二話
アーロンは目が覚めると、目の前に眠る美女に驚いた。
「うわッ! ……と、そうか、僕は結婚したんだったな」
絹のような白い髪はベッドに流れるように垂れ、アーロンの腕を軽く握っていた。スヤスヤと寝ていたギルティアは大胆に胸元を開き、見えてはいけないところまで見えそうなほど際どい格好で穏やかな寝顔を晒している。
赤みを帯びた肌を間近で見たアーロンは逃げるようにベッドから降りた。そしてカーテンの隙間から差し込む朝日に誘われ、窓辺に近づいてカーテンを勢いよく開けた。
「……いい風だ」
窓も開けて空気の入れ替えをすると涼し気な風が入り込む。アーロンは邪念を払い、火照った顔を冷やすついでにだだっ広いだけで何もない景色を眺めた。
そよ風に揺れる見渡す限りの草原をかき分けるように馬車一台分の道がひたすらに真っすぐ続く。その道の先には昨日立ち寄った寂れた街があった。ただ、それだけのつまらない土地。
王都のような華やかさは一切ないが、逆にそれがアーロンの尖っていた神経を慰めた。
アーロンの背後からもぞもぞとした音が聞こえ「おはよう、早起きなんだな」と声が掛かる。ギルティアは寝ぼけ眼で大きく欠伸をした。
「騎士団に居た頃はもっと早い。それよりも胸元を隠せ」
日が昇ると同時にけたたましいベルの音で目を覚ましていた騎士団時代、子爵家に戻っても似たような音で必ず起きて家族をイラつかせていた。
目覚ましとなる音もなく自然に目が覚めたのは何年ぶりだろうかと、アーロンはふと思った。
「どうかしたのかい?」
「いや、穏やかな朝だと思っただけだ」
知らない土地で眠れないのではと少し不安にしていたギルティアは、アーロンの言葉を聞いて「そりゃあ、よかった」と呟いた。
再度大きな欠伸を一つ漏らしたギルティアは、アーロンが後ろを向いているのをいいことに寝巻を脱ぎ、クローゼットから薄手のワンピースを取り出した。
「さあ、朝ごはんにしよう。食べられない物はあるかい?」
「……ない」
「少年はもう騎士ではないのだから、食べなきゃいけない使命はないぞ?」
「……ではトマトはやめてくれ、ケチャップならいい」
「了解だ。しばし待つといい」
昨日の諍いはどこへやら、アーロンが素直になっているのには訳があった。
殺風景な場所で心を落ち着かせたのもあるが、やはり食事だった。昨晩の食事はギルティアが作り、アーロンはうかつにも胃袋を掴まれてしまっていたのだ。
腹いっぱいに詰められたらいい、味は気にしないと実家で豪語していたアーロンだが、手心籠った料理を前に気が付けばじっくりと味わいながら完食していた。
ギルティアが着替えて部屋を出て行ったあと、「昨日のパイスープ、美味かったな」と扉に向かって呟いたその一言はギルティアに聞こえていて、「また作ってやろう」というわざと聞こえる独り言にアーロンは赤面した。
「……もう少し、話し合いをすべきか」
アーロンはまだギルティアのことを何も知らない。式を挙げずとも婚姻は済ませた二人。サイドテーブルでコロンと主を待つ指輪に手を伸ばした。名前もアーロン・シンセシスから、アーロン・モーラントへ。思っていた以上に抵抗がなくて拍子抜けしていた。
騎士であることが己の全てであったアーロンは、昨日、血が上ったという理由だけで女性に剣を振るったことが相当堪えていた。
すでに騎士の矜持は崩れ去り、尖った心を丸くさせる何もない穏やかな景色を前に、アーロンはギルティアのことしか考えられなくなっていた。
アーロンの脳裏に焼き付いているのは、さらさらと流れるような綺麗な白い髪、人の心を見透かすような青い瞳、そしてシミ一つない美しい肌。夫婦になった以上は夜の営みも視野にいれていたが、昨夜は互いに誘う事はなかった。
ギルティアも無理強いは一切していない。アーロンに警戒されているのはもちろん、そもそも誘いに乗ってくるとは微塵も思っていなかった。
「なんでベッドが一つだけなんだ。初対面の者と同衾など何を考えている」
アーロンが火照った顔を窓から入り込む風で冷ましていると、リビングから「朝食が出来たぞ!」と威勢のいい声が掛かる。アーロンは手のひらの指輪を慌ててポケットに仕舞い、部屋の隅に置かれた剣を手に取り、少し考えて、置いてから部屋を出た。
朝食はギルティアが昨晩のうちにある程度仕込んでいたサンドイッチに昨晩の残りであるオニオンスープ、八百屋で買った桃がカットされてテーブルに並んでいた。
子爵家で使用人が用意したものと比べて料理は実に質素なものだったが、アーロンのためを思って用意された食事は、振る舞われたアーロンにとってとても華やかに見えた。
二人が向かい合って座り、サンドイッチを口に入れると、アーロンの心は不思議と温もりを感じられた。
これまでは腹に詰めるように飲み込んでいた食事だが、ゆっくり噛み締めたアーロンは思わず「……美味い」と言葉をこぼした。
「今まで少量のコショウとか、味が薄いものなど調理に用いる理由が分からなかったが、いざ意識して噛み締めると仄かに香りを感じられていいな」
表面を焼いてカリカリにした食パンに瑞々しいレタスの葉を挟み、そこに焼いたハムとスライスチーズ、卵と、黒コショウを入れて混ぜたマヨネーズが大量に掛かっていた。
ギルティアのサンドイッチにはさらにトマトも挟まれていて、これなら苦手なトマトも食べられるのではと考えさせられるほどアーロンの口に合っていた。
「それはよかった。不味いと言われたら私の人生を否定されるようなものだからね」
「ほう、それほどまでに料理が好きなのか?」
会話が弾みそうな予感にアーロンは嬉々として聞いた。
「不老不死になった後の楽しみと言えば食事くらいのものだったからね、髪の色素は抜けてしまったが、それ以外に身体の変化が起きない以上は五感を楽しむ他にない」
髪の先を軽くつまんだギルティアはぎこちなく笑い、パッと手を離した。
スプーンでスープを掬い、静かに飲むギルティアの姿はお淑やかで、アーロンの目には上級貴族の令嬢のように映った。
「どうかしたのか? じっと見つめて」
「いや、……ギルティアは、本当に姫なんだなと思ってな」
「だいぶ所作は忘れたがね。モーラント王国は遥か昔に破滅した国だが、私は紛れもなくその国の第一王女だった。複数の家庭教師に囲まれながら、それなりに厳しい教育を受けていたさ」
「……失礼だが、歳はいくつだ?」
「釣書を見ていないのかい?」
「父上が確認して僕は家を追い出された。知っているのは名前だけだ」
「そうか、まあ成長はおろか老化すらしない者の歳など、知ったところで意味は無かろう。……そうだな、初めから説明するとしようか」
ギルティアは指を拭い、手を膝の上に置いた。高貴な者を相手にしていると思わされるほどの綺麗な所作にアーロンの背筋も伸びる。
「正確な数字は忘れたが、約二百年前にここ、クロフォード王国は建国した。だが、それより前に十数年の空白があり、モーラント王国は破滅している。この国の人間はモーラント王国民の生き残りの子孫とも言えるな」
「確かにこの国の歴史は二百年と習う。しかし、それより以前のことはまだ不明瞭として詳しくは習わなかったな。どうして滅びたんだ?」
「私が世界の悪を全て、この身に受け入れたからだ」
「……すまない、どういうことだ?」
不老不死ということですらまだ疑っているアーロンは、さらに理解不能なことを告げられて頭が混乱した。こうなることは想定内だったギルティアは軽快に笑った。
「はははっ、現代では到底理解できぬ話だろう。だが、当時の私には摩訶不思議な力が宿っていてね、それは神にも等しい力を行使することができたのだよ」
「その神にも等しい力とは、聖女の力とは違うのか?」
アーロンは神殿で祈りを捧げる聖女たちを思い浮かべた。彼女たちは神へ祈りをささげることで力を授かり、その力で怪我や病気を治すことが可能だった。
「いや、呼び名が違うだけで根本は同じものだ。祈りを捧げてわずかな神力を行使できる者たちのことならアーロンもよく知っているだろう。しかし当時の聖女は私だけだった。処女を失えば力は失われると決めつけられ婚約は解消、その後はほぼ監禁されるほどに重宝された。当時の私はとんでもない力が使えたのだぞ?」
肩をすくめておどけるギルティアは、もったいぶりながらも聖女の力を自慢した。「監禁とはあまり笑えない話だな」と逆に真面目なアーロンに拍子抜けする。
ギルティアは少し口先を尖らせて「王が私に告げたのだ。国の繁栄のため、世に蔓延る悪を取り除け」と、誰にも伝わらない下手な物まねを披露した。
「それで悪を受け入れたと?」
ギルティアは微笑みながら頷く。当時のモーラント王国は賊が蔓延り、盗みや暴力が当たり前となっていた。贅沢な生活を崩したくない王は、娘であるギルティアに命じたのだった。
王の命令は絶対であり、悪を取り除くことが国の繁栄に繋がることを誰も疑わなかった。それで素晴らしい世界になると、世界中の期待がギルティアに集められた。
「それがなんで不老不死になる?」
「少年に質問しよう。人を最も苦しめる罰とはなんだと思う」
「え? それは……拷問、身体的苦痛だろうか?」
「国を守る騎士団だった少年らしい回答だ。たしかに痛みは苦しいし辛い。痛みは人を狂わせるからね。では、そんな苦しいと思っている者が願う事はなんだろうか」
アーロンは想像し、拷問にかけられている者の気持ちを代弁した。
「過度な苦痛は救済よりも……死を願うか。なるほど、死ねない体質、不老不死こそが最大の罰ということか」
パチンと指を鳴らして「正解だ」とウインクしたギルティアは、食後のコーヒーを淹れるために席を立った。
ギルティアの家ゆえに新妻らしい初々しさはないが、慣れた手つきで準備を進める様は見ていて飽きを感じさせない。こじんまりとしたリビングはキッチンが丸見えであり、アーロンは思考をまとめながらコーヒーを入れる妻の姿を眺めていた。
「世界の悪を受け入れた代償が不老不死、か……」
頭の中で整理を終えたアーロンの前にコーヒーカップがコトンと置かれた。
「続けよう。私は不老不死になったが、どうしてモーラント王国が滅びたかは話していなかったね。理由は単純さ、人は悪がない世界では生きられない生き物なのだよ」
ギルティアは近くのタンスからコインを一枚取り出し、現代国王の姿が刻印された表側を見せた。
「表しか存在しないコインは、コインではない。裏が存在して初めてコインとして成立する」
かつて神の力を用いて世界中の悪を受け入れたギルティアだったが、その後に残ったのは、善意による国の機能の崩壊だった。
世界の悪を受け入れたギルティアは、脳を焼くほどの膨大な量の悪に発狂した。
藻掻きつつも生き続ける中、世界中ではよかれと思って他人を蹴落とし、よかれと思って人を殺す。民が幸せになるために、王は悪意無き殺意に殺された。そして、王も善意で民の謀反を受け入れた。
やっと理性を取り戻したギルティアが見た世界はあまりにも変わり果てていた。殺伐とした世界は数カ月と持たなかったのだ。やがて、新たに生まれた悪の感情が世界を支配し、善と悪を兼ね揃えた者が新たな国を作った。
ギルティアはそこまで語らなかったが、アーロンには悪がないことの恐ろしさが理解できていた。
悪を斬ることを目的に騎士団で励んできたため、アーロンは思い出すように瞼をそっと下ろした。
「僕も、悪によって生かされていたようなものだ。悪のない世界はすぐに崩壊しただろうな。巨大な組織の統率というものは敵がいて初めて成立する。悪意が無ければ無秩序な集団なだけだ」
ブラックのまま飲む少し酸味が強めのコーヒーはアーロンの好みだった。嫌な想像と共に洗い流す。
「流石にやりすぎたみたいでね、聖女の力は剥奪されて罰を与えられた。私は多くの者を殺した罪を背負っているのさ」
「それが不老不死……」
「ああ、だがこの罪は何も私個人に科せられた罪ではない」
「どういうことだ?」
角砂糖を二つとミルクは円を描くように淹れ、ティースプーンで軽く混ぜたコーヒーを飲んだギルティアは答えた。
「この不老不死は譲渡出来るのだよ、少年」
「譲渡できる? ……まさか!」
「不老不死はこの世界の人々に掛けられた呪いだ。そして、譲渡の方法は身体を重ねること」
「誰もが罪を背負っていると。……それで、僕に不老不死を明け渡そうと?」
「そうだ。少年はまだ若いし美しい。たとえ不老不死になろうとも、すぐ誰かに譲渡できるだろう」
アーロンは、自分がここへ呼ばれた理由を知って拳を固めた。自分が利用されるためだと知って怒りが湧いていた。しかし「今まで一人で背負ってきたんだな」と、同時にギルティアに同情もしていた。
怒りに固めた拳の向かう先はないと気づく。膝に強く押し付けられ、ズボンに大きな皺を作った。
「昨日、不老不死は罪だと言った。なら清算する方法もあるんじゃないのか?」
頷いたギルティアの表情はどこか悲し気で、少し疲れの籠った声で答えた。
「あるさ。生きればいい。ただひらすらに、善意を働くこともなく、生き続けた先に終わりはある」
「それはあと何年――」
「それは分からないな。ただ、私の性格が変わってしまう程に長い時を過ごしてなお、終わりは見えないのだよ」
ギルティアは、アーロンの言葉を強引に遮った。これ以上は聞くなと言わんばかりに鋭い視線がアーロンを貫き、しばしの沈黙ののち立ち上がった。
「さて、私はそろそろ出かける。買い物をしてこないといけないからな」
コーヒーカップを二つ持ったギルティアは、外したエプロンを手にキッチンへ向かった。
「僕が荷物持ちをしよう」
「脚が悪いのだろう? 大丈夫だ。今日は運よく荷物を運んでくれる人が現れるからな」
「そ、そうなのか?」
「ああ、寂れた街ではあるが、運よく八百屋は開いているし、運よく肉屋は代変わりが上手くいった。少年はゆっくりしているといい。暇なら馬の世話をしてくれるとありがたい」
家事全般が好きなギルティアは、洗い物をしているうちに機嫌をよくする。作った食事を美味しそうに食べてくれる人がいるのは嬉しいし、アーロンの世話は少しばかりやりがいを感じていた。
「馬の世話なら任せろ。それと、一つ聞きたい」
「なんだい?」
「ギルティアの運がいいのは、生まれつきなのか?」
「いいや、私は神の力が使えただけでここまで運はよくなかった。神の忘れ事か、副次的な効果なのかは知らない。ただ、なんとなく答えは分かっている」
不老不死と幸運がいったいなんの関係があって起きたことなのかと首を捻るアーロンに、ギルティアは口角を上げて笑みを浮かべた。
「コインは表しかないとコインとして成立しない話と同じさ。私という世界中の悪を受け入れた存在は、言うなればコインの裏側」
洗い物を終え、エプロンを外したギルティアはコインの裏側をアーロンに見せた。
「世界の最悪を受け入れた私の身体は常に裏側、私という存在を成立させるには常に表という幸運を呼び寄せなくてはならない」
パチンと弾いたコインが子気味良い音を立ててテーブルを跳ねる。くるくると回転し続けたコインはやがて、アーロンに裏を見せた状態でテーブルの上に立ってみせた。
自分の存在を知らしめるがごとく、コインは何度投げても同じ状態で制止した。
「ほら、運がいいだろう?」




