、図書補で」
それは立派な心がけだとは思うよ。それはそう思うけれども──
「……ちょっと待って。そもそも、王宮図書館ってどこにあるの?」
「王宮からだいぶ離れたところだよ。けっこう寂れててね…。
──でも大丈夫! 立て直しのプランはあるし。
…本があんなにあるのに、ほとんど使われていないんだよ? そんなの無駄すぎるでしょ? だから、まずはあの図書館を綺麗にするところから始めようと思ってね。
あとは、落ち着いて本が読めるような空間造りをしたいと思っているよ。本も、種類ごとに分別したらもっと探しやすくなるだろうから、それもしようかなーと。
あ、あとね、くつろげる空間を演出したいとも思ってて──……あれ? 海斗、もしかして王宮図書館の存在自体知らなかった?」
話の途中で、僕の様子がおかしい(首を傾げていただけなのだけれども)ことに気付いた夏音が、話を止めてそう聞いてきた。
「…知らなかったよ。今初めて聞いた」
「……もしかして、王には秘密にされていたとか? でも、エルは何にも言ってなかったし…。大体、秘密にする意味って……?」
うーん…と頭を抱えて悩み始める夏音。そんなに悩まなくても良いと思うんだけれど……まぁ、夏音はこういう、駆け引きとか苦手だから、仕方がないって言ったら仕方がないかな。
「──おそらくだけれど、王宮図書館は魔術師しか使わないんだろうと思うよ。つまり、王には必要のないものだよね。…今はね、王になるために必要なことしか教わらないんだよ。何せ、僕らはこの世界の常識ですら知らないんだから」
「……国を治めるのに必要のない知識は後回しってこと?」
「うん。だからね…多分、落ち着いてきたらそういう知識も教わるはずだよ」
「なるほど…っ!」
夏音は納得した表情で頷く。もやもやとした疑問が解決して、ご機嫌のようだ。
僕は、微笑を浮かべると、そんな夏音の頭へと手を置いて優しく撫でた。
「──…む?」
「夏音はやっぱり可愛いね。見ていて癒されるよ」
「…癒し?」
「うん」
「……。(どこが癒しとなるんだろ? …まぁ、海斗が嬉しそうだから別にいっか)」
いい区切りのタイミングが分からず、結局こうなりました…。




