狂った少女
本編の少し裏側、霧の洋館の地下の様子です。
クルス・エヴァン視点で、「狂うほど長く生きてしまった少女」との関係がちらっと見える回。
※本編(迷い森編)を読んでからのほうが雰囲気が分かりやすいです。
その夜が、何度目の夜だったか――
クルス自身も、もう数えるのをやめていた。
迷い森の霧は、いつも通りだ。
館の中も、いつも通りに静かだった。
違っていたのは、ただ一つ。
地下へ続く石階段の方から、
かすかな“声”が上がってきていることだった。
悲鳴でも、怒号でもない。
もっと柔らかく、ほどけてしまいそうな、
掠れた響き。
それに、乾いた優しさを含んだ別の声が寄り添っている。
(……下か)
クルスは、廊下を曲がり、
地下へ続く階段の手前で足を止めた。
館の主として、堂々と降りていってもいい。
鍵を開ける権利も、扉を閉ざす権利も、自分にある。
けれど今夜は――
あえて、影に身を潜める。
灯りを落とした階段の下から、
ひそやかな声が立ち上っていた。
「……大丈夫、大丈夫」
エヴァンの声だ。
夜に溶けるくらい小さいのに、よく通る。
乾いた優しさが、静かに滲んでいる。
「今日は、まだ静かなほうよ」
淡々とした声色で、彼女は続ける。
「ちゃんと、自分の名前、言えてた」
その言葉のあとに続いたのは、
笑い声とも、泣き声の名残ともつかない、掠れた音だった。
少女の声。
歳は――見た目だけなら、十三、十四。
だが、その声の奥に積もっている時間は、
とうの昔に、人の尺度では測れなくなっている。
「……ねぇ」
石壁に触れるように、かすかな問いが零れる。
「今日、外、誰か、いた?」
「いたわよ」
エヴァンが、いつもと同じ調子で答えた。
「拳振り回してる子と、
妙に構えが真面目な剣士と、
耳がぴこぴこ動く巫女」
階段の上で、クルスの口元がわずかに緩む。
(言い方)
それでも、特徴としては間違っていないのが腹立たしい。
「……いいなぁ」
少女の声に、はっきりとした感情が乗る。
一言だけ。
それなのに、どろりとした羨望が、石室の奥まで満ちていく。
焚き火のそばで笑えること。
誰かと肩を並べて歩けること。
帰る場所を、「ここ以外」に持っていること。
そういう全部に向けた、“いいなぁ”。
「いいわよね」
エヴァンは否定しない。
「でも、あなたがあそこに混ざったら――」
一拍おいて、淡々と言い切る。
「ぜんぶ、めちゃくちゃになる」
「……うん」
少女は、理解はしているらしい。
分かってはいる。
分かっているけれど、それでも諦めきれない声だった。
「わかってる。
わかってるけど……」
言葉は途中でほどけて、
最後は喉の奥で小さな音に変わる。
ぎし、と。
木の床を踏む靴音が、クルスの耳に届いた。
エヴァンが、何かに近づき、しゃがみこんだのだと分かる。
「手、出して」
布の擦れる音。
細い手首を取る気配。
階段の影からでも、少女の輪郭は読めた。
痩せた腕。
床まで届きそうなほど伸びた髪。
骨ばった肩。
そのくせ、身体の中心だけが、異様に熱い。
過剰な魔力だけが、まだこの世界に縫い止めている。
「今日は、ここまで」
エヴァンの声は、変わらず穏やかだ。
「外の気配、感じたでしょう?」
「……うん」
「“まだ外がある”って分かっただけで、十分じゃない?」
「ずるい」
掠れた声に、少しだけ拗ねた色が混ざる。
「外の話、してくれるの、
ずるい」
「ずるいわよ」
エヴァンも、あっさり認める。
「でも、あなたの世界が、
この石と鎖とベッドだけになるよりは、マシ」
短い沈黙。
やがて、布の擦れる音がした。
少女がゆっくり丸くなったのだろう。
クルスの視線は、階段の先――
地下の一室に向けられる。
そこは、とても「少女の部屋」とは呼べない有り様になっていた。
割れたガラスと、裂けた布。
壁に叩きつけられて砕けた椅子。
脚だけ残った机。
床には、焦げ跡すら点々としている。
暴れた結果なのか、魔力の暴走なのか。
おそらく、その両方だ。
十三、十四の子どもが使っていたとは、とても思えない荒れ方。
――その中に、一つだけ。
ぽつん、と。
綺麗なままで残っているものがある。
小さな社のミニチュア。
朱色の柱も、簡素な屋根も、
その周りに立つ、手のひらサイズの鳥居も。
埃一つかぶっていない。
まるで、そこだけ別の結界に包まれているみたいに、
無傷のまま、部屋の隅で静かに立っていた。
(あれを壊さないうちは、
まだ“戻れる”って思ってるのかね)
クルスは、階段の影からぼんやりと考える。
社由来の、薄い気配がそこから漏れている。
どこの神社を写したものか、今となっては判然としない。
けれど、その小さな社だけが、
この地下室の“外”とつながる最後の線のようにも見えた。
「……また、聞かせて」
少女の声が、布の向こうからこぼれる。
「外の話」
「ええ」
エヴァンの返事は、少しだけ息が混じっていた。
「ちゃんと寝て。
変な夢ばっかり見ないでいられたら、ね」
「むずかしいこと言う」
くぐもった抗議。
そのあとに続いた小さな笑いは、
笑い声というより、泣き声の終わりに近かった。
やがて、囁きは途切れ、
代わりにかすかな鼻歌だけが続く。
階段の上からでは、
それがエヴァンのものか、少女のものか、あるいは二人の声が混ざったものか、判別できない。
クルスは、ようやく踵を返した。
扉は開けない。
鍵も外さない。
ただ、少し厚い石壁の向こうで――
狂うほど長く生きてしまった少女が、
誰にも届かない歌を続けている。
それを、この館の住人だけが、
わずかに聞き取っていた。
(……同じ巫女、か)
さきほどエヴァンが口にした、「耳がぴこぴこ動く巫女」という言葉を思い出す。
山の神に仕える巫女と、
ここで世界から切り離されてしまった長寿の少女。
立っている場所は違う。
守っているものも、きっと違う。
それでも、その本質のどこかは、きっと近い。
(いつか、どこかで――)
今ではない。
今日でも、明日でも、きっとない。
それでも、「どこかのいつか」を、ふと想像してしまう。
(あいつの耳がぴこってなる顔を、
この地下の子が見たら、何て言うかな)
思いついた絵面に、クルスはほんの少しだけ口元を緩めた。
それ以上、具体的なことは、まだ考えない。
考えてしまえば、余計な線が引かれる。
(……先に、外の方をなんとかしてやらないとな)
霧の迷いも、山の暴れも、
まだ片付いていないものは多い。
地下室の少女と、山の巫女。
二つの線が交わるかどうか――
それはもう少し先の話だと、クルスは決めていた。
階段から遠ざかる足音が、静かな館に溶けていく。
残された地下室では、
短い鼻歌が、まだ途切れ途切れに続いていた。
これからも本編に合わせてちょくちょく書いていくつもりなので、よろしくお願いします。




