巫女の礼と霧の洋館
※本編を読んでからのほうが雰囲気が分かりやすいです。
迷い森から戻って、三日ほど経った夜だった。
夕方の参拝客が途切れ、社務もひと段落したころ。
境内にひとり立つ大狼の肩に、ふわりと冷たい風が降りてきた。
『――そろそろ良かろう』
頭の奥に、低い声が落ちる。
「……行ってきます」
大狼は、静かに一礼した。
『礼を言いに行くだけじゃ。
迷いに飲まれそうになったら、さっさと戻れ』
「分かってます」
本当は、少し怖い。
でも、巫女として、ギルドマンとして――そして、“ここ”の加護を受けている者として。
あの館に、きちんと「ありがとうございました」と伝えに行きたい、という気持ちも、確かにあった。
街を抜け、夜気の濃くなる方角へ足を進める。
迷い森は、トウカの外れから、じわじわと霧を伸ばしている。
昼間でも薄暗いその森は、夜となればなおさら、人の足を遠ざけた。
(……今日は、迷いを押し返しに来たんじゃない)
大狼は、護符袋をそっと握る。
(ただ、お礼を言いに来ただけ)
前回は、“依頼として”森を抜ける必要があった。
だから、結界札を工夫して、足元を元の道に繋ぎ直しながら進んだ。
今日は違う。
迷いそのものと力比べをしに来たわけではない。
「ここまで行って、ここから必ず戻る」という線を、自分の中にあらかじめ引いておく。
森の入り口に、足を踏み入れる。
かすかに、空気の重さが変わる。
前に来たときほど、いきなりぐらりとは揺れない。
けれど、足元と視界の感覚が、少しずつずれていく、あの“いやな感じ”は、やはりここにあった。
鳥居をくぐったときに感じる、静かな“神社の気配”とは真逆の感覚。
まっすぐだった道が、気付いたら斜めに傾いているような、足場を横から引かれる感じだ。
(落ち着いて、足だけ見る)
深呼吸して、意識を足に落とす。
前回の依頼のために、大狼は「迷いの中でも足元だけは戻れるようにする」札を編み出した。
今回は、その簡易版だ。
森の木々を一本一本“目印”として拾い上げ、
足裏から、ゆっくりと「ここに立っている」という感覚を広げていく。
視界の端で、霧が揺れた。
ほんの一瞬、道が別の方角に曲がったように錯覚する。
それでも、足はそちらには向けない。
――霧の向こうに、「あの気配」がある。
神社の結界とも、大狼神の結界とも違う。
けれど、見えない“骨組み”の奥底に、ごく弱く“社に似たもの”が混ざっている、あの異質な気配。
(クルスさんの結界……)
前回、慌てて駆け抜けた場所を、今日は少しだけ丁寧に辿る。
幾つかの分かれ道を、護符の感覚に従って抜けると――
霧が、唐突に薄くなった。
そこに、館はあった。
森の中にぽつんと取り残された、歪な洋館。
窓のいくつかには灯りが灯り、影がかすかに動いている。
(前より……まっすぐ、来られた)
大狼は、小さく息を吐いた。
前に訪れたときは、とにかく必死で、気付いたら玄関の前に立っていた。
今は、自分の足で選んだ道の先に、この館がある、とちゃんと分かる。
それだけでも、迷いに飲まれてはいない証拠だ。
それでも、玄関の前に立つと、膝の裏が少しだけ冷たくなる。
巫女として、礼を言いに来ただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう言い聞かせて、ノックしようと手を伸ばした、その瞬間――
「開いてるわよ」
中から、からんと鍵の外れる音がした。
扉が、勝手に少しだけ開く。
「……」
前にここで会った、白髪の女の顔が浮かぶ。
大狼は、思い出した名前を確かめるように、そっと口を開いた。
「エヴァンさん、ですか?」
扉の隙間から、白髪が覗いた。
「巫女ちゃん、いらっしゃい」
エヴァンは、いつもの薄い笑みを浮かべていた。
「一人? 拳振り回してる子と、妙に構えが真面目な剣士の子は?」
「今日は、私だけです」
大狼は、ぺこりと頭を下げる。
「突然すみません。
神社として、きちんとお礼を伝えに来ました」
「ふうん?」
エヴァンは興味深そうに目を細め、扉をさらに開けた。
「じゃあ、中で聞く。
玄関前で礼を言われても、風が寒いもの」
促されるまま、館の中に足を踏み入れる。
前回と同じ、柔らかな灯りと、ほこりっぽくも落ち着く空気。
床板が、ぎし、と懐かしげに鳴った。
「で、“神社として”のお礼って?」
サロンのソファに腰を下ろすと、エヴァンが向かいの椅子に座り、足を組む。
銀髪の男――館の主の姿は、まだ見えない。
「クルスさんは……」
前に名乗られた名を思い出しながら、そっと尋ねる。
「さっき外。森の様子をちょっと見に行ったわ」
エヴァンは肩をすくめる。
「“本部がどう動くか気になる”とか言いながら、結界の張り直ししてるんじゃない?」
「……本部のことまでご存じなんですか?」
「さすがに“紙の上の動き”までは知らないけど」
エヴァンは、指先で肘掛けをとん、と叩く。
「迷いの濃さは、外から見ても分かる。
巫女ちゃんたちが戻ってから、森の中の“揺れ方”がちょっと変わったからね」
「変わった……?」
「“気付かれた”森と、“誰にも気付かれてない”森は、揺れ方が違うの」
それは、よく分かるような、全然分からないような言葉だった。
大狼は、姿勢を正す。
「神社として、クルスさんにお礼をお伝えください」
「内容によるけど、聞いてみましょうか」
「迷いの中で、道を戻れたのは……私たち自身の足と護符もありますけど」
言葉を選びながら続ける。
「クルスさんの結界が、“これ以上は踏み込ませない”ようにしてくれていたおかげでもあると思います」
森で、一瞬だけ感じた見えない壁。
大狼自身の結界とも、大狼神の結界とも違うが、“こちら側に戻そうとする力”が、確かにあった。
「それを神社として、見過ごしたくなかったので」
「ふうん、律儀」
エヴァンは、少しだけ口元を緩める。
「“巫女に甘い”って、大狼神が言ってたわ」
胸が、どきっと鳴った。
「大狼神さまの話、したんですか?」
「ちょっとね。“あっち”からもこっちからも、連絡は来るの」
言い方は軽いが、その内容は全然軽くない。
大狼が言葉を詰まらせていると、階段のほうから、ゆっくりと足音が降りてきた。
「――巫女の礼なんて、久しぶりだな」
銀髪が、灯りの中に現れる。
クルスが階段を半分ほど降りたところで立ち止まり、片肘を手すりに預けた。
「久しぶり……?」
大狼は、思わず首を傾げる。
「はい?」
「大狼神とは、ちょっと古い付き合いでな」
クルスは階段にもたれたまま、片目だけを細める。
「あいつがまだ、今みたいにどっしり構えてなくてな。
山と社を落ち着かせる前は、巫女もよく入れ替わってた」
「巫女さんが、ですか?」
「先代も、その前も、そのまた前も」
クルスの口元に、わずかな苦笑が浮かぶ。
「礼を言いに来る巫女もいれば、
“なんで余計なことした”って怒鳴り込んでくる巫女もいた。
あの頃は、こっちも少しやんちゃしてたからな」
「……想像できます」
大狼は、思わず小さく笑ってしまう。
大狼神の苦労した顔が、なんとなく目に浮かんだ。
「だから、“巫女が礼を言いに来る”ってのは、わりと懐かしい光景だ」
クルスは、そこでようやく今の大狼を真っ直ぐ見た。
「お前の番が来たってことだな」
「来るだろうとは思ってた」
その言い方が、あまりにも当然のようで、大狼は一瞬、返事を忘れた。
「……誘っておいて、放ったらかしは、さすがに趣味悪いだろ?」
クルスは、目だけで笑った。
「わざわざ一人で来たのか」
「はい。これは、巫女としての用事なので」
「ギルドじゃなくて、“神社のほうからの礼”ってやつか」
「そうです」
大狼は、立ち上がって向き直る。
「迷いの中で、何度も足を取られかけましたけど……
最後に戻ってこられたのは、クルスさんの結界のおかげもあると思っています」
「全部俺のせい、って言われるよりは、だいぶマシだな」
クルスは、あっさりと答えた。
「迷い森の“おかしさ”そのものは、俺の趣味じゃない。
俺の結界と、別の何かがぶつかって、ああなってるだけだ」
“別の何か”――
その言葉の重さを、大狼はまだ知らない。
ただ、そこに“神社ではない何か”の気配が混ざっていることだけは、薄々感じている。
「でも、巫女としては、助けていただいたことに変わりありません」
それは、大狼神にも言われたことだ。
――礼ぐらい言っておけ。
「ありがとうございました」
大狼は、深く頭を下げた。
しばらく、沈黙が降りる。
やがて、階段の途中から、ふっと短い息が漏れた。
「……まあ」
クルスが、片手をひらひらと振る。
「巫女に頭下げられるのも、たまには悪くない」
「照れてる」
エヴァンが、小声で茶々を入れる。
「うるさい」
軽い応酬に、少しだけ場の緊張がほどける。
――その時だった。
かすかに、床の下から、震えが伝わってきた。
「……?」
大狼が足元を見ると、ほんの一瞬、薄い“何か”が、板の隙間から立ち上がった気がした。
あの夜、館を出る前に聞いた、壊れたような声。
笑いとも泣きともつかない、ひび割れた音。
耳の奥で、その記憶が、微かに蘇る。
「今日は静かなほうね」
エヴァンが、そっと視線だけを床のほうへ落とした。
「あの子、外の気配を嗅ぎつけると、すぐ騒ぐから」
「……“あの子”?」
思わず問い返してしまう。
エヴァンは、少しだけ口元を引き結んだ。
「地下の子よ。
長く生きすぎて、足場を見失った子」
言葉は淡々としていたが、その奥にあるものは軽くない。
「前に聞こえた“声”は……」
「そう」
エヴァンは頷く。
「外に出たがってる。
でも、今のまま出したら、迷い森どころじゃない騒ぎになる」
大狼は、何も言えなかった。
神社で聞いた、大狼神の言葉が、頭をよぎる。
――“同じ”であれば、力になれるかもしれん。
それが何を指すのか、まだ分からない。
ただ、自分の胸の奥に、同じ“揺らぎ”があることだけは、薄く理解していた。
「降りてみたい?」
エヴァンが、冗談のような声音で言う。
大狼は、一瞬だけ息を飲み――首を横に振った。
「……今は、やめておきます」
「賢いわね」
エヴァンは、ふっと笑う。
「“助けたい”って思い始めた巫女が降りていったら、
あの子、全力でしがみついてくるもの」
クルスは、そのやりとりを黙って聞いていた。
階段の影で、銀の瞳が一度だけ、細くなる。
(同じ巫女、か)
心の中でだけ、呟く。
(いつか――どこかのタイミングで、顔を合わせることになるのかもしれないな)
けれど、今ではない。
大狼も、まだ足元を固める途中だ。
「そろそろ、戻ります」
大狼は立ち上がった。
「長居して、すみません」
「別に」
クルスは、あっさりと言う。
「巫女の礼は受け取った。
次に迷い森で会うときは……そうだな」
少しだけ間をおいて、続けた。
「できれば、“普通の依頼”で来い」
「“バグった森の調査”じゃなくて、ですか?」
「そう。
キノコ採りとか、薬草集めとか、そういうやつ」
それは、冗談のようでいて、どこか本気の言葉だった。
大狼は、思わず笑ってしまう。
「……頑張ります」
今度は、さっきよりも少し軽い頭の下げ方をする。
エヴァンが手を振り、大狼は館を後にした。
霧の中へ出ると、森の空気が、前よりも少しだけ穏やかに感じられた。
迷いが、なくなったわけではない。
でも、“ここから戻る道がある”という確信は、前よりもはっきりしている。
(ちゃんと、帰る)
足元を確かめるように、一歩一歩、森を抜けていく。
神社に戻れば、大狼神さまに報告が待っている。
明日になれば、天音とアルカナにも、「お礼を言ってきた」と伝えるだろう。
地下の子のことも、いつかきっと――話さなければいけなくなる。
その時までに、自分の足場を、もう少し固めておかなければ。
(必ず、ここに戻ってくる)
鳥居へと続く石段を思い浮かべながら、
大狼は夜の迷い森を抜けていった。




