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残像  作者: 伊藤宏
5/11

5.

この作品は11エピソードで完結します。

 好景気で浮かれていた日本が、ある日を境に変わった。

 はっきりと覚えている。

 突然、空が落ちてきたかのように、ひとつの証券会社が倒産した。すると、それを合図に『世界恐慌』だの『連鎖倒産』だのというおどろおどろしい単語が新聞紙上に踊るようになり、テレビでは特集が組まれた。

 それでも、道彦の周りには、それを身近なことだと考えている人間はいなかった。どうせまた、誰かがうまい汁を吸おうと思って煽ってんだろう。

 そのくらいにしか思っていなかった。


 テレビで『リストラ』という新しい単語の解説を聞いて、どうやらリストラクチュアリングの略で事業再構築だということはわかった。

 だが、それが何なんだ。

 そう思っていたら、リストラは、まず製造業を飲み込んだ。工場は閉鎖され、『希望退職』という新たな言葉も生まれた。

 すぐに希望退職に応じた者は、まだ幸せだった。

 企業にもまだ体力が残っていたから、それなりの割り増し退職金を受け取ることができた。

 ある者はトラックを買って運送業を始め、ある者はその金で新たな資格を取るべく専門学校に通い始めた。だが時が経つにしたがって割り増し金の額も減り、最後には既定の退職金すら出なくなった。

 当然、土木工事も建築も減り、ゼネコンも本業そっちのけで首切りに勤しむようになった。

 そして、リストラの(やいば)はついに、道彦にも向けられた。

 「今なら多少なりと退職金を出す」

 なぜか上からものを言われた。


 かつて飲み歩いた仲間と一緒に不当解雇だと騒いではみたものの、逃げ遅れた者になす(すべ)はなく、仕方なく退職に応じた。


 再雇用を探そうにも、業界全体が冷え込んでしまった以上、正社員での転職はあきらめざるを得ない。なにしろ、大学院を出たエリートが職にあぶれ始めたのだ。

 道彦は途方に暮れた。


 間の悪いことに、不動産屋に「今買わなければ一生手に入らない」と言われて2DKの中古マンションを五千万で買ったばかりだった。鳶職人に住宅の社員割引はなかったし、好景気のさなかだっただけに何の迷いもなく購入した。

 しかし、マンションの資産価値は瞬く間に急落し、売りたくても、「もう、二千万でも買い手がつくかわからない」という状況になった。


 その日から、日雇いと短期契約の現場を渡り歩く日々が始まった。

 希美子も献身的に家庭を支えた。医療事務の資格を取って近所の歯科クリニックで働き、そこが閉鎖すると、今度は料理屋の仲居をやって日銭を稼いだ。スーパーのレジ打ちと兼務していたこともある。


 道彦も稼ぐには稼いだが、その三分の一は外で飲んでしまうのだから、このころの家計は希美子が支えていたと言っていい。

 酒の匂いを漂わせて深夜に帰ってくる道彦と、幼い子を抱えて働く希美子。将来への不安から、会話は、棘のある言葉を選んで投げ合うだけになった。


 そんな荒んだ家庭でも、(ひとつ)は非行に走ることもなく健全に育った。学業の成績も優秀で、一は、両親にとって自慢の種となった。

 もはや夫婦の生きる目的は、一を立派に社会に送り出すことだけになった。


 一は成長し、高校生となった。しかも公立とはいえ、有名私大に推薦で進めるほどの成績を取ってくる。

 そうなれば、いくら生活が厳しくとも、息子を大学にやらない選択肢はない。とはいえ人生のスタートから奨学金という借金を負わせるのは可哀そうだ。だから、滑り止めを含めた受験料と入学金は、なんとか貯金から捻り出した。

 だが、理系学部の授業料を収め続けるのは簡単ではない。


 ついに道彦も、外での飲酒を控えざるをえなくなり、焼酎の、取っ手付きペットボトルを買って、家で飲むようにした。要するに分相応な生活になっただけだが、道彦のそれまでの生活を知る人から見たら、考えられないような変化だ。


 ふたりは必死に働いた。

 希美子は家事そっちのけで掛け持ちのアルバイトを続け、道彦も、できるだけ現場の仕事を多く取って労働時間を増やした。

 現場仕事がないときは、夜の交通整理やビルの清掃までやった。


 ここまでくるともう、何が何だかわからず、ただ自虐的に働いているような状態になった。

 疲労の蓄積は目に見えて増えていった。

 道彦は、「肩こりがひどい」と訴える希美子の肩を、よく揉んだ。口には出さなかったが、揉んでいる道彦の関節もきしきしと鳴っていた。

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