10.
日はとっぷり暮れた。
道彦はとうに一への連絡をあきらめていた。それより、電話の番号すらまともに押せない自分が情けなかった。
自分の身体はどうなってしまったのだろう。
今日は駅のホームでふらついてみたり、バスを乗り過ごしてしまったり。おまけに電話ひとつ架けられないなんて……。
道彦は、いよいよ自分の身体にガタがき始めていることを悟った。とうとう、終わりの始まりがきたのかもしれない。
腹のなかから泥のような不安が溢れ出した。不安は、どんなに手で塞いでも止まらなかった。
希美子の痩せた身体が脳裏に浮かんだ。
すると不安は怯えになり、怯えは死のイメージを引き寄せた。
そうだ! あれはヤメにしよう。
ちょうど一週間前のこと、道彦は、今でも時々訪ねてくる生命保健の外交員に、満期になる保険の解約を申し込んでいた。
この保険は、生前に希美子が勝手にかけていたものだ。
外交員はたしか、蛭川珠枝。希美子はずっと「たまえさん、たまえさん」と言って親しみ、家に入れて愚痴を言い合っていた。
希美子は、道彦にはしっかりした生命保険をかけ、一には積立型の保険をかけていた。自分は入らなかったが、医療保険だけ、道彦の保険の特約でカバーしていたので入院の時には日に三千円が出た。契約当初、道彦は「三千円なんて子供の小遣いじゃねえか」と言って馬鹿にしたが、入院が長かったのでそれなりの金額になった。
一の保険は大学入学のときに解約し、初年度の学費に充てている。
珠江は、希美子が他界したあとも、夏には水羊羹やフルーツゼリーなどを持って現れ、冬にはカレンダーと、干支を象った石鹸を置いて行った。
道彦の加入しているタイプの生命保険は七十五歳まで保証される代わりに、六十を過ぎると掛け金が跳ね上がる。だから多くの保険契約者は仕事をリタイアした時点で解約し、満期払い戻し金を受け取る。
一方、外交員は、解約によって顧客と縁が切れるのを防ぐため、替わりに、疾病だけを対象にした小さい保険や、年金とセットになった保険に入り直すことを薦める。
珠江もそうだった。
最近は、研修なのか、若い後輩を同行してくることもあった。
珠江が「ご主人、ぜったいに悪い話じゃないですから」と言うのを、道彦はいつもうわの空で聞いて全部断った。
会社に裏切られたり、不動産屋の口上に踊らされて高いマンションを買った経験から、道彦は、「ぜったい」ということばに猜疑心を抱くようになっていた。
保険なんてもういい。大病したら希美子みたいに潔く死を受け入れればいい。
そう決めたのが先週のことで、解約の意思は、すでに珠江に伝えてある。その手続きが明日だ。
だが、電話ひとつ満足にできない今となって決心が鈍った。もとより大した蓄えはないから、病気をすれば一に迷惑をかけることになる。
やっぱり解約はヤメにして、契約を維持するか……。
道彦は、珠江に電話してみることにした。
番号は、珠江が親戚気取りで勝手にワンタッチに登録していったので、幸い、かけ間違える心配はなかった。
だが、電話はまたしても繋がらなかった。
いや。
架かるには架かるのだが、応えたのは電子音声のメッセージだった。
「ただいま、電話に出ることができません。申し訳ありませんが、時間を変えておかけ直しください」
留守電にもならなかった。
この作品は11エピソードで完結します。




