3.
この作品は11エピソードで完結します。
通い慣れた西口改札を抜けてバスのロータリーに向かうと、広場の外れのコンビニの前に、汚れきった白のワンボックスが停まっていた。建築現場の作業員を乗せる手配師の車だ。
今は、人そのものは派遣会社がネットで募集して送り込んでくるが、そいつらを集めて現場に送り届ける風景はずっと前から、あまり変わっていない。
よく見たら仕切り役が知った顔だったので、その場を遠目に見てやり過ごし、城西交通の路線バスに乗り込んだ。
バスルートなら、大堀経由車橋本庁前行きでいいはずだ。途中、大堀二丁目で降りて堀川沿いに五百メートルほど下れば待ち合わせの店に着く。
車内は、中ドア脇の優先席に、ステッキを手にした初老の紳士が座っているだけで、ほかに乗客はいなかった。道彦は、迷わず最後尾の一段高くなった席に座った。一年ちょっとのバス通学で毎日座ったワルの指定席だ。今でも、バスに乗るたびに自然に足が向く。
腕を組んで大股を広げ、エアコンが吹き出す心地よい冷風を味わっていると、運転手が低い声で何ごとか呟き、バスは静かに発車した。
それにしても。
さっきの眩暈は何だったんだろう。
今まで、ああいったことはなかったんだが。
……年かな。
目を瞑って瞑想していると、自分の身に起こったできごとの細部が少しずつ姿を現した。覚えていないと思っていても、どうやら、脳には記録として残っているらしい。
あのとき。
あと半歩前に立っていて、バランスを崩すのがあと一秒早ければ、道彦は線路に落下していた。そうすれば間違いなくお陀仏……。息子との再会は果たせないまま終わっていた。
信仰心のない道彦だが、今日ばかりは、幸運を神に感謝した。
―――
若いころの道彦は、とにかくよく酒を飲んだ。
女房が臨月を迎えたときも、子が生まれた直後でさえも外で飲んで帰る習慣を変えなかった。帰宅するのは、たいてい日付けが変わってからで、寝た子を起こして女房に嫌な顔をされると、居直って声を荒げた。
あのころは空前の好景気に日本中が沸いていて、建築現場では慢性的に人が不足していた。
人手不足は今も変わらないが、今どきの現場の働き手は低賃金で身分も安定しない非正規雇用が多い。ところが、あのころは今と違って、道彦のように学歴にない者でも、職人としての腕と熱意さえあれば正社員として雇ってもらえた。
高校中退の自分が、しっかり社会に貢献している。
それを飲んで騒ぐことで確かめ、明日の糧にする。一家の働き手として、そうすることは当然の権利だと信じて疑わなかった。
だが、女房の希美子にとっては違ったようだ。
希美子の両親は共に下戸で、酒飲みを身近に見たことがない。だから、子が産まれても毎晩飲んだくれて帰る夫を、信じられない思いで見ていたに違いない。
今なら分かる。
初めて授かった子をひとりで育てるのは、焦りと不安の連続だったはずだ。夜泣きといったって理由がわからなければ、手の施しようがない。希美子はひとりで不安に耐えていたのだ。
それなのに。
道彦は、そんな夜でさえ「仕事に障る」と言って、ひとり別室で寝た。
一度、道彦に愛想を尽かした希美子が息子を連れて実家に帰ったことがある。
だが一週間もしないうちに送り返されてきた。道彦は、酒は飲んでも、稼ぎはきちんと家に入れていたから、両親が取り合わなかったのだろう。
出生届けの期限が迫ったある晩のこと。酔って帰宅した道彦は、希美子から
「名前はどうするのよ、こっちで決めちゃっていいの?」
と迫られた。
最初のうちは「まだいいだろ」と適当に受け流していたが、出生届けは生後十四日までと法律で決まっている。そんなことも知らなかった道彦は「疲れて帰ってきたってのに何なんだ!」と怒鳴った。
希美子は、子がけたたましく泣き始めたのを見て、溜まっていたものが爆発したのだろう。目に一杯涙を溜め、
「どうすんのよ名前! 明日には届け出さなくちゃいけないんだから。いいのね、うちの父がつけても」
子の泣き声に負けないくらいの大声だった。
その大声に、道彦はカッとなった。
「おい、何で初めての子の名前を他人に付けてもらわくちゃならねえんだ。名前だったらもう、考えてある」
「何よ」
考えてなどいなかった。
道彦は胸ポケットから、現場で使うマジックインキを取り出した。
咄嗟に考えようにも、子の泣き声と希美子の冷たい視線で考えがまとまらない。
道彦を凝視する希美子。
希美子を睨み返して考える道彦。
視界のなかで動いているのは、闇の中に母の温もりを探す、子の手足だけだった。
道彦は手近にあった広告の紙片に 短い横棒をひとつ書いて「ほら」、と希美子に押しやった。
「何これ、いち? かず? 長男だから? 適当に書いたでしょ! あ、もしかしてはじめ? ちょっと、ふざけてんの?」
一気にまくしたてたあと、ご丁寧に「バッカじゃないの」と被せて、紙片を丸めて道彦に投げ返した。
「はじめじゃねえ」
「じゃあ何よ!」
「一と書いて、ひとつ、と読む」
「ひとつ?」
希美子は、泣く子を顔を見ながら、じっと考えていた。
少しずつ興奮が静まっていくのが分かった。
空気が緩むのを察したのか、子の泣き声も少し静かになった。
希美子は「へえ」と小さい声を漏らし、しばらくして「それ、いいかも」と言った。
希美子は、子を抱き上げると、
「ひとつぅ、ひとっちゃあん」
と呼びかけた。
子が泣き止んだ。
こうして、長男は、一と名前が決まった。
その後、ふたり目ができることはなかったから、一は文字通り、ふたりにとって、たったひとつの存在になった。