真夏の夜の奇人
昨夜、自宅から数百メートル離れた市民公園で男性の変死体が発見された。
その死体は心臓に直径一センチほどの穴が開いていたという。弾丸の様な大きさの穴だが、その死体から凶器は発見されなかった。
犯行の後、犯人が銃弾を被害者から抜き取ったというのも考えにくいし、犯行があった時間に銃声を聞いた者もいない。
その後も凶器が発見されることもなく、犯人も捕まることはなかった。
死体は一般の男性サラリーマンである。
メディアにとりあげられた彼の同僚の話では、被害者は気の良い男性で、周囲からの信頼も厚く、他人に恨まれるような人物ではなかったという。
涙声になりながら話す彼の同僚にはモザイクがかけられていたが、その様子からは被害者への軽い同情や憐れみでは決してなく、本当に悲しんでいることが画面越しから伝わった。
つまり男はそれだけ恵まれた環境におかれていたのだろう。
近所で起こった凄惨な事件だというのに、僕にはなんだかピンと来なかった。
さらに言えば、昨夜僕はその事件の関係者かもしれない人物にその公園で出会っているかもしれないとさえ考えていながらも……。
僕には全く無関係の、遠い世界の出来事のようにさえ感じていた。
あの夜、僕が体験した出会いは、もう二度と経験できない奇妙な現象でもあり、日常で起こる何でもない出来事の一片のようにも思えた……。
真夏の、まだ蝉の声が耳をさすように鳴き喚く日のことだ。
友人達は大学の学園祭が終わると、早々に打ち上げに行ってしまった。
僕はというと、実行委員であったにもかかわらず、打ち上げの誘いを断っていた。というのもこの日、目当ての女の子に告白し、見事に玉砕した後だったのだ。
学園祭を無事に終えることができなかった疲れと失意の念が重なって、僕は無気力のまま、ただただ帰路に就いた。
途中コンビニで弁当と飲み物を買い、何気なく空を見上げた。
僕の頭上に広がる夜空には、万遍なく光る星が輝いている。20年の僕の人生で、これほどきれいな夜空を見たことが今まであっただろうか。
そして僕は、このナイーブになった気持ちを紛らわせようと、せめてこのきれいな星空を見上げながら弁当を食おうとそう決めた。
この時、僕の中に多少なりとも存在するナルチシズムが僕をそう思わせたのだろう。笑ってしまう。
近所の公園まで来て、ベンチを見つけて腰を下ろす。
広い公園で、周囲を見渡しただけではその全体像が把握できない。人通りも少ないので、散歩するにはおあつらえむきだ。
弁当を口に運び、僕は再び空を見上げる。そして何気なく息が漏れた。
「ふー。」
その時僕の前で、クスッと、誰かが笑ったような声が聞こえた。
驚いてみるとそこに中学生くらいの少女が立っていた。
セーラー服に大人の男性用コートというチンプンカンプンな恰好をしている。
そしてこのくそ暑い中、そんな恰好をしていて汗ひとつ掻いていない。奇妙な人間である。
顔立ちは整っている、美少女と言ってもいいだろう。だがそれに好感はないし、かといって嫌悪感もない。
この少女だけ世界と切り離されている、そんなイメージだ。
「何かおかしいか?」
普段なら僕も少女を無視していることだろう。だが、この日は投げやりで、逆に言えば怖いものなど何もなかった。仮にこの奇妙な少女が本当に世界から切り離された異物、すなわち幽霊だとしてもだ。
「ふふっ、ああ、おかしいね。」
少女は中性的な話し方で、返答する。
「何がだ?」
興味はなかったが僕は少女を追い払う口実を作るためにあえてそう言った。
「そうだな……。例えば、今にも崖から足を踏み外しそうな人間がいるとしよう。だがその人間はそんな事は微塵も気にせず、平然と明日の夕飯を考えていたりしたらなんだか可笑しいと思わないか?」
少女は淡々とそう言った。僕には少女の言いたい事が理解できなかった。
「僕が今にも崖から足を踏み外しそうだと?そういう事か?」
「ふふっ、例えばの話だよ。そういった可能性は誰にでもある。」
少女はやけに勿体ぶった話し方をする。その態度に僕はなんだかいらいらした。
「子供は早く家に帰らないと親に叱られるぞ。」
「あなただって子供じゃないか?」
「俺は一人暮らしだからな、家に帰っても心配する人間はいないんだよ。」
僕は皮肉を込めてそう言ったが、少女は全く動じる気配は無い。
「そうか、それは寂しいな。」
少女は全く表情を変えずにそう言った。
「余計なお世話だ。」
僕はこれ以上話しても無駄だと思った。そしてまだ少し温かい弁当を再び口に運んだ。
しばらくの沈黙を破り、少女が口を開いた。
「あなたは、自分の人生に直接の関わりがない相手も、間接的には大きく相手に関わっている事が事実だとしたら。その責任を自分の責任だと感じるかな?」
唐突の質問に僕は深く考えもせずに答えた。
「さあ?少なくとも僕は、自分の失敗を見知らぬ誰かのせいにするなんて器用な真似は出来ないけどね。」
「なるほどね。」
少女がうなずく。
「なら、あなたは事前に自分と無関係な他人に起こる悲劇を予測できるとして、その悲劇を回避するために自分が動こうと思うかな?」
「そうできるものならそうしたいね。」
「ふふっ、なるほど。」
僕は彼女の言い回しに何か引っかかりのようなものを感じた。
「お前の言い回しを聞いていると、これから何かが起こるような言い方に聞こえるけど……。」
「世界に何も起こらない時なんてあると思うかい?」
少女の話が急に飛躍した。見当違いのようで、的を得ているようでもあるから答えづらい。
「まあ……、どうなんだろうな。」
僕は曖昧に返事をした。
「そうだ。」
だが、この曖昧な返事を思いがけず少女は肯定した。
「悲劇を予測できたとして、それを回避できる行動を起こしたとして、その行動がさらに新たな結果を生む。それは自分の目に結果として映らないから、それが自分の起こした現象だと認識することはない。そして別に枝分かれした未来の先にまた新たな悲劇を生む。だから世界に起こる現象は個人に予測することは出来ないんだ。」
僕にはこの少女が何を言っているのか理解できなかった。イカれているとしか思えない。だが少女はさらに淡々と続ける。
「だが……、もしもその先に何もない、すべての感情も結果も生み出さないそういう虚無に向かう行動を起こす人間がいるとすれば、あなたはどうする?」
「さあ?」
もはやこの少女は、僕の目には少女には映らなかった。目の前にいるのはそういう存在、そう認識するしかなかった。
「私はその人物がもう真に生きているとは思わない。だから私はそうなる前にその人間を生かしたい。」
少女はなおも淡々とそう語る。
「そんな行動があると思うか?何もしないでいることも、ある程度他人に影響を与えるだろう?」
「ふふっ、やっぱり君は面白いな。だからそんな存在は滅多にいないよ。だから私に出会える人間もそう多くはないのだろうね。」
言葉は笑ってはいるが、彼女の表情は一切変わらない、そういえば出会ってから少女は一度もその表情を崩さない。意図的にも思えたが、ただ感情がないだけのようにも見えた。
「私もこんなに人と話したのは初めてだよ。初めはあなたがそうとも思ったんだが、どうも違ったらしい。」
「どういうことだ?」
「いや、何でもないよ。」
少女は首を横に振った。
「あなたとはもう少し話していたかったけど、残念ながら私にもやらなければいけないことがあるからね。この辺で失礼するよ。」
そういうと少女は僕に背を向けた。
「待て。お前は一体なんだ?」
僕の問いかけが終わるか終らないかの間、おそらく僕が瞬きをした一瞬、トンっ、と小さな音を立てて少女は僕の目の前から姿を消した。
そして僕一人だけが取り残された公園で、どこからかあの少女の声が聞こえた。
「私は何者でもないよ。しかし、本来はそういう存在だが、初めてあなたのような人間に接触できた。そういう意味では今回私は何者かになれたのかな?」
最後までよくわからない言葉を残して、それきりだった。
僕はふぅ、と一息ついた。それから空になった弁当をコンビニの袋ごと近くのくずカゴに投げ入れ、僕は自宅へと足を向けた。
その日の夜空は、相変わらず美しく輝いていた。
例の事件はその出来事の後に起こったのだという。いったいあれは何だったのだろうと考えたりもしたが、すぐに考えるのをやめた。どうせ考えたところで答えなどでないのだから。他人に話すこともしなかった。どうしようもなく他愛のない話なのだから。
それから一週間が過ぎた。通学中に一度だけあの時の少女によく似たセーラー服の中学生を見かけた。だがその少女は、あの夜の人物とは別人のように屈託のない笑顔で並んで通学する友人とじゃれあっていた。