第十六話
『とりあえず、今日のところは帰りましょうか』──エルのその一言で、急に疲れが襲ってきた。
ぷつんと糸が切れたかのように、何の前触れもなく身体が重くなった。動かせないというわけではなく、動かしたくないといった表現が適切だろう。
だるい、疲れた。そう内心でぼやきつつ、夏音はゆっくりとした足取りで帰路についた。
おそらく、このだるさは、エルの言葉で気が緩まったからであろうと予想される。十中八九、精神によるものだと、夏音は今までの経験から確信していた。
──やっと休める。夏音は無意識にほっと溜め息をついていた。
別に、エルといるのが嫌なわけではない。むしろ、エルといて楽しかったからこそ、今まで身体の不調に気づかなかったといっても良い。ただ、この連日起こった、常識ではとらえられない出来事の数々と、今日詰め込んだ知識量が夏音の許容量を超えただけなのだ。
…頭の整理もしないとだなー。
にしても、私のこの記憶力の差は、一体、どうなっているんだろう。
本ならいくら読んでも内容が頭に入ってくるのに、言葉になった途端に、少しの量でパンクしそうになるんだもの。 …今度、海斗から手帳買ってもらおうかな。
「…………カノン、本当に大丈夫なの?」
軽く思考の海に浸かっていた私に、エルの声が届いた。文字通り顔色をうかがってくる。
エルは、普段は私より数センチ小さい身長だが、今の私は、いかにもだるそうにして猫背でいるので、同じ様くらいの身長となっていた。
「だいじょーぶ。寝れば治るから、安心してー」
「……」
「交感神経と副交感神経のどちらが優位かって話だよ」
『休めば治るから』となだめるものの、エルは中々納得しない。
それは、ひとえに、この世界が日本よりはるかに科学が発展していないことによるものだった。
…魔術が進展しているところってどこも同じなんだろうか?
「ふくこう……?」
「副交感神経。…ええっとね……」
エルに説明をしようと、頭の中の、眠っている記憶を探る。医学書は読んだことがないから、せいぜいが学校の教科書から得た知識だが。
「──交感神経と副交感神経は、同じ器官に分布していることが多くて、互いに拮抗作用を表すものだよ。たしか、それらは意思とは無関係に働くものだったと思う。
あ、拮抗作用は、一方が抑制すれば他方は促進する…っていう、お互いに反対の作用のことだよ」
「……えっと…? …とりあえず、難しい内容だということだけはよく分かったわ」
エルは、説明されてもなんだかよく分からないようで、困惑顔だ。
──まあ、一回聞いただけで理解できるくらいに簡単な内容なら、中学とか高校、行く必要なくなるもんねー。
…文字を覚えるのが比較的得意な私だって、教科書を何回か読まなければ覚えられなかったし。予備知識がないエルはなおさら大変だよね…。
そう思った夏音は同情の視線を送るが、エルは頭の中で先程の情報を整理することに集中しているようで、それに気付く気配はなかった。
「……えーるー。
あのね、運動している時とか、緊張している時は交感神経が優位になって、くつろいでいる時には主に副交感神経が優位になるって覚えておけば良いよ」
いや、べつに無理して覚えなくてもいいだろうけど。ここには学校もないだろうし、試験や受験もないだろうから、こんなの覚える必要性ないよね。…ぶっちゃけ、生きるのに必要ない知識だもん。
「…ニホンの人たちは、頭が良いのね」
「なんたって、日本は先進国──科学技術が進んでいる国のうちの一つだもの。そういうのが分かっているのも、頭のいい人たちの、日々の地道な研究のおかげだよ。
あ、ちなみに──たしか法律でだったと思うけれど…日本には、九年間の義務教育があるから、その程度の知識はほとんどの人が持っているよ」
「……カノンも頭が良いのね。そんなことがパッと出てくるだなんて」
「いや? 私、学年での試験、いつも中の下くらいだったよ」
「……は? え、嘘でしょう?」
「いや、嘘じゃないけれど。むしろ、どうして私が頭が良いと……。
──私さ、勉強苦手なんだよね。
訳わかんない用語とか、その用語の意味不明な説明とか…本当、いくら説明されても覚えられない。というか、理解すらできない。
なぜなら、興味がないから。…というより、嫌いだから覚えられない。分からないから嫌いだし、嫌いだから勉強しなくて、どんどん分からなくなるし……これの、悪循環。
どうにか、高校は卒業したけれど…正直、それもギリギリだったんだよね。海斗がいなかったら、高校すら行けなかったかも…ってくらいに」
いやぁ、あれは大変だったよ──そう言って苦笑いをもらす夏音。
エルは、時々分からない単語が出てくるために、そのたびに小首を傾げるものの、大変なことはひしひしと伝わったようで、同情──いや、もはや哀れみすら浮かべていた。
「…むー。 でもね、国語は楽しかったよ。
あとは、数学なら証明問題とか、物理なら相対速度、化学であれば化学反応式も面白かったし、日本史なら幕末、英語なら長文……それぞれの教科でも、興味さえあればそこそこに点とれたんだよ。その分野のテストはほぼ満点とれたし。
ただ、それ以外の分野は壊滅的だったけれどね。興味がないからか分からないけれど、テスト勉強をいくらやっても頭に入らないんだもん。…先生の話を聞いていてもどこか違う国の言葉に聞こえるし」
「……。 つまりは、すごくムラがあるっていうことね?」
「うん、それ海斗にも言われたー」
えへへ、と苦笑する夏音を、エルは呆れたような、慈しむような表情で見つめた。
「───あ、着いたね」
「あら、そうね。 もうすぐ門限だったから、丁度良かったわ」
「門限? え、早くない? まだ夕焼け空なんですが」
「でも、時刻は五時よ?」
「だから早いって、門限」
「何言ってるのよ。カノンの夕食は六時半からでしょう? 今から支度しないと間に合わないわよ?」
「え、支度って何?」
「夕食時には、それに相応しいドレスに着替えること。あなた、仮にも王女でしょう?」
「王女って言われても…」
…あぁ、そうか。海斗が魔王なんだから、当然私はこの国の王女にあたるのか。
ぼんやりとは分かるのだけれど、いまいち実感がない。こちらで意識を取り戻してから丸一日ほどしか経過していないのだから、当然といえば当然であるのかもしれないが。
その点、海斗はすごい。なんで三日やそこらであれだけ馴染めているのか不思議でならない。…しかも、魔王を襲名したのは、私が目覚めた時と同じくらい──たったの一日前のはずなのだけれど……すでに王の執務に慣れているような…。
「(うわぁ、海斗の適応能力が恐ろしい)」
なんで、たった一日足らずでそんなに馴染んでるの。
「…陛下!?」
誰かのそんな叫び声ではっと思考を停止し、『誰が』ではなく、『何が起こっているのか』原因を探るべく、周りを見渡す。──と、
「夏音…っ!」
「ぅむぐ!?」
いきなり後ろからタックルされ、ぎゅうっと抱きしめられた。
「……っ、海斗…?」
「会いたかったよ、夏音…!」
「私もー…でもさ、海斗? …いい加減、離してくれないかな」
「……どうして?」
「首が締まってるんだよ。…体格差を考えろっての」
殺す気か。
「…ごめん」
急にシュンとして腕をほどく海斗。
「……いや、別に(窒息死する危険なくなったし)良いけれど──」
「ありがとう夏音…!」
「だから力の差を……!?」
真っ正面から抱き付けば良いってものじゃあない!
「──陛下、お言葉ながら、カノンが苦しそうなのですが…」
「え? …あ、夏音!?」
「…うん、大丈夫だから落ち着こうか? (エル、グッジョブ!)」
「……(どういたしまして)」
中途半端な終わり方ですが、あまりにも長すぎるので、適当な長さでカットしました。




