7.
この作品は11エピソードで完結します。
ようやく生活がひと息ついたとき、希美子が倒れた。
食道癌だった。
早ければ手術で切除することもできたろうに、暮らしの忙しさが医者に診せる機会を奪った。そうしているうちに、全身に転移していた。
あるとき一が言った。
「俺、一生、酒は飲まない。煙草もやらない。意味ねえもん、そんなの」
口調こそ穏やかだったが、そのことばは、ネジ釘のように道彦の心に刺さって抜けなくなった。元はといえば、自分の酒癖が生活を圧迫し、希美子を追い込んだ。道彦にはその自覚があったし、一の決意が、そのことを責めているのは明白だった。
それ以降、一との会話は、慎重にことばを選んで交わすようになり、そんな、面倒な会話を避けるのに疲れたふたりは、ついに断絶状態に陥った。
一方、自分の病態を悟った希美子は、自分の意思で治療を拒んだ。
主治医は入念に治療の方針と可能性を説明したが、希美子の意思は固かった。
「静かに最期を迎えたいの」
その決断の裏に治療費のことがあるのは道彦にもわかった。実際、長く生きるだけ医療費は掛かるわけだし、道彦ももう、昔のようには働けない。
希美子は、しばらく自宅で過ごしたあと、ホスピスに転院し、あとは死を待つばかりとなった。
体重は、癌を宣告されて二ヶ月も経たないうちに四十キロを切った。美しかったモデル体型は、見る影もなく萎み、目だけが爛々と光っていた。
道彦は、ふいに、以前携わった住宅の改築現場を思い出した。
不用意な掘削で、施主の大事にしていた楡の根を傷つけてしまい立ち枯れにさせてしまったときのことだ。
しゅんと伸びたまま死んでゆく樹。
今、その幹にあった深い窪みが、希美子の目と重なった。
夫婦にとっての一大事業は済んだ。
一は借金を背負っての人生のスタートになるが、社会を見渡せば、別に珍しい境遇ではない。電子工学の技術は、これからの日本で必ず役に立つはずだ。きっと、食っていける。
希美子は、鎮痛剤の副作用もあって、意識が薄れる時間が日に日に長くなった。
間もなく旅立つであろう希美子を見つめていると、何を考えても、それが形を成す前に溶けて流れていった。仕事のペースも生活を維持するだけに落とし、あとは希美子の骨ばった手の甲をさするだけの毎日になった。
あのとき自分は、何のためにさすっていたのだろう。
恋愛感情はとっくに消えていた。
酷い仕打ちもしてきたが、希美子は疑いようもなく家族だった。同時に、生活を守る戦友でもあった。ならば、今あるのは憐憫の情だろうか。哀れだと、不憫だと思ってさすっていたのか。
違う。
道彦は、希美子の手の甲をさすりながら、『もう逝っていいぞ』と念じていた。
後に道彦は、このときの気持ちを思い出して罪に苛まれるようになった。そして、いたたまれなくなって、気が付くと大声を上げていた。それは今でも、だ。
死は唐突にやってきた。
そのとき、道彦は家で寝ていた。
知らせは電話だった。
「平中希美子様、十一月八日、午前四時三十八分、お亡くなりになりました」
マニュアルを読むような乾いた声が受話器から流れた。
「ああ、そうですか」
「きれいなお顔をされています。どうぞ、お別れにいらしてください」
「わかりました」
落ち着いて答え、親指で通話終了のボタンを押した。
悲しいことが起きたんだと自分の心に言い聞かせてみた。
そして、泣け! と命じてみる。
しかし、いくらがんばっても涙は出なかった。
希美子がかけがえのない女だったことは分かっている。希美子のお陰で家庭は崩壊せず、暮らしは守られた。一を育て上げることもできた。
では希美子はどうだっただろう。
後悔はなかっただったろうか。
いくら考えてもわからなかった。
道彦は、そういう話を一度も希美子としたことがなかった。希美子が何を思い、何を目当てにし、怒り、喜び、悲しんでいたのか。こうなってからでは、何も分からない。希美子は何も明かさないまま、逝ってしまった……。
違う。
自分が、聞かなかった。
道彦は、死してなお、淑やかな美を湛えている希美子の顔を見て考えた。
これだけの美貌なら離婚して生き直すことだってできた筈だ。離婚の理由なら道彦の側にある。それも、両手の指では足りないほどに。
もし、生前、離婚を切り出されていたら、それがどんな条件でも、道彦は拒むことはできなかった。
それなのに。
なぜ希美子は切り出さなかったのだろう。
ここまで考えて、道彦は、自分が、逃げ切ったと感じていることに気付いた。
自分は看病をしながら希美子の死を待っていたのだ。だから希美子が治療を拒んだとき、自分は反対しなかった……。自分は、そういう人間だ。
正解がわかった瞬間、目の前にあった扉が開いた。
続いて、その向こうにある扉も開いた。
その次も、その次の扉も、奥へ奥へとずっと続いている扉が、道彦を招き入れるように順々に開いていった。
そして最後の扉の向こうに、醜怪な顔をした自分がいた。